はじめてじゃないキス
(なっ、なに、をっ…!)
輝羽はあわてていつきから放れて抗議しようとした。が、その言葉は喉の奥へひっこんでしまった。
(ひえ!?)
自分からキスしておいたくせに、いつきのほうがぽろぽろ涙をこぼしていたからだ。
「ど、どうしたってのよ!?」
いつきは必死で首を振った。
「や、くそく。この方が覚えていられるかなって、でもご、ごめんなさい―わたし、私―なんでかな、」
その青い目から雨のように涙を滴らせながら、彼女は目を見開いて訴えた。
「ずっとこうしたかったって、気がするの。今だけじゃなくて、もっともっと昔から。そう思ったら涙が―…」
その言葉の意味はわからないながらも、輝羽の胸は鋭い一撃をくらったかのような衝撃を受けた。輝羽はぎゅっといつきの肩を抱いた。
「もう…そんな泣くんじゃないわよ」
「うん…ごめん」
乱暴に目をこすったあと、いつきは輝羽を見上げた。いつも澄んでいる青い瞳が、今は水溜まりのように揺れて溢れて光っている。
「もう一回、キスしていい?」
輝羽の頬に、さっと血が上る。こんな事は慣れていなかった。でもいつきに泣かれると―…断ることなんてできない。輝羽はそっといつきの額に唇をつけた。
しっとりした白い額の感触。甘い果実のような匂い。輝羽はふいに理解した。
(そうだ…私はこの感触を、知っている―…)
懐かしい。そして、悲しい。何が悲しいのかわからないが、無性にそう感じるのだ。『嘘』のはずのこの世界で、その感情だけが、痛いほどにリアルで生々しい。
心の底に刻み込まれた、この甘く切ない痛み。
「わかったわ、いつき―…あなたの感じた事が」
この世界で、いつきが輝羽を好きになり、そして輝羽は一目見ていつきに嫉妬と羨望の気持ちを抱いた。それはきっと、偶然ではない。
おそらくどこかで、自分は目にしていたのだ。嘘でない、本当の世界で、いつきの姿を。だからその面影が、「理想の女の子」として頭に残っていた。
つまり―いつきだけじゃない。自分の記憶も、多分消されているのだ。
(私たち、根本から操作されてる…博士か、その後ろにある何かに)
輝羽はそっといつきを離した。
「…私たち、もう直接会うのはやめたほうがいいわ」
いつきの目が見開かれた。
「えっ…なんで」
「どこまでかはわからないけど、私もきっと、いつき、あなたの記憶を消されている。あなたは博士に監視されているし、こうして会っているのがばれたら記憶を消されて、また一からやりなおしよ。私たち、何度―…やり直ししてきたのかしら」
「でも…私は今、思い出したよ。輝羽ちゃんのこと」
それはきっと、「エル」がやったのではないだろうか。エルはさっき、やっとここに来られたと言った。彼女がこのゲームに直接干渉したのは、きっと初めてなのだろう。
という事は、エルの存在は、まだ博士には気づかれていないと言う事だ。
(本人も、博士には言わないでと言っていたし…)
彼女は、この脱出ゲームにおける全く新しいカードだ。しかし、信用しすぎるのも危ない。輝羽はいつきに背を向けた。
「…私、また学校に戻る事にする。だからあなたも戻ってきて。学校なら―…怪しまれずに話す事ができるでしょう」
「わかった…」
「でも、学校でもできるだけ接触は控えたほうがいいわ。作戦の相談だけにしましょう」
輝羽の背中に、心細げな声がかかった。
「じゃあ…もうキスできないってこと?」
輝羽は思わずぎゅっと頬の内側を噛んだ。もう、何てことを言うのだろう。この娘は!
「そっ、そういうことは、全部、終わってから、言ってちょうだいっ。私、もう行くから」
ずんずんと歩きさっていく輝羽に向かって、いつきは言った。
「わかった!それじゃあ…また明日…!」
輝羽はだまって片手だけ上げた。
(どっ…どういう、ことなの…!?)
一夜明けても、輝羽の脳内はまだ混乱をきたしていた。情けない事に、この街の世界に『外』がないと判明したことよりも、エルなる人物に『この世界は嘘の場所』と暴露された衝撃よりも――いつきのキスの方が、よほど輝羽の心を乱れさせていた。
(つ、付き合ってもないのに、あんな事するなんてっ…そ、そもそも私たち、女の子同士なのにっ…!)
しかし、輝羽が叫ぶ頭の中で、いつきが反論する。
『女の子同士だからって、好きって気持ちは変わらないよ!』
実に無邪気なあの丸い目に、善意をみなぎらせて言う。現実のいつきそのものだ。輝羽は頭をかかえた。
(そりゃ…そりゃそうかもしれないけどっ!私からしたら、想定外なのよっ…!)
『なにが?輝羽ちゃん、私にキスされて…嫌だったの?』
首をかしげて、上目遣いでそういう姿がありありと浮かぶ。輝羽は首を振って脳内いつきをふりはらった。
(やめやめ!私これじゃ、頭の中で会話するやばい人じゃないっ)
輝羽ははぁとため息をついて窓の外を眺めた。バスの外は、いつもと変わりないこの街の景色。
(実験場…架空の街……)
昨日「エル」が言っていたことが反芻される。目覚めないといけない。この世界は嘘―。
その言葉は謎めいていたが、輝羽には妙に腑に落ちる言葉でもあった。
今現在だって、輝羽は起きて、暮らしている。しかし、どこか「本当の自分と違う」と感じている。それは、自分がこの世界の外で「生きていた」からではないだろうか。
(まったく、そんな覚えはないけど…)
なにしろここに来る前の記憶は、一切ないのだ。このゲーム内で、アンゲストの一員として目覚めたその時から輝羽の記憶は始まっていた。
(けど、もし『その前』があるんだとしたら…)
輝羽はごくりと唾をのんだ。聞き覚えがないのに妙に心に残る「地球」「太陽」という単語。そして頭の中に焼き付いている「理想の可愛い女の子」の像。これらはエルの言っていたことを、裏付けているんじゃないだろうか。
(昨日キスされた時に感じた、あの妙な既視感も…)
いつきの柔らかい唇。甘い匂い。あの感触を知っている。輝羽はたしかにそう思ったのだ。
(私…いつかどこかで、いつきとキスしたことがあったのかも、しれない……)
この嘘の街で、いつきのように記憶を消される前に?それとも―外の世界で、「生きていた」時に?私たちはもしかしたら何度も―こうしてお互いを見つめて、求めあっていた過去があるのかもしれない。
輝羽は思わず自分の唇に触れた。昨日の体験が甦る。軽く開いた唇が―震える。
(やだもう―何考えてるのよ、私はッ)
輝羽は首を振って窓の外を見た。すると、街並みのなかにいつかいつきと行った喫茶店が目に入った。通り過ぎていくパラソルのテラスを見て、輝羽は自分でもよく考えず、停車スイッチを押していた。他に乗客のいないバスの中に、場違いにうぐいす嬢ちっくでなめらかな合成音声が響く。
「次、とまります」




