元凶
逢坂乃々華は俺にとって全ての元凶だ。
人を信じられなくなったのも人と向き合うことが怖くなったのも彼女が起こした問題に起因している。
中学生になって初めてのクラス。一学期から彼女は異彩を放っていたが、俺が彼女と関わり始めたのは二学期になってから。
夏休み明け早々の席替えで隣の席になったのが彼女、逢坂乃々華だった。
中学生でもクラス内カーストとやらは存在する。逢坂は間違いなくそのカースト上位に位置していた。
それでも彼女が嫌われないのは、顔が可愛いのはもちろん、誰にでも分け隔てなく優しくて、いつも明るく、いつも笑っている女の子だったからだろう。
それだけじゃない。勉強も運動もできた。なのに彼女はそんなこと一切自慢しない。鼻につかない謙虚さも彼女がクラスに溶け込める要因だった。
誰もが彼女を好きだった。誰もが認める人気者。クラスの顔役。そういう女の子。
そんな女の子と隣の席になって、俺は天にも登る気分だった。友達にはからかわれ、俺も沢山自慢してやった。
誰もやりたがらないからと俺が美化委員になって、その後すぐに彼女が立候補した時には、もしかして俺に気があるんじゃないかとバカみたいな勘違いさえした。仕方ないだろ。男は大抵そうなんだ。話しかけられると好きになるし、優しくされると自分のことが好きなんじゃないかと自惚れる。
それまでほとんど関わりがなかったが、その日を境によく話すようになった。
取り留めのない話だ。昨日のテレビが面白かったとか。今の授業のどこがわからなかったとか。どんな人がタイプか、なんて聞かれたこともあったな。
逢坂を暗喩するように笑顔が可愛くて優しい女の子、なんて答えると逢坂は、「栄志朗君みたいな人が好き」とか言ってたな。逢坂にあんなこと言われりゃどれだけ無感情なやつでも意識するだろう。俺はあの頃まだ仲が良かった姉貴に「今度彼女連れてくるかも」なんて自慢したっけ。
日を重ねる度にその恋心は熱意を増していく一方だった。思い切って連絡先を聞いた。二つ返事で了承されてさらに舞い上がる。毎日毎日連絡が来るかどうかで一喜一憂する。
思えばあれが初恋だった。気付けば常に彼女のことを考えていた。俺の生活は彼女を中心に回っていた。
二人で遊びに行ったこともある。学校の近くで行われる小さな秋祭りだ。あの時すれ違ったクラスメイトからの恨めしい目線はむしろ心地よかった。
誰よりも俺が一歩リードしている。あの逢坂と二人きりで出かけた。逢坂に一番近い存在だと確信していた。
そんな勘違いを信じ込んでいた俺は、逢坂に告白することにした。
放課後、誰もいない教室に彼女を呼び出した。
振られたらどうしようなんて気持ちはなかった。振られないって自信があった。俺みたいな人が好きで、俺と一番仲良くしてくれてる。そりゃ振られるとは思わないだろ。
振られるだけならどれだけ楽だっただろうな。
呼び出しに応じてくれた彼女は、いつもと変わらない笑顔だった。
この呼び出しが何を意味しているのかは理解しているはず。その上であんなにも嬉しそうなら、と俺はさらに自信を得た。
余計な前置きもなく思い切って好きだと伝えた。これから先、ずっと一緒に居たいと伝えた。
彼女はゆっくりと俺に歩み寄る。
俺の手を握った彼女はなんて言ったと思う?
「ねえ、大人みたいなこと、してみない?」
それが何を意味しているのか、あの頃の俺にはわからなかった。そんな知識持ち合わせちゃいなかった。
逢坂はブレザーを脱ぎ捨て、ブラウスのボタンを一つ一つ外していく。
何をするのかはわからなくとも、艶美な彼女の表情とブラウスから覗く白い肌は俺の高揚感を掻き立てた。
そして、逢坂が俺の手を取り、彼女の胸に触れさせた瞬間。
ガララと音を立て、教室の扉が開いた。
「お前ら、何してんだ?」
そこに立っていたのは男子生徒。顔を知らないということは先輩なのだろう。
逢坂はすぐに俺から離れ、その生徒の元へ駆け寄った。
「乃々華、その格好どうしたんだよ!」
「遊佐君が無理やり……私は嫌だって言ったのに……」
俺はただ固まっていることしか出来なかった。状況が飲み込めなかった。
すぐに教師が駆けつけてきた。状況を見て俺に集まる視線。糾弾する声。敵意の目。
俺は否定した。でも誰も信じない。
助けを求めるように、藁にも縋る思いで逢坂に視線を向けた。
彼女は笑っていた。教師の背後で。先輩の男子生徒に守られる形で。彼女は薄気味悪い笑みを浮かべていた。
気付いたよ。男子生徒があんな都合の悪い……彼女にとっては都合の良い、か。あんなタイミングに教室に入ってきたのも。その後すぐに先生が駆けつけたのも。全ては仕組まれたことだった。俺は彼女に、彼女らに嵌められたんだ、と。
俺は必死に訴えた。逢坂が自ら脱いだのだと。彼女が俺の手を引いてその肌に触れさせたと。だけど被害者は彼女で、目撃者もいる。俺に反論の余地などなかった。
俺は職員室へ連れられ、すぐに義母さんも呼び出された。
担任が義母さんに事のあらましを説明すると、義母さんは俺の言葉なんて聞きもせず俺をぶった。俺を忌み子のように嫌悪感を孕んだ瞳で睨みつけるだけ。俺の口から話を聞き出そうとする意志すらない。全てを鵜呑みにして俺を排斥するだけ。
ああ、この人も同じなんだ。彼女は俺を愛してはいない。亡くなった父の代わりに仕方なく俺を育てていただけ。だから迷惑をかけた俺が憎くてしょうがないんだ。
学生指導の教師が言った。「何か言い分はあるかね」と。
言いたいことは言った。でも、誰も俺の話なんて聞かなかった。だから俺は黙っていた。俺はもう諦めていた。説明を放棄し、信じてもらうことを諦めた。
沈黙する俺を見て、さらに彼は言う。「言いたいことがあるならはっきり言え」と。
俺は散々伝えたはずだ。俺は無実だと。俺は彼女らに嵌められたのだと。声を上げていたはずだ。それなのに、彼は無情にもそんなことを言うんだ。
親がいる手前の体裁だろうか。それとも俺の言葉をさらに否定するためだろうか。どちらにしても俺はもう声を上げる気力も信じてもらう勇気もなかった。
沈黙を貫いた俺は、もう時期クラス替えということもあり担任の監察を常に付けておくことを条件に解放された。
最後に見た逢坂の狂喜に歪んだ表情は死ぬ時まで忘れられないだろう。
家に帰ってから義母と義姉の話を聞く限り、中一で問題を起こして転校というのは義母の世間体としても避けたかったらしく、義母があの条件を飲むことで転校を拒んだらしい。
義姉の視線も俺を人として見るものじゃなかった。それから暫くは一切口も聞いてくれなくなった。当然だと思う。義理とはいえ家族から犯罪者が生まれてしまったのなら、忌み嫌われるのも仕方がない。それが真実でなくともそれは変わらない。
おもちゃだって、家だって、人間関係だって、同じだと思う。
組み立てるのは難しい。でも、壊すのは簡単だ。
時間をかけて組み上げたジェンガは、指一本で崩壊する。
建築士が汗水流して建てた家もクレーン車一つで簡単に壊れる。
時間をかけて築き上げた人間関係も同じこと。
たった一つのことで、いとも容易く崩れてしまう。
俺が積み上げてきたそれまでの生活。俺を俺たらしめる人格。人間関係も全て、たった一日で崩壊した。