女友だち
分厚いカーテンの隙間から、ちらちらと細く漏れる夏の日差しに顔をくすぐられて目が覚めた。昨晩の深酒のせいか、喉が貼り付くように乾いている。深く、暗い海に落ちていく夢を見ていた。息苦しさに小さく咳ばらいをして身体を起こすと、左隣のふくらみがもぞりと動く。嫌な予感がして視線を落とすと、案の定瑞穂の姿があった。冷房がきついのか、薄いブランケットの中で縮こまるようにして眠っている。部屋には入るなって、言ったのに。鈍く痛む頭を押さえ、瑞穂のその細く白い首筋から無理やり目を反らす。一つ屋根の下に好きな女が暮らしているという状況に、涼はまだ慣れていない。
瑞穂を起こさぬように部屋を抜け出し、起き抜けの一本と心の中で決めて、換気扇の下でタバコをくゆらせる。立ち上る白い煙がすぅっと吸い込まれるように消えていくのを見つめながら、涼はここ数日かで何度目か分からないため息をついた。瑞穂は、いつ出て行くんだろう。早く出て行ってほしいような、一生このままいてほしいような、自分でもはっきりとどちらかに区分したくない曖昧な気持ちだった。自分の寝室で眠っている女の姿を思い出しながら、また紫煙混じりのため息をつく。タバコの煙はすぐに消えるのに、涼のため息の原因は中々消えてくれない。
瑞穂が涼の家に押しかけてきたのは、ちょうど一週間前、暑い夏の夜のことだった。
「リョウちゃんお願い!この通りだから、いいでしょ? 多分、ちょっとの間だけだから!」
「…嫌だよ。お前、彼氏いるじゃん」
「そう、なんだけど。彼氏とね、一緒に暮らそうって話になってて。私たちももう25だし。でもまだお金が足りないから…。彼氏と合わせて100万円貯めたら、同棲するって決めたの」
そのために、ちょうど契約満了を迎える今のアパートを引き払って、部屋が余っている涼の家に居候させてもらいたい。もちろん生活費は家に入れる。家事も、少しはやる。だからお願い! 目が痛いほど鮮やかな、真っ赤なワンピースの裾が視界の端で揺れる。何年も片思いを続けている女の懇願を断る術を、涼は知らなかった。
「彼氏は、いいって言ってんの」
「あ、うん。最初は渋られたけど、リョウちゃんなら付き合い長いし安心だって。迷惑かけるなよって言われたけど」
そう言ってはにかむ瑞穂の耳に揺れるピアスは、去年の誕生日に彼氏からもらったもの。学生時代はボブだった髪の毛を今伸ばしているのは、彼氏の好みに合わせているから。長い付き合いだから、恋愛対象として意識されていないから、涼は全部知っていた。目の前にいる女のすべては彼氏のもので、その欠片一つだって、自分のものにはならないことを。涼は唇を引き締め、目を一度ゆっくりと閉じる。夜がざわざわと揺れる気配がした。瑞穂は、ただの女友だちだ。自分の中のみっともない気持ちをなだめると、口を開く。
「じゃあ、三つルールを決める」
瑞穂がきょとんとした顔でこちらを見上げる。
「一つ目、メシはこっちで用意する。いらない場合は前日の夜までに言うこと。二つ目、洗濯物はネットに入れること。見られたくないものは自分で洗え」
「えっいいの、住ませてくれるの!」
はしゃぐ瑞穂を目で制し、三本目の指を立てる。
「人の話は最後まで聞け。三つ目、勝手に家をうろつくのは禁止。開けていいと言われた部屋、引き出し以外は開けるな」
「ありがとう、守れる! リョウちゃん大好き!」
抱きつこうとしてくる瑞穂の頭を右手で押さえながら、これから始まるだろう苦悩の日々を思い、涼は早くも自分の選択を後悔し始めていた。
思えば、出会ったときから瑞穂はお姫様だった。わがままをわがままとも思わず、自分の願いは誰かが叶えてくれると疑いもしない。そんな彼女を嫌う人も多かったが、彼女の濁りのない無垢な魅力は、涼にはひどく眩しく尊く、世界一美しいものに見えた。
――― 涼、っていうの? 格好いい名前! リョウちゃんって呼ぶね!
初めて瑞穂に出会ったとき、臆面もなく差し出されたその小さな手の柔らかな温かさを、涼は今でも大切に隠し持っている。
結局タバコを二本吸い終えてから、残り物でチャーハンを作る。香り付けの醤油を鍋肌に回し入れると、匂いにつられたのか瑞穂が目をこすりながら起きてきた。ショートパンツにタンクトップの寝間着のままという格好に、涼は顔をしかめた。
「おはようリョウちゃん、お腹すいた~。なんかいい匂いがする~」
「もう昼だぞ、土曜だからって寝すぎ。あと寝癖ついてる。顔洗って着替えてきな。そんな格好で家をうろつくな」
「もうリョウちゃん、お母さんみたい。服装のことはルールに入ってなかったのに」
ぶつぶつ言いながらも、瑞穂は自室として与えている客間に大人しく姿を消し、真っ赤なワンピースに着替えてきた。どうやらかなりお気に入りの服らしく、この夏よく着ているのを目にする。二人分のチャーハンをテーブルに置き、そういえば、と涼は文句を口にした。
「お前、部屋には入らないって約束どうしたんだよ。起きたら隣で寝てたのはどう説明してくれるわけ」
「ごめんね? 夜中に怖い動画観ちゃって、眠れなくなっちゃったんだもん」
「知るか。彼氏に連絡しろ」
「だって、せっかく近くにリョウちゃんがいるんだもん。リョウちゃんは、私の騎士だもんね?」
涼ってば瑞穂の騎士みたい。昔、共通の知り合いに言われた皮肉を、瑞穂は今でも喜んで度々口にする。涼はわざと大げさなため息をつくと、チャーハンをれんげで掬う。
「そういえば、今日の午後出かけるね」
瑞穂の言葉に顔を上げる。今日は特に予定はないと聞いていたはずだがと思い目線で問うと、瑞穂は少し申し訳なさそうに眉根を下げた。
「彼氏と、貯金の目標額まであとどれくらいあるのか一度確認しておこうって話になったの。あ、でも夜には帰ってくるよ。外食すると高いし、リョウちゃんの美味しい夜ご飯食べなきゃいけないし」
ぱらぱらとれんげから落ちる米粒が、自分の心のざらつきにひどく似ていた。つくづく、このお姫様に都合よく利用されているなと思う。
「…今日の夜は、酢豚にするから」
「わあい、さすがリョウちゃん、私の好きなもの分かってる! 付け合わせは春雨サラダがいい!」
「はいはい」
それでも、この屈託のない笑顔を見るだけで、涼はそれだけで、良かった。
その日、宣言通り夕食前に機嫌よく帰宅した瑞穂は、じゃーんと後ろ手から紙袋を取り出した。
「おみやげ買ってきたよ!」
「おみやげ…?」
手渡された袋を開けると、グリーンとホワイトの花々が入った細いガラス瓶が入っていた。涼はそれを手に取りしげしげと観察する。
「これ、何?」
「ハーバリウムだよ。最近流行ってるの、知らない?」
「知らない」
「えー! でも今知ったもんね、よかったよかった。可愛いでしょ、どこに飾る?」
「え、これ家に置けって?」
涼がギョッとして聞くと、瑞穂は頬をふくらませる。
「えー、飾ってよ! せっかく女の子が住んでるんだから、可愛くしないと!」
「女の子って歳でも柄でもないだろ…。じゃあ、ありがたく受け取っておくけど。でもお前、金貯めるって言ってんだから、余計なもん買ってくんなよ」
「大丈夫! いつもお世話になってるお礼だもん」
こんなもの自分にとってはがらくただ、と言いたかったが、瑞穂が拗ねると面倒になることは分かっている。涼は素直に礼を言うと、ハーバリウムとやらを指先で摘まんで揺らした。白い蛍光灯の光を反射して揺れる花は、ガラス瓶の中で陰りもなく咲いている。その鏡面に映り込む自分の顔が想像以上に緩んでいることに気付いて、涼は慌てていつものしかめっ面を作った。
「で、貯金の方はどうだったんだ」
酢豚、春雨サラダ、ほうれん草と牛蒡の胡麻マヨネーズ和え、卵とトマトの中華スープ。机の上に並べられたつやつやと光る夕食に目を輝かせる瑞穂に問う。
「それがね、彼氏の方に意外と貯金があったみたいで、あと1回ずつ給料日が来たら目標達成できそうなの!」
「そう、なのか」
良かったな、と言うべきだった。早く出て行ってほしい。ずっとこの家にいてほしい。二つの相反する気持ちは、全く温度の異なる激流がぶつかり合うように涼の中で渦を巻いた。次の給料日まで、あと三週間。良かったじゃないか、面倒な日々にもやっと期限が付いた。そう頭では分かってはいても、涼の口から良かったなの言葉は出ない。それでも、真っ赤なワンピースに負けないほど、瑞穂は底抜けに明るく笑った。
「本当にリョウちゃんのごはんはおいしい! いつでもお嫁にいけるね!」
「…いかねーよ」
瑞穂がおいしいを連呼して食べた酢豚は、涼には酸味が強すぎて、缶のまま乱暴に煽ったビールは苦かった。
同棲の目途がたった瑞穂と彼氏は、それから平日でも不動産屋巡りに勤しんでいる、らしい。涼にとっては、瑞穂の帰りが遅くなったことと、それでも夜ご飯は頑なに家で食べること、その二つの事実さえあれば十分だった。玉ねぎを粗みじんにしたタルタルソースをたっぷりかけたチキン南蛮、じゃがいもは入れない豚バラのカレー、トマトをサッと炒めて混ぜた麻婆茄子、毎日瑞穂の好きなものを作った。瑞穂の好きなものなら、よく知っていた。
瑞穂から「帰りが遅くなるから先にごはん食べてて」という内容の連絡をもらったその日、一人で食事を終えた涼が風呂から出ると、いつの間に帰ったのか、リビングのソファで瑞穂が眠っていた。またいつもの真っ赤なワンピースを着て、子どものような顔で眠っている。スカートから覗く膝小僧は、自分のものとは比べ物にはならないほど小さく、丸く、涼はその美しさに感動すら覚えた。
風を部屋に入れるために開け放した窓の外では、昼間の熱をかすかに留めた静かな青い夜が、そこらじゅうに漂っている。その青さに身体を染め上げられていくような気がして、涼は小さな背徳感に生唾を飲んだ。
「おい、風邪引くぞ」
我に返った涼が声をかけても、時たま長いまつ毛が微かに震えるだけで起きる気配はない。警戒心一つない瑞穂に無性に腹が立って、思わず舌打ちをする。
「おい瑞穂」
腹が立った。自分から瑞穂を奪った、名前も顔も知らない彼氏に。安心しきって、愚かにも自分の前で眠るこの女に。
「キスするぞ」
そして、浅ましくも、無防備に眠る女友だちに劣情を抱いている、自分に。
瑞穂の顔に己の顔を近づける。涼の唇と瑞穂の唇が、15センチの距離まで接近する。すぅすぅ、という規則正しい寝息の音に、心臓の鼓動の音が段々と重なっていく。脳をかき回されるような瑞穂の香水のにおいに、鳥肌が立つ。もう少し、だ。
「…クソが」
しかし結局それ以上近づくことはできなかった。涼はもう一度舌打ちをすると、自分の右手の人差し指で、瑞穂の唇にそっと触れた。自分の薄い唇とは違う、小さくて厚みのある唇。瑞穂と細くつながったその人差し指から、甘やかな痺れが全身に毒のように回った。涼はその毒に酔いながら、瑞穂の唇に触れたその人差し指を、自分の唇に触れさせる。そのまま、泣きたくなるような切なさに四肢をもがれそうになりながら、この世のすべてを呪った。そして、自分のこの行いが、眠り続ける女の完璧な無垢さに落とされた、たった一つの醜い過ちとなるように祈った。
「おい瑞穂、起きろ」
「う、うーん?」
涼が瑞穂の肩を揺すると、瑞穂は間抜け面で目を覚ました。きょとんとした顔で涼の顔を見つめると、目元に手を伸ばす。
「あれ、リョウちゃん目が赤いよ。大丈夫?」
「今日の夜ロールキャベツだから。玉ねぎのみじん切りで」
その柔らかな手が、嘘をついた顔に触れる前に背を向ける。
「ロールキャベツ! コンソメ? クリーム?」
「…トマトクリーム」
「さっすがリョウちゃん!」
勢いよく起き上がった瑞穂が、温めなおしたロールキャベツを食べているのを見ながら、涼はタバコに火を付けた。先ほど瑞穂に触れた人差し指が、嗅ぎなれたタバコの渋くて甘いにおいに染まっていく。そのにおいを奥深くまで吸い込んで身体を満たしていると、瑞穂が改まったような面持ちで、リョウちゃん、と言う。
「物件、決まったんだ」
涼はタバコの灰をビールの空き缶に落とし、顔を上げた。
「…100万、貯まったのか」
「うん、なんとかギリギリ。…急だけど、今週末には出ていくね。お世話になりました」
「やっとか。せいせいするよ」
まだ長いタバコの火を消して、わざと突き放した言い方をした。どうせ憎まれ口をたたいてくるのだろうと思いきや、瑞穂は困った顔で、首を傾けて少し笑った。その顔を見て、本当に自分の元を去っていくんだな、と思った。
瑞穂が涼の家の出ていく前日の夜、慌ただしく荷造りをする瑞穂を横目にタバコに火をつける。最近めっきり増えたタバコの本数も、きっと明日からまた元に戻るだろう。失うわけではない、何もかも元に戻るだけだ。心の中に宿る確かな寂寥感には、気づかないふりをした。
「リョウちゃん、今日が最後の夜だから、お礼したくて」
そう言って珍しく殊勝な顔で近付いてきた瑞穂の手にあるものを見て、涼は目をむいた。
「お前、それまさか」
「うん。私、これくらいしかできないから。遠慮しないで、させて?」
「いや、いらない。遠慮とかじゃない。本当にそういうの、しなくていいから」
「もしかしてリョウちゃん、はじめて? 怖がらなくていいよ、私、上手だし。」
にこりと微笑む瑞穂の無垢さに、また囚われる。開け放した窓から、夏の夜にはしゃぐ子どもの声が聞こえる。もうそろそろ、夏休みも終わる頃だな。そんな関係のないことを考えながら、目の前の女の楽しげな目の輝きに観念して、涼は両手足を冷たい床に投げ出した。
スーパーに行くから、途中まで送る。いよいよ涼の元を去る瑞穂にそう言って、二人で家を出た。夏の夕暮れが、炎天下で熱されたアスファルトをほんのり橙色に染める。細長く伸びる二つの影は、時に触れ合いそして離れ、それでも決して重なることなく、束の間の幻のように揺らいでいた。
「…お前、今日はあの赤い服じゃないんだな」
「ああ、あれ?」
瑞穂は何故か得意げな顔をして、
「リョウちゃん、やっぱりあのワンピース好きだったでしょ」と言った。
「え、何で」
「だって、私があのワンピース着てたら、なんか羨ましそうな顔してたもん。好きなんだなあって思って」
そう、だろうか。羨ましい顔をしていたとしたら、それはもちろん瑞穂の彼氏に対してだ。あの真っ赤なワンピース。わがままで、傲慢で、でも無垢で。そんな彼女によく似合っていると、そう思っただけだった。何も答えない涼にちらりと目をやり、瑞穂は殊更に明るい声を上げる。
「でも、本当にこの一か月間、リョウちゃんにはいっぱい迷惑かけちゃったと思うけど、すっごく楽しかった! 持つべきものはやっぱり女友だちだね!」
女友だち。瑞穂の口から不意に漏れた言葉に、涼は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
不思議そうにこちらを見上げてくる瑞穂の目の中に、薄化粧をほどこした女の泣き出しそうな顔が映っている。そうだ、自分たちはただの女友だちだ。そんなことは、最初から分かっていた。しかし、言ってしまおうかと思った。本当は下心があったのだと。女同士だという安心感の元、危機感ゼロで眠る瑞穂の唇に、一度だけ触れたことを。しかし、リョウちゃんがいてくれて良かったと、子供のような笑顔でこちらを見上げる瑞穂に、涼は何も言えなかった。胸のあたりに、何か大きくて悲しくて熱いものがうごめいていて、この窮屈な身体を突き破ろうとしている。もっと鈍感になれたら、もっと非道になれたら。出口を求めて彷徨うこの衝動を、瑞穂に力任せにぶつけることも、あるいはできたのだろうか。
「仕方ない。瑞穂は、お姫様だからな」
それでも、涼は笑った。
「えへへ、ありがとう。リョウちゃん大好きだよ」
そう言ってこちらを見上げて笑う瑞穂の無垢さも残酷さも、涼にとっては何よりも美しいものだったから。
そのまま、二人とも黙ったまま歩いた。分かれ道に差し掛かる。スーパーへ向かう道は、駅とは逆方向だ。じゃあ、と手を挙げて別れを告げようとすると、瑞穂がそれ、と言って涼の手元を指さした。
「やっぱりすごく似合ってるよ」
昨日の夜、お礼と称して瑞穂に無理やり塗られたネイビーのマニキュアが、不格好な涼の指先で光っている。ありがとう、と素直に小さく礼を言う。
「じゃあな」
「うん、またね。本当にありがとうね。今度うちにも遊びに来て。リョウちゃんにも彼氏ができたらダブルデートしようね」
瑞穂にはきっと、これから明るい未来が待っている。世界一美しい彼女が、どうか、これからも陰りなくいられますように。どうか、どうか、
「幸せに」
小さくつぶやいた言葉に、瑞穂は一瞬驚いた顔をして、それから満面の笑みで大きく頷いた。涼は踵を返して歩き始める。段々と夜に染まり始める方へ、歩く。
「リョウちゃーん!」
振り向くと、瑞穂が遠くから手を大きく振っている。逆光でその表情は見えないけれど、きっといつものように笑っているのだろうなと思った。
「部屋にね、プレゼントがあるからー!」
返事の代わりに右手を挙げ、顔に照りつける西日を避けるように瑞穂から背を向ける。帰ろう。きっと後ろでは、自分の姿が見えなくなるまで瑞穂が立っているのだろうと思った。これじゃどっちが見送りに来たのかわからないなと苦笑いしながら、一人家へと帰る。いつもを取り戻した、なんでもない家に帰る。
ハーバリウム、貝殻の写真立て、猫の卓上カレンダー、アロマディフューザー。ハーブの石鹸、スノードーム、ビーズのコースター、おそろいのマグカップ。瑞穂はいなくなったはずなのに、家のあちこちに瑞穂の痕跡が残っている。いらないと何度言っても、リョウちゃんの家を女の子らしくするんだとしつこく買ってきたがらくた。瑞穂がいなければ、何の意味もなかった。この部屋はもう、空っぽだ。空っぽで、他人のような顔をして涼を責め立てる。
もう、たくさんだ。以前試供品でもらった除光液で爪を乱暴に拭う。瑞穂が丁寧に塗ってくれた青が、少しずつ剥がれていく。その青は、瑞穂の唇に触れたあの夜と同じ色をしていて、涼は思わず唇をぎりりと噛んだ。自分は、瑞穂に何も求めていない。ただ、美しい顔で笑っていてほしい。そのためなら、自分は騎士にだってなれる。自分が女であろうと、自分たちが女友だちであろうと。それなのに、この爪の青のせいで、彼女のたくさんの置き土産のせいで、心が揺らぐ。瑞穂に背を向けて夜に向かって歩き出したときから、心がぐらぐらしている。瑞穂を好きだという気持ちは、夕焼けに染まった世界を侵食する夜に似ている。じわじわと毒に侵されるように、恋をしている。光の届かない深く暗い海の底で、緩やかに鰓呼吸をしているように、密やかで苦しい。
マニキュアを落とし終え、瑞穂が使っていた客間に入る。空っぽになった部屋の真ん中にぽつんと袋が置かれていた。そういえばプレゼントがあると言っていたなと思い出し、涼はのろのろと袋を開ける。瞬間、目に入ったものに涼は息を呑んだ。真っ赤な、花が咲いていた。
目が痛いほど鮮やかな真っ赤なワンピース。不器用に畳まれたそれは、紛れもなく瑞穂がいつも着ていたものだった。ワンピースを広げて目の前に掲げると、折り畳まれたメモ帳がはらりと落ちた。意外にも几帳面な瑞穂の字が目に飛び込んでくる。
――― リョウちゃんがこのワンピースが気に入っていたみたいなので、お礼として置いておきます。リョウちゃんには丈が短いかもしれないけど、美人だからきっと似合うと思います。今度会うときに着てきてくれるとうれしいです。
馬鹿だな、と思う。涼が好きだったのは、このワンピースを着ていた瑞穂だ。
「馬鹿だな」
誰に対する言葉なのか分からないまま、馬鹿だ、と何度もつぶやきながらワンピースを抱きしめた。人生で一度も抱きしめたことなどない瑞穂の身体を、抱きしめた。ほのかに放たれる汗のにおいと、瑞穂がいつも好んで付けていた香水のにおいを抱きしめて、涼は獣のように泣いた。
女の慟哭を受け止めて、夜はますます青く落ちていく。脳裏でぼやけ始めた美しい友の笑顔を思い出しながら、先の見えない暗い海を泳ぎ切るように、彼女は深く息継ぎをした。




