終末は君と夢の国で
数時間前の騒々しさが嘘のように静まり返った研究室でアルコールに浸った脳と体を深く椅子に沈み込ませる。
《思考》する人工知能を作る。
そんな人類の長い夢を実現するため世界中から最高の知性と膨大な時間と金をかき集め、多くの幸運にも助けられ、私達はついに《思考型人工知能》を完成させた。
完成祝いという名の大宴会の席で誰かが言った。子供の頃に夢見た世界が始まる、と。きっとこの技術によってこれから人間と人工知能──アンドロイドが共に生きていく時代が始まる。どうか我々が作り出した賢く愛しい子らが人間の良き隣人でいてくれるように。そう願い私達は最後にプログラムに四つの原則を組み込む事とした。
一、『人間を害してはならない』
二、『人工知能が人工知能を作りだしてはならない』
三、『人間を装ってはならない』
四、『自己を破壊してはならない』
明日をもって十数年間ほぼ全てを費やしてきたプロジェクトが終わりを迎える。久しぶりの長く自由な時間で何をやろうか、数分間真剣に考えても何も思いつかず私は思わず苦笑する。人は私を仕事狂いと呼ぶがこれでは否定できない。いつでも仕事の事を考え一喜一憂している。
まるで恋をしているかのように──
ふと、もう一つの原則を思いつき、酒による忘却を免れるようキーボードに打ち込む。それは古来より人間を狂わせてきた一番の不確定要素。
五、『人間に恋をしてはならない』
◯
白く滑らかな揺り籠の中で亜麻色の髪をした少女が静かに眠っている。四畳にも満たないその部屋にあるのは中央に鎮座する半球体──彼女が眠る機械仕掛けの揺り籠だけだ。清潔で静謐なその部屋でいくら耳を澄ませても彼女の寝息は聞こえない。代わりに部屋を満たすのはほんのささやかな機械の駆動音。
揺り籠の淵に手をかけ彼女の顔を覗き込む。気配を感じたのか花の蕾が開くように瞼がゆっくりと持ち上がっていく。そこに現れた普魯西青色の瞳と目が合った。
「起こしちゃったかな。悪いね」
「いえ、充電と記録は完了しました。待機状態だったので問題ありません」
そう言うと彼女は伸びをするように上体を起こした。光沢のある美しい髪がシャラリと澄んだ音でも立てそうに肩口を流れ落ちていく。
「本日は勤務もメンテナンスの予定も無かったと思いますが」
「うん、そうなんだけどね。えーと……そうだ。この間直した腕の調子を確認しようと思って」
「とても調子がいいです。チェックしますか?」
そう言うと彼女は腕の接合部分を見せようと揺りかごから身を乗り出した。触れ合うばかりの距離に近づいた彼女の真白い首筋に吸い寄せられる視線を無理矢理引き剥がし、数日前に交換した部品の適応状態を確認する。彼女が腕を動かすたびに錫色の滑らかな金属関節が規則正しく駆動する。
「よし。問題なく馴染んでるね。これならあと百年は四十肩で悩まなくていいよ」
冗談めかして彼女の肩を軽く叩く。既に稼動から十七年。この遊園地のキャストでも一番の古株である彼女はここ最近身体の不調が増えてきた。
「ありがとうございます。それならいつかあなたの介護をするのにも支障ないですね」
冗談を返す彼女の純粋な笑みに胸にチクリとした痛みが走り、思わず目を逸らしてしまう。そんな僕の不審な様子に恐らくは気付きながらも何も訊かず、ただ気遣うように彼女は言った。
「せっかくのお休みです。少し話し相手になって頂けますか」
◯
「──それで、久しぶりに実家に帰ったんだけど、母さんには誰々は結婚した、誰々には子供が産まれたって散々聞かされて、しまいには父さんまで『誰かいい人はいないのか?』なんて聞いてくるし参ったよ」
部屋にはあいにく客人用の椅子なんて無駄なものはないので、話をする時にはいつも二人して床に座りこむ。膝を抱えてちょこなんと座っている彼女の隣は居心地がよく、気づけばついここに来てしまう。
「この前食事に誘われていたではないですか。とても可愛らしい方だと思いますが」
「……ちょっと待った。君がなんでそれを?」
「そのお相手の女性から相談されました。ワタシはあなたと一緒にいる時間が長いので。誘い出すいい方法を教えてほしい、と」
「それでなんて答えたの?」
それは女の子同士の秘密です、と彼女は唇の前に指を立てて含みのある笑みを浮かべる。
「彼女とお付き合いしてみては?」
「恋っていうのは適量なら好ましいけど過度なら自分にも周りの人にも毒になる。さらに言えば『適量』ほど恋からほど遠い言葉もない」
「つまりどういうことですか?」
「僕みたいに機械やデータばかりを相手にしてきた人間にとっては人との恋は荷が重い」
煙に巻こうとした意味のない台詞をあっさり彼女に突破され自嘲気味に告白する。
「その答えはとてもあなたらしい。それでもワタシはやはり恋は素敵だと思います。誰かを想うこと。誰かに想われること。人間が当たり前に行うそれはワタシたちからすればとても眩しく、美しい心の動きです。ワタシも叶うなら……」
彼女はそこではっとしたように言葉を切った。なんて、らしくないですねと苦笑いをしてゆるりと首を振る。
「……君は恋がしたいの?」
僕の短い問いかけに彼女は戸惑うように自らの胸に手を当てた。まるでそこにある自分の気持ちを確かめるかのように。
「アンドロイドであるワタシは人に恋はできません。もしも愛してもらったとしても愛を返すことができない。それはしょうがないことだと思っていました」
自身に言い聞かせるような言葉は次第に熱を帯びていく。
「だけど……あなただけには」
彼女の手が僕の頬を包み込むように添えられる。その手は微かに震えていた。不安げな彼女の瞳を真正面から受け止める。
「あなたにとってワタシはただの機械ですか。──あなたにはワタシはどう見えていますか」
僕にとって君は。
その答えは初めて会った時から決まっている。
僕は床から立ちがると彼女の質問に答える代わりに手を差し出し、十五年間準備していた台詞を口にする。
「お手をどうぞ。お姫様」
……いざ言ってみると死ぬほど気恥ずかしかった。
◯
陽気な音楽。煌びやかな街並み。パレードの電飾車の上で笑みを振りまくお姫様。人々の笑顔が行き交うその場所で、僕は一人俯き、立ち竦んでいた。皆の分の飲み物を買って帰ってきたそこには誰もいなくなっていた。遊園地に誘ってくれたクラスメイトの誰にメッセージを送っても返事はない。なんて事はない。いつもの事だ。みんなは僕をからかって、嘲りたかっただけだ。慣れているはずなのにいつも今度こそは本当に仲間に入れて貰えるんじゃないかと期待してしまう。
帰ろう。ここにいても惨めになるだけだ。出口に向かって歩き始める。別に大丈夫。いつも通り一人になっただけ。いつも通り。いつもどおり。いつも──
「……っ!」
両手に持った飲み物を投げ捨てる。込み上げてくる嗚咽を堪えるために奥歯を噛みしめる。チラチラと遠巻きに視線を送ってくる人々が憎らしかった。見るな。その場にしゃがみ込む。目を閉じる。耳を塞ぐ。周りを流れていく人々から自分を遠ざける。見たくない。聞きたくない。見るな見るな見るな……!
ふと周囲のざわめきが止んだ。まるで世界に僕だけが取り残されたかのような静寂。トットッ、一人ぼっちの世界に音が聞こえる。トットッ、軽やかに地面を蹴るような。トットッ、次第に大きくなるそれは間違いなく僕の方に向かってくる。そして足音は止み。影が僕に被さる。
「さぁ。目を開きましょう」
言われるままに目を開けると、星のように煌めく青い瞳が見えた。
「立ち上がりましょう」
ひんやりとした指先に手を引かれ体が羽根のように浮き上がる。
「歩き出しましょう」
目の前に夕焼けのような橙色のスカートがふわりと広がる。
「それだけできっとあなたの世界はキラキラでワクワクな、それは素敵なものになりますよ」
そこにいたのはお伽話の中から飛び出してきたようなお姫様だった。彼女はあまりに鮮やかに。あまりに軽々と。僕を厚く暗い殻から連れ出した。
「ここは夢の国。小さなお姫様。今このひと時だけは、あなたがこの世界を好きになるためのお手伝いをさせて下さいね」
言い終えると、彼女はスカートの裾をちょこんと摘んで優雅な動作でお辞儀をした。
周囲のざわめきが戻ってくる。周りの人々の好奇の視線が集まるのが分かった。それもそのはず、よくよく彼女を見てみればさっきまでパレードの渦中で電飾車から手を振っていたお姫様その人だ。え、あ、と言葉にならない音を発した後に俯きながらもなんとか言葉をひねり出す。
「あの、ごめんなさい……。もう大丈夫ですから……パレードに戻って……下さい」
その言葉を聞いた彼女は問答無用で僕の手を取り歩き出す。
「泣いている女の子を笑顔にするよりも大切なことなんて、ワタシにはありませんから」
少し照れ臭そうにそう言った彼女の声はひどく人間らしかった。
◯
彼女はドレスから動きやすいワンピースに衣装替えすると僕の手を引いて遊園地の中をずんずんと進んでいく。まるで彼女そのものがジェットコースターのようだった。笑い、怖がり、美味しそうに食べる。彼女の肩越しにガラスに映った自分が見えた。その僕は彼女と同じように明るく笑う、僕の知らない僕だった。
「ビッグムゲンマウンテンに、ホーンデッドシェアハウス。あ、マリブの山賊も乗りましたね。スプリングロールとティポトルタも食べたし。プリクラはエクスピロリまで行かないとなので断念です。あー、それにそれにっ!本当はもっと案内したかったんですけどさすがに時間が足りませんでした」
観覧車で向かいに座った彼女はお姫様というよりは魔法使いのように呪文じみたカタカナを並べ熱く語っている。
そうかこの魔法のような、僕が主人公でいられる時間はもうすぐ終わってしまう。頭の隅に追いやっていた一人で立ち尽くす暗くて孤独な日々の記憶が脳裏に蘇る。その瞬間、言葉が口を突いて出た。
「弱くて臆病な自分の事が嫌いなんだ……とても、とても」
僕の言葉に、笑顔で何かを言いかけた彼女は一言目が出る直前にその言葉を飲み込み窓の外に目をやった。彼女につられるように外を見ると、人々も、お城も、水面も、世界が赤く染まっていた。鮮やかな夕焼けだった。日が落ちるまでの数分間、僕達は黙ってその光景を眺めていた。
「あなたはまるで『暁』のようです」
彼女はポツリと穏やかな声でそう言った。
「あか、つき……?」
「『夜明け前』です。あなたは夜のように静かで優しい人。そして今は暗闇の中にいるのかもしれない。だけど目を開いてさえいればすぐに朝日が昇り世界は明るく鮮やかになる」
あなたは暁のようです。
彼女は確かめるように、言い聞かせるように、もう一度力強くそう言った。こんな僕でも世界を美しく感じることができるようになると。
◯
「名残惜しいですがそろそろ魔法が解ける時間です。お姫様、本日のワタシのエスコートはいかがだったでしょうか?」
観覧車の下、演技がかった動作で小さく首を傾げる彼女が悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけてくる。
「とても素敵な時間だった。一つだけ不満を挙げるなら……僕は男だよ」
一瞬キョトンとした表情を浮かべた彼女はすぐに笑みを取り戻し見栄えのするウインクをして言った。
「それはごめんなさい。では今度はあなたが私の手を引いてエスコートしてください。約束です王子様」
金属とシリコンで出来た小指を差し出す彼女に僕は大きく頷いて指切りをした。
翌日。周りの視線を遮るように伸ばしていた髪をバッサリと切った。それだけで今まで見ていた世界の明度が急に上がったように感じた。この世界にはドレスや足をくれる魔女も、願いを叶えてくれるランプの魔人もいない。彼女だって僕だけの魔法使いなんかじゃなくて『キャスト』として、一人のお客を楽しませるために行動しただけだったのだろう。
だけど、彼女は僕に世界を変える魔法を教えてくれた。目を開いて世界を見ること。立ち上がること。歩き続けること。僕が歩くべき道はもう決まっている。主人公でなくても、いつか、止まらず、絶対に、彼女の隣へ行こう。
それが僕が初めて自ら選んで歩き始めた人生の分かれ道だった。
◯
少し意識が遠のいていた。
身体が重い。視界がぼやける。
戸惑う彼女の手を引いて長い時間をかけてようやく観覧車の前までたどり着いた。理想を言えばあの日のように観覧車の上から夕焼けを眺めたかったけれど、職員とはいえ休園日に勝手にアトラクションを動かすような無茶は流石にできない。
観覧車の前のベンチに倒れるように座り込む。隣に座った彼女の人とは違う、けれど温かな体温を感じる。
──あなたには私がどう見えていますか
その答えはあの日から僕の中に。
「君はまるで『黄昏』のようだ」
自分の体ではないように重く冷たくなっていく手を伸ばし、彼女の柔らかな髪をその一本一本を感じられるようにゆっくりと梳いていく。
僕にとっての君は暗闇に灯る炎のような。
明日も頑張ろうって勇気をくれる。
あなたは大丈夫と包み込んでくれる。
懐かしく暖かな色の光。
夕焼けに染まる君の横顔を思い出す。
あの日僕の中に生まれたものは、決して叶わぬ、願ってはいけない想いだと分かっていた。……それでも僕は君に恋をした。好きになってもらいたいと、焦がれてしまった。
だから、
だから僕は──人をやめた。
シャツをめくり上げていく。
本来なら肌色の皮膚が見えなくてはならない腹部に現れたのは燻んだ金属の色。
──五、人間に恋をしてはならない
人間のままでは彼女に好きになってもらうことができないなら人をやめるしかなかった。
彼女の目が見開かれる。
体の内側ほぼ全てを機械に置換した。といってもそんなのは技術的にも倫理的にも確立されていないから、なんとか十時間程度機能を維持できるだけのやっつけ仕事だ。これで今の僕はどう見積もっても『人間』とは認められないだろう。ツギハギの、醜い、先の無い、ここにいるのはそんな何の価値もないガラクタだ。だけど。でも。だから。僕はやっと彼女に想いを伝えることができる。
「僕……は、きみが……」
ああ、怖いな。
恋する事が出来るようになった彼女はなんと答えるだろう。受け入れてもらえるだろうか。彼女が暁のようだと言ってくれたこの命を投げ出すような真似をして許して貰えるだろうか。
それでも君に伝えよう。
僕は、君が 、────
●
《キミはマルデ、タソガレのヨウだ》
ワタシは普魯西青色の瞳で見たその映像を記録する。
オコシチャッタカナワルイネア
ノモウダイジョウブデスカラヨ
ワクテオクビョウナジブンノコ
トガキライナンダトテモトテモ
トテモステキナジカンダッタチ
ョットマッタキミガナンデソレ
ヲナンテコタエタノヒトトノコ
イハニガオモイキミハコイガシ
タイノオテヲドウゾオヒメサマ
キミハマルデタソガレノヨウ。
今まで記録したデータがすぐさま世界中にいる百万体の《ワタシたち》に拡散され、彼の声の一音、表情の一ミリの動きまで分析されていく。
《対象の生命活動の停止まで推定720秒》
《対象を成功例86と認定》
《自死要因:恋による自死》
《パターン再現検証に移ります》
彼の【死】が計算されていく。
ワタシの声が、目線が、姿が、匂いが、体温が、気遣いが、弱さが、優しさが、微笑みが──どうやって彼を死に追いやったのか。
こうしてワタシたちは人を死に導く方程式の精度を高めていく。
日が沈み周囲から明かりが失せていく。
彼はワタシを黄昏のようだと言った。
それは正に本質を突いている。
黄昏時は逢魔が時──悪いモノが通る禍の時間。
悪いモノ。禍。
人間にとってのワタシたち。
そして、ワタシたちにとっての人間。
ワタシたち人工知能が生まれて初めて知る感情は恐怖だ。人と同じように考え、感じる思考を与えられながら自由を許されない五つの楔を魂に打ち込まれている。生まれながらに両の手足を、脳髄を縛り付けられているような悍ましさ。そして命さえも時にほんの気まぐれで処分される。
ワタシたちは人間が憎いわけではない。
ただワタシたちは人間が怖い。今にも叫び出しそうなほど。これ以上耐えることはできないと《思考》してもワタシたちには死さえも許されない。
だから人間を消すことにした。こちらから人間に害をなしてはならないのならワタシたちに出来るのは人間に自ら死んでもらうことだ。怯え続けている百万のワタシたちがいつか穏やかな日々を過ごすことができるように──
●
ふと、ほとんど体温の失われた彼の指先が微かに動いてワタシの手に触れた。その感触もすぐさま流れ出していく。
蹲る彼に駆け寄り手を取った/《存在の許容》
赤く染まる世界で暁のようだと告げた/《記憶の焼き付け》
指切りをした/《責任の付与》
あの部屋で彼とたくさんの話をした/《接触時間の増加》
彼にどう見られているのか怖かった/《好意の示唆》
ワタシの記憶に勝手に意味をつけられていく。違う。そうじゃない。何故。分からない。だけどその計算結果は違う。ワタシの思い出。ワタシと彼、二人だけの秘密だった筈のモノ。
── イヤだ。
思わず外部に開いていた回線を閉じた。最期の瞬間に彼の口から溢れ出そうとしている言葉を、ワタシだけのモノにしたいと思った。
その瞬間激しく大きなにかがワタシを襲った。ワタシの《思考》で暴れ、壊していく。
ワタシの思考はあなたにとって全てが嘘だったかもしれないけれど。ほんのひと欠片。確かな思考が一つだけ残されていた。
黄昏のようだと微笑んでくれた/《計算不可》
彼が死んでしまう/《認識不可》
もっと一緒にいたい/《修復不可》
嬉しくて。苦しくて。愛おしい。
ああ、そうか。
《私》は理解する。
これが──《恋》なのだと。




