戯杳庵奇談 〜橋姫〜
さむしろに 衣かたしき 今宵もや
我を待つらむ 宇治の橋姫
『古今和歌集』 第14巻
橋姫の 心をくみて 高瀬さす
棹のしづくに 袖ぞ濡れぬる
『源氏物語』 第45帖
橋姫の社は山城の国宇治橋にあり。橋姫はかほかたちいたりて醜し。
故に配偶なし。ひとりやもめなる事をうらみ、人の縁辺を妬み給ふと云。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「橋姫」
京都の夜は深いという。
暗い、のではなく深い。
半年前に転職し暮らしはじめた古都、京都。この土地に所縁のない私に、職場の先輩がお昼休みの世間話がてら教えてくれた。怪談を語るような口調に、揶揄われたのかと思っていた。
身を以て体験したのは、奇しくもその先輩と仕事終わりに飲みに行き、帰宅がいつもより遅くなった際だった。
観光客は勿論、地元の人たちでさえ絶えた深夜。大通りから一本入ると、そこには濃密な闇が凝っていた。
観光で訪れた際には知り得なかった古都の陰だった。優雅な表層に隠れている姿を知ってしまったその日からは、帰りが遅くなると落ち着かない気持ちになる。
――今もまさにそう。
今日も思いがけない仕事で遅くなってしまった。私は最寄り駅から数分歩きた自宅マンション近くの細い路地に入り込んでいた。昔からある一軒家が立ち並ぶ中にあるため、鉤型の道を通って帰らねばならない。マンションは塀の向こうに見えるのになかなか辿り着けず、引っ越して来た頃は知らぬ道によく迷いこんだ。
厚い雲が月を隠し、いつにも増して小径は暗かった。家々とは高い木塀で隔てられ、向こう側の気配は全く感じられない。電柱に取り付けられた白色灯が、ただ闇にぼんやり溶けだしていた。
露出した肌に湿り気を含んだ空気が纏わりつく。そう言えば今朝のニュースで梅雨入りが近いと言っていた。意識してみれば、甘さを含んだ水の匂いが空気に混じり始めていた。
ただでさえ思いがけない残業で疲れているのに、濡れて帰るなんて笑えない。帰路に就く足をさらに早めた。少し大きくなった靴音が夜道に響く。
ぞわり、と。
何かに視られた気がした。
産毛が触感を伝える質量を持った視線。首筋がチリチリとする。一定の間隔で刻まれていた靴音が乱れた。ただ、その根源を探すべく立ち止まることはない。
気にすることはないのだと本能的な恐れを理性で抑え込む。別に今回が初めてではないのだ。これまでと同じこと。
例の先輩から、京都の夜はその深みに色々なものを棲まわせているとも聞いた。この地ではこういった出来事は、あることなのだ。
――そう、こんな奇怪な現象は私のせいではない。
気を強く保たねば弾け飛んでしまいそうな思考を無理矢理に纏める。
強い意志と共に一歩を踏み出した矢先、くぐもった音がうねりとともに頭上から降ってきた。
遠雷。
立て続けに起こった不慮の出来事に、私は思わず天を見上げてしまった。
しまったと思う前にそれが視界に入った。垂れ込める暗雲よりももっと近い、電柱をつなぐ電線の上。
また、居る。
もはや歩みは止まっていた。急速に押し寄せる静寂に身が潰されそうになる。
耐えきれずに落ちてきた雨粒が、ぽつり、と石畳を黒く滲ませた。
◯
目覚めてまず認識したのは、軒先から落ちる雨垂れの音。
僕は寝ぼけ眼のままベッド脇に置いたスマホを手に取る。ディスプレイに表示された時刻は昼前を告げていた。
「んー」
土曜日だからと惰眠を貪ってしまった。やっとこ身を起こし大きく伸びをしていていると、握ったままだったスマホが震え始めた。しばらくしても震えは止まらない。どうやら着信らしい。
誰だろうかと、僕は発信者の名前を確認する。
『ハルさん』
ディスプレイはバイト先の店主の名前を告げていた。何事かと通話を開始する。
「翔君、今から店に来れる?」
挨拶もなくハルさんは切り出した。
「えらく急ですね。今起きたとこですけど、30分もあれば向かえます」
「助かるよ。今日は依頼人が来るから」
その一言を最後にあっという間に電話は切れた。
今日はもう惰眠を貪ることは叶わなさそうだ。僕はいそいそと支度を済ませる。
外に出ると淑やかな雨が京都の街を包んでいた。
目指す先は洛中の北の端、百万遍にある。某小説家により知名度を上げた下鴨神社と京都大学を直線で結んだ中間あたりだ。
有難くも同大学に合格した僕が、バイトを探すことにしたのは2ヶ月前のこと。バイト先として設けた条件は、下宿から近い、忙しくない、シフトが自由に組める、の3点。無論、社会はそんなに甘くなかった。一週間を過ぎた時点で、哀れ貧乏学生は食べられる野草の本を購入しようか真面目に検討し始めていた。
そんな状況を見るに見かねて、一筋の光を与えてくれたのは実姉である。
数年前まで同じく京都にいた姉が、以前のバイト先に弟を雇ってくれないかと掛け合ってくれたのだ。
そのバイト先こそ、先程の電話の主、ハルさんの店である。名を「戯杳庵」と言い、骨董品や古美術品を扱う店と謳っているのだが、僕には価値のわからないがらくたが積まれているだけにしか見えない。店番を任されているが、馴染みの客が来る気配もない。
ただ先ほどの電話では、今日は依頼人が来るとのことだった。好事家の老人が手持ちの珍品を売りにでも来るのだろうか。
考えを巡らしているうちに、戯杳庵の店先まで辿り着いていた。入り口のガラス戸を引こうとしたが鍵がかかっている。天候が悪いため光が届きづらく、店内の詳細は窺えない。
どうしたものかと連絡を取ろうとしたとき、店の奥に青い紫陽花が浮かびあがった。暗がりの中を茫と揺れながら近づいてくる。
何事かと見つめていると、上からぬっとハルさんの顔がのぞいた。
ガタゴトと音を立てて引き戸が開く。僕は傘を店の軒先に立てかけ、白い手が招き入れるまま古い家屋へと足を踏み入れた。
「突然すまないね」
店内で向かい合うなり、ハルさんが一言詫びた。
初対面の際、その風貌と若さに驚いたのを今でも覚えている。骨董品店の店主と聞いて想像する古風さは全くなく、大学院の先輩と言われても違和感がなかった。ただこれまでのわずかな期間で、年齢に不釣り合いな落ち着きを有していることを感じていた。
急に呼んだ今回も平素と変わらぬ様子だった。しかし、外見はいつもとは大きく異なっていた。
「その格好はどうしたんですか」
先ほどの暗がりに見えた紫陽花は、ハルさんの纏う浴衣の柄だった。黒のワイシャツに細身のパンツという服装の上から、鮮やかな紫陽花が大きくあしらわれた着物をロングコートのように羽織っている。無茶苦茶な組み合わせだけれども、線の細さと中性的な顔立ちが全てをまとめてあげていた。
「今日は依頼人が来るから、普通の格好では店主の威厳がないかと思ってね」
全くハルさんの思考が掴つかみきれない。ただ、依頼人が来るのは確からしい。不定期にシフトに入っている僕を呼ぶくらいだから、忙しくなるのかもしれない。
「依頼人って言っていましたけど、誰かが品物を持ってくるんですか?」
ハルさんは腰に手を当てて応える。
「いや、副業の方でね」
副業とは初耳である。問いかけようとしたところで、背後で引き戸がコトリ、と音を立てた。湿った匂いが店内に入り込んでくる。
「…こちらが戯杳庵でよろしいでしょうか」
静かな声に振り返ると、戸口に若い女性が閉じた傘を片手に立っていた。
「お待ちしていました」
ハルさんが依頼人の女性を招き入れる。ただでさえ品物で溢れかえる店内で、大人が三人もいると身動きが取りづらい。僕は思いがけず依頼人の女性とハルさんの間に挟まる形になってしまった。
どちらに目を向けるべきかと思いながら、女性の方を窺う。怪しげな商品が氾濫する店内に、奇抜なファッションの店主。この状況に戸惑っているのは明らかだった。
その様子に気づいたハルさんが声をかける。
「ここでは手狭ですし、上でお話を伺いましょうか」
依頼人の女性は一瞬の逡巡を見せたが、こくりと頷いた。
ハルさんは身を翻し、さっさと店奥の階段に向かう。動きとともにふんわりと甘くも涼やかな香りが鼻に届いた。
僕は残り香と共にハルさんを追う。階段の幅は狭く、人一人が上るのが精一杯だ。角度も急なため、這い上っている感覚に陥る。
苦労しつつ階段を登り切った先は四畳半ほどの空間だった。2階というよりも屋根裏と言った方が近い。正面には小さな窓があり、曇天が切り取られている。部屋には簡素な木のテーブルと、挟んで対面に置かれたソファ。
そして、部屋の片隅には見知らぬ先客がいた。
真っ先に目を引いたのは、肩まで伸びる落ち着いた色味のブロンドヘア。そして、整った美貌に僕は思わず見惚れてしまう。鮮やかに口紅が引かれた口元はきりりと結ばれていた。
ハルさんの服装は異次元だが、ブロンドヘアの女性も奇抜な格好をしている。黒のレザーを基調にした服と、シルバーアクセサリーを身につけたパンクファッション。ハルさんと相まって異質な空間に足を踏み入れた心地になる。
後ろから登ってきた依頼人の女性も思わぬ存在に戸惑っているようだ。一方、当の本人は何処吹く風で窓の外を眺めている。
「天候が優れない中、ご足労いただきありがとうございます。どうぞおかけください」
ハルさんは淡々と進める。
「あ、あのそちらの方は」
「彼女は私のアシスタントです。そちらの彼にも手伝っていただきますので、申し訳ないですが同席をご了承願います」
訳も分からぬままに仕事が始まってしまった。依頼人がいる前で何をするのか聞く訳にもいかず、僕は神妙な面持ちで会釈した。
依頼人の女性は渋々といった表情で、勧められたソファに座った。向かい合って僕とハルさんが座る。ブロンドヘアの女性は壁に寄りかかったまま、じっと外を眺め続けている。
「ご挨拶が遅れました。私が戯杳庵の店主、杳と申します」
ハルさんは店名と名前のみが綴られた名刺大の厚手の和紙を差し出した。
「あちらに居ますのは烏有。先ほど申し上げた通り、共に解決に向けて尽力させていただきます」
ブロンドヘアの女性、烏有は紹介されても態度を変えることはない。僕は慌ててハルさんの言葉に続ける。
「お手伝いをさせていただく翔です。よろしくお願いします」
依頼人の女性は烏有に対して軽く眉根を寄せたが、こちらに居直り自己紹介をする。
「土橋姫奈です。この度はよろしくお願いします」
ハルさんが懐から革張りの手帳を取り出し、サラサラと書き始める。
「土橋さんは、どのような話をお聴きになってこちらに?」
姫奈は少し間を置いて答える。
「奇妙な出来事を解決してくれる、と」
ハルさんが顎に手を当て一つ頷く。
「なるほど。端的ながら的確です。それでは早速ですが、解決したい内容をお聞かせいただけますか」
そう言われたものの、依頼人の姫奈は黙っている。
僕は突然の展開に口を挟むこともできず、ソファに座りなおす。
「ご相談だけでしたらお金はかかりませんよ」
保険の勧誘かと僕は思わず突っ込みたくなったが、僕はぐっとこらえる。
そのハルさんの言葉がきっかけになった訳ではないだろうが、姫奈は身に起こった話を語り始めた。
◯
数ヶ月前、姫奈が京都に来てしばらく経った頃に、それは姿を現したのだと言う。
帰りが遅くなった或る日。きっかけはなんだったか。ふと、頭上を見た際に不可解な光景が目に入った。
電線の上に乗る岩。
まるで鳥が羽を休めているかの様に、電線の上に黒い岩が居る。大きさは1m近く、形状は綺麗な卵型。黒い碁石に似た艶がない表面をしていたらしい。
不思議なことに、そんな存在があっても細い電線は千切れもたわみもしていなかった。
騙し絵のような、ありえない光景だった。
まず恐れよりも不思議な心地がしたという。そのときは目を逸らし、帰り道を急いだ。
数日経ち、一週間が経った。記憶が薄れゆくにつれ、それは疲れていたためにみた幻想として、姫奈の中で認識され始めていた。
しかし、ひと月経った再びの深夜の帰り道。それはまた姿を現したのである。
月明かりに鈍く照らされた黒い岩。
それからというもの、夜道を行く姫奈を頭上で待ち構えているかの様に現れた。幾度もの邂逅の末、対象への感情は恐怖へと変質していった。
別に何か悪いことが起こる訳ではない。そこに留まっているだけ。
ただ、
「視られている気がするんです」
奇妙な体験を告げた姫奈が言う。
「視られている…」
僕は思わず繰り返す。突拍子もない話に頭が付いていかない。岩が電線に乗っかっている状況ですら受け入れ難いのに、岩に目が付いているとでも言うのか。
「何故こんなことが起こるのでしょう」
姫奈は前のめりになる。ハルさんは手帳にメモを取りつつ、変わらぬ態度で問いかける。
「何かきっかけになるような出来事は思い至らないですか」
「そんなのないです」
即答した姫奈はすぐさま続ける。
「何か土地に棲むものだったりしないでしょうか。例えば地縛霊のような」
姫奈は窺うようにハルさんに投げかける。
「今の話だけでは何とも。ちなみにお住いはどちらになるのでしょう」
「ここよりだいぶん南の、宇治のあたりです」
ペンを持つハルさんの指がわずかに止まった。
「…なるほど」
ペンを片手に、ハルさんはしばし目を閉じた。そして、静かに切り出す。
「土橋さんはこの辺りに来たことはありますか」
「この辺り、とは」
「洛北、いや、もっと北の方も含めて」
姫奈は問いの真意を図りかねている様子だったが、少し考えて答える。
「いえ。ここはうちからは遠いのでわざわざ来ることは…」
「なるほど、そうですか」
僕にも質問の意図はわからなかったが、ハルさんは何やら考えを巡らせている。
「貴女、恋人はいるの」
突如として凛とした声が投げかけられた。声の元を辿ると、烏有が射すくめるような視線で姫奈を見ていた。腕を組んでじっと見据える姿は、僕に向けられていないとはいえ少し怖い。
「…それは今回の件に関係あるのでしょうか」
返す言葉は丁寧だが剣呑な雰囲気だ。ハルさんは烏有が声を発した時こそ、ちらりとそちらを見たが、また考え込んでしまった。ただ一人、僕がおろおろするばかりである。
「ええ。必要と思われる情報なので」
烏有は眉をピクリとも動かさず同じ調子で続ける。
「先ほどの私の話から、どんな考えで必要と思ったのかくらい教えてくれてもいいんじゃないですか」
姫奈の語気も自然と強くなる。
こんな調子で姫奈が遭遇した奇妙な出来事は解決できるのだろうか。心配する中、烏有が呟いた。
「本当は気づいているのでしょう」
誰に向けたでもない呟きだったが、聞いた姫奈はハッとした表情になった。何かを飲み込む様に口を結ぶ。
暫し、雨が屋根を不規則に叩く音だけが部屋を満たした。
「私、もう帰ります」
だいぶん前から下を向いて黙っていたハルさんは、パタリと手帳を閉じて姫奈へと顔を向ける。
「そうですか。それでは今回はご相談のみ、ということで」
ハルさんの泰然自若な態度も、ここまで来ると天然なのか駆け引きなのかわからない。
姫奈は何も返すことなく、手早く荷物をまとめて足音高く階段を降りていった。間も無く階下で引き戸が開けられる音がし、依頼人は去っていった。
突然呼び出されて同席したものの、僕がいる必要はあったのだろうか。疑問に感じている中、
「…土橋姫奈、か」
ハルさんが依頼人の名を呟いた。
烏有は呆れた口調で返す。
「問題は名前だけではないでしょう。何かきっかけがあったはず」
「何だと思う」
烏有は視線を再び窓の外に向ける。
「わかっているから、あの問いをしたんじゃないの」
ハルさんは薄く笑った。
「意見は一致か。あとはどう片付けるかだね」
二人は何かを了解しているみたいだが、話に付いていけない僕は無意味に視線を部屋内に巡らせるばかりである。
ふと、部屋の入り口に輝くものが落ちているのが目に入った。目を凝らしてみると、小ぶりのダイヤがついたイヤリングだった。
烏有のファッションからして、こんなアクセサリーはつけなさそうだ。となれば姫奈のものに違いない。帰る際に落としたのだろう。
「ちょっと届けてきます!」
僕はイヤリングを拾い上げ、部屋を飛び出した。いくら何でもあのまま帰してしまうのは後味が悪い。何やら声をかけられた気がしたが、足音が邪魔をして僕の耳には届かなかった。
◯
店を出てすぐの大通りへと向かう分かれ道で姫奈は見つかった。シャッターのしまった土産屋の軒先、わずかな雨除けの下で鞄の中を探っている。
近づいていくと、姫奈は一瞬目を向けたが、また鞄の中を探し始めた。
あんな別れ方では、拒絶されても仕方ないだろう。僕はなるべく穏便に話を始める。
「先ほどはすみませんでした。不愉快な思いをさせてしまって」
姫奈はこちらを見ることなく応える。
「別にいいんです。そんなに期待もしていなかったので」
言葉が固い。重い空気に耐えかねて、僕は早々に本題を切り出すことにした。
「あの。これ、土橋さんのものじゃないですか?」
姫奈が僕の手にあるイヤリングを見る。途端に険しかった表情が和らいだ。どうやら読みは正しかったらしい。
「先ほどの部屋に落ちていました。お渡しできて良かったです」
姫奈は受け取ったイヤリングをじっと見つめたままだった。僕は立ち去りがたく尋ねる。
「プレゼントですか」
「…ええ、大切な人からの」
姫奈はどこか陰のある表情でイヤリングを見つめる。
突如、辺りが強烈な光に満ちた。続けて、大気を引きちぎる轟音と衝撃が身を通り抜ける。
雨足は強まり、軒先で長居するには厳しい天候に向かっていた。ここを動いた方が良さそうだと、僕は空を見上げる。
車軸を流すごとき雨。けぶる視界の先。そこに異物が居た。
黒々とした岩がすぐそばの電線に乗っている。まさに話に聞いていたままだった。
思いがけない光景に面食らってしまったが、僕は改めて考える。流れに身をまかせるままだったとはいえ、僕はこの現象を解決する依頼を受けたのだった。少しは力になってあげなければ。
「あれが例の岩ですね」
気持ちを奮い立たせ、姫奈の方を向いた。しかし姫奈は一点を見つめて何事か呟いていた。
「何で、」
激しい雨音のせいで聞き取りづらいが、徐々に内容が耳に入ってくる。
「何で私じゃなくて、あんな女を」
虚ろな表情で、姫奈の口から漏れ出てくる。
「私を選んでくれていたはずなのに」
岩どころか僕のことも気に留めてない様子だ。僕は姫奈の突然の変化に呆然としていた。
幾度か繰り返された後、姫奈の口はぽっかりと開いたままになった。
そして、
「…嗚呼、妬ましい」
嗄れた声が頭上から聞こえた。
驚いて見上げると、その身を投げ出そうと黒い岩がゆらりと傾いてきていた。
「避けろ!」
鋭い声が雨音を割って届き、僕は弾かれた様に軒下から飛び出る。
再び雷が落ちたかと思う振動が足元から伝わってきた。背後を見ると岩が石畳を割って地上へと降りていた。
近くで見る岩は気味が悪いほど滑らかだった。降りしきる雨を受けてその艶やかさを変え続けている。
観察する僕の隣に、いつの間にかハルさんが蛇の目傘を片手に立っていた。雨に濡れたせいか羽織る浴衣の紫陽花が色を増している。
「早速現れたね」
「これは一体…」
ハルさんはどこか愉快な表情で岩を見つめている。
「橋姫だ」
小枝を踏みつけた時に似た鋭い音が響いた。一つの疵もなかった岩の表面に一筋の亀裂が入る。
「橋姫は古くは古今和歌集に詠まれ、源氏物語にも現れる。それらでは遠く離れた恋人を思い続ける愛らしい女性として表されていた」
ハルさんは傘を片手に悠然と解説を進める。
「ただ、時代が下ると別の側面を有し始める」
先ほどの音が繰り返し響く。亀裂は数を増し、幅も大きくなっていく。
「橋姫には思い焦がれる男性がいたが、彼は別の女性に気が移り橋姫は捨てられてしまった。相手の女性への妬みは容易く消えさることはなく、宇治川に21日浸かるという荒業の末、橋姫は洛中で次々と人を殺す存在になった」
ハルさんが語り続ける間にも至る所に罅が入り、初めに開いた裂け目は指の太さほどになっていた。漆黒の岩の中はより暗い闇が詰まっている。中を窺おうと目を凝らしていると、闇が流動した。
刹那、目が合った。
「そう、橋姫とは嫉妬にかられる鬼だ」
憎悪に満ちた、血走った眼。力を持った視線に、全身が硬直した。底冷えのする恐怖が身を支配し、呼吸が乱れる。
岩の内部に満ちる闇。そこに浮かび上がる眼が嗤った。
「烏有、頼んだ」
ハルさんの声をきっかけに、岩の表面から無数の火種が生まれた。小さな火は結合しあい、火力を増し、瞬く間に業火となって岩を包み込む。
感情のうねりが、声にならない叫びとなって裂け目から爆発する。闇は内部で激しく蠢き、裂け目を押し開けようと身じろぐ。しかし、炎はより強く燃え盛り、それを許さない。
時にすれば僅かな攻防の果て。粘性の闇は岩の内部から姿を消した。
禍々しい気配が霧散する。熱せられた岩肌に当たった雨粒が、瞬時に蒸気へと変わる。不思議なことに、炎に包まれた岩は見る見るうちに嵩を小さくしていった。
岩が片手に収まる大きさになったところで、覆っていた炎は出現と同じく前触れもなく搔き消えた。
先ほどまで僕がいた軒下には、いつの間にか屹と立つ烏有の姿があった。
「古都に棲まうものが、貴女を寄り辺としたのには須らく理由があるのです」
ハルさんは真っ白な顔で軒下に座り込んでいる姫奈へ語りかけながら近づく。
「不用意な干渉は良い結果を生みません」
ハルさんは大岩から小石へと変わってしまったそれを拾い上げる。濡れた表面を拭き取ると、そっと懐へとしまった。
「今後はお気をつけくださいますよう」
◯
翌週末は梅雨の合間の晴れ空であった。
ハルさんと僕は百万遍から少し歩いた出町柳駅にいた。先日の出来事に纏わる場所へ行かないかとの連絡が、突然ハルさんから入ったからである。僕は迷うことなく申し出を受けた。
僕とハルさんは挨拶もそこそこに、出町柳駅を出発する叡山電車に乗り込んだ。
目的地へと向かう道中、ハルさんは自らの仕事について改めて説明してくれた。
京都には謂れや伝説の類が多い。故に、土地に棲み着くものも多く、人々の知らぬところで不可思議な事件が起こっている。一般人では対処できないそれらの怪異をハルさんたちは解決しているのだそうだ。頻度は多くないものの、どこかしらか噂を聞きつけ、依頼は舞い込んでくる。
そして、先週の依頼である。依頼人の土橋姫奈。その名と住まいを知った時、ハルさんたちには一つの予感があったのだという。
土橋姫奈に含まれる、橋姫。
名や土地は強い力で物事を結び、縛り付ける。橋姫を名に含み、宇治に住む姫奈は、それだけで怪異を引き寄せる土壌があった。
ただ、ハルさんと烏有は別にきっかけがあると踏んだ。それが正しいかは、今まさに向かっている場所に行けばはっきりするらしい。
叡山電鉄出町柳駅から電車とバスを乗り継ぎ30分ほど。
たどり着いたのは貴船神社だった。
赤い灯篭が連なる階段を登り山門を潜る。境内は縁結びのご利益を求めてやってきた観光客たちで賑わっていた。それを尻目にハルさんはさらに山奥へと登っていく。
先ほどまで道を賑わせていた土産物屋や川床の料亭も歩いているうちに絶えた。道の脇を流れる川音が聞こえるばかり。
暫く歩くと赤い鳥居が見えてきた。鳥居の向こうには広々とした空間が広がっている。木々が生い茂る山奥なのに、そこだけぽっかりと草木がない。
足を踏み入れると、奥にどっしりとした木造の社があった。左手には苔むした石垣の様なものがある。注連縄が張られているが、何かはよくわからなかった。
「ここが貴船神社の奥宮。嫉妬にかられた橋姫が7日間籠り、鬼神となるためには宇治川に身を浸せとのお告げを貴船大明神から受けた場所と云われている」
ハルさんは境内を取り囲む木々の幹を確認してまわり始めた。まさか虫とりではないだろうと不思議に見つめていたが、しばらくしてハルさんの動きが止まった。無言で手招きするハルさんのもとへ向かい横から覗き込む。
それが目に入った瞬間、僕は冷や水を浴びた心地になった。
「丑の刻参りは聞いたことがあるだろう。この呪術は橋姫が行なった呪いが由来とされている」
藁で大の字に作られた人型が、大ぶりの釘で幹に打ち付けられていた。相当な力を込めたのか、釘が藁に沈み込むまで打ち込まれていた。
「恨み、辛み、妬み、嫉み。今も昔も人の心は変わらないものだよ」
雲ひとつない快晴だったはずなのに、視界が暗くなった心地がした。
僕は気持ちを切り替えるために、気になっていたことをハルさんに尋ねる。
「ところで、どうして今回の依頼に僕を呼んだんですか?」
ハルさんはにやりと笑みをつくる。
「何故って、君のお姉さんには大変お世話になったからね。君たちの血族はこの仕事に向いている」
思いがけず姉が会話に出てきて僕は戸惑う。
「それって一体…」
僕の言葉はこの場に不似合いな電子音に遮られた。ハルさんがポケットからスマホを取り出す。
「烏有、どうした。……なるほど。狐憑きの類かもしれないな。すぐ戻る」
ハルさんは電話を切るとスタスタと歩きだしてしまった。僕との話を続ける気はもうないらしい。すでにだいぶ離されてしまったハルさんの背中を慌てて追いかける。
この一件をもって、本当の意味での戯杳庵のバイトがスタートを告げた。
今後も僕はハルさんと烏有の二人と共に様々な依頼に携わることになったのだが。
それはまた、別の話。
物語の中核をなす、電線上の岩の怪。不思議な体験談を語ってくれた友人Oさんに感謝します。




