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million

我が子に鸚鵡の袖なれや。親子鸚鵡の袖なれや。百萬が舞を見給へ。

―――百や万の舞の袖。我が子の行方。祈るなり。


この部屋で、一番最後にする言葉は缶ビールをを飲むことにしてやろうと思っていた。

今更資産価値が下がったところで痛くもかゆくもないから、煙草を吸ってもよかったのだけれど

「ママー!マーマ―!」

この子の喉を守ることぐらいは、最後にしてやりたかった。

 散々夜泣きをしたかいあって、三歳にして既に声量は十分。

通っていた音楽教室でも正しく音をなぞれる、と褒めてもらっていた。

「ねえママってばー?」

離婚届を出しに行った夫。

ついて行った彼女が帰ってきた今、彼女はもう私の娘ではないし、私は彼女の母親ではない。

その証拠に、玄関のドアを半分空けてこちらを睨む元夫は、既に他人の顔をしていた。


離婚は仕方のないことだった。

価値観が、違った。

それは、互いの許容量をとっくにオーバーしていた。

実家に戻り、土地の産業を守り、生きていきたい。

そう言った、その男に私はついて行くことが出来なかった。

当然着いてくるだろうと思った男は酷く狼狽し、協議は荒れに荒れた。

調停離婚すれすれのところまで何度も話し合った頃には、とうに疲れ果てていた。

一人娘の親権は父親が持つ、と決まった時にはもうどうでもいいとさえ、思う程に。


「ねえ、ママそれは何のおうた?」

え、と思わず声が出た。ママ、と言いそうになって慌てて呼吸を一つ飲む。

「私、何か歌ってた?」

うたってたよー、と朗らかな口ぶりで彼女は言って

「ゆきーゆきーって」

そうだった。音楽家として大切な耳の良さも、彼女は持ち合わせていたのだった。

「そうだな、雪が」

彼女がこれから引っ越すのは、雪深い土地だ。

大概の雪に関する事は、きっと叶ってしまうだろう。何か、一番荒唐無稽なことを。

「―――雪に、虹がかかったら会いに行くよ」

「雪に、虹がかかったら、ね」

彼女は、にっこり笑った。もう他人の子供だとしても、酷く愛らしかった。

多分それは、子犬を見ても子猫を見ても同じように思うのだろうけれど。


遠く離れた土地について行きたくなかった。

それは、あそこには音楽がないと知っていたから。

大人が楽器を愛し、歌を口ずさみ、音と戯れる事を、あの家は良しとしない。

短い帰省の度に、喉を掻き毟らずにはいられなかった掻痒感。

その中で、ずっと生きていくの?

音が溢れると知っているこの世界で、音楽のないまま生きていくなんて。




 その年、私は都下に転勤となり、更にその二年後、今度は近隣県へと転勤になった。

二度目の引っ越しの際に、キーボードは手放してしまった。一人の収入で住める部屋の広さには限度があったから。


 新たに住み始めた街は、街頭ピアノのある街だった。




 「街頭ピアノ、ってあのヨーロッパとかで見かけるあれ、ですか?」

「そうそう。と言ってもここだと地下鉄の通路なんだけどね」

私鉄とJRが人の字の形に分かれる構造の駅。その一角にあるという。

「良かったら担当してみる?結構面白んだよ」

転勤先の楽器店の事務室で、初対面の店長はそう私に尋ねた。

「あ、いえ。……まだ、地の利もないので」

気にはなるけれど、仕事として付き合うのはちょっと面倒かもしれない。

「じゃあ、これ一枚貰ってくれないかな。義理のお母さんの付き合いなんだけど。楽器屋で働いてるくらいだから、嫌いじゃなかったら」

じゃあ、の言葉の接ぎ穂は明らかにおかしかったが、差し出されたチケットの束には興味がわいた。

「『百萬』って……お能ですか?」

公演は今週末、都内の能楽堂となっている。

「そうそう。一枚と言わず何枚でも」

ハウスライブやジャズバー、小劇場での演劇は足を運ぶ機会があったが、古典芸能となるとなかなか機会がない。

一枚有難くいただいて、売り場に戻った。


 公演の当日は出がけに宅急便の受け取りが入ってばたついてしまい、到着は開演ぎりぎりになりそうだった。

人の字の構造の駅を私鉄の方へ。ちらりと街頭ピアノが見えた。ここにあるのか。

誰も弾いていなかったけれど、小ぶりのグランドピアノは邪魔者扱いもされず構内にすっきりとおさまっていた。


 そうこうして、目的の能楽堂に辿り着いたのは開演の十分前。

小劇場程ではないけれど、映画館よりは座席が硬い。

何度かお尻の位置を直して収まりよい位置を見つけ、携帯電話のチェックをして、水を一口飲んで……あっという間に場内が暗くなってしまう。

プログラム……じゃなくて番組というのだっけ。さわりくらいチェックしておきたかったけれど、仕方ない。

内容がわからなかったら、まあ音楽として聴けばいいか。

舞台左手の細い通路から裃姿の老人と―――子どもが、歩いてくる。


 『百萬』は狂い女の物語だ。

それも、子どもを喪った―――母親の。

 嫌な汗がどっと噴き出した。体全体が心臓になったみたいに、血流の巡る音がする。

どうして。何で。どうしてこれを私に見せようとしたの。

違う、落ち着け私。

離婚の事も、子どもの事も、誰にも言わなかったのは私自身じゃないか。


南無や大聖釈迦如来。我が子に逢はせてたび給え。


 恐らくはここがハイライトなのだろう。百萬は笹の葉を手に踊り狂う。

どうしてそこにいるのが自分の子どもだと分からないの!

こちらがやきもきしてしまう程、百萬は自分の舞いの中に没入していく。

何の表情も見えなかった白い面が夢見るような、不思議に甘くおだやかな表情を浮かべ始める。

 後日少し調べてみてわかったのだが、あの手にした笹は狂い女の、ひいては巫覡としての象徴なのだという。

でも、それが私には彼女の心の形に思えた。

少しでも遠く遠く、我が子へ届くように伸ばした手。

もうすぐ、手が届く。その刹那、我が子の姿はふっと、掻き消えた。


これは御言葉とも覚えぬ者かな。それ故にこそ乱髪の。

遠近人に面をさらすも。もしも我が子に廻りや逢ふと。

車に法の声立てゝ。我が子に逢はんと祈るなり。


声が不自然な程に上擦り、足踏みの音はたあん!たあん!とバズドラムの様に心臓を直撃する。その他お供の楽器たちも一斉に鳴り響く。

百萬が手にした笹の葉が、世界を掻きまわすように揺れる。

まるで、ピアノを弾くみたいに。

ああ、この女は私自身だ。


 音楽は、私の色鮮やかながらくた箱だった。

宝箱のように、綺麗なもの、善いもの、一等美しい物を収めて鍵をかけておくだけの物じゃない。

醜いものも、苦しさも、悲しさも、何もかも一度しまい込んでおくための物だ。

もう一度そこを開くとき、大概のものは、「なんだこれ?」と思うようなとるに足らないものなっているだろう。

けれども、何度も何度も箱を開け続けていく内に、そこには思いもよらないきらめきが生まれていたりするのだ。

その蓋を、どうして開けずにいられよう。

この世に二つとない、素晴らしい物に、出会えるというのに、何を忘れていたのだろう。

いや、忘れていた訳じゃない。

あの瞬間まで、確かに私は歌っていたのだ!


―――「ねえ、ママそれは何のおうた?」


あの子は、そう問いかけていた!

喜びも、悲しみも、あらゆるものは音の上にあった。

がらくた箱の蓋を開けて、それらを分別し、再構成する事は私にとっては呼吸をするように当たり前の事だった。

ならば、私のあらゆるものは、今もがらくた箱にしまわれたままだ。

そこに最初に閉じ込めたのは、一体何だろう。


「―――雪に、虹がかかったら会いに行くよ」


そうして、がらくた箱の蓋は開かれた。

唐突に、ピアノが弾きたいと思った。

この身の内からあふれる感情を音にしないと、溢れた音の波に溺れてしまいそうだった。

キーボードはない。二度目の引っ越しの際に手放してしまったから。

もし手元にあったとしても、こんな時間から防音設備のないところでは弾けっこない。

お店に戻る?ううん、もう閉店の時間だ。そもそも勝手に弾けるピアノなんて


―――あそこにあるじゃない。




 無我夢中、という言葉は本当にあるのだ。ほとんど走る勢いで人の形の通路を進み、辿り着いた先に小ぶりのグランドピアノ。

叩きつけるようにして、頭の中になっている音楽を取り出す。

百萬の持っていた笹の葉の奏でるさやさやとしたささやかな音。

聞こえるはずのないその音が、耳に焼き付いて離れない。

無意識に右手が細かく動き出す。

雪の重みに耐えきれず、笹の葉がしなり、そしてぱちんと弾ける。

高音部のトリル、たくさん並んだ男の人達の声は左の手の和音。


―――「雪に、虹がかかったら、ね」


幼い娘の声が、幾重にも重なった。

雪に虹はかからない。

気象条件上起こりえない中で

「雪に虹がかかったら」なんてお伽話に縋りついたのは、娘じゃなくて私の方。

あの瞬間には、私は狂っていたのだ。

たった一人、お腹を痛めて生んだ我が子が、可愛いと思えない程に。

いいや、違う。淋しかった。苦しかった。悲しかった。

あの子と別れることが、狂ってしまう程に。


 子どもと引き離されて狂ってしまう女なんて、お話の中にも現実にも沢山いるのだから、私もその中の一人になったって問題ないだろう。

百萬が舞と謡によって夢の場と現を埋めていたのなら、私にとってそれは音楽でありピアノだ。

そう思ったらふいに気が楽になって、仕事の帰りに街角ピアノに寄ることも日課になった。

もともと結婚前は自分で作詞も作曲もしていたのだ。

時間がかかっても、完成度が低くても問題ない、自分の為だけの歌だ。とにかく完成さえすればいい。


 もし、娘が歌ってくれるなら、どんな曲がいいのだろう。

ランドセルは好みの色の物を買ってもらえたのかな。

って、小学校に上がるのは来年のこと。

でも年々ランドセル商戦は早まってると聞く。

女の子の声変わりは、男の子ほどじゃないけれど、でも幼児の頃の声ではないから……身長はどのくらい?きっとあまり高くないはずだ。

音楽は続けさせてもらえたのだろうか。

あの頃褒められた音程の正確さは今も持っているのかな。


曲作りはいつしか、空想上の娘との対談の時間になった。

久し振りに曲作りをしてみてわかったことがある。

きっと、あの時百萬も舞いながら、謡いながら、狂いながら、夢幻の我が子へと語りかけていたのだ。

娘は大きくなったり小さくなったりしながら、どんどん成長して、ついには現在の年齢を追い越した。

最終的には田舎の私立高校のあか抜けない制服を着た、おさげ髪の少女になった。


日によって彼女は

「もっと私の高音部を生かせるように、音を伸ばして」

とおねだりしてきたり

「こんなダサい歌詞じゃ歌いたくない」

と反抗的だったり、

あるいはそっぽを向いて一音とて歌わない日もあった。

頭の中で何度も曲を作り直し、仕事の終わりにはピアノを弾きに駅に向かう。

ピアノの音を聞きながら空想上の娘と対話し、夜眠りにつくときは明日の修正ポイントの事を考えながら目を閉じる。

直の親子の情愛を歌うのは少々娘が恥ずかしがったので、いなくなってしまった恋人を歌う歌に、その気持ちを仮託した。

 そんな私の狂った夢と幻とうつつの日々が一月ほど続いて、曲は完成した。




 曲の完成後も日常はあまり変わらなかった。

街頭ピアノには日参して、二、三の曲を弾いた。

ジャズもクラシックも、何処かで聞いたBGMもその時々の流行曲も何でも引いたが、必ず娘と作った曲も演奏した。

いつかこの音色が彼女の所まで届きますように、と願った訳じゃない。

でも、もしかしたら、届かないこともないのかもしれない、とも思っていた。





 「すみません『駅ピアノ』という番組なんですけれど、お話を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか?」

いつものようにピアノを弾き終わって帰ろうとしたら、待ち構えたように寄ってきたのは在京キー局を名乗る若い女性だった。

そういえば、何日か前から定点カメラが置かれていたな、と思い出す。

毎日ピアノを弾きに通う、さして若くもない女というのは少し画になる存在だったのかもしれない。

このピアノとの付き合いのこと、映像の採用の可否、万が一の時の為の連絡先の交換、と当たり障りのない質問が幾つか続いて最後に

「あの、毎回最後に弾かれていた曲は何という曲なんですか?」

それについては、黙秘した。

答えればお涙頂戴のエピソードに仕上がること請け合いなのだけれど、第三者に触れて欲しい訳ではなかったから。

それもまた予期した答えだったのだろう女性は一つ頷いて「ありがとうございました」と頭を下げた。


 一月半後、深夜の三十分番組としてそれは放映された。




そしてそれが何故か、来日中の外国の歌姫の耳にたまたま止まり、番組を通じてエージェントから楽曲提供の申し出があった。





「え、ええ、えええ、ええええええええええええええええええっ」

こういう場合は副業の扱いになるのか、『百萬』のチケットを都合してくれた店長に相談すると、絶叫された。

「いやー、そんなこと本当にあるもんなんだね」

「一番驚いてるのは多分私ですよ」

だろうねーと店長は頷いて「そういうことなら多分大丈夫だと思うよ。何せ楽器屋だからね。むしろいい宣伝になるとか思っちゃうかも」

フランクすぎて少々雑な言葉遣いの店長はふと、こちらを見上げて

「でも、元気になったみたいでよかったですよ。来たばかりのあなたは、腑抜けた白っぽい顔をしていて、みんな心配していたから」

「―――そんな風、でしたか」

「気に障ったらごめんなさい」

「いいえ。能面みたいでした?白っぽい顔って」

ああ、店長は頷いた。「そう、正しくそんな感じでした。何を考えてるのか、よくわからないっていうか」

能面は意外と感情的なんですよ。そもそもに表情が無いから、縁者の感情が全部乗ってしまう。嬉しいとか、悲しいとか、顔の角度で分かるんですから。とは、教えないことにした。

私は、もう大丈夫だから。

音楽を、あの子を思う気持ちを、取り戻したのだから。




 無事に副業の申請も通過したころ、外国からアレンジされた音源が届いた。

一目、成らぬ一耳。聞いてみて私は耳を疑った。


これが本当に私の作った曲なのだろうか。


ピアノと女性の声だけで作られた素朴な音楽は二台のピアノと幾重もの弦楽器に彩られ、

標準より少々広いくらいの音域で作られたボーカルは、歌姫のハイトーンボイスをこれでもかと際立たせるように作り替えられていた。

 悩み抜いて、結局残してもらった

「雪に虹がかかったら」

のひとフレーズは残ったものの、ひそかに気に入っていた

「宝箱を閉じた がらくた箱を開けた」

のフレーズはなくなってしまっていたし、あまりの変化になんだか脱力してしまう、

私は「原曲をオリジナルとして歌い続ける権利」と幾ばくかの著作料と引き換えに、その曲に対するだいたいの権利を放棄した。

 楽曲は半年後に海外で発売されたアルバムの中の一曲として納められ、そこにはタイトル、クレジット共に

「million」

と表記された。




アルバムは爆発的なヒットとはならなかったものの、アルバム公演は日本でも行われ、その後もたまに日本人アーティストによってカバーされたり、なんか知っている曲だなーと思ったらカフェミュージックとしてボサノヴァ調にアレンジされていたりした。

それらはいつしか過去に変わり、出身校や出身地のように意識の表層に現れないアイデンティティとなった。

 私の方は著作料で買った消音機付きのキーボードを弾きながら、「なんか懐かしいの弾いてるな。そんな曲だっけ?」とか「音域狭くなった?年のせい?」などと言われつつ、ずっとその歌を歌い続けてきた。

 

 


そして、十年がたち。

あの日想像した娘に、現実の娘が追いつく年となって

私達の作った曲が、映画で使われることになった。





 それは、十年ほど前の楽曲を集めたミュージカル映画だった。主演はかつてアイドルだった女優で、久し振りの歌唱にたいそう張り切っているとのこと。映画の公開と同時にカバーアルバムの発売まで決まっており、そこで私に連絡がきた。

私は大体の権利を放棄していたが権利書の中に

「日本でカバー曲が映画に使われた時の権利」

については明確に区分されていなかったらしい。

今現在この曲―――「million」の持ち主である、外国の歌姫は数年前に引退してしまったため、楽曲の権利自体はレコード会社で持っているが、応原曲の作者である私にもお伺いを立てることにしたらしい。

「良かったら一度、現場にも遊びに来ませんか。自分の歌がどうなるか、見てみたいでしょう」

そう言われれば暇な独り身である。物見遊山の気分でお邪魔することにした。

 



 かつて歌手になることを夢見て、日々レッスンに励んでいた少女がいた。

デビュー直前のアクシデントによって、その夢は閉ざされてしまう。

しかし、彼女は歌を歌うことを諦めていなかった。

数年後、コンサートホールのスタッフとして働く彼女に、スポットライトが当たる日がやってくる。

その日舞台に立つ予定だった歌手が雪に阻まれ辿り着かない。

更に事態は悪化し、コンサートホールは停電してしまう。

観客の心を落ち着かせるため、舞台に立つヒロイン。

必死に歌い続けるその声は、やがて観客の心を癒して―――


「その場面で歌われる曲になります」

案内役のスタッフによれば、陳腐な物語ではあるがなかなか良い場面で使われる様子だ。

「今日はエキストラもたくさん入ってますから、華やかな光景が見られると思いますよ」

良かったら客席に入っていただいても、と誘われたがさすがにそれは固辞した。

現場見学の会場となったのは都内にある公営のホールだった。

話を聞くと他の楽曲提供者もそれぞれの使用場面で見学に訪れているらしい。

私だけじゃないんだ、とちょっとほっとする。

「先ほど前半パートを撮り終えて、今は休憩時間です。よかったら撮り立ての映像をご覧になりますか?今編集中なので」

「ええ、お願いします」

こちらへどうぞ、と誘われたモニターの前。

そこで私はあるものを見つけた。


「―――こんなの、あるんですね」


停電の舞台上、非常用ランタンの明かりだけを頼りに、ヒロインが歌い出す。

大勢の人が見ている、というプレッシャーに声を詰まる。

それでも人々を励まそうと懸命に歌い上げるヒロイン。

逆に励ますように、かちり、かちりと客席から携帯電話のライトが光を放ち始める。

現代文明が作り出す蛍火の世界は只管に幻想的で美しかった。

沢山のライトが揺れる中で、ヒロインは次第に笑顔を取り戻す。

その中に、虹色に点滅するライトがあったのだ。

熱心な人が曲に合わせて用意したのだろう。

「機種によってはそういうカスタマイズしてくれるところもあるみたいですね」

うちのは駄目なんですけど、と国産のスマートフォンを手に案内係さんが笑う。私のも聞いたことないです、と別の国産機種を手に私も答えた。

「後で外に降る雪の景色と合成します。監督はCGにも定評がある方なので、期待しててくださいね」

モニターの前をほどほどにして去り、今度は客席を抜けてホワイエへ。

エキストラの老若男女があちこちに散らばって休憩していた。

「後半は客席のお客さんも一緒に歌うシーンになるんです。十五分後にリハーサルが始まりますので、それまでに舞台袖にお戻りください」

案内係に礼を言って、ひとまずの自由時間となった。


 とりあえずトイレでも行っておこうか、と思い立ち洗面所へ向かう。

エキストラとキャストの使用スペースは厳密に区切られているそうで、ここの洗面所はエキストラ専用とのこと。

「でもさあ、あのくらいの雪で停電とかさ、道路動かないとかさ、東京弱くない?」

「ほんとだよね、福島交通なめんなって感じ」

故にちょっと口も軽くなっているのか、個室の外からそんな声が聞こえた。本人たちは潜めているつもりだろうが、若い声はそれだけではっきり通る。

随分いろんなところから来るのねえ、とぼんやり思う。

非日常の空間にいるせいだろうか。

いつも以上にがらくた箱がパカパカと落ち着きなく閉じたり開いたりして、音楽が鳴りやまないのだ。そのせいで奇妙にあらゆるものが浮ついて感じられた。

さらさらと、それこそ百万回は弾いた笹の葉のトリルで右腿を叩く。

そういえば、私も若い頃はサイン会だ握手会だって、学校を抜け出すこともあった。

会いたい人が居れば、躊躇うことのないのが若さだろう。

トリルの部分を弾き切ると、少し落ち着いた。

個室から出ると、丁度二人組は出る所だった。片方が、林檎マークの携帯電話を忘れそうになって、慌てて引き寄せる。

ぺこっと頭を下げた二人に「いいえ」と返す。

あの頃の自分の面影を見かけた気がして、少しおかしくなった。


 用を済ませるともうすることもないので、早めに舞台袖へ戻った。スタッフが忙しく立ち回り、客席はエキストラで埋まり始めている。

そして、定刻。ざわめきが一度静かになる。

「それでは、合唱パートのリハーサルを行いまーす」

よろしくおねがいしまーす、と数百の声が折り重なる。

私がいる舞台袖と反対、上手からしずしずと進み出る、ヒロイン役の女優。

ああもう、なんていうか全然オーラが違う。

晴れやかに笑ったその顔は演技じゃない、歌う喜びにあふれている。

こんな風に幸せそうに、歌ってくれる人に、この歌が届いた。

それだけで、もう充分なのかもしれない。


ふっと、場内が暗くなり(停電のシーンだから当然だ)あちこちで携帯電話のライトが輝き始める。

虹色のライトもきっとどこかで光っているのだろう。

 アカペラの歌唱が始まる。

しばらくはライトが揺れているだけだったが、監督の合図を皮切りに、ぽつ、ぽつ、とあちこちから歌声が聞こえ始めた。声の細波は次第に大きくなる。

そしていよいよ歌唱はサビ部分に差し掛かり


「雪に虹がかかったら 私はあなたに会いに行く」


 キーン、と澄んで高い、明らかに訓練されたソプラノが響いたのはその時だった。

ヒロインの声を若干食ってしまう程の、豊かな声量。

あの物語の最後、夢幻の中にいた百万はどうやって正気に返ったのだっけ。

ああ、そうだ。あの時は、確か


「これなる物狂いをよくよく見候へば。故郷の母にて御入り候。」


子どもに見つけて貰って、我に返るんだ。



雪深い土地、

「福島交通なめんな」

三歳にして豊かな声量と、正確な音程

熱心なエキストラ

虹色に光る携帯電話、

後ほど合成される、雪の景色

直接触れ合えなくても構わない

届け、とは思わない

でも、届かないとも思わない

雪に虹がかからないのなら、

雪の中に、虹を作ってしまえばいい

そうすれば、約束は果たせる―――!


ストップ、ストップ、と監督が手を振り回す。

「はい、元気がいいのはいいですが、もう少し抑えてください」

苦笑気味に言う監督。はーい、と二つ声が響く。

「想像よりも、ちょっと、高かったのね……」

ああ、そうだ。雪深いあの土地は、中高生の合唱がとても盛んな土地だった。

声が、涙で半分潰れた。

膝が笑う。なのに、走れ走れ、とがらくた箱が叫び出す。

羽衣のように、音楽が躰を包み込む。

ちょっと、と制止する案内係の声を無視して、舞台袖を飛び出す。

あの日街角ピアノにかじりついた時よりも、もっと無我夢中で私は走り出していた。

誰かに歌ってもらえたら十分じゃなかった。

私、あなたに。

聞いて欲しい歌があるの。

歌って欲しい歌があったの。

防音加工の重たい扉を、力任せに押し開ける。




莉音(りお)―――!」





雪に、虹がかかっていた。





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