あかりちゃんに内緒
「…拓人、もう帰っちゃうの? たまには泊まっていけばいいのに…」
「わりぃな。男には自分の世界があるんだ。俺のことは空を駆ける一筋の流れ星だと思ってくれ」
「…冷たいのね。でもそういうところも好きなんだけど。また来てね」
「あぁ。メシうまかった。またな」
イズミの家をあとにして、俺はたまり場へと向かう。
少し早めに出たもんだから、ついイズミの所に寄り道してしまった。
髭に当たる風が俺の緊張を少しばかり冷ます。
そう、俺は今日緊張している。
なにしろ俺はあの銀次さんと秘密の待ち合わせをしているんだ。
銀次さんは俺と悠真の憧れだ。
悠真は俺と同い年の幼なじみ。恐れ多くて訊けないが、銀次さんはたぶん俺たちより7~8歳年上。
渋くて聡明。何もかも見通しているような鋭い眼差し。
あんな目で見つめられたら女はイチコロだろう。
ああいうのを100万ドルの瞳って言うんだろうな。
角を曲がって分かれ道を右に進めば俺たちのたまり場だ。
そこにはゆったりと空を眺めている銀次さんの姿があった。
相変わらずカッコいい。
そう言えば前にオフクロが『渋いわね。タカクラケンみたい』って言ってたな。
俺が住んでいるのは神奈川県だけど、タカクラケンってたぶんそういう意味じゃないよな。
タカクラケンがイケメンの誰かだとしたら、銀次さんのほうがイケてるに決ってる。
俺もいつかああなりたいと思う。
憧れの男をみつけ、近づけるよう努力する。これぞ男の美学。
「銀次さん、すみません! 遅くなりました!」
「よぉ、拓人。俺も今来たところだから気にするな」
「いえ、なんかホントすみません」
「いや、いいって。それより拓人、鼻の傷、きれいに治ったな。跡にならなくてよかったな」
「あ、はい! あの時はありがとうございました!」
この前、俺と悠真は余所者に絡まれてちょっとしたバトルになった。
そこにたまたま通りかかった銀次さんが俺たちを助けてくれた。
銀次さんは余所者に手を出すことなく相手を諌めた。
余所者はかなりヤバそうなやつだったのに、一体どうやって事を収めたんだか。
頭に血が上っていた俺たちには何も耳に入らなかったことが悔やまれる。
男は常に冷静であれ。守れない俺たちはまだまだだ。
とにかくこの件があってから、俺たちの銀次さんリスペクトは一層高まった。
「悠真は元気にしてるか?」
「はい。『俺、外が怖くなったわ。ひきこもりになるかも』なんて言ってたくせにへらへら出歩いてますよ」
「ははっ、そのくらいが丁度いいさ。…ところで拓人の相談ってなんだ? …女のことか?」
銀次さんは余裕のある笑みを浮かべている。
そう、今日俺は相談があって銀次さんを呼び出した。相談したいのは俺の大切な大切な女、あかりについてのことだ。
「あの…相談したいのはあかりのことなんです…」
「あかりちゃんか。拓人の一番大事な女だって言ってたな。どんな相談だ、言ってみろよ」
そう、あかりは俺の一番大事な女。
そのあかりについて今『これが正解だったらどうしよう』と悩んでいることがある。
銀次さんなら正解を知っているのではないかと思い、今日は時間を作ってもらった。
「実は…」
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「…そうか。それが事実なら、残念ながら拓人の考えは当たってるな」
「…やっぱりそうですか…。オフクロにも訊いてみたんですけど…うちのオフクロ、ちょっとズレてるんすよ。『具合でも悪い?』なんてとんちんかんな答えが返ってきて…」
「あぁ、そうかもな。親は俺たちと生きる世界が違うからな」
「銀次さんのほうが話がわかるに決まってると思って相談させてもらいました」
「そうか。前に他のやつにも似た相談を受けたことがあるな。そいつも慌ててたな」
「…」
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「そういう訳で、時々あるんだよ。こういうことは」
「…」
「拓人にとってあかりちゃんが大事なら、大した問題じゃないと俺は思う。あまりショック受けるなよ」
「…はい」
「ところで拓人、イズミと会ってるのか?」
わわっ、銀次さん鋭いな。
て言うか、銀次さんはイズミと知り合いなのか?
「…あ、はい、時々…。でも、どうして知ってるんすか?!」
「匂いだよ、匂い。俺も若い頃にな、イズミとちょっとつきあいがあったんだ。いい女だよな。出来合いの食べ物なんか出さなくてさ」
!!!
銀次さんとつきあいがあったなら、俺みたいな小僧じゃイズミも物足りないだろうな。
いや、俺も銀次さんクラスの男ってことか?!
お礼を告げ、銀次さんと別れて家に帰る。
細く開いた二階の窓からそっと部屋に入る。
いろいろ衝撃で、あやうくクレッシェンド錠を掛け忘れるところだった。
いけない、いけない。
男は常に冷静であれ。
鍵をかけて証拠隠滅。
「おかえりっ!!! 」
「お、あかり、起きてたのか。ただいま」
「拓人お兄ちゃんったら、また一人でお出かけしてたのね。目がさめたらお兄ちゃんがいないから、あかり、さびしかったよぉ。まだパパもママも帰ってないからお兄ちゃんがこっそり出かけたことはナイショにしてあげるね!」
「お、おお、頼むよ」
あかりは我が家の大事な姫。
2歳下の俺の妹。
明るくてかわいくて、あかりがいるとその名の通り、灯りを点したように家の中が明るくなる。
オフクロよりもイズミよりも大事な女。
「お兄ちゃん、その代わり、お出かけした時に危ないことをしないって約束してね」
「分かったよ」
俺が一人で出かけたらさびしいだろうに許してくれて、しかも俺の身を案じてくれる。
本当にいい子だ。
「俺が一人で出かけてさびしくないのか?」
「そりゃさびしいけどさ。男には自分の世界があるんでしょ? それにね、おひとり様上手になってこそ大人の女なのよ」
「ぷぷっ」
子供のくせに! 大人ぶりたい年頃なのかな。
「ところでおなか空いてない? あかりもうおなかペコペコ!!!」
ほら、やっぱり子供だ。
「そっか。俺は外で済ませてきたから…」
「くーっ、『外で済ませてきたから』ってなに、カッコいい!!! あかりも言ってみたい! 今度お兄ちゃんが出かける時、あかりも一緒に連れてって! ね?」
「お前、二階の窓から出入りできるのかよ」
「むーっ、できるわけないじゃん! 玄関から行こうよぉ」
「それは無理だ」
「あうー、残念」
「ま、しょうがないな」
「お兄ちゃん、今日も悠真くんとつるんでいきがってきたの?」
「ん、いや、今日は銀次さんに用があってさ。て言うか、『つるんでいきがってる』ってなんだよー。俺たちは男の美学を追及してるんだぞー!」
「ぷぷっ! 銀次さんってお兄ちゃんの命の恩人のおじさんね!」
「おじさん言うなよー。あかりなんて銀次さんに会ったらきっと惚れちゃうぞ」
「そうかなぁ。あかり、おじさんはちょっと苦手よ」
「そうなのか」
「うん。心配するだろうからお兄ちゃんには言ってなかったけど…この前、あかり、ママと一緒に美容院行ったでしょ。その時に道端でおじさんにくんくん匂い嗅がれてさ。『あー、やっぱ若い子はいい匂いがするな。たまんねえや。ねえちゃん、俺の女にならない?』って言われてね。本当にたまらないのかヨダレまで垂らしてて…それからちょっとおじさんが怖いって言うか…」
うわっ、それ変態じゃないか。
「そ、それ、オフクロは怒らなかった?」
「怒らなかったよ。ママったらおじさんにね『あかりとなかよくしてくれてありがとう』なんて、とんちんかんなことを言ってたよ」
やっぱりオフクロはズレてる。
「あーぁ。イヤなこと思い出しちゃった。じゃあ気分を変えて。ねぇねぇお兄ちゃん、あかりとイイコトして遊ばなぁい?」
イイコトって…普通はエロいことを指す時の言い方だぞ。
まさかな…あかりはまだまだ子供だし。
「な、なんだよ、イイコトって」
「うふふ。ちょっと待ってねー」
あかりは自分の宝箱をごそごそしている。
宝箱の中身は半分切れかけたぬいぐるみやら古い毛布やら。俺にとっては大半ががらくたに見えるが、あかりにとっては宝物だ。
「じゃーん! ボールでーす! サッカーしようよ、お兄ちゃん!!!」
「よーし」
…エロいことなわけないよな。
あかりは二本の足でボールをくるくると操る。
うまいもんだ。
俺はどうもボールを見ると叩きたくなるためサッカーは苦手だが、あかりが喜ぶからこうして時々つきあっている。
こんなにいい子なのに…俺の本当の妹じゃないんだ…
今日銀次さんに相談したのは『あかりは本当の妹ではない気がする』ということ。
そしてそれは的中しているらしい。
あかりが知ったらかなりのショックを受けるだろうから内緒にしておかないと。
大事な女に余計な心配はさせない。男の美学だ。
「あれぇ? お兄ちゃん、集中してないね? 何か考え事してるでしょ?」
鋭いぞ、あかり。
「そ、そんなことないよ。あかりがサッカー上手すぎてついていけないんだよ」
「そうかなぁ…でももうママが帰ってくるから、サッカーはおしまいにしよう。お兄ちゃん、サッカーにつきあってくれてありがとうね」
あかりの巻き毛が髭をくすぐり、俺は口元にちゅーをされた。
あかりは時々ちゅーをしてくれる。
大概は俺が複雑な心境でいる時。
あかりは気持ちを読み取るのが上手い。
あかりのちゅーにはトゲトゲしたものを破壊する幸せパワーがある。
そういえば初めて会った時、俺はこのちゅーにやられたんだよな。
「さ、ママのお出迎えに行こう!」
あかりはボールを宝箱に戻すといそいそと一階に向かう。
俺はあかりがうちに来た日のことを思い出していた。
「拓人、妹よ! お兄ちゃんになったのよ!」
「かわいいなぁ! 拓人、なかよくするんだぞ!」
「おにいたん、あしょぼ!」
にこにこと駆け寄ってきて、あかりは俺にちゅーをした。
ナイフみたいに尖っていたあの頃の俺は、純粋無垢なあかりに刃をへし折られた。
ガチャッと玄関のドアが開いて、オフクロが入ってきた。
「ママー!!! おかえりぃぃぃ!!!」
「はーい、ただいま! あーちゃんは今日もいいこにしてたかな?」
「いいこにしてたよ!!! ママ、あかりもうおなかペコペコ!!!」
「そうね。おなか空いたよねー」
「うんうんっ!」
「おなか空いてるところごめんね。ごはんの前にあーちゃんはママとお散歩に行こうね!」
「きゃーっ! ママとお散歩~♪」
「その前にママはお夕飯の材料を冷蔵庫にしまっちゃうわよ!」
「あかりもお手伝いするー」
オフクロの足元を跳び跳ねるようにしてキッチンに向かうあかり。
うれしいよな。
お散歩もご飯も大好きだもんな。
かわいいなぁ。
銀次さんが言っていたことを思い出す。
「三丁目の黒助、知ってるだろ? あいつもお前と同じでテレビを見て気付いたらしい。『兄ちゃんが、俺の兄ちゃんが本当の兄ちゃんじゃないなんて…』ってえらく慌ててたぞ。黒助が赤ん坊の時から兄ちゃんがいたからな。本当の兄貴だと思っていたみたいだな」
俺の場合は後からあかりがやってきたけど、本当の妹だと思ってたんだ。
でも…犬は本当の兄弟じゃないのか。
大事な大事な妹のあかりはテリアの血が入った犬。
犬だから…あかりが本当の妹、というのはありえないらしい。
今日、銀次さんに相談してきたのはこのことだ。
俺の気持ちをよそに、オフクロとあかりは楽しげに話している。
「あ、そうそう。さっきね、角の和泉さんの奥さんに会ったんだけど。『今日ね、拓人が遊びに来てくれたの! ナマリがあったから茹でてごちそうしたのよ!』って言ってた」
「あら。お兄ちゃんったらイズミさんのところでごはんをごちそうになってるのね」
「和泉さんの奥さんね、『銀ちゃんはもうちっとも来てくれないんだけど、最近は拓人が時々来てくれるのよ。でもごはんを食べ終わるとぷいっと出ていっちゃうからちょっと寂しい』って言ってたわよ」
「まぁ!お兄ちゃんったら冷たいわね! その最近来ない銀ちゃんって銀次さんのことかなぁ。お兄ちゃんの憧れなんだよ」
「銀ちゃんってカッコいいのよ。高倉健みたいなの」
俺の話が出てきた。
イズミがチクッたことで俺の秘密の外出もバレてしまった。
まぁ、前にバレた時にも別に怒られることはなかったからいいか。
怪我さえしなきゃ、オフクロも男の俺が一人で出かける分にはうるさく言わない。
男には自分の世界があるっていう男の美学をオフクロも分かってくれてるんだろうな。
『オフクロはズレてる』なんて思って悪かったよ。
そうそう、俺もおかえりの挨拶をしないとな。
キッチンでエコバッグの荷物を冷蔵庫に移し変えるオフクロのふくらはぎに軽く触れる距離をスーッと通る。
「おお、びっくりした! ただいま、たっくん!」
「その呼び方は子供っぽいからやめてくれよ」
「たっくんったら、和泉さんにモテモテね!」
「だから『たっくん』はやめろってば」
俺が言っても言っても、オフクロは『たっくん』をやめない。
訂正。やっぱりオフクロはズレてる。
女親は子供をいつまでも子供扱いする。
いや、それとも。
銀次さんが言ってたように、人間と俺たち猫とでは生きる世界が違うからかな。
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「ママ、おかえり!!!」
「ただいま、あーちゃん! 今日もいい子にしてた?」
「うんっ!」
「たっくんはどうしてるかな?」
やばっ! お兄ちゃん、今日も出かけてるのよね…
また悠真くんと不良ごっこしてるんだろうなぁ…
危ないことしてないといいけど…
「えーっと…あの…お兄ちゃんは二階で寝てるかな…」
「そっか。あーちゃん、今日もママとお散歩行こうねー。今日も小太郎くんに会えるといいね! あの子、カッコいいよね!」
「きゃーっ、ママったら! 小太郎くん、会えるといいなぁ…」
「あーちゃん昨日、公園で小太郎くんとだいぶ盛り上がってたね」
「小太郎くん、カッコいいだけじゃないんだ。やさしいし物識りだし最高なの!」
そう。小太郎くんはあかりの悩みを解決してくれたのよ。
『うちのお兄ちゃんは猫なんだけど、あかりは犬だから、たぶん本当のお兄ちゃんじゃないんだよね…?』って訊いたら、『そうだね…残念だけど本当のお兄ちゃんじゃないね…でもすごくなかよしなんでしょ? それならそれでいいと思うよ』って教えてくれたの。
ママに訊いた時にはうまく伝わらなかったのにね。
お兄ちゃんはあかりのことを本当の妹だと思ってるみたいだから、ショックを受けないように、本当の兄弟じゃないことはお兄ちゃんには内緒!




