拳骨
いつかの時代、とある王国に一人の姫がいました。大層美しい姫でしたが、手の付けられないお転婆娘で、野山を駆け巡り、兵士たちに混じって訓練をしたり下町の子どもたちと鬼ごっこをしたりして遊ぶ毎日です。子どもの頃は元気があってかわいいとのんきに思っていた王でしたが、一向に落ち着かないどころか年々はしゃぎぶりを増していく姫にやがて頭を抱えるようになりました。色々と悩んだ結果、結婚でもしたら少しは落ち着くだろうと考えた王は、王妃や大臣と相談して一計を案じました。
ある晩、夕食の席で王は姫に言いました。
「姫よ、お前もそろそろ18になる。そこで誕生日に舞踏会を開こうと思うのだ。国中どころか大陸中から若い男を集めてやろう。気に入った男がいたら結婚したらいい」
王家の姫は政略の道具です。しかし幸運なことにこの国は、とても平和でお金持ちで、しかも姫の上には優秀な兄や姉が何人もいます。一人くらいは恋愛結婚もよかろうと王は思ったのです。実際のところ、このお転婆をデリケートな外交に使ったところでろくな結果にならないことは目に見えているという裏事情もありますがそれはそれです。
ところが姫は王の寛大な申し出をすげなく却下しました。
王は言いました。
「いったい何が気に入らないのだ。まさかまだ結婚したくないと言うのか。お前の姉は16で嫁に出たのだぞ」
姫は上品な仕草で首を振りました。
「違いますわ、お父様。殿方を選ぶのはかまいません。ですがやり方がいただけません。いいですか、やるならば『舞踏会』ではなく『武闘会』です」
また姫の悪い癖が始まったと、王夫妻と臨席していた大臣は頭を抱えたい気分になりました。
姫は立ち上がって言いました。
「さあ、大臣。お布令を出すのです。私の伴侶となるなら、クルクル踊るのが自慢の優男に用は無し。私と闘い、ねじ伏せられて、それでも私を熱くさせる言葉を吐いてくれる殿方になら、跨って差し上げてもかまわないと」
あまりにもあけすけな言い様に王と妃は居心地悪そうに視線を逸らして咳払いをしました。お前が闘うのかというツッコミを入れる気にもなれません。
そしてどうもこの姫、自分の勝利以外の結末などはなから想定していないようです。しかしそれも根拠のない自信ではありません。平和ながらも二世代前までは苛烈な戦国時代を経験している王国は尚武の精神を重んじており、たとえ女子であっても幼い頃より超一流の教育を施されているのです。そしてこの姫はと言えば、王家の武術指南役を仰天させたほどの天才少女だったのです。
不敵に微笑み、拳の関節を鳴らすお姫さま。白魚のような指とシミひとつない白い肌。しかし嫋やかなその身体の薄皮一枚下は、一部の隙も無いほどに無駄なく鍛え上げられた鋼の如き筋肉を秘めているのです。
こうなってしまえばどう説得しようが無駄なこと。そう悟った王は肩を落として大臣に布令を出すように命じたのでした。
お布令は大陸中に衝撃を与えました。光芒五里に及ぶと謳われるほどの美姫の婿探しです。老いも若きも色めき立ち、武闘会へのエントリー者数は100万人を超え、各地で予選会が開かれました。
予選を突破し、本命の武闘会への出場が許されるのは僅かに10名。その倍率は実に10万倍です。
出場を懸けた熾烈な予備選で落命した候補者の数は2千人を数えました。
そして布告から3ヶ月後、王城の隣に突貫工事で建設された壮大なアリーナで、ついに武闘会の幕が上がったのです。
大陸のあちこちから集められた10人の男たちは、アリーナの中央に立つ姫を見て、まずその美しさに息を飲み、次いでその見事な身のこなしに目をみはりました。10万人のライバルを蹴落とし、熾烈な競争に勝ち抜いた猛者たちは強者を見抜く眼力も一流です。布令を見た時は世間知らずのお転婆姫を優しく躾てやるつもりでしたが、今や侮るものは誰ひとりとしていません。
厳正な抽選の結果、一番手に選ばれたのは南の国からやって来た褐色の伊達男。甘いマスクに乙女を蕩かす微笑みを浮かべた彼は、砂漠の拳狼の異名を持つ凄腕の拳闘家です。 彼は構えを取る姫に、肩を竦めて言いました。
「やれやれ、素手喧嘩しか能が無い俺にとっては不利な勝負だな。その顔に拳を当てるのは忍びない」
キザなセリフに姫は気分をやや害しました。
決戦のゴングが鳴り響きました。
勝負は一瞬でした。流星もかくやという踏み込みで間合いを詰めた拳狼の神速のボディ打ちを無駄のないバックステップで軽やかに躱し、姫はカウンターの左フックをこめかみに叩き込みました。心技体が完璧に噛み合った一撃に、拳狼の意識は一瞬で遥か軌道上へ。腰砕けになって尻餅を着こうとしますが、それを許す姫ではありません。左フックの溜めを活かした右のショートアッパーが顎をかち上げ、続く電光石火の左ストレートが顔面を射抜きました。これでとどめです。
さながら人身事故のように吹き飛び、ぴくりぴくりと痙攣する砂漠の拳狼。
一瞬の静寂のあと、勝者が高らかに血濡れの拳を掲げると、爆発のような歓声がアリーナを包み込みました。
「高過ぎる鼻が縮んでようやく男前になりましたわね」
担架で運ばれていく拳狼に追い打ちを掛ける姫。意識を無くしているかと思われた拳狼は、しかし震える左手を僅かに持ち上げました。それを見た姫は、ようやく少しだけ楽しそうに微笑んだのです。
姫の快進撃は続きます。
男女の仲以外に分解出来ないものは無いと豪語する関節技達人は両手両足の関節をすべて外され、右手と右足、左手と左足同士を恋人繋ぎにさせられて退場しました。
東の島国からやって来た3000人の門下生を率いる柔術大家の老人は、当て身や投げ技のことごとくをいなされた挙句、フロントチョークを極められました。姫の腕に包まれて、老人は至福の笑みを浮かべて失神しました。
次から次へと猛者たちをなぎ倒し、10人目の天空の魔術師の異名を取るルチャドールを華麗な空中殺法で沈めると、もう姫の前に立つものはいません。
手を振って喝采に応えながらも、どこか満たされない空虚な笑顔を浮かべてステージを降りる姫。
祭りも終わりかと思われたその時、突如として黒い霧がアリーナの上空に立ち込め、哄笑が響き渡りました。
「姫よ、お前の光芒は遥か魔界にまで届いたぞ」
霧が凝固してアリーナに降り立ったのは、筋骨隆々として、蝙蝠のような禍々しい翼を生やした身の丈2メートルを超える異形でした。ねじれた角のある頭に戴くのは黒く輝く王冠です。なんということでしょう。魔王が現れたのです。
アリーナが悲鳴と恐慌に包まれ、さしもの姫も息を飲み、後ずさりました。
姫へと一歩ずつ足を進める魔王。
しかしその時、姫を守るように、彼女の前にいくつもの背中が立ち塞がりました。魔王と姫の間に立つのは傷だらけの身体を引き摺る10人の闘士たちです。
魔王はボロボロの男たちを一瞥し、小馬鹿にしたように笑いました。
「その脆弱な肉体と拙い技で、この俺の前に立つ度胸だけは褒めてやろう」
ネズミに獅子の実力を計ることなど出来ませんが、自分より遥かに大きく強いことくらいは分かります。
巨大な恐怖に襲われ、震えながら、それでも眼だけで不屈を訴える男たちを見て、姫は幼い頃、何十年も昔の戦国時代を生き抜いた兵隊長に尋ねた言葉を思い出しました。
「人は恐ろしい瞬間にも勇敢になれるのですか?」
年老いた兵隊長は答えました。
「姫さま、それが人が勇敢になれる唯一の瞬間なのです」
姫の胸に熱い火が灯りました。
魔王によって10人の闘士が蹂躙されんとしたまさにそのとき、凛とした声がその凶手を止めました。
「そこを退いてくださいませ、素敵な皆さま。その方は私の客人です」
その声に振り向いた男たちは姫の爛々と輝く表情を見て、肩を落としてステージを降りました。
姫は魔王に向き直ると、優雅に一礼し言い放ちました。
「御機嫌よう、遠い世界の魔王さま。エントリー方法に若干の疑義はありますが、私は強い貴方を歓迎します。ああ、なんて嬉しいのでしょうか。一度言ってみたかったのです、相手にとって不足なし」
大陸中から掻き集めてもついに巡り会えなかった底知れない強者を前に、火のついた闘争心は天井知らずに燃え盛ります。金糸の頭髪を獅子の鬣のように逆立てさせ、火蓋が切られる時を今か今かと待ちわびています。
そしてついにその時が訪れました。
〇
その時ゴングを鳴らした王国兵(23歳・独身)は後日のインタビューにこう語りました。
『え、当時の私ですか? ええ、とてもじゃないですが、栄光ある武闘会のゴングを鳴らせる立場にはいませんでしたよ。なにせ下っ端でしたので(恥ずかしそうに頭を搔く)』
ーーそんな貴方がなぜゴングを?
『思い出したくもない感覚でしたよ。上官同僚が残らず魔王と姫様の作り出す圧力に呑まれて固まっていましたから。10万を超えるアリーナの観客たちも、身動きひとつ取らず、呼吸音すら漏らすことを恐れていました』
ーーしかし貴方一人だけが動けた。
『その言い方は誤解がありますよ(苦笑気味に)。私は、そうですね、きっと誰よりも怖かったんですよ。あの緊張感が。いっそ死んでもいいから、どうか終わってくれ。そう思った瞬間、私は隊長の手からハンマーを奪ってゴングに叩き付けていました』
〇
悲鳴のようなゴングがアリーナに響き渡った瞬間、向かい合う両者は常人の視界から掻き消えました。音を置き去りにするかのようなその姿を僅かなりとも捉えたのは、武芸に人生を捧げた熟達者の中でも頂点に位置する10名のみ。そんな彼らですら改めて悟らざるを得ませんでした。姫にとって自分たちとの一戦は準備運動にもなっていなかったのだと。
愕然と膝を着いたのは北国からやって来た、熊をも絞め殺す怪力の巨漢です。しかしその頭上で、嗄れた声が呟きました。
「寝ても覚めても相手をぶちのめすことだけを考えてきた70年。天井が見えたと思いきや、まだまだ人は強くなれるようだのう。こんなに嬉しいことは無い。なあ、小童。貴様はそう思わんのか」
強がりでしょうか。しかし枯れ木のような最年長者の言葉を受けて、鼻の折れた拳狼と脱臼の痛みに耐える関節技達人は拳を握り締めました。そしていつの間にか10人の誰もが。打撃家だろうが組技家だろうが関係ありません。男ならば、いや人ならば、生まれて最初に握り締めるのは己自身に他ならないのです。
生まれたての赤ん坊が自然と手のひらを握るように、姫によって切り拓かれた新たな地平に生まれた新生児である10人は、自然に固く拳を握るのでした。
姫と魔王の戦闘は激しさを増していきます。
魔王は震えるほどの感動を覚えていました。罵声と暴力のみをコミュニケーションツールとする魔界には芸術という概念がそもそも無く、それゆえ魔王は芸術を解しません。詩も絵画も解りません。しかし目の前の姫は芸術そのもの。歌であり踊りでした。
気持ちとは、ときに百万語を尽くすよりも直に触れ合うことで濃密に伝わるものです。岩をも粉々に砕く回し蹴りを放つ魔王。まともに受け止めた腕を砕く感触とともに魔王に伝わるのは姫の激烈な苦痛と、ひたすら無邪気な歓びでした。まるで自分の足で歩けることが楽しくてたまらない幼児のような純粋な想いの美しさに、魔王は生まれて初めて涙を流したい気持ちすら覚えたのでした。
深刻なダメージをものともせず、脳天を唐竹割りにせんと振り下ろされる手刀。顔の右側を紙一重で通過していったその鋭さたるや、女神の加護を受けたあの勇者の聖剣ですら、ちゃちながらくたに思えるほどです。鋼を容易く弾く肩の甲殻を薄紙のように切り裂き肉を断ち切る手刀が与える痛みの鮮烈なこと。
全身を震わす恐怖と歓喜を乗せて、魔王は左の拳を放ちました。
恐怖と歓喜。それは姫も同じことでした。生まれながらに人の規格から大きくはみ出していた姫は、常に不完全燃焼という癒えない乾きに苛まれていました。いつだって自分の全力に付き合えるものがいない現実に絶望していたのです。
しかし今、全力を振り絞ってもなお打開の適わない苦境の、なんと苦しくもどかしく楽しいことでしょうか。
超絶の技量と身体能力で繰り出される魔王の猛攻の見事なこと。死の気配を濃厚に孕んだその一撃一撃を躱すごとに背筋に怖気が走ります。
魔王の回し蹴りを防いだ左腕は骨ごとへし折られ、すさまじい威力の余波はガードの上からあばら骨に罅を入れました。
苦し紛れに脳天を狙った渾身の手刀は紙一重で躱されました。肩の甲殻をわずかに切り裂いたものの、同時に姫の右手も砕けて痛み分けどころか収支はマイナスです。
返す刀で繰り出された魔王の左拳が姫の頬に突き刺さります。咄嗟に首をひねりダメージを逃す離れ業をやってのけながらも、目の奥で星が飛び散り、ゴキリと奥歯が折れる音が頭蓋に響いて口の中が血の味で溢れかえりました。二度と戻らない身体の欠損に一瞬喪失感が心を襲いますが、猛烈な歓喜が即座にその隙間を埋め尽くします。
口を満たす血反吐とともに折れた奥歯を吹き出す姫。血飛沫の煙幕を突っ切って放たれた亜音速の礫を、流石の魔王も完全に躱すことは出来ず目の下に被弾してしまいます。しかし所詮は軽い奥歯、決定打になるはずはありませんが、待ちわびた一瞬の隙を逃さず、まさかりのような打ち下ろしの下段蹴りが魔王の左膝を目掛けて放たれました。
観客にとっては一瞬の、当事者にとっては濃密に過ぎるひと時が終わりを告げました。砂煙が晴れ、現れた二人の姿を見た観客は歓声を上げました。
雄々しく立つ姫の前で膝を着く魔王。その右の角は根元から折れていました。
姫の勝利でしょうか。しかし万雷の喝采も数瞬のうちに萎え、たちまち悲鳴に取って代わられました。
魔王の前に立つ姫の無残な姿。白く美しかった顔は血にまみれて痛々しく腫れ上がり、背中まで伸びていた金色の髪は乱雑に肩口で千切れています。右の拳が潰れ、左腕はあらぬ方に捩れて、肘から折れた骨がはみ出しています。そして何より、ピクリとも身動きを取りません。
満身創痍の姫は、立ちながらに意識を失っていたのです。一方の魔王は片方の角が折れ、膝を着きながらも暗い光の灯った目で姫を睨んでいます。
果たしてどちらを勝者と呼ぶべきなのでしょうか。誰もが反応を決めかねるなか、明確な答えを持つ者がこの場にたった一人だけいました。
ありとあらゆる法秩序を侮蔑する魔界にも、たった一つのシンプルな不文律が存在するのです。すなわち、勝負が決した際、より標高の高い位置に頭を置く者を勝者とすること。ならば魔界の王たる彼の誇りが、勝者を騙る恥を己に許すわけがありません。
苦く晴れやかな敗北感に満たされた魔王は、潔く背中を大地に預け、青い空を仰ぎました。
王城から始まる大通りは、都の中央広場に位置する十叉のわかれ道へと続きます。
武闘会の熱気も冷めやらぬ夕暮れ時にそれぞれの道の入り口に立つのは10人の男たち。お互いに語る言葉などありません。すべての道は王都へ通ず。ならばいつかまた巡り会うこともあるでしょう。次はさらなる高みへ上り詰めて。挨拶もせずに、ただ示し合わせたように固く握った拳を一度掲げて彼らはそれぞれの道へと進みました。
遥か上空から見下ろす魔王は、それを小さく鼻で笑うと握り拳を眼下に振り下ろし、黒い霧となって黄昏の空に溶けていきました。
⚫
10人の闘士と魔王が去り、祭りの終わりを迎えた王都は緩やかに落ち着きを取り戻していきました。
重傷を負った姫は別人のように大人しく療養生活を送っています。
王と王妃は姫の大怪我に顔色をなくしていましたが、すっかり落ち着いた姫を見て、さすがに懲りたに違いない、痛い思いをしたけれど、結果的によかったのではと胸を撫で下ろしました。
月日が流れ、痛々しく腫れ上がった顔は元通りの美しさと愛らしさを取り戻し、両腕の無残な怪我もすっかり綺麗に癒えました。生来の美貌にお淑やかさまでも兼ね備えた姫は、実の親であってもうっとりとしてしまうほどです。
ある朝、王は今度こそ舞踏会をしてみてはどうかと切り出そうと、朝食の席で姫の到着を待っていました。穏やかで平和な空気は、泡を食った侍女長が部屋に乱入し、その手に持つ便箋を王に見せたことであっさりと瓦解しました。
ピンク色のかわいらしい便箋には、とても流麗な、しかし抑えきれない胸の高鳴りがにじみ出たような少し乱れた筆跡でたった一言こうありました。
『私より強い奴に会いに行く』
王夫妻と、騒ぎを聞きつけた大臣は城のバルコニーへと転がり出て、王都の中央広場へと続く大通りにその姿を見つけました。
「難しいですなあ、乙女心というものは」
嬉しそうに颯爽と、握り拳で跳ねるように駆けていく姫。見る見るうちに小さくなるその後姿を呆然と眺める王夫妻を見て、初老の大臣は小さくため息とともにつぶやくと、しばらく一緒に立ち尽くしてあげることに決めたのでした。
めでたしめでたし




