或る殺人鬼の日記
*流血・殺人といった残酷な表現が少し含まれています。
苦手な方は高速で読み流して下さい。
*どんな理由でも殺人は犯罪です。
*この作品はフィクションです。
実在の人物・団体とは一切関係ありません。
きっと、関係ないはずです……。
5月5日(日)
小説案①100万人に1人の特異体質をもつ連続殺人鬼が逮捕に至るまでの回顧録
(忘れないように思い付いた案は日記に書き残すことにした)
「100万」で最初に浮かんだのはアンドレイ・チカチーロ。殺した人数に負けず劣らず、チカチーロは異名が多い。ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔、ロシアの食屍鬼、ソビエトの切り裂きジャック、……そして100万人に1人の男。52人を殺害して12年間も逮捕されなかった理由の一つが、血液と精液の型が一致しない100万人に1人の特異体質だったと知った時は感動した。神の奇跡か、悪魔の悪戯か。チカチーロがモデルの作品は既に複数あるけれど、僕は現代の日本を舞台にした殺人鬼の話を書きたい。そのためにはDNA鑑定の技術が発達しても通用する奇跡の理由を考えないと。僕自身の奇跡が解れば楽なのに。うっかりボロを出さないように気を付けよう。チカチーロだって最終的には捕まったんだから。
5月6日(月)
時田の嫌味を聞き流しながら仕事中も考えた。チカチーロは使えない。女の子も読む覆面小説で精液なんて言葉は使わない方が良いと思う。読メでは色々なジャンルを登録しているけれど過激な作品は控えているし、そういう話はオフ会でもしない。一応は“好青年”と認識してもらえているはず。そんな僕が執筆者発表で名乗り出たとしたら、みんな驚くだろう。覆面小説としては成功かもしれないが、大切なものを色々と失う気がする。うん、止めておこう。姫に促されるままに参加を決意して良かった。考えるだけで楽しい。
5月9日(木)
小説案②100万粒のBB弾をお箸で抓んで集めないと外へ出られない喜劇
愛用のビーズクッションが破れて床中に広がった白い粒々を見ていたら思い付いた。BB弾に変えたのは緊迫感を増したかったから。ガンシューティングゲームやサバゲーに興じる人達を見ると多くの人が殺人衝動を持っているんだと感じる。社会的に許されていないからゲームで発散させているだけ。枷が外されたら人間はきっと喜んで殺し合う。破壊衝動を持っている人はもっと多い。“競技”と銘打つことで殴ったり投げ飛ばしたりする暴力行為を許可している。ボクシングも相撲も剣道も“スポーツ”なんて体のいい言葉で暴力を誤魔化すのは卑劣だ。僕は自分の衝動を誤魔化したりしない。でも世間的に言えば彼らはまともで、僕は狂っているんだろう。
5月12日(日)
小説案③100万人オフ会で大量殺人鬼が本領を発揮する青春物語
ちょうど一年前、初めてオフ会に参加した。緊張して何度も止めようと悩んだ挙句、姫に背中を押されて集合場所へ向かった。あの日から何個のオフ会に参加しただろう。月に1回だったのが2回、3回と増え、読友さんと平日も飲みに行くほどにまでなっている。その分、姫と過ごす時間と殺人の回数は減った。殺人は趣味で、食事や睡眠みたいに絶対必要なわけではないから、他の趣味ができれば費やす時間が減るのは必然だ。でも友達がどんなに増えても姫と一緒に居る時間は一番落ち着くし、悩んでいる時に必ず助けてくれるのは姫だ。姫との関係は今後もずっと大切にしていきたい。直接は恥ずかしくて言えないけどね。
5月13日(月)
小説案④人生にある100万回以上の分岐点の先にいる100万人の“僕”が互いを殺し合うSF
まだ5月なのに暑い日が続く。職場の苛立った空気は最悪だけど家で姫と小説案を出し合うのは楽しい。二つ目のお題は「分かれ道」。僕の運命の分かれ道はいつだっただろう、なんてことを漠然と考えた。オフ会に初参加した時、読メに登録した時、姫と出会った時、初めて人を殺した時。転校、受験、就職も勿論そうだし、小さい分岐を含めたら膨大な数の分かれ道を経て、僕は今の“僕”に辿り着いている。もし複数の“僕”による殺し合いが始まったら読メをやっていない“僕”には経験値で負けてしまうだろう。それはちょっと悔しい。
5月18日(土)
小説案⑤100万人の顧客情報を漏洩させたと思い込んだ会社員が失敗を誤魔化すために次々と同僚を消していく職業小説
残業続きで頭が狂いそうだが週末休みはもぎ取った。時田の思うようにはさせない。姫と青山で食事をした後、偶然入ったバーで黒髪の綺麗なイズミ(泉美?和泉?出水?)さんとお酒を飲んだ。同じ25歳とは思えない艶っぽさ。読書好きで話も盛り上がったので、愛犬を見に家へ上がらせてもらうついでに殺した。3ヶ月ぶりで妙に興奮してしまい、必死過ぎる姿を姫に見られたのは思い返すと恥ずかしい。取り出した心臓はまだ鼓動を続けていて、舌で振動を感じながら味わうイズミさんの血液は、彼女が飲んでいた赤い枢機卿のように甘かった。
5月19日(日)
小説案⑥衝動的に殺人を犯した大学生が100万円で合法的な殺し屋に弟子入りするスプラッタ
「One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify(一人殺せば犯罪者、百万人を殺せば英雄となる。数が殺人を神聖化する)」
姫と『キングダム』を観に行ったらチャップリンの『殺人狂時代』の名言を思い出した。「100万」が入っているし「分かれ道」にも相応しい。犯罪者と英雄の線引きはどこなんだろう。2人?100人?50万人?フィクションの世界では1人しか殺していなくても相手が悪人なら主人公は英雄となる。一概に数では区切れない。当時は恐れられた戦国武将が今では親しまれ、崇められた軍事指揮官が徹底的に否定される。自国を想う心は同じなのに。レクター博士やジグソウはダークヒーローとして人気だし、ファンクラブができた実在の猟奇殺人鬼もいる。犯罪者と英雄の間に明確な区切りなんて無い。0人か1人か、ただそこだけ。1人の先に言い訳は無用だ。
5月22日(水)
小説案⑦100万円の値札を貼られた男が善行によって己の価値を上げようとする寓話
昨日、3つ目のお題が発表された。今の日本の基準だと人殺しの僕は価値の無い「がらくた」と評されるだろう。でも僕にとって“僕”は掛け替えのない大切な存在だから、この一度きりの人生を謳歌させたいし、そのことに後ろめたさや罪悪感は無い。今の楽しい日々を失いたくないから警察へ自首する気は更々ないけれど、自分の行為を誤魔化す無責任な人間にはならないと決めている。脳内で神に命令された、みたいな言い訳も絶対にしない。僕は僕の意志で、僕の愛情を伝えるために人を殺す。
イズミさんの死体が代々木公園で発見された。名前は堀川和泉、28歳だった。卒業アルバムと思しき顔写真は雰囲気が随分違うけれど黒髪の美しさは今も昔も変わらない。なぜ発見場所が自宅ではないのか。刺殺ではなく絞殺なのか。死後4日ではなく1日なのか。相変わらずの矛盾オンパレード。今回もちゃんと僕の奇跡は起きた。
5月24日(金)
小説案⑧騎士が姫さまの命令で殺人を重ねる内に自らの判断で生死を決め始めるファンタジー
今年初の真夏日と時田の理不尽な命令に疲れていたのに姫と大笑いしたらすっきりした。まさか覆面小説の縛りが「姫さま」になるなんて。自分が主人公の話を書いてほしいと姫は言うけれど、ただの綽名で、しかも男でもいいのかな。初めて出会った時(もう7年前!)、僕の名字が貴志→騎士だからという訳の分からない理由で“姫”と呼ばされるようになった。付き合って3日目だった平野さんを夕方のキャンパスで殺した直後だ。初めて人を殺めたあの日以来ずっと共に過ごしてきたから最近は会う時間が減って寂しい。姫と一緒ならオフ会がもっと楽しくなるのに。そういえば平野さんは退学して実家に帰ったことになったけれどお墓は建てられたのかな。
5月26日(日)
小説案⑨姫さまに対する国民の憎悪でできた100万体の藁人形が実体化して呪いを成就させるホラー
休日にまで電話を掛けてくる無神経な時田のために姫と一緒に藁人形を作っていたら途中から楽しくなってしまった。仕方ない、今日は許してやろう。晴れた気持ちで散歩へ出掛けると神田川沿いで10年以上ぶりに前田千代さんと再会した。驚きで上擦る声が僕の名前を呼んだ瞬間、中学時代の胸が潰れそうな程に恋焦がれた感覚が蘇った。以前は上手く表現できなかった恋心を今の僕はきちんと伝えられる。前田さんの愛らしい舌を包み込む唾液と血液は、学校帰りに吸った忍冬のように甘くて美味しかった。
5月27日(月)
小説案⑩100万段を登った先で愛する姫さまと再会できたのに小さな嘘のせいで階段から突き落とされる騎士の悲劇
100万という数字は助数詞や状況によって印象が変わる。100万円が多いか少ないかは対象次第だし、『100万年先も愛してる』なんて現実味が無くて馬鹿にしていたのに、『一億と二千年あとも愛してる』と聴いたら100万年がしょぼく見える。パートの明石さんが1日1万歩を目標に歩き始めたと話すのを聞いたら3ヶ月ちょっとで100万歩が達成できると気付き、その呆気なさに驚いた。1日1万段はきつくても半年あれば姫さまに会えるだろう。そこから奈落の底へと転げ落ちるのは一瞬だ。嘘の代償は大きい。前田さんはまだ発見されない。
5月28日(火)
朝から心が痛むニュースを聞いた。憎しみで人を殺すなんて、しかも見知らぬ子供たちを無差別に襲うなんて最低だ。こういった事件を聞く度に犯人が無性に憎くなる。僕は憎悪で人を殺したりしない。殺人は愛を伝える手段であって、憎悪を表現する方法ではないから。そんな理由で人を殺す人を心底軽蔑する。前田さんはまだ見つからない。
5月31日(金)
小説案⑪体中を100万匹の蟻に覆われる幻覚に苦しむ姫さまを騎士が救い出す冒険譚
仕事で疲れ切った体で歩いていたら蟻をうっかり踏み潰してしまった。もし対象が人間だったらこの程度の後悔では済まないはずだ。“うっかり”人を殺すなんて許されない。蟻と人間の差はなんだろう。蚊やゴキブリを殺す道具は大量に売られ、カブトムシやコオロギは観賞用として売られる。牛を食べるくせに犬を殺したら狂人扱い。池で鯉を愛でながら生臭い鯉を食べる。殺していいものと悪いものの基準が分からない。こうやって悩むのは僕が誰彼構わず殺す殺人鬼ではなく、愛をもって好きな人だけを殺す殺人者だからだと姫は言う。それなら分からないままでいい。前田巴さん(千代じゃなかった。覚え間違えていたらしい。)が横浜のマンションで発見された。死後5日ではなく2日だった。奇跡はいつも通り起きている。今回も僕はきっと逮捕されない。
6月2日(日)
小説案⑫姫さまが望む一羽を求めて騎士が100万羽の青い鳥を撃ち落としていたら一羽も残らなかった童話
前田さんの恋人が自首した。警察は冤罪を暴けるだろうか。身近な人は殺すなと姫に言われてきたのに中学の同級生を殺してしまったから少し不安を感じている。楽しさや喜びの感覚は全く違うけれどオフ会という新しい趣味ができたことだし、こんなリスクの高い趣味はなるべく避けたい。愛情を行動で示さなくても誰もが姫のように気持ちを分かってくれたらいいのにと願いたくなる時もある。でも僕は青い鳥症候群にはならない。自分の半身と呼べるほどに大切な人が居る幸せに気付けているから。
6月5日(水)
小説案⑬100万個の嘘を集める罰を課せられた天使が数を稼ぐために姫さまの真実を無理やり嘘に変えるが、それでも世界は滞りなく回り続ける御伽噺
職場で陰口を耳にしたせいで子供の頃の夢を見た。何度説明しても真実が伝わらなくて嘘吐きだと言われた記憶だ。今なら何となく理由は分かる。昔の僕は我儘で、想い通りにならないのが嫌だった。強引に押し通そうとする僕は次第に疎まれ、集団で嘘を吐く彼らのせいで僕が嘘吐き扱いされるようになった。今はどんな状況でも姫と話すことで冷静になれるから諍いを起こさずに済んでいる。彼と出会えて本当に救われた。適度な嘘は円滑なコミュニケーションに繋がると分かってはいるけれど子供の頃のトラウマのせいで僕にはできない。SNSでは秘密も嘘も当たり前。嘘を吐いている読友さんもいるだろう。悲しいけれど、この世界はきっと僕の知らない嘘で満ちている。
6月7日(金)
小説案⑭姫さまの新曲『暗い日曜日』をWEB上映で聴いた騎士100万人が一斉に洗脳されるミステリー
関東が梅雨入りした。湿度と時田のせいで心は沈むが参加予定のオフ会や覆面小説について考えると前向きになれる。このまま僕の人生は全てが上手くいく気さえしてくるから不思議だ。同じ“趣味”でも社会に認められているかどうかで、こんなにも生きやすさが違うのか。明日は読友さんに薦めてもらったハクのライブに行く。彼女のベースを生で聴けるのが楽しみだ。
6月8日(土)
僕の中で渦巻いているこの感動と興奮を表現できる言葉があればいいのに。
6月12日(水)
ライブ以降ずっと頭からハクが離れずにいたら以前ラジオで話していた行きつけのバーへ姫に無理やり連れて行かれた。僕が躊躇う時はいつも背中を押してくれる。ハクの好きな空間を少し見るだけで良かったのにハクがいて驚いた。近くで見るハクは本当に美しい。姫と一緒に話しかけたら困ったように出ていってしまったけれど想いをきちんと伝えたくて、いつもの方法を使った。内臓に響く重厚な音を紡ぐハクの指は意外にも細くて、薄紫に塗られた爪に吸い込まれそうになる。柔らかい肉と硬い骨を彩るハクの血は、彼女が愛飲する完全なる愛のように甘美な香りを醸していた。大切にしまっておこう。
6月14日(金)
仕事が手に付かない。ハクの指が無くなった。一生の宝物にしたかったのに。でも夜の歌番組にハクが出ていたのは嬉しかった。もう新しい彼女は見られないと諦めていたから。長年ずっと生放送だと信じていたのに録画番組だったのには驚いた。きっと彼女の最後の演奏だろう。弦の上を跳ねるハクの指先を何度も観た。彼女が紡ぐ新曲をもう二度と聴けないのは寂しい。
6月17日(月)
小説案⑮城に幽閉された姫さまのために見頃を終えた100万本のスミレ畑に折り紙で花を咲かせ続ける騎士のゴシック小説
ハクの綺麗な菫色の爪を思い出す。あの美しさは言葉で表現できない。本物には到底敵わない。作り物の折り紙畑は姫さまにとって喜びとなるんだろうか。窓から見ていた花畑が哀れな男の作り出す偽物の楽園だと知った時、その残酷な現実を彼女はどう受け止めるだろう。僕だったら絶望する。もし彼女が楽園に生き続けたいのであれば自分で自分を騙し続けないといけない。それも悲惨だ。偽りは苦痛しか生まない。
6月19日(水)
ハクが生きている。ブログは更新されるし、日曜のライブにも出ていたらしい。写真では美しい指も揃っていた。僕の奇跡はチカチーロの比ではない。殺した人間が、生き返る。
6月21日(金)
小説案⑯前田利家の娘・摩阿姫に恋をした武士が豊臣秀吉の暗殺を試みる歴史恋物語
加賀百万石という言葉は知っていてもWikiで得た程度の知識では展開が浮かばなくて却下。苦し紛れにしても酷すぎる。身近な題材じゃないと難しい。そうなると恋愛の方も厳しいけれど前回のみんなの覆面小説を読み直したら書いてみたくなった。殺人は愛情を的確に伝えられる唯一の方法で、どんな行動よりも自分にしっくりくる。心を表現するとはこういうことなのかと初めて知った時はカチッと嵌まった感覚に興奮した。本からは多くの愛情表現を学んだし、挑戦もしてみた。抱きしめる、キスをする、音楽や芸術で形にする、プレゼントを渡す、料理を作る、他にも色々。どれも想いを正しく伝えられず、もどかしさだけが残った。想いが伝わる快感は捨てがたい。でも今はそれ以上に読メで過ごす時間を失いたくない。もし奇跡が起こらなかったら、ここに居続けられなくなる。それだけは絶対に嫌だ。
6月23日(日)
投稿開始日になってしまった。案はいくつも浮かんだのに数行書いただけでどれも止まっている。僕一人だけ書けなかったらどうしよう。不安になってきた。姫の応援を支えに徹夜で頑張ろう。
6月25日(火)
小説案⑰未来に生きる少年が100万年前に書かれた姫さまの日記を読む。姫さまは自分が犯した殺人を懺悔しているが調べてみると彼女は誰も殺していない。過去には深く干渉できないのでがらくたを置くことで真実を伝えようとするが、繰り返す内に些細な変化が周りで生じだし、未来が変わってきていることに気付く。少女を救うか、自分のいる未来を守るか。少年は分かれ道に立たされる。
僕の奇跡の理由を考えるのは随分前に止めたけれど教えてもらえるものならば知りたい。100万年とは言わなくても数年先に生きる人が僕の日記を読んだら解明できるだろうか。そんなことから思い付いた話で今までで一番形になった。姫さまが罪を犯したと思いこむ理由はどうしよう。誰かに嵌められたのか、幻想に唆されたのか、何かを守るための罪業妄想なのか。
6月27日(木)
投稿される小説がどれも凄くて逃げ出したい。僕は「100万」に拘り過ぎていたみたいだからもっと自由に考えよう。オフ会に参加して気付いたことがある。愛は一方的に伝えるものではなく、共有するもの。二人でも大勢でもその場に居る全ての人の心を重ね合わせることが大切で、直線というより全体を包みこむ球体のようなものだ。今までの僕は独りよがりだった。オフ会で会う人達は笑いや喜びを全員で共有するためにどんなことにも長所を見出して全てを楽しもうとする。殺人以外は相変わらず拙い僕の表現でも、みんなに対する“好き”という感情がみんなの感情と混ざり合ってみんなで共有されることで、みんなにちゃんと届いていると実感できる時がある。想いを分かってもらえる感覚は心地よくて幸せだ。僕が書く小説自体は駄作だとしても、みんなに共有してもらえたら読者への愛と感謝が伝わるかもしれない。絶対に完成させよう。そうしたら、きっと僕はもう誰も殺さない。
6月30日(日)
時田のミスのせいで二日連続休日出勤。雨も鬱陶しい。小説を書き上げたかったのに最悪だ。
7月2日(火)
時田は部下に対してなら何を言っても許されると思っている。僕に虚言癖?都合のいい捏造?あまりにも腹が立って言葉が浮かばなかった。珍しく姫も怒っている。怒って当然だ。明日は絶対に言い返してやる。
7月3日(水)
同じ行為でも感情が違えば別のものとなる。愛情表現と憎悪の発散は全く違う。ナイフが体にめりこんでいく感触はぐちゅっとして気持ち悪い。口の中に飛び散ってきた血はしょっぱくて内臓は臭くて汚い。必死に泣き叫ぶ声は耳障りで死に際の目は恐ろしい。今まで経験してきたものとはまるで違った。相手が時田だから?殺した理由が違うから?思い出すと手が震えてくる。何度も同じことをやってきたはずなのに、初めての感覚。これが、人を殺すということなのか……?
7月4日(木)
昨日から姫が居ない。約束を破って身近な奴を殺したから愛想を尽かされたのかもしれない。不安苦悩罪悪感後悔劣等感自己嫌悪孤独。とにかく色々な悪感情が頭の中で破裂しそう。姫は僕の苦しみを分かち合ってくれていたんじゃない。大半を引き受けてくれていたんだ。僕一人では耐えられない。
7月5日(金)
もう駄目だ。どんな詭弁も通用しない。殺人が愛情を伝える行為だなんて体のいい言い訳だ。小さい頃、自分の殺人衝動が怖かった。殺したくて殺したくて殺したくて、欲望が行動へ移される日に怯えて、死への愉悦を気付かれないように自分にも他人にも強引な嘘を吐き続けた。でも姫に出会って、姫が許してくれて、姫に促されて、姫の言葉に甘えて、どんな矛盾も“奇跡”と信じて……。ずっと真実から目を逸らしていた。相手を好きだから殺すのではない。僕はただ人を殺したいだけの殺人鬼だ。時田の死体は僕が殺した通りの場所から僕の殺した通りに刺殺体で発見された。奇跡が起きていない。姫も居ない。なぜか姫の色々なことを思い出せなくなっている。顔も朧げになってきた。住所も仕事も名前も、知っていたような気がするのに何も思い出せない。
7月6日(土)
姫と話したいのに僕の周りから彼の全てが消えた。スマホで撮った写真、メッセージの履歴、揃いの食器、プレゼントした洋服。あるはずのものが何もかも無い。恰も最初から無かったかのように。姫と過ごしてきた時間も二人だけの秘密も、どこにあるんだろう。時田の血に塗れたナイフだけが残っている。
7月7日(日)
喪失感に心が蝕まれていく。僕の中から“思い出”がどんどん消えている気がする。学校、職場、家族、読メ、308回の殺人と307回の奇跡……。全て姫と同じように消えていくのだろうか。もしかしたら、元々そんなものは無かったのかもしれない。
7月8日(月)
会社で刑事に取り調べを受けた。明らかに容疑者の候補に入っている。今から新しい小説を書き上げるのは無理だ。きっと100万人オフ会にも参加できない。何ヶ月も前から楽しみにしていたのに。薄れていく過去の思い出や罪が全て消えたとしたら僕はどうなるんだろう。今の“僕”という存在も無くなるのかな。それを教えてくれる人は、もう居ない。
7月9日(火)
明日の締切日に何とか間に合った。せめて覆面小説だけでも参加したくて、僕が書いた唯一の文章である日記を纏めた。一万字に収めるために色々と省いたから理解しにくい部分があるだろうし、出来栄えは最悪だと思う。でも僕としては、読メとオフ会が大好きで、みんなに救われたことが微かにでも伝われば、それでいい。当日の発表で最後まで名前が挙がらずに残った執筆者が僕だ。その場に居られないのが悲しい。100万人オフ会も夏も秋も冬も来年も、これから先ずっと、色々な思い出をみんなと作りたかった。
もう時間がない。インターホンが何度も鳴っている。この覆面小説が“僕”が存在していた証として、みんなの心の中に残ることを願って……。




