ミリオンダラー・ベイビー ~玩具の家とお姫様~
ここは、もしかして玩具の家。
そこに暮らすお姫様の物語。
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母が、百万円を残して姿を消した。
カーテンの隙間から、朝の優しい光が差し込み、小鳥たちの囀りがガラス窓の向こうから聞こえてくる。短い十七年の人生でも、すでに数千回も通り過ぎてきた、繰り返される初夏の朝だった。
いつも通りの時間に目を覚ましたわたしは、微睡を振り払い、自分の部屋を出るために襖を開け、目の前の居間へ歩き出した。眠い目を擦りつつ、身体の重さを確認していた。その時はまだ、隣の部屋に気配がないことには、気がまわらなかった。
居間の食卓の上には、あるはずのお弁当の包みはなく、朝食の用意も見当たらなかった。その代わりに置かれていたのが、あまりに暴力的なまでにその存在感を見せつけている、凶器のような紙の束であった。
わたしの人生において、未だ一度も見たことのない、本物の百万円。
書置きなどは、残されていなかった。
代わりに、その紙の束が、睨むように、嗤うようにわたしを呼んでいた。
その脅迫を前にして、ただしばし立ち尽くすしかかなかった。
わたしは、父のことは何も知らない。
物心がついたころからそばに、その役割のひとは存在しなかった。だから、寂しいと思ったことは一度もなかった。
母はその人について、語ろうとはしなかった。わたしも聞こうとは思わなかった。
親ひとりと子ひとりの生活は、決して楽なものではなかった。
わたしたちが住んでいるのは、築四十年は経過している、赤茶色の木造の平屋で、夏は暑くて冬は寒い。最寄りの駅からも徒歩なら三十分以上掛かってしまうような交通の便の悪さもあり、同じ構造の隣家はいつまでも空き家のままだ。当然、家賃は相当に安いと聞いている。
市からどれくらいの援助をもらっているのかはわからなかった。母は生命保険の販売員として、朝早くから夜遅くまで働いて、わたしを育ててくれた。
そんな母の姿を見て、自然と家のことはわたしが担当するようになった。小学四年生になるころには、一通りの家事をこなせるようになっていた。
朝早く家を出る母に、朝食とお弁当を作ってもらっている。そんな母に楽をしてもらいたいので、アルバイトがない日を中心に、積極的に家事を引き受けている
わたしもアルバイトをして家にお金を入れているが、おそらく焼け石に水なのだだと思う。
母との思い出の中にお金を使って贅沢をした記憶はなく、家を借りる際についてきた、八畳ほどの庭で行う家庭菜園で、毎年いろいろな草花が花をつけたり、実が成ったりするのを見るのが楽しみだった。
わたしは冷凍していたパンをトースターで焼き、冷蔵庫にあった昨日の残り物のりんごをかじりながら、フライパンで卵とベーコンを焼き、朝ご飯を済ませた。
お弁当を用意する時間がないので、今日のお昼は購買部でなにかを買おうと思う。出費は痛いが、やむを得ない。
顔を洗い、歯を磨き、制服に着替え、髪を左右でふたつに括る。スマホの画面で時間を確かめて、まだ少し余裕があることに気づいた。ついつい食卓の上の百万円に目がいってしまい、顔を逸らすと、閉じられた襖が目に入った。
朝に起きてから、学校に辿り着くまでの忙しい中に空いた穴のような時間で、わたしは母の部屋を訪れた。
居間から襖を開けると、部屋の真ん中に敷いてあるはずの布団は片付けられていて、大きな空間が空いていた。開いていたカーテンの向こうから、部屋に差し込む光が舞う誇りを輝かせ、生活感が失せた部屋を、なぜか神秘的とさえ感じてしまった。
部屋の隅に置かれた桐のタンスの前に立ち、引き出しを開けていく。母がここにお金関係のものや重要な書類をしまっていることを知っていた。銀行の貯金通帳、実印、宝石の類のものは、奇麗さっぱりなくなっていた。保険証も持ち出されているようだったが、母子手帳は残されていた。
洋服がしまってあるタンスの中も確認する。服も何着もなくなっていた。母がそれを少しずつ運び出していたのか、昨日の夜に一気に運び出したのか。それはわからなかった。
わたしは、部屋の真ん中で、しばらく立ち尽くしていた。
やがて、ずっとこの部屋にいては遅刻してしまうと思い直し、部屋を出ようとしたわたしは、部屋の隅に置かれていた、とある物が目に入った。
それは、何段か重ねられたプラスチックの収納ケースだった。
その一番下、透明な箱の中、たくさんの玩具が詰まっているのが見えた。
わたしはそれから目を逸らし居間に戻り、後ろ手で襖を締めた。
鍵をかけ、戸締りをしっかりと行い、庭にまわって家庭菜園の様子をちらりと確認してから、自転車を漕いで出発した。
周りに住宅は点在しているけれども、近くにバスは通ってはいない。高校までは自転車で通っている。雨の日も、風の日も、元気な日も、そうでない日も、良いことがあった日も、そうでない日も、わたしはいつも、変わらぬ力を太ももに込めて、ペダルを漕いでいた。
空を見上げる。日の光を遮るように、厚い雲が集まりはじめていた。
お姫様になりたい。そう思っていた。
小さいころ、母はよく、わたしに本を読んで聞かせてくれた。私の耳に届き、脳内で想像の花を開く物語には、たくさんの素敵なお姫さまが登場した。
お姫様は、境遇が悪くて虐げられていたり、途中で不幸にあってしまうことが多かった。
それを乗り越えて、素敵な王子様と結ばれたりするのをはじめとした、幸せな結末を迎える。
自分ももしかしたら、そんな素敵な人生が待っているのかと、胸に期待を抱いていた。
ただ、わたしの名前は愛姫というのだけれど、きっとわたしはお姫様にはなれない。
そういえば、母の部屋に置いてあったケースの中、玩具といっしょに、お姫様の絵本もたくさん入っていたような気がする。
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個人の事情なんておかまいなしに、時は過ぎる。地球はまわる。なんの変哲のないわたしの学園生活も、代わり映えなく今日も続いていく。
四時間目の授業が終わり、お昼休みに突入する。生徒の動きが活発になって、校庭の隅から屋上の端まで、喧騒が校内に満ちていく。
わたしは、自分の席に座ったまま、ガラスの向こうに広がる空の行方を眺めていた。朝は光が差し込む隙間が空いていたのに、今は分厚い雲が空を覆い、先を見透すことはできなかった。
「まなちゃーん。いっしょにごはん食べよー」
少し間延びした声を掛けられて振り向くと、お弁当を包んだ袋を抱えた、同じクラスの野村千夜が立っていた。断る理由はないので「どうぞ」と手で示すと、千夜は嬉しそうに前の席の椅子に座り、鼻歌が聞こえそうな具合で向かい合い机の上でお弁当箱の包みを開き始めた。
千夜とは、去年までわたしが所属していたバスケットボール部で知り合った。背も低く体格も小さく、なにより絶望的に運動神経が悪かった彼女は、入部一か月で戦力外通告を受けた。それでもバスケットを好きという気持ちは萎えることはなく、マネージャーとして部活に残った。
彼女はその頃から、わたしのことを慕ってくれている。わたしがバイトを優先させるために部活を辞めても、こうしてたまにご飯を食べたりする。
「あれ? まなちゃん。今日はお昼抜き?」
「ううん。今日はこれ……」わたしは鞄から、購買で買ったサンドイッチを出して見せる。「たまには、パンにしてみました」
「そうなんだ。まなちゃんがお弁当じゃないなんて、珍しいね。……あ、でも、うちの購買のパンっておいしいよね」
愛情たっぷりの愛母弁当を口にしながら、別な食べ物にも思いを馳せる千夜の意見に、わたしは首肯した。たしかに、うちの学校のパンはおいしいのも本当だ。
わたしは安心した。千夜がぼーっとしている子だからなのかもしれないけれど、周りに違和感を与えていないと思えたから。
「そういえば、まなちゃん。進路調査票って出した?」
お弁当を食べ終わった千夜の問いに、わたしは「まだ」と短く答える。
「文系か理系かは決めたけど、いざどうするかというと……なかなか決まらなくて」
「へー。でもまなちゃん、頭いいし。もちろん大学には行くんでしょ?」
その紙を渡されたのは少し前で、その時でさえ、まだわたしは答えを出せなかったのに。
「提出は今週末までだったよね。ありがとう」
わたしが微笑みかけると、千夜は「どういたしましてー」と小さく胸を張った。
その後も、主に話題の提供を千夜にお願いして、他愛のないおしゃべりに興じていた。
すると、五時間目開始五分前の予冷としてのチャイムが鳴り響いた。
「あ、もうそろそろ行かなきゃ。まなちゃん、またね。ね、今度遊びに行こうよ! 駅ビルの1階に、本格的で美味しいタピオカの店が出たんだよー」
「それはおいしそう。わかった。考えとくね」
約束だよ! と言い残し、千夜は満足した様子で自分の席に戻っていった。千夜との約束は随分と溜まっている。果たせないのは、予定が合わないから。千夜の無邪気さに呆れつつも、自分の不義理さに胸が痛むのも本当だ。
そして――
「タピオカミルクティー。八百円ぐらいするのかな……」
お昼のドリンクとして飲んでいた、紙パックの牛乳を思わず見つめてしまいながら、そんな風に独りごちた。
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泣きたくて、でも泣けなくて、いつこぼれるか不安で仕方がなかった。
さらに厚みを増した雲は黒ずみ、やがて我慢できなくなったのか、満を持して大粒の水滴を地面に叩きつけはじめた。乾いたコンクリートは色を塗り替え土は水を含み、長く止まない雨が降り始めた。
放課後、わたしはファミレスでアルバイトをしていた。担当はホールで、注文や配膳、食器の後片付け、会計がわたしの仕事だ。
人生はじめてのアルバイトだったけれど、職場の空気はいいし、まかないとして、お店のメニューが職員価格でいただけるのが嬉しい。家からも学校からも自転車で通えるのがいいのだが、今日みたいな天気の日は困ってしまう。
時刻は午後九時になった。今日のお仕事ももうすぐ終わりの時間だけれども、窓の外で降りしきる雨の勢いは衰えない。通学用のレインコートは準備してあるけれど、この強さだと、どこまで雨を防げるのか心配になってしまう。
雨の日の営業は、お客さんがたくさん来られるか、はたまたぜんぜん来ないか、はっきり分かれることが多い。今日は後者の方だった。
現在来店中のお客様は、男性の方が一人だけで、あとは空席だ。雨が建物を叩く音が閑散としたフロアに響いている。この状況に、一緒にシフトに入っていた社員さんは別な仕事をするといって、従業員控室に引っ込んでしまった。
注文ボタンが押されて、わたしはただひとりのお客様である男性のもとへ向かった。もうすでに注文を受け、お料理も出しているので、飲み物かデザートの追加だろうか。
「お待たせいたしました。なにかございましたでしょうか」
頭を下げながら、男性が注文したハンバーグステーキセットを食べ終えているのを確認した。クレームを受ける心当たりもなかった。
「ちょっと、メニューをちょうだい」
私は胸を撫で下ろし、近くのテーブルに置かれたメニューを男性に渡した。
「うーん。デザート食べたいんだけど、どれがいいかな?」
「そうですね。お嫌いなものがないのであれば、こちらの新商品の抹茶とチョコの贅沢シフォンケーキはいかがでしょうか」
男性の開いているメニューを、立ったまま覗き込むような体勢で、新商品をお勧めする。
男性はしばし悩んで、「じゃあ、それ下さい」と言った。
わたしがハンディで注文を入力していると、ふと男性がこちらをうかがっていることに気が付いた。わたしは「なにかございましたか?」と尋ねてみる。上目遣いで、真っすぐな熱っぽい男性の視線が、絡みついてくる。
「雨やまないよね。店員さん。まだ高校生かな? 自転車だと、帰り、大変だよね」
思わず「そうですね」と肯定してしまった。彼の瞳の輝きは増した。魅力的な笑顔、口角が持ち上がる。気兼ねなく値踏みするような、欲望の目に捕らえられた。
「バイト何時まで? 俺車で来てるから、乗っけてくよ」
こういうことははじめてではなかった。でも、誘いに乗ったことは一度もなかった。
こういう場合、笑顔を崩さず、「申し訳ございませんが仕事中なので、失礼いたします」と頭を下げて、その場を離れ、トラブル発生をリーダーさんや社員に説明し、後の接客や対応を男性のホール担当の方にお願いする。
今までは、そんなマニュアル通りに事を進め、荒立つことなく乗り切ってきた。
でも、わたしは……、
「……百万円」
「……はっ? え、なんだって?」
「百万円くれたら、どこにでも行きますよ」
そんなことを、男性に告げてしまった。
男性は、わたしにぶつけられた言葉の意味がわからず、しばらく唖然としていた。
そして、その真意にふと気づいたのか、険しい顔を伏せて、追い払うように腕を振った。
頭を下げてから、定位置へと戻った。
緊張と恐怖、それが済んだ安心感と共に心臓は早く鼓動を刻んでいた。
男性は憮然とした様子で運んだシフォンケーキを美味しくもなさそうにほうばって、会計を無言で済ませて出ていった。
駐車場から店の前の国道に出ようとした、エアロ付きの青色の車が、轟くような排気音を上げてから、去っていった。
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激しさを増す雨のなか、わたしはいつものように自転車を漕いだ。通学用の薄いレインコートは、横殴りの雨を浴びすぎて、着ているのかそうでないのか、境界が曖昧になっていた。
顔にも容赦なく雨が当たり、視界が悪くなる。目に入り、擦ると、染みて、涙が出る。温かいそれが、雨といっしょに頬を伝い、首のあたりに落ちていく。
やっとのことで、家まで戻ってきた。自転車を下りて、庇の下に停める。前カゴから鞄を出して、抱えて玄関に走る。ここでようやく、自分の衣服が相当濡れていて、とても重たいことに気が付いた。
鍵を開けて家に入った。玄関の先はすぐ居間になっている。明かりは点いていない。家全体が朝から変わらず静寂に満ちている。屋根を叩く雨音が、罪もなくリズムを刻んでいる。
新聞紙をひき、その上に濡れてしまった衣服や鞄を置いた。そして、真っ暗な居間へと歩を進める。電気を点ける。食卓の上には変わらずに百万円があり、蒼白な顔をしているであろうわたしを、思う存分な温かい笑顔で迎えてくれた。
濡れたものの対応は後回しにして、わたしはお風呂に向かった。わたしがやっていないのだから、浴槽に湯は張っていない。裸になったわたしは、蛇口を捻り、シャワーから熱いお湯を出し、頭から浴びた。初夏とはいえ、雨で体温を奪われていた身体に熱いお湯が浸透していく。優しさに包まれた気がした。
昔、見たテレビの番組のことを思い出した。挑戦者ひとりに対して、十五問のクイズが出題されて、すべて正解すると、一千万円がもらえるという、視聴者参加型のクイズ番組だった
だんだんと問題は難しくなっていくので、十五問答えられた人はあまり見たことがない。でも、十問正解するだけでも百万円はもらえる。当時、わたしはまだ小さかったけれど、十問目までの問題は、分かるものが多かった気がする。
わたしは、母がいなくなったことを、驚かなかった。
きっと、心のどこかでわかっていたから。
母は小さいころからずっと、「あなたがいないと、あたし、生きられない」と言って、わたしを抱きしめてくれた。中学生になるころには、さすがに抱きしめられることはなかったけれど、母がわたしを見守る言動にこめられた一途な想いの深さを、変わらずに感じていた。
半年ぐらいほど前から、母の様子が変わった。
年齢よりも老いて見え、化粧も百円ショップのコスメを最低限しか使わなかった母が、急にメイクを勉強したり、着飾って外に出るようになった。
休日にひとりで出かけることも増え、平日に午前様になることもあった。それまでは、どんなに忙しい時期でも、必ずその日のうちには家に帰ってきていたのに。
ある日、わたしは深夜に目が覚めた。お手洗いに行こうと部屋の襖を開けると、居間に母が倒れていた。心配し駆け寄ったが、酔って力尽きて倒れてしまっただけだとわかり、胸を撫で下ろした。そのまま、母の部屋の布団まで引きずっていった。
お風呂に入って身体を清め、静かに寝ていたわたしは、母の身体から漂う匂いに顔をしかめた。お酒の匂い。香水の匂い。化粧の匂い。煙草の匂い。汗の匂い。そして、嗅いだことのないような不快な匂いが混じり合い、わたしは、生まれてはじめて母に「気持ち悪い」という感情を抱いた。
母が、百万円を残して姿を消した。
クイズ番組で簡単に手に入る金額だった。でもそれは、テレビとか芸能界とか、そういう感覚がずれている世界の話で、本当はわたしが半年以上のバイトをして、貯金して、やっと到達できる金額なのだ。ずっしりと重い、命と等価なもの。
母は、それを置いて、わたしもここに置いていったのだ。
気がついたら、わたしは二十分近くシャワーを浴び続けていた。名残惜しさを感じたが、蛇口を閉めた。ガス代が勿体ない。
わたしは、明日からもここで、生きていかなければいけないのだ。
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何日経っても、何か月経っても、何年経っても、母が戻ってくることはなかった。
わたしは、母を探そうとはしなかった。
でも、この家に住み続けている。
すぐにお金の問題が発生した。それは、生まれてはじめて会った叔母夫婦が、母の件で責任を感じ、わたしを不憫に思ってくれて、無利子でお金を貸してくれた。借りたお金とバイトを増やして得た収入で、なんとか高校卒業まで漕ぎつけた。
高校を卒業したら、就職するつもりだった。しかし、叔母夫婦が、将来の選択を増やすために大学に行きなさいと後押ししてくれた。引き続き生活費を貸してもらい、入学金も払ってくれた。第二種の奨学金も借りた。わたしは諦めていた大学に進学できた。
そしてわたしは、彼女たちの恩に報いるために、必死で講義に出ながら、バイトも複数を掛け持ちする、忙しい日々を送った。三年次からは公務員になるために予備校にも通い、寝る間も惜しんで必死に勉強した。その甲斐あってか、地元の市役所に勤めることが出来た。
母から電話が掛かってきたのは、彼女がわたしの前から姿を消してから、十年ほどの月日が経った、なんの変哲もない夜だった。
「もしもし 向井です」
――愛姫かい? あたしよ。お母さん。
「お母さん! どうしたの急に? 大丈夫なの?」
――あたしは大丈夫。あたしのことはどうでもいいわ。愛姫、あなたこそどうなの。元気でやってるの?」
「わたしは大丈夫。今は……お仕事を休んでいるけど、またすぐに復帰できるから」
――あら? いやあね。病気したのかしら。本当に大丈夫なの?
「わたしは大丈夫だって……お母さんこそ……」
――あはは。実は、あんまり大丈夫じゃないんだよね。ね、愛姫、今は休んでいるってことは、お勤めはしているんだよね。
「うん。今は休ませてもらっているけど、大学卒業してからずっと市役所で働いてる」
――市役所! すごいじゃない! 契約社員とかじゃなくて、正規採用かい?
「正規採用だよ」
――さすが、あたしの娘だよ。ちゃんと育ってくれて良かった。……ねえ、愛姫、ちょっと相談があるんだけど、少し、お金を融通してくれないかな。
「え、お金?」
――そうお金。今、いっしょに暮している人が、ちょっとお仕事が苦しくなってね、銀行の返済とかもあって、お金が必要なの。
「でも、わたしまだお給料も安いし、貯金も……」
――天下の公務員さまがなにを言ってるのよ。税金を善良な市民に還元してよ。ね、今週中にまとまった額が必要なの。貸してちょうだいよ。
「でも、わたしも返さなきゃいけないお金もあって……」
――あら? あんた借金してるの? 意外に計画性がないのね。うーん。あ、そうだ! あれよあれ! 百万円。あたしが置いていった百万円。あの分、返してよ。
「………………」
――愛姫、聞いてるの?
「…………聞いてるよ」
――聞いてるのね良かった。親子にとって大切な話だから、聞いてなかったらどうしようかと思った。で、百万円。とりあえず百万円よ。いつ取りに行けばいい?
「いいよ来なくて。口座番号教えて、わたしの名前で、明日にでも振り込んでおくから」
――話が早くて助かるわー。さすがあたしの娘。あなたがいないと生きられないわ!
「………………」
――振り込みは明日ね。うん。楽しみにしてるわ。おっと、つい長電話しちゃった。いやー。もう。また次の人に掛けなきゃいけないのよー。ごめんね。じゃあ、また電話するわね。じゃあね。
電話は切られた。繰り返される切断の音を振り切るように、受話器を下ろした。
わたしは、かつて母が暮らしていた部屋に、襖を開いて入った。
この部屋は、時折掃除をしつつ、十年間手をつけないでいた。
ただし、今の部屋の主は、もう彼女ではない。
畳の上には、わたしが昔使っていた玩具が散らばっている。
部屋の真ん中に置かれた揺り籠の中。運命を知らない小さな命が、布にくるまれて、やすらかな顔で眠っていた。
わたしがお付き合いしていた男性は、既婚者だった。それに気が付いたのは、交際を開始してから十か月も経ってからだった。彼の奥さんに関係が知られ、わたしは彼と別れた。不倫であったが、わたしは既婚者と知らなかったこともあり、慰謝料はとられなかった。
別れてから判明したのだが、わたしは妊娠していた。彼の子であることは間違いなかった。わたしは産もうとした。父親である彼に連絡すると、彼はしつこく堕胎するように言ってきた。奥さんからも随分とひどい言葉を投げかけられたが、わたしは折れなかった。認知はするが、養育費は払わないという誓約書を交わし、ようやく彼らはおとなしくなった。
わたしは子どもを産んだ。男の子だった。
わたしが産んだのが男の子だったと知ると、彼と奥さんがわたしのもとに来た。彼は、子どもを譲って欲しいと言い出した。彼は、先代が立ち上げた企業の二代目で、跡継ぎで男の子がどうしても必要だと言うのだ。奥さんとの間には娘がひとりいるが、不妊治療を行っても二人目が出来ず、このままでは孫を期待する先代の会長に申し訳が立たないそうだ。
そして、男の子を養子として引き取ることに決めたそうだが、どうせなら先代の血が流れる子の方が、後々と血筋による跡継ぎ問題が出なくていい。そういうことのようだ。
養育費ももらっていないわたしに対して、二十歳まで面会権を放棄することを条件に、彼と奥さんは一生わたしの面倒を見ると言った。具体的に提供してくれるという生活費の提示も受けた。奨学金、そして伯母への早期返済を行うことが可能になる数字だった。
わたしは、その申し出を――
部屋に置かれた桐のタンスの引き出しを開けると、あの日母が置いていった百万円がそのまま入れてある。
わたしはそれを手にすると、ゆりかごの上で寝息を立てている息子のお腹の上にそっと置いた。
わたしに「愛姫」という名前をつけた母。お姫様に憧れていて、今でもそれになろうとしているのは、わたしではなく彼女の方なのだろう。奇麗なドレスを着て、王子様に手を引かれ……。
「お母さん。もうわたしとあなたは、分かれ道を別々に進んだんだよ」
そして、この子も、わたしとは違う道を進んでいくのだ。
明日は忙しい。百万円を振り込んで、彼と奥様を迎えて……。
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ここは、もしかして玩具の家。
ここに暮らすものは、もういない。




