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亡霊の王女

 ――聞いたか、最近この城に幽霊が出るんだそうだよ。なんでも、それはそれは可愛らしい少女の姿をしているんだと。年の頃は十一、二歳頃、金色の髪に黄色のドレス姿で、場内のあちこちに出没しているらしい。一部では、その幽霊ってのは、幼い頃に流行り病で亡くなった、第一王子のルーイ様の双子の姉姫、カナリー王女殿下だって話も出てる。病がちな弟を、とうとうお迎えに来られたんじゃないかってさ――。


 山間の国、ネムは、周囲を険しい山に囲まれ、その地形故に他国との交流をほとんど断っている小さな国だ。この国に暮らす百万の民の生活を支えているのは、山の豊かな自然と、険しい土地に適応してきた僅かな家畜と作物の恵みだった。時折、山一つ隔てた隣国と領土や統治についての争いや吸収合併の話が持ち上がっては人々の生活を脅かしているものの、その他はいたって平穏で変化のない日々が重ねられていた。ネムの首都サウロの中心に位置する王城は、穏やかなこの国を象徴するように広大な森で囲まれており、敷地内には今は亡き第一王妃が足繁く通っていたという、一年を通じて花の絶えない中庭がある。その木立の陰で探していた人物を発見し、ライソンは小さく息をついた。

 木漏れ日に輝く金色の髪は、おざなりにひとつに括られており、肩より少し伸びた髪が一筋、転寝をするその少年の頬にかかっていた。今は閉じられている瞼の奥には、澄んだ琥珀色の双眸。彼の仕える、第一王子ルーイその人だった。先々月、十二の誕生日を迎えて一人前となったばかりの第一王子は、賢く心優しく、臣下の気持ちを思い遣れる少年であったが、身体が弱く、それ故に過保護になる周囲に反発してこっそりと城内を出歩く悪い癖があった。彼の護衛を務めて六年、ライソンはすっかり、人目を忍んで抜け出した彼を発見するエキスパートになってしまっていた。目の前の幼い少年は心地よさそうに寝息を立てているが、そろそろ日が沈み始める時間だ。ここで体を冷やしては、先日ようやく収まった熱がぶり返してしまう。

「殿下、ルーイ殿下」

 肩に手を当て、そっと力を込める。手触りの良い上等のジャケット越しに感じる肩の細さに、一瞬だけ胸がざわつく。年齢に比べ幾分小柄な体に細い手足。またやせたような気がする。ここ二月は、一人前になったことを祝う宴があり、初めて仕事が与えられるなど、病弱な少年にとっては過酷な時間だったのだろう。先日、とうとう熱を出して二週間寝込み、碌にものも食べられなくなった時にはすわ命の危機かと国王さえ血相を変えた。しかし、ようやく回復してきたと思った途端にこれである。心臓がいくつあっても足りないな、とライソンは大きくため息をついた。

「ルーイ殿下、起きてください」

 何度目かの問いかけに、ようやくルーイはうっすらと目を開けた。まだ眠そうな目で、目の前のライソンに手を伸ばす。その手を軽く握り、ゆっくりと体を引き起こしてやると、ようやく綺麗な琥珀色の瞳が彼の姿に焦点を結んだ。まだ声変わりを遂げていない幼い声がか細く響く。

「……ライソン……?どうしてここに?」

「貴方が休憩と言ってお部屋に戻られた後、時間になっても執務室の方にいらっしゃいませんでしたので。いい加減、護衛を付けずに出歩くのはおやめください。城内といえど、どこで何があるかわからないのですよ。たまたま、貴方のお姿を見かけたものがいたからよかったものの、そうでなくてはまた私は城内を探し回るところでした」

 ルーイはぱちぱちと目を瞬かせると、そうだった、と思い出したように呟いた。

「花を見に来たんだ……母上の好きだった花。部屋の護衛に頼んだら、病み上がりだから大人しくしてろって言われたから、こっそり来た」

「この時期、この時間は急激に冷えますからね。貴方を心配しての発言ですよ」

「わかっている。……でも、そんなことを言って何もさせてくれないじゃないか」

「また体調を崩されでもしたら、何もできなくなりますよ」

 ぴしゃりと言い返され、大きくため息をつくと、ルーイは億劫そうに立ち上がった。

 と、その時、聞こえてきた声に、ぎくりと身を強張らせる。

「なあ、聞いたか、あの噂」

 どうやら休憩に向かうところらしい兵士たちが近くを通りかかったらしい。

「噂?なんだそれは」

「なんでも、この城には最近、幽霊が出るらしい。金髪の少女の幽霊で、なんでも八年前に亡くなったカナリー王女の幽霊じゃないかって」

 不意に出た名前に、弾かれたようにルーイは声のする方に振り返る。

「えー、なんだよそれ」

「いや、本当なんだって!夜の警備で見た奴が何人もいるらしい。とうとう弟君をお迎えに来られたんじゃないかって言う奴もいるくらいだ」

「おい、縁起でもないことを言うなよ……。弟君のウッド殿下はまだお生まれになったばかりだ。万が一ルーイ殿下の身に何かあったら、今度こそこの国は、隣国に吸収されて終わりだぞ」

「護衛もあれだしなあ。所詮は他国の人間だろ?いつか寝返って第一王子の寝首を掻くかもな。ま、殺すまでもなく死にかけてるような王子様だけどなー」

「だからよせって。こんな話、聞かれたら立場を悪くするだけだぞ」

「悪い悪い。……ともかく、幽霊の噂は本当だぞ。お前も遭遇しないように気をつけろよ」

「おい、脅かすなよ……」

 徐々に遠ざかる声に、茶化すような笑いが混ざる。見るとはなしにそれを見送っていたライソンがふと振り返ると、ルーイは、鋭い目つきで兵士たちの消えた方角を睨みつけていた。

「殿下?」

 ライソンがその顔を気づかわしげに覗き込む。珍しく、はっきりと傷ついた色と激情とを見せる瞳を隠すように、ルーイは素早く踵を返すと足早に歩きだした。

「部屋に戻る」

「はい、殿下」

 そのあとはずっと、どこか考え込んだような顔をしたルーイに、ライソンは早く休むようにと進言するくらいしかできることが思いつかなかった。


 その夜。

 ライソンは、夜の城内を乏しい月明かりと小さなカンテラの灯りを頼りに歩いていた。あの後、夕食の席でこっそり同僚たちに探りを入れてみたが、城のあちこちに幽霊が出没するという曖昧な噂は誰もが知っていた。出没するといわれている場所も、中庭や図書室、亡き王女の部屋付近、城門近く等等、十数か所にも及ぶ。別に誰に何を言われたわけではないが、何故かこの幽霊の噂が頭から離れず、気づけばライソンは幽霊を探すように城内を歩いていた。部屋を出てきたはいいものの、何の策もなく城内を歩いていることに虚しさを覚え、ライソンは大きく息を吐きだした。その拍子に、出がけに急いでまとめてきた髪が一筋はらりと落ちる。背の中ほどまでを覆う髪は主のそれとは対照的な漆黒。この国では珍しいその髪は、彼に異国の血が流れていることを知らしめるものだった。長らく彼を一兵士の座に縛り付ける枷であった黒髪だったが、この闇夜に紛れるにはちょうどいい。

『綺麗な色だね。うん、君の髪は夜の色だ』

 そう評した、主の幼い声が脳裏に蘇る。それはきっと、何の意図もない、ただ素直な言葉だったのだろう。たとえ彼にとって、何よりも代えがたい言葉だったとしても。

『ねえ、君、僕の護衛になってくれない?』

 そう続けられた言葉が、どれほど彼の人生を変えたか、当の本人だけが知らない。

 だからこそ、何か自分にできることがないだろうかと、彼は常に考え続けているのだった。

「とりあえず、近い場所から順に巡ってみるか」

 思い立ったが吉日とばかりに手近にあるものを持ってきたせいで、カンテラの油の残量が心許ない。今日は早々に切り上げることになるかもしれないなと思いながら、彼はゆっくりと石造りの壁を照らして歩き出した。


 どれくらい歩いたのか、彼自身にもわからなくなってきた頃だった。中庭へと続く回廊に差し掛かった彼の視界の端に何か動くものが映る。彼は反射的にその方向に振り向いた。カンテラを高く掲げ、目を凝らす。中庭に続く回廊の、連なった柱の向こうに、ひらりと黄色い布が翻るのがかろうじて見えた。

「そこにいるのは何者だ!」

 ランタンを足元に置き、剣の柄に手をかけながら駆け出す。ほどなく、柱の陰に見えた小柄な人影に、彼はわが目を疑った。肩にかかるくらいの金色の髪に黄色のドレス。胸元には金の鎖のネックレスがかかっており、きらりと灯りを反射した。静かに天を仰ぐ瞳は琥珀色。その見覚えのある姿にライソンが一瞬足を止めると、人影はゆっくりと彼の方へ振り返った。

「ル――」

 名を呼びかけて、はっと口をつぐむ。月の僅かな灯りに照らされて輝くネックレスのかかった胸元にはわずかなふくらみ。少女の体をしたその人影は、その点だけを除けば彼の主と瓜二つだった。振り返った少女は彼と目が合うと柔らかな微笑を浮かべた。そしてどこかへと誘うように、白い手を彼の方へと差し出す。どうするべきか迷い、ライソンは剣の柄に手をかけた。

と、次の瞬間、彼女は素早く身を翻すと足音もなく裸足で駆けていく。思い直した彼が足を速めると徐々に距離が詰まるが彼女は振り向かない。中庭に出る気か、と思った次の瞬間だった。

 一瞬、柱の陰に隠れたと思った彼女の姿が、唐突に消えた。

 彼女を見失ったことに気付き、ライソンは最後に彼女がいたと思しきあたりに近づく。しかし人の気配はない。いくら灯りが乏しいといえども、人ひとりの姿にまったく気づかないなどあり得ない。どこかで引き返したりしたのなら、必ず自分とすれ違っているはず。そう思ってあたりを探すが、人影はどこにも見当たらなかった。


 翌朝、まだ昨夜の幽霊の影を引きずったライソンがルーイのもとへと向かうと、主はベッドの中から弱々しい朝の挨拶を投げかけた。そっと触れた額は熱く、頬は上気している。浅い呼吸の合間を縫って彼の名を呼ぶと、ルーイは小声で喉乾いた、と告げる。ライソンは慎重にルーイの軽い身体を支え半身を起こさせると、ベッドサイドに置かれた水の入ったコップを手渡した。一口だけ口に含み、ルーイは熱い息を吐く。

「大人しくしていないからですよ。今日は一日お休みください」

 呆れた声音のライソンに言い返す気力もないのか、ルーイは大人しく頷く。コップの横にあった薬を手に取り、一息に呷る。しかし、量が多すぎたのか、盛大にむせて半分程を吐き出してしまった。慌ててライソンはその背をさする。

「大丈夫ですか?」

 心なしか先ほどよりも顔色が悪くなっているように見える。青い顔で頷くルーイに薬を飲み直すよう勧めるが、頑なに首を横に振るので、それならばと横になるよう促した。再び布団にくるまれて一回り小さく見える主の休息を邪魔しないよう、ライソンはそっとその場を辞した。


 それから何事もなかったかのように数日が過ぎ、ようやくルーイの熱も下がり始めた頃だった。何故か幽霊の少女が気になってしまい、密かに夜の探索を進めていたライソンは、彼女と二度目の邂逅を果たした。以前見た時と寸分違わぬ格好で現れた幽霊は、図書室の中をぼんやりと覗き込んでいた。ライソンはそっと近づくと剣を突き付ける。

「お前、何者だ」

 胸元に剣が突き付けられていることなど意に介していないように、幽霊の少女はゆっくりと振り返った。

 やはり、その顔はルーイ王子と瓜二つだった。では、これが彼の双子の姉だというカナリー王女なのか。しかし、彼女が亡くなったのは八年前、たった四歳の時。亡くなる直前に描かれていた肖像画ではルーイ王子とよく似た面差しだったが、果たして実際に成長しても似ているものなのだろうか。

 剣を握る手に一瞬の迷いが生じる。このまま切り伏せるか、それとも――。

 その迷いを見透かしたように、少女は僅かに剣を避けると、数歩離れて彼を手招きする。ライソンは一瞬躊躇った後、彼女の後を追うことにした。

 しばらく、つかず離れずの距離を保ち彼女と歩く。まるで尾行しているかのような距離だが、時折振り返る彼女の目が、彼の存在を認識していることを知らせていた。ほどなく、先日遭遇した中庭へと続く回廊へ出る。彼女は無造作に柱の一つに寄りかかると、疲れたとでも言いたげに息を吐きだした。彼も数歩離れた場所に立ち、彼女を見つめる。

 無言の時間が流れた。

 やがて、飽きたかのように少女は柱から身を剥がすと、彼を振り返ることなく闇の中に歩いて行った。

 その影を追いかけることは、しなかった。


 それ以来、彼は時折幽霊の少女と遭遇するようになった。見かけても彼から声をかけることはない。彼女の方で彼に気付いたときには彼に微笑みかけ、少しの間その場に共にいる。大概の場合、彼女のほうから視線を外すとどこへともなく消えていく。その姿を追いかけることも、行先を確かめることもせず、彼は主によく似た少女との逢瀬のような時を重ねていた。何故こんなことを続けているのか、自分でもわからなかった。しかし、彼女と過ごす時間は不思議と心地よく感じていた。時折、しかも夜にしか姿を現さない彼女の姿に、よく似た顔の、丈夫でない体という枷をつけられながらこの城に、役目に縛りつけられる主の姿をどこかで重ねていたのかもしれなかった。


 そんな日々がしばらく続いた後のことだった。ようやく復調し徐々に仕事に戻っているルーイの警護を他の者に交替し、ライソンが休憩をとっていた時のことだった。

 突然、岩の砕けるような音が響き渡る。反射的に立ち上がり、剣を身に着けると、彼は真っ先にルーイの部屋に向かう。途中ですれ違った兵に鋭く状況を問う。

「何事だ!?」

「ガラムです!」

 それは、山を隔てた隣国の抱える軍隊の呼び名だった。今まで戦争こそないものの、幾度となく吸収合併の話を持ち掛けてきた相手だ。そう言って彼らが向かうのは国王陛下の執務室の方角。破られたのは執務室に近い東側らしい。ルーイ王子の居室とは反対の方角にあたるが、油断はできない。相手が彼らとなれば、王族狙いなのは必至である。一通り護身の訓練を受けているとはいえ、ルーイ王子は根本的に体力も膂力も戦闘経験もない。ライソンは唇を噛み締めると更に足を速めた。

 王子の部屋にたどり着く前から、廊下には激しい戦闘の跡が見て取れる。おそらくこちらに割かれている戦力は多くはないとあたりを付けながらも、気が急く。入り口付近で、護衛の二人にガラムの独特な刃の曲がった刀を持った兵士六人が切りかかっていくのが見えた。ライソンも剣を抜くと背後から切りかかる。新たな手勢に不意を突かれた形になった二人を切り伏せ、開け放たれた扉から既に荒らされている室内に目をやった。目の前の敵兵から伸ばされた刃のひとつが頬を切り裂くのをものともせず、一歩踏み込むと脇腹を突く。瞬時に引き抜いた剣で、背後から伸ばされた刃を腕力のみで弾くと、ここは任せると声をあげて室内に踏み込んだ。蒼白な顔で護身用の短剣を構えた王子を背後に庇う護衛は一人。その一人に、今にも二人の敵兵が切りかかろうとしていた。一人の刃を刀で受けた護衛官の肩に、もう一人の刃が貫通する。その勢いのまま振り回された護衛の身体が壁に叩きつけられた。ライソンと敵兵、そしてルーイ王子が直線上に並ぶ。

 間に合わない、と悟り、無駄と知りつつ彼は悲痛な声を上げた。せめて一撃。それさえしのいでくれたら。

「殿下、お逃げください!」

 敵兵が袈裟懸けに王子に切りかかる。王子の構えた短剣が一度は刃を弾くが、返す刀で下から切り上げられ、鮮血が空に散った。一瞬遅れて、目いっぱい踏み込んだライソンの刃が敵兵の脇腹を捉え、横に薙ぎ払う。

「殿下、ご無事ですか!?ルーイ殿下!!」

 敵兵がすぐに立ち上がってこないことを横目に確認し、ルーイのもとに駆け寄った。正面から切りかかられた傷は、シャツを真っ赤に染め上げているがさほど深くはなさそうだった。

「……ライソン、だめ、だ」

 ルーイを抱き上げ、傷口を確かめようとすると、か細い声がそれを制止した。

「まだ、敵が……」

「貴方の手当てが先です」

 まだ意識があることに安堵しながら、強い口調で告げる。

「だめだ、みるな……!」

 細く痛々しい声が、懇願する。それを無視して、シャツをはだけさせ傷口を押さえて止血を試みる。

 その時、手に触れたそれに、ライソンは驚愕のあまり動きを止めた。

 右胸に当てた手に触れた、柔らかい感触。

 彼の手の下にあるのは、まだ幼いながらも僅かに丸みを帯びかけている、少女の体だった。


 ルーイ『王子』の手当ては、駆け付けた王族付きの医師により速やかに行われ、数日のうちには会話ができるまでに回復を遂げた。その間、ライソンは自分がどう過ごしていたのか覚えていない。発覚した事実の衝撃と疑問が頭に常に渦巻いていた。何事もなかったかのように対処する医師に混乱した頭で問いただしたが、冷たい眼差しで追って話があるだろうと一言返されただけだった。混乱した頭のまま、ライソンはその夜、ふと思いついて中庭に向かった。そこに続く回廊に佇む黄色い人影に、彼は驚きと納得とを覚えて、そっと近づいた。なんと呼びかけるべきか迷って、振り返らない人影の、包帯が巻かれた肩に恐る恐る触れる。

 ゆっくりと振り向いた二つの琥珀が、ライソンの姿を捉えて徐々に焦点を結ぶ。

「……ライソン?」

 名を呼ばれ、ライソンは確信する。

「――ルーイ殿下」

 そう呼びかけると、黄色いドレス姿の人影はくしゃりと顔を歪めた。

「君はまだ、その名前で僕を呼んでくれるのか」

「私にとって、お護りすべき『ルーイ殿下』は、貴女ですから」

 その言葉に、琥珀の双眸に透明な雫が滲む。ライソンはそっと屈みこむと、それを指先で拭った。その手の上に、震える細い指が添えられる。すがるようなその指を硬い掌で包み込むと、彼は目の前の小さな人影を抱きすくめた。王子の姿を解いたその人物は、唯のちっぽけな十二歳の少女にすぎなかった。


 静かな嗚咽が途絶え、ようやく正常な呼吸が戻ってくると、彼の主だった少女はぽつりぽつりと昔語りを始めた。

 十三年前。隣国から持ち掛けられた合併話。とはいえ、隣国は広大な敷地と莫大な人口を誇る強国で、厳しい身分制度が有名な国だった。対するネム国は僅かに100万の民と険しい山ばかりの弱小国。合併はかなり不利な条件が提示されていた。さらにそこに追い打ちをかけたのが、当時のネムには跡取りとなる王子が一人もいないことだった。

「そんな矢先に、第一王妃だった母上の懐妊が発覚し、合併話は退けられた。……けれど生まれたのは女の双子。この国では、いくら王家の血を引いていようと、女子は王位継承権を持たない。次の子供の誕生を待つ余裕はなかった。この国を守るため徹底抗戦の道を選ぶか、大人しく隣国の言いなりになるか……どちらにせよこの国に未来はない。追い詰められた父上が思いついたのが、双子のひとりを男の子に仕立て上げることだった。……それが僕だ」

 語られる事の大きさを受け止めきれず、ライソンは絶句する。さらにルーイはどこか虚ろな声で、ライソンにとって受け入れがたい事実を告げる。

「僕は、生まれた時から二十歳までは生きられない身体だと言われていた」

 その言葉に、ライソンは蒼白になる。

「だから、僕が偽物の王子に仕立て上げられたんだ」

王子が一人でもいることになれば、当面の危機は脱する。その間に、国王もしくはカナリーのもとに他の王子が誕生すれば、不要となった仮初の王子は『病死』させればいい。そう考えての結果だった。しかし、現実はそう甘くはいかず、新たな王子が生まれないまま、流行り病によって幼くしてカナリー王女が亡くなってしまう。そして国王には長い間、子供が生まれなかった。

「でも、やっと。やっと、王子が生まれたんだ。……あの子が生まれて、僕の役目は終わった。今や僕は、何の役にも立たない、がらくただ」

 ルーイは自嘲の笑みを唇の片端に乗せ、傍らのライソンを振り返る。

「そう思ったら、なんだか急に、寂しくなってしまった。……そうしてある晩、僕は気づいたらこの格好で、中庭にいたんだ。医者の話では、稀にある病気らしい。寝ている間に、身体だけが勝手に動いてしまうんだそうだ。その時は訳も分からず、とにかく隠れなければと近くにあった極秘の通路を使って部屋に戻った。同じことが何回かあって、そのうち、それが幽霊の噂になっていることを知って……調子のいい夜に、あちこちにでかけるようになったんだ」

 あとは知っての通り、とほほ笑む顔はたちの悪い悪戯が露見した子供のようで、あまりの情報量に追い付いていないライソンはなんと答えるべきか言葉に詰まる。結局口から出たのは、渦巻いていた疑問のひとつで。

「……『幽霊』に扮して、私の前に姿を現したのは偶然だったのですか?」

「最初はね。でも、だんだんと君とこの姿で会うのが楽しくなってきて。『幽霊』でいる間は何も取り繕わなくていい。いっそ、本当に幽霊になってしまえたらと思いもしたけれどね。幽霊はどこに行こうと、何をしようと自由だ。……僕はもう、死に方すら選べない」

 あくまで淡々と告げる声音に、ライソンはたまらなくなって再びその体を抱き寄せた。腕の中にすっぽりとおさまってしまうその小さな身体に、一体どれだけのものを抱えてきたのか、想像することすらできなかった。

「……でも、君は違う」

 少し間を開けて絞り出された言葉に、ライソンは思わず彼女を覗き込む。

「わかっただろう。僕についていても、未来はないよ。だから、選んでいい。このまま僕のもとで護衛を務めるか、――他の者につくか」

 何かを堪えるように唇を引き結ぶ彼女の瞳をまっすぐに覗き込み、ライソンはゆっくりと告げた。

「殿下……私は、貴女に救われました。貴女が私を見つけて下さったから、今の私があります」

 間違いなく伝わればいいと、そう願いながら、彼は言葉を紡いでいく。この小さな少女のためにできることを、必死に模索していた。

「貴女が一言命じて下されば、私はそれが何であれ、力を尽くします。誰かを殺せというならば殺しましょう。どこか遠くへ逃がせというならばどこへなりともお連れ致します。ですから、どうか……どうか、最後まで、貴女が穏やかに暮らせるように、――その時まで猶予がないのであれば尚更です」

 言葉を探しながら伝える彼の服をそっと握って身を寄せると、少女は諦めたように目を閉じた。

「……僕は、どこにも行けない。ここを離れたら、たぶん、この身体はもたないから。……でも、君さえよければ、……また、『幽霊』と会ってくれないか」

 少女のささやかな願いに、彼は一も二もなく頷いた。それから、思い直したように付け加える。

「ですが、これからの季節、夜は寒くなります。『幽霊』も寒いでしょうから、日のあるうちか、お部屋の中に出てくれませんと」

 その言葉に、腕のなかからくすりと笑う気配がする。

「そうだな。善処しよう」


 それからしばらく経った頃。ライソンは王族付きの医師を訪ねて医務室に来ていた。代替わりも間近かと思える白髪の医師は、およそこの場所に似つかわしくない男に眉を顰めた。

「何の用だ」

「少し、薬を分けてほしい。知人が熱を出したそうなんだ。……先日、ルーイ殿下にと持ってきてくださったこの薬が残っていたので譲ろうかと思ったのだが、予備はあるか?」

 掲げた薬に、医師はさあっと青くなると誤魔化すように棚に向き直る。

「……その薬は、身体の弱いルーイ殿下のために特別に調合してある。もともと健康な者が使うのであればこちらがよい」

 そう言って、棚から取り出した他の薬包を差し出す。胡乱げに見つめて、ライソンは手元の薬を眺め、徐に口に含もうとする。今度こそ医師は血相を変えてライソンに飛びつくと、薬を床に叩き落とした。ライソンが鋭く目を細める。

「――毒を盛ろうとしたな」

 その時の光景が蘇る。ルーイは薬を口にするなりむせ込み、半分程を吐き出した。その後顔色が悪化したように見えたのは、気のせいではなかったのではないか。吐き出したのも、薬の中身に不審なものを感じ取ったのだとしたら。

『……新しい王子が生まれたら、病弱な偽物の王子は『病死』させてしまえばいい』

「――国の意向だ」

 医師は観念したかのようにそれだけを告げると、彼に背を向ける。それ以上の言葉は引き出せないと悟り、ライソンは足音荒く医務室を出ていった。医師はただ俯いて押し黙り、その背中を見送った。


 それから四年ばかりが過ぎたある日のことだった。

 国王のもとにもたらされた訃報はふたつ。黄色いドレスに身を包みベッドに横たわる少女と、その身体を包み込むように寄り添う、夜の闇を映したような黒髪の護衛は、まるで一枚の絵のように美しく、穏やかな笑みを湛えていた。


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