道の先
「私は昔から世界がどんなのものか知りたいと思っていた。でも世界は私の手に負えるほど小さくない。だから世界を構成するものを集めたいんだ」
うだるような暑さの中、麦酒をぐっと飲みほして言い放つ。理想論だと誰も聞く耳を持たない話に居酒屋のおやじが聞いてくれる訳がないが、喋らずにはいられなかった。
「なぜ君はそんなに世界に執着するのかい?」
だしぬけに隣に座っていた同年代―30代くらいの男が話しかけてきた。その目はいやに冷たかった。
「世界は広くて面白いからだ」
「そんなに面白いかい? 単調で退屈じゃないか」
「そんなことはない。自然の構造も人の営みもそこから生まれ積み重なってきたものは眩暈がするほど複雑に絡み合って面白い」
「僕にはわからないな。同じことの繰り返しじゃないか。生んで壊しての」
「そんな単純なものじゃあない。私の理想が成功すれば証明できるのに」
「本当に?」
その男が私を見る目は突き刺すように真剣で酔いも覚めるようだった。私は水を飲み、酒でくらくらする頭を整え背筋を伸ばす。私は確信しているのだ。
「本当だ。世界は面白いと証明してやる」
私も負けじとその目を見返す。五月蠅い店内の中で2人の間だけ沈黙の帳が下りた。反らしたら切られるような鋭い緊張感、それは数秒のことのようにも、数時間のことのようにも感じられた。
男がふっ、と息を吐いた。
「僕にも面白いと思わせておくれ。僕は時針、君は?」
「速水穣だ」
時針が差し出した手を私は握り返した。
あれから数十年、あの出会いは人生の分かれ道になったのだと思う。
人が全く立ち入らない深い森の中、ぽっかり空いた穴のように異質で巨大な円錐型の真っ白い建物、それが片鱗堂である。正面にぽつんとある両開きの扉を開けると円形の無機質で白い空間が広がっている。そこは低めの天井で家具等は全くない。目の前に広がるのは様々な色の無数の扉のみ。その扉の奥には世界の片鱗が蠢いている。
不思議に満ちる世界が知りたくて20歳で放浪の旅を始めて、自然の中に眠る科学、人の作る文化、未来への技術……、様々な人やことに触れ、30代の時にそれらを集結させた施設を作る妄想を掲げた。時針のバックアップをはじめ、多くの人の協力の元、私の妄想は40年の時を経て片鱗堂という形になった。各部屋には様々な人の研究成果が詰まっている。名声、分野は問わない。世界の何かへ迫ろうとしたかどうか、基準はそれだけだ。同時にここで成果を公開しようとも世間一般に広まらない。知識に貪欲な者がその欠片を手にするだけだ。来る者は何者たりとも拒まない。
そんなものを作って10年経った。世界の一部について研究したり、それを求めたりする珍妙な者はいるようで訪れる人は新たな部屋を作ったり、知識の欠片を手にしたりして去っていく。訪れる人と話すもの楽しみの一つである。
その日私は「お客様だよ」というカエルの声で目覚めた。
「こんなに早くからお客様?」
「時針様だよ」
「懐かしいやつだ」
布団から出ると床の冷たさに思わず布団に潜りなおしたくなったが、ぐっと堪える。冷たい水で顔を洗うと頭がしゃっきりとしてきた。暖かい服に着替え、部屋を出る。ストーブの効いた部屋から出ると一気に冷気が襲ってくる。上着をかき寄せ螺旋階段を下りた。
1階の入り口広間には変わらない顔の男と見知らぬ少女が立っていた。
「速水君、お久しぶりだね」
「今回はどうしたんだ?」
「たまには君に会いたいと思ってね」
「そうか、ゆっくりしていけ。ところでそちらのお嬢さんは?」
「彼女はね、アンドロイドなのさ」
薄藤色の寒々しいノンスリーブのワンピースを着た10代前半くらいの少女はぺこり、と頭を下げた。
「アンドロイド?」
「そう。色々とあって処分されそうなところを拾った。置いてやってくれないかな?」
「君は奇妙なものばかり拾ってくるな。来る者は拒まず、構わないけれど」
「君ならそう言ってくれると思っていた。久々に片鱗堂を見たいのだけれど、案内してくれるかい?」
「ああ」
その部屋から繋がる無数の扉のどれを開けるか考える。まずは立派に成長したあの部屋からだ。
入り口の真向かいにある深緑色の扉を開けると、噎せ返るような草木の匂いが流れ出す。中を見た時針が感嘆の声を上げた。扉の奥には森が広がっている。
「どうぞ」
時針はゆっくりと、少女はすたりと一歩を踏み出した。
迷宮のように広がる片鱗堂の部屋のいくつかを巡り、最終的に時針が最も気に入っている冬の図書館についた。この扉は冬の底のような身も凍るような時期にしか開かない。穏やかな気候になると扉は固く閉ざされる。室内にはふかりとしたえんじ色の絨毯が敷き詰められており、壁面に沿った本棚には小説から実用書、図鑑、楽譜等冬に纏わる本がぎっしり並べられている。
部屋の中心には木製の小さなテーブルと紺色のソファーがある。その傍には暖を取るための電気ストーブ。スイッチを入れると柔らかな橙色の光が広がる。テーブルに片鱗堂で取れた野菜や魚、時針が持ってきた酒を並べ、3人でテーブルを囲んだ。時針は瓶の蓋を開け、グラスに深みを湛えた赤色の液体を注ぐ。
「乾杯」
ちりん、とグラスを鳴らしゴクリと飲む。ひさびさに味わう喉をじわりと流れていく感覚が心地よい。
「僕が来ない10年のうちに片鱗堂は成長したね」
「ああ。世界の何かを求めてやまない人間は多くいるようだ。部屋を作る者も、求める者も常にいる」
「今はどんな人がいるんだい?」
「中2階に世界中の名のない草を分野分けしている高齢の男、地下にはヒトの死の瞬間の映し続ける年齢不詳の女性と、宇宙生命体に会うことに全てを捧げる若い男、最上階には忘れられた歌を蒐集する壮年の男、5階には幻想動物の実現性について追い求める女性……、他にも多くいる」
「妙なことに耽溺する者は多くいるものだね」
「全くだ。だからこそ面白い」
時針はふっ、微笑みグラスを傾けた。私はずっと気になっていたことを彼に尋ねる。
「そちらのアンドロイドのお嬢さんは何者だ?」
置物のように座り、重たい睫毛を伏せる彼女を見る。外見は15、6歳くらいだろうか。ほっそりした体つきで濡れ羽色の髪は胸辺りまでの長さだ。肌の色、つや、顔つき……、人間のお嬢さんにしか見えない。
「彼女は大富豪の老人のメイドとして作られたんだ。人間の酸いも甘いも見てきた老人がたどり着いた先は人間不信、人々から離れてアンドロイドに身の回りの世話をさせた。人の悪意ばかりを利用してきた老人にとって、悪意を持たない人型のものはとても新鮮でのめりこんだそうだよ。他の者には見せず触らせず自分唯一人のものとして。メイドの彼女を寵愛した。周囲の人は小狡い女に引っかかるより機械のお人形に執着していてくれた方が後々良いと考えたんだろうね、みな我関せずだったそうだ。その老人の死後、残された遺産を巡って醜い争いが繰り広げられた。そんなとき、彼女に遺産相続させるという老人の遺書が見つかったからさあ大変。お人形の筈がライバルだったんだから。しかも人間の様に欲望も恐怖も持たないものだから篭絡できない。当然周りの人は気に入らない。彼女を挟んでの睨み合い。そんな状況を知った僕は彼女を譲り受けようと思って彼らに近づいた」
時針はグラスを傾け、喉を湿らす。
「まぁそう簡単にいくわけはなくてね。それは困難を極めたよ。騙し化かしあい経て彼女を得た。思わぬ誤算は彼女が老人―主人の前でしか喋らないこと。何人たりとも彼女に近づかせたくない独占欲なのか知らないけれど。彼女に関するデータも処分して亡くなったようで名前すら分からない。」
「だから連れてきたのか?」
「違うよ。これからは兎も角、今は自ら考え動く人間そのもののアンドロイドは珍しいから君が興味を持つかと思って」
「それはまぁ、興味はある」
彼はしたり顔でにやりと笑う。昔から変わらない笑い方。
「任せたよ」
翌日、時針は去っていた。少女を私のもとに置いて。
「まずは君の部屋を作ろう」
片鱗堂から彼が去った後、私は少女にそう告げた。彼女は伏目がちな瞳を上げ、私を見た。私は初めて彼女が茶色く輝く瞳としていると知った。少女の顔には表情がない。私の言葉を理解したのだろうか。
その日から少女の部屋を作るため自室の隣の物置化している部屋を片付けが始まった。他人から見たらがらくたにしか見えないであろう思い出の品々を久々に手に取りあるべき場所へ、または自室に押し込んだ。
部屋ができるまでの間彼女は私の部屋で過ごすことになった。
私の部屋は天井まで届く飴色になった薬棚が壁に沿って置いてある。引き出しのサイズは大きいものから小さいものまで様々で、溢れんばかりのものを詰め込んである。部屋の端には梯子があり上の棚はそれに登って取る。所々引き出しがないのは決してなくしたわけではなく、モノを置くために抜いただけだ。部屋の中心には布団とちっぽけなちゃぶ台がある。
「初めまして、アンドロイドのお嬢さん」
彼女はどこから声がするのかときょろきょろ部屋を見回した。
「喋っているのはこいつだ」
引き出しのない棚の上にいる若緑色のカエルを掌に載せ彼女に向ける。本物そっくりだが陶器の置物である。
「ぼくはカエル。よろしくね」
「こいつは片鱗堂の目だ。周囲の森から片鱗堂のありとあらゆる場所と繋がっていて、人がどこにいるか管理し、異変がないかチェックしている。片鱗堂についてカエルに分からぬことはない」
「そうさ、ぼくは偉いのさ」
「何かあればこいつが教える。君は自由に過ごしたら良い。入ってはならない場所はない。片鱗堂を巡るのもここにいるのも自由だ」
私がそう言い部屋から出て階段を降りると後ろから足音が聞こえる。振り返ると彼女がついてきていた。午前中は片鱗堂の見回り、午後は片付けの日々が始まった。
午前中は片鱗堂を巡る。一日ですべてを巡ることはできないので、数部屋回り掃除する。人に会えば挨拶する。
午後は手紙、着物、置物などしまい込まれていた懐かしい思い出の欠片たちと再会する。忘れていた記憶が蘇りついつい手が止まる。
どこに行くにも彼女は私の影のように後についてきた。彼女に最初に会ったのは宇宙生命体に会うことに全てを捧げている若い年の男だった。彼は疑似宇宙空間を作り出している部屋にいた。
「速水さん、お世話になってます。その子何者ですか?」
「アンドロイドだ」
「へえ、人間そっくりっすね。名前はあるんですか?」
彼女を興味深く見る彼にそう尋ねられた時、答えに窮してしまった。名前は分からない。少女の顔色を伺っても、何一つ変わらない。
「ここに住むことになったのだが名前が分からない。彼女は喋れないんだ。」
「名前ないのは不便っすね」
それからも皆彼女の名を聞く。分からない以上仕方がないので私は名付けることにした。何が良いだろう。頭はそればかりが占めた。何をしていても、そのことが頭をちらつく。彼女を見ると目が合った。宝石のようなガラス玉の瞳は一等美しかった。
「君の名は琥珀。どうだろう」
誰に言うでもなく思わず口から飛び出た言葉だった。
「琥珀」
山吹色の光のような柔らかな声が聞こえた。
「君は喋れたのか?」
「えぇ。ご主人様は亡くなる前に言われました。私を人として見てくれる者―例えば名前を付けてくれるような、そんな人が現れるまで喋らぬようにと」
彼女が機械であること、表情が乏しいことは変わらない。それなのに喋り出した彼女の瞳は生き生きしているように見えた。
彼女が私の後についてきたのは深い意味はなかったらしい。それでも折角ついてくるのだからと、各部屋の解説をすると一度見聞きしたものは絶対に忘れず、自身のデーターベースに蓄積させていった。また私が片鱗堂を訪れる人と話しているとき、最初は距離を取っていたものの、徐々にその人たちの語りに興味を持つようになった。半分くらい回ったころから一人で自由気ままに、時にはカエルを連れて出歩くようになった。色眼鏡なく透明な好奇心で知識に向かう姿に好感を持つものは多く、めきめきと知識を付けた。片鱗堂を縦横無尽に闊歩し、物事をまっすぐ見て物怖じしない強さと外見の可愛らしさからお姫様とのあだ名が付けられた。
「君は今、楽しいかい?」
「楽しいのでしょうか。分からないけれどもっともっといろいろなものが見たいと思います」
そういう顔には笑顔が浮かんでいた。
「速水さん、時針様がいらっしゃいました。こちらのお通ししますか」
「あぁ、そうしてくれ」
琥珀がやってきてからもう10年以上も経つ。時針に最後に会ってからも同じだけの時間が流れた。体を起こし床に座る。琥珀が片付けてくれたおかげで物は整頓されすっきりとしている。
がとり、とドアが開く。
「速水君、お久しぶりだね」
「そうだな。上まで来てもらって悪かったな」
「それは全く問題ないよ。具合はどうかい?」
「年のせいか思うように動かない。お前は全く変わらないな」
私は随分と年を取ったのに、時針は見た目の年齢はほぼ変わらない。
「僕は不老の呪いにかかっているからね」
そう呟く顔はどこか寂しげだった。
「君が僕を片鱗堂に呼ぶなんて珍しいじゃないか。何の風の吹き回しだい?」
「時針に伝えておこうと思って。片鱗堂は琥珀に継がせたいと思っている」
「この子が?」
「あぁ、いろいろ考えたんだがな。琥珀が最も片鱗堂に精通しているし、……何より彼女が私の理想を守ってくれると思ったんだ」
「君の理想とは?」
「世界の面白さが詰まった場所を作ること。それ以上でもそれ以下でもない」
「そうか、そうだね。あの日から君はずっとそう言っていた」
そう言う彼の目はとても穏やかだった。あの日の冷めた目とは全く違って。
横に座る彼女の表情は10年前より笑顔になった。よく話すようになり、好奇心旺盛になり、何より人を好く様になった。そして皆から愛されるお姫様になった。
「君がそういうのであれば僕から言うことはない。それでは2代目のお祝いをしよう」
時針が持ってきた彼女の瞳と同じ色の酒を取り出す。琥珀がグラスと氷とつまみを持ってくる。グラスに注ぐと琥珀色の緩やかな色を湛えた。
「乾杯」
3つのグラスが涼やかな音を鳴らす。開け放った窓からは透き通る初夏の風が通り抜けた。
*
人間なら誰しも死ぬことはとうの昔から知っているし、何度も通った道だ。
速水君が死んだのは彼に会ってから1年後だった。享年95歳。大往生と言えるだろう。じりじりと焼かれるような暑い日に片鱗堂目指して歩いている。深い森を抜け片鱗堂に踏み込むとひんやりとした空気に包まれた。螺旋階段から琥珀ちゃんが下りてくる。
「いらっしゃいませ、時針様」
「やあ、琥珀ちゃん。速水君の部屋は今もあるかい?」
「はい。どうぞごゆっくり」
螺旋階段を上がり速水君の部屋に入る。あの日と同じように薬棚にはものが詰め込まれ、入りきらないものや本は部屋の隅に積んである。それでも彼女のおかげで随分と整頓されている。
遠慮がちなノックがし、琥珀ちゃんが入ってきた。手に持つお盆にはグラスと氷と酒瓶が乗っている。それらをちっぽけなちゃぶ台に置き、窓を開けた。冷えた部屋に熱気がぬるりと入ってくる。
「速水さんは自分が飲めなくなったら、時針さんにあげるように言っていました。お開けしますか?」
「ああ」
グラスにウィスキーと氷を入れゆくるりと飲む。舌に快い苦みが広がる。あの日はこんな風に暑くて、酒はただ苦かった。
あの頃は毎日が退屈で日々酔うためだけに安酒を煽っていた。あの日も詰まらない一日を過ごし、安くて人の声が絶えない居酒屋のカウンターで一人まずいアルコールを流しこんでいた。そこに酔っぱらった30代くらいの男がやってきたのだ。男は私の横に座った。
「何にしますか?」
「麦酒」
男は出てきた麦酒を一気に飲みほす。
「麦酒、もう一杯」
「お客さん酔っているでしょう」
「酔っているけど酔ってない。いいんだ」
店主はあきれ顔で厨房に戻る。
男は店主の親父に絡み始めた。親父は軽くあしらう。男は持論を語っているらしい。
「世界は面白いんだ。なのに何で誰もそれが分からないんだ」
「はいはい、ここで潰れられると少しも面白くないから、水を飲んどきなさい」
男は言われた通り水を含む。そしてまた麦酒をぐっと飲みほして言い放つ。
「私は昔から世界がどんなのものか知りたいと思っていた。でも世界は私の手に負えるほど小さくない。だから世界を構成するものを集めたいんだ」
思わず僕は横の男に話しかけていた。青臭い話をする男に。
「なぜ君はそんなに世界に執着するのかい?」
「世界は広くて面白いからだ」
「そんなに面白いかい? 単調で退屈じゃないか」
「そんなことはない。自然の構造も人の営みもそこから生まれ積み重なってきたものは眩暈がするほど複雑に絡み合って面白い」
「僕にはわからないな。同じことの繰り返しじゃないか。生んで壊しての」
「そんな単純なものじゃあない。私の理想が成功すれば証明できるのに」
「本当に?」
数十年しか生きていないやつに何が分かるのだろう。数えるのも嫌になるくらい生きてきて世界になんて飽き飽きしている。時間の浪費、世界なんぞ見たところで面白くもなんともない。
男はグラスの水を飲み干した。息を整えると目が座り、纏う空気が変わった。
「本当だ。世界は面白いと証明してやる」
その眼差しは真剣で酔っぱらいの虚言には聞こえなかった。いつぶりだろう、興味がわいた。思わずふっと笑ってしまった。
「僕にも面白いと思わせておくれ。僕は時針、君は?」
そう言って手を差し出した。僕も酔いが回ったのかもしれない。
「速水穣だ」
彼は私の手を握った。
それから具体的な構想を詰め僕たちは資金と人集めに東奔西走した。僕は長年生きてきたツテを使い懐に入り、時には脅かし資金調達した。彼は理想論から経費施設等々具体論に落としたものを、ツテを使いながら売り込んだ。惨敗続き、しかし二人で飲む酒は旨かった。
様々な手を打っているとついに興味を示す者が現れた。小さなつながりが徐々に広がり、様々な苦節があったが―時を経て片鱗堂が誕生した。彼は片鱗堂に住み、僕は世界に目を向けた。彼とは時々会うくらいになったが、その関係は妙に心地よかった。
あの居酒屋の日から60年くらいが経ち、君は死んだ。僕はあの女の呪いを受けた日からずっと変わらない姿で生きている。そのことに何度も嫌気がさした。でもこの何十年かは生きることも悪くはないかと思う。
「私は速水さんが亡くなってから何かぽっかり空いたような感じがするんです」
困ったような、整理がつかないような、どこか泣きそうな表情で彼女は言う。
「それは君が彼を好きだったからさ」
「好き、ですか」
嬉しそうな、悲しそうな顔。速水君と琥珀ちゃんで重ねた時間が彼女の複雑な表情を生み出したのだろう。
「速水さんは時針さんに尋ねたいことがあると言っていました」
「なんだい?」
「世界は面白いか?と」
「そんなことを気にしていたのか」
僕は君に会ってから大層面白くなったよ。決して言わないけれど。
片鱗堂の主の横顔を見る。悲しみを携えながらも先を見据える機械仕掛けの女の子、君が彼女を選んだ理由が分かる気がする。
「君は2代目だ。そして悠久の時を過ごすアンドロイドだ。きっと100万人とだって会えるだろう。彼の望んだものが作れるかもしれないな」
和服に身を包んだ彼女にはあの時とは違い貫禄がある。彼女はお姫様であり主なのだ。
「えぇ、きっと。私は作ります」
一陣の熱い風が通り抜けた。彼の思いを託すかのように。




