Deep Forest
薄暗い室内には、さっきまでの熱が漂っていた。俺は天井を見つめながら、ベットサイドのタバコを手探りで探し火を点けた。深く吸い込み、長く紫煙を吐き出す。煙と汗と体液の混じった匂いが狭い空間を満たし、気怠い時間を作り出した。
隣で身動きする気配がし、顔を向けると、こちらをじっと見つめる目とぶつかった。俺は思った。この女も同じなのだと。
○
俺は酷く荒れていた。アルコールを求め何軒かの店を回り、気が付くと繁華街から離れた、暗い路地裏にあるbarに吸い寄せられるように入っていた。
50代くらいの男のマスターが「いらっしゃいませ」と落ち着いた声音で迎えてくれた。少し高めのスツールに腰掛け、ウイスキーを注文する。
店はカウンターとテーブルが3つあるだけのこじんまりとしたものだったが、内装のほとんどすべてが木材で出来ていて、かなり凝った作りだった。まるで木に囲まれているようだ。
店内には女がカクテルグラスを前に1人、カウンターの奥で飲んでいた。その女には最初、連れがいると思った。遠目に見ても、とても美しい女だったからだ。飲みながら、ちらちら様子をうかがうと、どうも1人のようだった。
気になりながらも、俺はささくれた気持ちのまま、琥珀色の液体を体に行き渡らせようとした。マスターも俺の飲み方を見て察してくれたのか、注文を取る時以外は話しかけてこない。いい加減、酔いが襲ってきた頃
「噛みつくように飲むのね」
いつの間にかその女が隣に座っていて急に話しかけられた。
内心驚いたがそれ以上に、間近で見るその美しさに飲み込まれた。30歳前後だろうか。長い髪が背中で揺れて甘い匂いが漂い、どこか引き込まれるような感覚になった。
少し動揺しながら「こんな、夜には」と答えた。
「私はこんな夜ばっかり」女は苦笑を浮かべた。
「お互い、アルコールが必要みたいだ」
俺がそう言うとマスターが黙って俺の目の前にショットグラスを置き酒を注いだ。
グラスを掲げ、一気に飲み干した。液体が食道を焼くように落ちていく。今まで飲んだことのない、とても強い酒だったが不思議と何杯でも飲めそうな気がした。
マスターは更に注ぐ。
「これ、どこの酒なんです?」
「遠い異国のものです」マスターは静かに答えた。
「とっても美味しいでしょ。他では味わえないお酒」
女は薄く微笑む。
そして、手にあるカクテルグラスをゆっくりと持ち上げ、中の赤い液体を飲み干す。俺は真っ白い喉が何度か上下に動くのをじっと見ていた。一粒の赤い雫が口元から流れ落ちる。
女はグラスを置くと、真っすぐこっちを見ながら「あなたにはどうして、今夜このお酒が必要なの?」と聞いてきた。
「逃げるために」
暗い森をさまよい続けている俺には必要なものだった。
ほんの一時暗さを忘れさせてくれるが、いつも決まって最後には嘔吐と共に胸の痛みに変わる。ところが、今夜の酔い方は今までと少し違っていた。欲望や絶望、全てを解放させるような気持ちに陥っていた。
俺は深く沈めたはずの名前を無意識に言っていた。きっと、このbarが森に似ているからだろう。
初めて彼女の歌声を聞いたのは、偶然通りかかった駅前の狭い広場でだった。職業柄、少し気にして聞いていたが、耳に入ってきた声と言葉に、俺は魅了された。気が付くと涙をこぼしていた。がらくたのような人生に光が差した気がした。彼女の声は、心の傷が深ければ深いほど、歌がより強く心に入り込んでくる、そんな力があった。だから俺はその声をたくさんの人に聞いてもらいたいと心の底から思った。それから、俺と彼女はずっと一緒に夢を追いかけた。不遇の時は長かったが少しずつ、彼女の歌が人の心に届くようになり、やがて歌姫と言われるようになった・・・
ショットグラスを手に取り、一気に煽る。
女の顔が目の前にあり、艶やかにほほ笑んでいた。甘い匂いが強くなり、抗うことのできない衝動が押し寄せる。
悪魔じみた快楽が突き抜け、一つに溶けていくのが分かった。
○
俺は手を伸ばすと枕元にある有線のスイッチを入れた。熱量が少なくなった空間にラジオが流れる。
“リクエスト曲は、今日が命日で100万に1人とされる難病で5年前に急逝した・・・”
彼女の歌声が響いた。病に侵され、立っているのがやっとの状態にもかかわらず、命を削って歌った彼女の最後の曲だった。俺は目を閉じて、あらためてその声を言葉を体のすべてに刻みこむ。
「あなたのための歌、そして私にも届く歌」女はささやいた。
――私は遠い遠い昔の事を思い出していた。
人と人以外の者。私達は、人からは魔女と言われ恐れられ畏怖されてきた。実際は一部の者を除いて、ほとんどの場合ひっそりと影のように生きていた。
私も森の奥深くで生きていた。でも、ある男に出会った。私達はすぐに惹かれ合った。人と魔女。交わる事は決して許されない。だけど、私は魔女である事を隠してその男と一緒にいる道を選んだ。
とても幸せな時間だった。
ある時、他の魔女に知られてしまい私達は襲われた。私は力を使い必死になって男を助けた。その時の私を見る恐怖と軽蔑に満ちた男の顔は決して忘れない。
私は1人になり森の暗さに耐えられなくなった。私の中にある魔の部分が大きく膨らんでいくのが分かった。
それから幾千の夜が過ぎて、人の男を抱き、その魂を喰らって魔物に変えてきた。
歌が静かに終わる。
俺は、その女をもう一度強く抱きしめ、うっすらと光るその目を見つめながら言った。
「君みたいな美しい人に出会ったことがない」
「だけど」
「この世で一番悲しい目をしている。俺には分かるよ。同じ目をしているやつを、俺自身がよく知っているから」
俺はそのままベットを出て、身支度を整えると振り返ることなく部屋を後にした。
私は、出て行った男と歌のことを考えていた。すると、部屋の隅の闇が最も深い場所から
「どうして、いつものように魔物に変えなかったんですか」という声が聞こえた。
いつか、魔物に変え今は人の世界でバーテンという役をやらせている男からだった。
「どうしてかしら」
私の中で男の言葉と彼女の歌声が、消えずに響いていた。




