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富士登山

「混んできましたね。こっちの道を行きましょう。他の人には内緒ですよ」

 中島さんはそう言うと、登山道に沿って張られたロープをまたぎ、登山客の列から横に伸びている、細い道を歩き出した。

「へえ。こんな道があるんですね」

 菊池が中島さんの後に続く。

「山小屋で働いている人たちが使うための道なんです。こっちだと歩いている人も少ないし、休憩も取りやすいですよ。休んでいるときに流れ星が見えたりもします」

「いいことずくめじゃないですか!さっすが中島さん!」

 菊池の上機嫌の声が、富士山の暗闇に吸い込まれる。今は深夜の1時。7月中旬だが、8合目と9合目の間にあるここは、真冬のようにめっきり冷え込んでいる。背の高い木はとっくになくなり、ヘッドライトの光が照らすのは、赤茶色をした溶岩の砂利ばかりだ。


  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 登山をしようと思ったきっかけは、あるエッセイを読んだことだった。家と職場を往復し、日々をこなすだけの生活が嫌になり、仕事が早く終わった日に近所の本屋へ寄った。そこでそのエッセイを手に取った。著者の名前は知らなかった。だけど、目の前の一歩を積み重ね、見える景色が変わっていくことについて書かれた穏やかな文章が、味気ない毎日に疲れていたその時の私の胸に、すとんと落ちてきた。

 形から入らなければ今の気持ちを忘れてしまうと思い、次の休みの日には2万円もする登山靴を買った。遭難してしまうのが怖かったので、一緒に登る人を探した。

 高校の同窓会で、靴を買った話をした。すると反対側の席の方から「俺も登りたい」と声が聞こえた。菊池だった。


 菊池武史は幼馴染だ。幼稚園から高校まで一緒だった。親同士の仲が良く、中学に入るくらいまではお互いの家に行って遊ぶこともあった。しかし、学年が上がるに連れ、「幼馴染」という存在が気恥ずかしく、いつしか校舎ですれ違っても「よう」「うん」との言葉を交わす程度になっていった。


 彼に「お姫様」と言われたことがある。


 幼稚園生の頃のことだ。外で遊ぶ時間にガキ大将のような園児にキックボードでぶつかられた。勢いで後ろに倒れた。痛みより園児の残酷な凶暴さを感じ、怖くて泣いた。すると菊池が側に来て、肩を支えてそっと起こし、

「姫乃ちゃん、大丈夫?」

 と、泣きじゃくる私の顔を覗き込んだ。


 そして菊池は、泣き止まない私の言葉になっていない説明を聞きながら、私を先生の元へ連れて行った。

「姫乃ちゃんが転んじゃった」

 彼は先生にそれだけ言うと、ぽんぽんと私の背中をたたき、静かにその場を離れた。後で先生から聞いた話によると、ガキ大将の所へケンカをしに行ったのだという。申し訳なくて、次の日の朝、菊池に謝りに行った。

「武史くん、ごめんね」

 目を合わせられず、俯きながら言った。

 すると彼は、

「姫乃ちゃんはお姫様だから。僕が守るから」

 と言った。顔を上げると、彼はにっこりと微笑んでいた。左の頬には、絆創膏で隠しきれていない、爪で引っかかれた傷があった。


 菊池はもう、自分がそんなことを言ったことなど忘れているだろう。

 だけど、優しさを帯びたその言葉を聞いた時の安心感と、それと対照的な赤い引っかき傷の跡を、私は今でも鮮明に覚えている。


「道具買ったから、富士山に登ろう」

 同窓会の一週間後、菊池から連絡が来た。

「子どものときに高尾山に登ったことがあるくらいなのに、いきなり富士山は怖いよ」

「後回しにしないで登ってみようよ。それに最初に富士山登れたら、日本のどの山も登れる気がする」


  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 新宿から出ている直行バスに乗り、富士山の5合目で降りた。ガイドの中島さんと合流し、12時半ごろ山登りを開始した。19時には7合目にある山小屋に着き、カレーとハンバーグのお弁当を食べた。20時に仮眠をとり、0時に小屋を発った。標高3000メートルの空気は薄く、息苦しくて熟睡はできなかった。しかし今、冷たく澄んだ空気の中で、頭は不思議と冴えている。中島さんのペース配分とアドバイスのおかげか、心配していた高山病の症状も全くない。この調子なら、なんとか頂上まで行けそうだ。


「なあ、斉藤」

 中島さんに連れられた道を行って10分ほど。私の前を歩く菊池が、ぼそっと呟く。赤く盛り上がったバックパックの向こうにある彼の顔は見えない。

「何?」

「もし目の前に幸・不幸の分かれ道があったとしたら、どっちを選ぶ?」

「どうしたの、突然」

 予想していなかった質問に驚く。

「いいからさ。・・・どう?」

「どうかなあ。なんだかどっちも怖いから、選びたくないなあ」

 答えにもなっていない答え。実際、分からない。

「そっか。選ばないっていうのもありか」

 菊池の、拍子抜けしたような声。

「菊池は?」

「俺?・・・俺は、不幸の道を行ってみたいかな」

「不幸の道?」

「うん。そこで無理してでもいいことを見つけてやりたい」

「今、富士山を登っている程度には幸せだから、そんなことが言えるんだよ。本当に不幸になったら、いいことを探す元気なんてなくなっちゃうかもしれないよ」

「そう言うなって。応援してくれよ」

 菊池は笑ってそう言ったきり静かになり、また黙々と歩を進める。ざくざくと、砂利を踏みしめる音が響く。


  ☆  ☆  ☆  ☆


「休憩にしましょう。水分と糖分をよく摂ってくださいね」

 中島さんのありがたい声。私は一呼吸してから重いバックパックを下ろし、お菓子と水筒をごそごそと取り出す。


「山で食べるチョコはうまいなー」

「ビスコも食べていいよ」

「サンキュー!」

 眠気はないが、昼の疲れは抜けておらず、脚が重たくなってきた。だけど甘いものを食べると、その疲れが快いものに変わっていくように感じられる。

「そういえば6合目の辺りに、Tシャツに短パンで登ってる外国の人いたけど、今頃どうしてるんだろうな」

「いたねー。すごく楽しそうにしてた人。さすがにこの寒さで薄着はきついから、帰っちゃったんじゃない?」

 どこかの国の観光客らしい人が着ていた紺色のTシャツには、忍者のイラストがプリントされていた。ほっかむりをした2頭身。かわいい体形に不釣り合いの、きりっと自信ありげな目が印象的だった。

「山頂でまた見かけられたらうれしいけどな」

 菊池はそう言って、ビスコを口に放り投げる。

 そのとき、小さな忍者が寂しそうに、来た道を引き返している姿が見えた気がした。


「斜面に背中をつけて寝転がると楽ですよ。空も見やすくなりますし」

 中島さんに言われるがままに、体育座りの姿勢を崩し、仰向けになる。雲の上から見る新月の夜空には、銀色の星が無数に敷き詰められていた。空が近い。ありきたりな言い方だけど、本当に、手が届きそう。日本の地上で一番宇宙に近いところに向かっているんだ。そんなことを考えながら、そっと腕を上に伸ばし、掌を夜にひたす。流れ星は見つからなかった。


 下の方を見てみる。遠くて小さな街の灯りが、クモの糸のように繋がって明滅している。家と職場を結ぶパイプの中でばかり生活していた昨日までの私が、眼下に佇む街のどこかですやすやと眠っているように思える。

 湖があるのか、まばらな灯りの中に三日月の形が、真っ黒に、ぼうっと浮かんで見える。あそこに吸い込まれたらどこへ行くのだろう。頭の中で、パイプをそこへ放ってみる。がらくたの山から拾い出したような、ぐにゃりと曲がった細くて脆い筒。私の日々の生活範囲。それが、音もなく黒い月の中へ消えていく。私のなんでもない生活が沈んでいく。


「そろそろ出発しましょうか。深呼吸ですよー!」

 中島さんの元気な声で我に返った。中島さんは既に立ち上がり、グレーのウェアに付いた砂を払っている。

「深呼吸!」

 菊池がすぐさま応じ、むくりと上体を起こす。

「深呼吸ー」

 ひんやりした空気を吸い込み、私も腰を上げる。

「それから、あと1時間くらいで山頂ですけど、お鉢巡りはしますか?」

「お鉢巡りって何ですか?」

 私は尋ねる。

「富士山の山頂をぐるっと一周することです。1時間半くらいかかりますけど、面白いですよ」

「やりたいです!あそこを一周しないでは帰れません!」

 菊池が即答した。

「1時間半ですか・・・」

 ためらう私に対して中島さんは、

「お二人とも若いから全然大丈夫ですよ」

 と、さわやかな笑顔を向けた。暗闇と白い歯のコントラスト。

「それでは御来光とお鉢巡りを目指して、もうひと踏ん張りしましょう!」


 行進を再開し、すぐに菊池が中島さんに尋ねる。

「中島さんはどれくらい富士山登ってるんですか?」

「シーズンだと週に4回は登ってますねー」

「週に4回!こんなにきついのに!」

「慣れてくるともう、散歩ですよ」

 笑顔でさらりと言う中島さん。

「言ってみてー!富士山は散歩って言ってみてー!」

「このお仕事がメインなんですか?」

 私も聞いてみる。

「そうですね。ガイドでお金を貯めて海外の山に行ったり、そうでない時はマラソンをやったりしてます」

「マラソンも!」

 菊池のオウム返し。

「前に大会があったんですけど、あと3つ順位がよかったらオリンピック出られたんですよ」

 苦笑気味の中島さん。

「体力おばけじゃー!」

 反して、菊池のテンションが今日一で上がる。


  ☆  ☆  ☆


 その後、また菊池が落ち着いた頃、ふと、先ほど彼が聞いてきたことが気になった。

「そういえばさっき、菊池はなんで分かれ道の話したの?」

「分かれ道?」

「してたじゃん。幸か不幸かって」

「ああ。なんでだったかな・・・」

 すぐの答えはなかった。また静けさに包まれる。ザ、ザ、ザ、ザ。3人が歩く音だけがする。近くに他の人はいない。大分後ろに、ヘッドライトの白い光が数個ゆらゆら見えるくらいだ。さすがガイドさんのみぞ知る道。


 もう返事はないのかと思った時、菊池が口を開いた。

「中島さんがこの横道に入った時、考えたんだ。もしさっきみたいな分かれ道に『幸の道』、『不幸の道』って看板が立ってたら俺はどうするのかなって。そんで、本当の不幸があるなら俺は、そこにとことん身を置きたいなって」

「不幸になりたいの?」

「よく分かんないけどな、目一杯大変な思いをしたら、優しくなれると思うんだ。どうしようもない不幸の中で、きらっとしたいいことを見つけられる人になりたいなって」

「ふうん」

「でもな、今は富士山に登っているけど、また下に戻ったら、何をすればいいのか分からない。富士山に登ったことは忘れて、毎日をやり過ごすようになっちゃうかもしれない」

「そうかな。たまに会うとき、私には菊池は楽しそうに見えるよ」

「そりゃ楽しいこともあるさ。それだけで人生の元とったなー、大変なこともがんばれるなーって思えるくらい」

「じゃあ大丈夫じゃない?」

「だけど、さっき斉藤が言ってたみたいに、想像以上に大変なことがあって、本当に不幸だってなったら、いいことを見つけるどころじゃなくなって、そういう楽しかったことも、今みたいな大丈夫の気持ちも忘れちゃうのかもしれない。それはちょっと怖かったりする」


 菊池が弱気だ。

 私は一つ、ため息をつく。

「いい?菊池」

「ん?」

 歩くリズムは変わらない。ザ、ザ、ザ、ザ。

「そういう時は、呪文を唱えるんだよ」

 自分でも思いがけない言葉。

「呪文?」

 目の前の真っ赤なバックパックが横に揺れる。

「不安なときはフアンダリアン、寂しいときはコドクルリンチョって」

 考えたこともない言葉が、能天気な音を持ち、彼の耳に届く。私の耳にも。

「なんだそれ。だっせえ」

 菊池はからからと笑った。

「でもちょっと面白いでしょ?きついなーってなったら、試してみて」

「おう、そんな時はありがたく叫ばせてもらうよ」

「別に叫べとは言ってないけど」

「あ、俺も思いついた。雨がひどいときはアメヒドイナー、霧が深いときはキリフカイナー」

「そのまんまじゃん!」

 私も笑った。

 その後も彼は、なんだかよくわからない即興の呪文を考えてはうれしそうに言ってきた。「イライラしたらイライラビットがピョンピョンでいこう」とか、「かわいい子がいたらアノコカワイイナー、オハナシシタイナーだな」とか。呆れて途中から返事もしなくなったとき、菊池は突然立ち止まって振り返り、

「ありがとな、斉藤。なんか元気出たわ」

 と言った。びっくりした私はうまく声が出ず、無言でうなずいた。

 

「もうすぐメインの道に合流します。ここからは休憩はありません。でも、それだけ山頂が近いってことですよ!」

 前の方から中島さんの明るい声。

「よっしゃ、待ってろ御来光!」

 菊池が、気合を入れる。


 戻ってきた登山道には、こんなに人がいたのかと目を疑うくらい多くの登山客が列をなしていた。色の少なかった世界が、闇に浮かぶウェアの極彩色で埋まる。ヘッドライトの光の束が、青白い蛇のようにうねりながら上へ上へと伸びている。

 そこに合流してからは、混んでいることもあり、ペースは落ちた。急いでも仕方がないので、右、左、と脚を動かすことに集中する。ちょっと苦しいが、もうすぐ山頂だという高揚感が、歩みを止めさせなかった。そういえば、あのエッセイには、「左右の足の裏に交互に体重を移動していたら、身体は前に進む」という言葉があったっけ。


  ☆  ☆


 気が付いたら登頂していた。時刻は3時過ぎ。身体はしんどかった。脚が、砂を詰められたように重たい。それでも、まだまだ登れる、登りたいという気持ちだった。そんな気持ちのやり場が分からず、私は周囲を見渡した。

 山頂にはたくさんの人がいた。椅子に座って顔を伏せている人、写真を撮っている人、屋台でお土産を売っている人、それを選んでいる人、地面に座り、乾杯をしている人・・・。


「深夜の寒い中、ここまで登ってきた物好きが、随分いるんだなあ」

「私たちも物好きの中の一人だけどね」

「間違いないな」

 菊池と話してようやく、登頂したのだという実感が出てきて、少し落ち着いた。屋台の黄色い光は煌々と、ここにいるいろんな人を優しく照らしていた。人がいるから明るいのだ、と思った。

 登ってきた方向を振り向くと、真っ暗だった空がぼんやりと白み始めていた。まるで黒い絵の具を重ね塗りした画用紙に、水をたっぷり含んだ筆をふんわりと撫でつけているみたいだ。


 日の出まではまだ一時間ちょっとあるらしい。一旦中島さんとは別行動をすることになり、おすすめしてもらったお店に菊池と入った。店内は広く、暖房が効いていた。お客さんは30人くらいいて、にぎやかだ。店員さんに空いている席へ案内してもらう。バックパックを下ろし、手袋を外し、上着を脱ぐ。椅子に深くもたれて、やっと心から脱力する。このお店の名物だという豚汁を注文した。

 地上から3700メートルの特殊な場所にあるこの空間は、登山客の登頂の安堵感と、明るい声を出して店内を駆け回る店員さんが生み出す活気とで満たされている。穏やかなざわめきに包まれて、私は切なく、でもお腹がじんわりとあたたかい。「平和」という言葉が自然に浮かび、お尻のあたりがむずむずする。

「お待ちどうさまでーす!」

 豚汁がテーブルに、ことりと置かれた。朱色のつやつやした器には、よく煮込まれ、柔らかそうなジャガイモ、にんじん、ゴボウ。それと、たっぷりの豚肉。白い湯気をほわほわとたてている。お椀を両手で包む。外の冷たい空気にこわばっていた、私の小さな手がほどけていく。やけどをしないように、ゆっくりと口元に運ぶ。熱くて、しょっぱくて、おいしい。

「少なくとも、富士山で食べる豚汁は、幸せだな。トンジルウマイナー、だな」

 湯気の向こうで、菊池が言った。

「うん」

 今度は、声に出してうなずく。

 遠くのテーブルで、わっと笑い声がした。


  ☆


 午前4時。お店を後にする。外は冷え込みがさらに増している。上空は澄んだ紺色になっていた。山頂にいることを忘れ、深く静かな海の底から水面を見上げているように感じる。

 事前に決めていた集合場所で中島さんと落ち合う。

「御来光まであと30分くらいはありますね。お鉢巡りを始めましょうか。ちょうど剣ヶ峰の辺りで太陽が出てくると思いますよ」

「よっしゃー!御来光!」

 菊池は、今回の登山でもう何回言ったか分からない言葉を叫ぶ。


 富士山でも一番高いところ、正真正銘の標高3776メートルである剣ヶ峰に時計廻りで向かう。火口の周りは溶岩がいたるところに転がっており、道幅も狭い。太陽が出てしまわないかとそわそわしながらも、足を滑らせないよう用心深く歩く。しばらくして、開けたところに出た。ふうと息をついて、顔を上げる。


 前にいる人たちも立ち止まり、皆、今歩いてきた方向を見ていた。

「ここで御来光を待ちましょう」

 中島さんが言う。


 私は後ろを振り返る。昇りつつある太陽の逆光となって、後続の人たちがシルエットに見える。そのあまりの黒さに、もう太陽が出たのではないかと錯覚する。しかし目を射る光の主はどこにも見えない。ほっと力が抜け、私は遥か彼方をじっと見つめる。


 遠くの空が藍色に染まっている。一条の雲が水平線を覆う形でたなびいている。藍は、上空の紺に混ざっていく。少しずつ、少しずつ。

 それは、やがて私の視界を超え、全身を飲み込んだ。すると真っ白な空が新たに生まれ、そこへさらに薄い黄色が滲み始める。さっきまで藍色だった空はもう、透き通った水色になっている。

 世界が今その瞼を開けたように、青が、白が、黄が、名前のない鮮やかな色が、どこまでも広がっていく。


 そして、光の波紋の真ん中に、目に染みる橙が、顔をのぞかせた。


 瞬間、時が止まった。


 人々が息をのむ気配。

 感嘆のため息。


「出たあ」

 誰かの声が聞こえた。


 時間がまた、流れ出す。

 輝くオレンジ色の円弧は、ゆっくりと、しかし何ものにも止められない力強さを持って、その形を変えていく。


 生まれたての一日が始まる。

 同じようで違う、「今日」という日が。


「きれいだな」

「うん」


 快い沈黙。

 ああ、今なら言えそうだ。

「ありがとう、菊池」

 刻々と明るさを増していく空に呟く。

「ん、何が?」

 菊池がこっちを向く。

「いろいろ!」

 私も菊池を向いてやる。

「いろいろか。おう、どういたしまして」

 彼はにっと口角を上げる。陽光が射すその頬に、傷はもう、ない。


 太陽が姿の全てを現す。白く、眩しい。私は、目を細める。


 そうだ、もし幸・不幸の分かれ道があったなら。

 そうしたら私は、道の名前なんて気にしないで、一つの道を進んでいってやろう。そして、呪文でも唱えながら、うれしいことや悲しいこと、いろんな気持ちをたくさん見つけてやろう。

 空がきれいだったら、それだけできっと、大丈夫だから。


 いつの間にか、星は空に溶けていた。







【エピローグ】


 夕方。東京行の新幹線。午前は出張先の名古屋で、ミスへの対応をした。ミスは、私が新しく志願し、参加しているプロジェクトで生じたものだった。先方からひどく叱責を受けた。非はこちらにあった。落ち込み、東京に戻る車内で、ぼんやりとしていた。


「ママ、ふじさーん!」

「本当だね。きれいだねえ」


 後ろにいる親子の会話が聞こえ、窓の外に目をやる。ものすごい勢いで目の前を過ぎ去る建物たち。その向こう、傾いた太陽の横、赤みがかった空の中に、でんと構える富士山があった。そういえば、名古屋に向かっている時は、富士山を探す余裕がなかったな。富士山、でっかいな。頂上を見る。火口は雪のおしろいをして、夕焼けの赤みを帯びている。

 去年、あそこを歩いたんだ。


 6合目で見た、Tシャツに描かれていた忍者を思い出す。富士のお鉢の上に連れていく。すると紺色のほっかむりは、変わらず自信に満ちた目で、お鉢の周りを元気よく走り始めた。まるで、あの日引き返した悔しさを晴らしているかのように。いいぞ、その調子だ。もっと走っちゃえ。100万周走っちゃえ。

 くたびれたら、あのお鉢をひっくり返し、そこに具沢山の豚汁をなみなみ入れて、たらふく食べさせてあげよう。そうしたら忍者は、ニコニコしながらこう言うんだ。

「トンジルウマイナー」


 ごおと音がし、トンネルが富士山を隠す。

 にやけた私の顔が、窓ガラスに映った。

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