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あなたのお姫様になれるのは、この日だけ。

 私がこの気持ちを伝えたら、二人の関係は終わってしまう。

 物心ついた時から隣に居て当たり前のように全てを共有していた彼とは中学に入ったあたりから距離が生まれ始め、大学の志望校が分かれてからは偶然家の前ですれ違った時に挨拶をする程度の関係になっていたし、就職をしてからはその時間さえ無くなっていた。

 それでも、年末年始とお互いの誕生日には必ずメールを交わし、特に私の誕生日は近所のファミリーレストランで七夕限定メニューを食べながら近況報告をし合うのが恒例だった。たしか高校に入って最初の七夕に、「一年に一度七夕に会うなんて、彦星と織姫みたいで素敵じゃない」と私が冗談で言ったのがきっかけだったように思う。

 だけど、彼にとって一番のお姫様はいつだって私ではなくて、その時一番そばにいる恋人達だった。

 近況報告の中には当たり前に恋愛の話も含まれていて、心の底でずっと彼を想い続けていた私と違い、彼にはいつだって恋人が居た。初めてその報告を受けた時に、自分にもそういう相手が居るのだと意地を張って嘘をついて以来、架空の恋人を作るのが上手になった。


 もう十回は超えているであろう七夕の会だったけれど、今日はいつもよりも少し静かだった。

 雨が降っているのは例年変わらないし、日曜日の深夜近い時間にファミリーレストランを訪れる人が居ないのだっていつものことだ。

 食事をする頃には家族の笑い声で賑わっている空間も、時間が経つと私たち二人だけ、それか一人で机に突っ伏している人が居るくらいだった。ドリンクバーと空になったデザートの皿で深夜の閉店時間まで粘る私達は、決して良い客だとは言えないだろう。

「この会もさ、もう長いよな」

 彼が、汗をかいたグラスの表面を白く骨張った指先でなぞるのをぼうっと眺めていたら、突然話しかけられたので驚いた。

 いつもは、このあいだ行ったこの店が美味しかっただとか、恋人と何処そこへ行っただとか、プレゼントに何をあげただとか、就職してからは仕事の話が大半だったけれど、この会について話題に出るのは随分と久しぶりだった。最初の頃は、何やってんだろうな、なんて笑い話程度にしていたかもしれないけれど、もう話にも上がらないくらい自然なことだと、思っていた。

「そうだね」

 きちんと相槌は打てただろうか。暫く喋っていなかったから唇は乾いていたし、不意打ちだったから舌が上手く回らない。

 もうやめにしようか。そんな風に言葉が続くのではないかと思うとゾクゾクして、私は食べ終わったケーキの皿に乗せてあるフォークを震える手で弄び始めた。

 チョコレートとプレーンのスポンジが層になっていて、間にはカスタードクリーム、一番上はチョコミントのクリームでコーティングされて、星の型抜きクッキーが大小並んで置いてある七夕ケーキ。毎年少しずつ違うけれど、変わらずにあった、特別なもの。


*.。〇✩.*˚


「七夕ってさぁ、天気予報を見る必要が無いからいいよね、だいたい雨か曇りだし。折り畳み傘必須」

 この会が始まった高校一年生のあの初夏の日、私達は、久しぶりに二人でゆったりと時間を共有していた。私が皮肉交じりに言ったことに対して、彼は何の感情も込めずに単調な言葉を吐き出した。

「絶対ってこともないだろ」

 我が家の庭に、お父さんが職場の人に貰ってきたという大きな笹が飾られることになったので、彼も短冊を書きに来たのだ。縁側に腰掛け、気温は低いのに日中に雨が降ったせいで湿度ばかりが高い夜を乗り越えるための最強兵器・うちわで顔を仰ぐ私の表情は不機嫌だったに違いない。

「なに真面目に書いてんの」

 中学のあいだにすっかり成長した大きな背中を丸めて短冊に文字を書いている姿を、かれこれ二分は見ているような気がする。

「こういうのは目立たせないと。神様に引き当ててもらえないだろ」

「懸賞に応募する主婦か」

 ちらりと横目で見ると、「宝くじで百万当たりますように」と太く大きく書かれた文字が何色ものペンで縁取られていたので、つい笑ってしまった。

「お前のは? もう飾ったのか」

 彼は満足のいく形になったらしい短冊を持ち上げ頷くと、そう言って笹と私を見比べてから首を傾げた。

「いーや、まだ。ていうか、誕生日に短冊の願い事って何よ。私はもっとシンプルにお祝いしてもらいたいよ」

 イベント好きの両親は、こういう小さな物も見逃さない。もちろん私の誕生日もお祝いしてくれるけれど、どうしても七夕の色が抜けないのだ。ケーキを食べる時だけ歌われるハッピーバースデーのメロディより、たなばたさまのメロディの方が耳に残る。

「俺が祝ってやろうか」

 思ってなかった言葉に胸に棘が刺さるような感覚をおぼえ、うちわを落としそうになった。

「何言ってんの。ていうか、七夕デートとかしなくていいの」

 その時、彼は入学してすぐに入った野球部のマネージャーに告白をされて付き合い始めたところだった。

「七夕より誕生日、だろ。最近あんま話せてないし、一年に一度の約束があるとか彦星と織姫みたいでなんか良いじゃん」

「そんなキャラじゃないでしょ、お互い」

 そうだ。そう言ったのは彼の方だったか。時々ロマンチックな少女じみた事を言い出すから、笑えばいいのか照れればいいのか分からなくなる。

「願いごときーめた」

 黒いマジックを開けて、空色の短冊に文字を連ねる。

 じゃん、と腕を伸ばして見せると、彼は一瞬目を見開いた後に歯を見せて笑い、私の頭をくしゃりとひと撫でした。

 私はその日から一年に一度だけ、彼のお姫様になれた。


*.。〇✩.*˚


「これさ、……あれ、どこ行ったかな」

 おもむろに仕事用の鞄から手帳を取り出して、ページを捲りながら何かを探し始める彼を見てなんだか据わりが悪くなったので、空になったグラスを彼の分まで持ってドリンクコーナーへ行って帰ると、机の上に空色の紙が置いてあった。

「さんきゅ。これ、懐かしいだろ。」

 そう言いながらお茶の入ったグラスを受け取る彼の笑顔は、あの時と欠片も変わっていなかった。

『七夕の約束が百回続きますよーに』

 黒いマジックで書いただけの文字は、彼の手によってカラフルに縁取られていた。笹を片付ける時に見当たらないと思っていたけど、彼が持っていたとは想像していなかった。

「百回って、私達何歳よ。このファミレスもさすがに無くなってるよ」

「……あの、さ」

 彼の声が少し震えてるのが分かって、私の冗談に言葉を返さないことが気にかかって、顔を上げるのが怖かった。ちくり、ちくり、棘が一つずつ刺さっていく。

「一年に一度会うっていうの、もうやめにしよう」

 どうかそれ以上続けないで欲しい。私が気持ちを口にしなければ終わらないと思っていた関係を、十数年大切にしていた時間を、そんな簡単な言葉で終わらせないで。

「ずっと好きだったよ」

 彼の口からその言葉が外へ出てきた時、私の中で、何かが崩れてしまう音がした。

 去年は右手の薬指に着けていたリングが外されているのには気がついていた。店に入った時からなんだか緊張した様子なのにも気がついていた。昔の約束を大切に残しているのを知ったのがトドメの一刺しだった。

「お前は、俺に彼女ができてもいつもと変わらないし、彼氏と幸せそうなのも聞いてきたし、言わないでおこうと思った。でもこのあいだ部屋の片付けしてる時に、昔付き合ってた人との物とか色々出てきたけど、なんていうか、全部がらくたみたいで、……こんなこと言うの、最低な男だよな。でも、俺が本当に好きなのはやっぱりお前だけで」

 こんなに饒舌になる彼を見たことがなかった。一言重ねるたびに、砕けた心にさえ棘が刺さっていく。

「もう、いいよ」

 冷えきった自分の声に驚いた。俯きがちだった彼の顔がこちらを向く。当たり前だけれど、私よりも驚いているその表情に笑ってしまいそうになる。

「……終わりにしよう」

 そう伝えた声は、さすがに震えていた。変わらないと思っていたものが、変わってしまった。終わらないと思っていたものが、終わってしまった。


 雨の音が止んだのに気がついて携帯電話のディスプレイで時間を確かめると、午前零時を過ぎていた。



△▼△▼△▼△▼△▼



 彼が私を想ってくれていることには気がついていた。

 中学に入って直接話すことが無くなっても、その姿を探しては視線の交わされる瞬間がとても好きだった。

 高校に入って彼が恋人を作るようになっても、私が他の男子と話しているのを見つめているのに気がついた時は心地よかった。

 大学に入って家の前で鉢合わせるたび、驚いたように目を見開いてから緩む口許が好きだった。

 就職してからは、お互いの存在を確かめ合うように過ごす短い時間がひどく愛おしかった。


 人はどうして、恋を形にすると変わってしまうのだろう。

 恋をした人間が、些細なことに怯え、喜び、涙を流し、怒りに震えるようになるのを見るのが苦しかった。感情の揺らぎを受け止めるだけの余裕も、それに応えられるだけの熱量も自分には無いことを思い知らされるから。

 彼以外にも、素敵だと思う人が居なかったわけではないのだ。サッカー部の先輩、ゼミの同級生、サークルの後輩、職場の上司、目で追いかけて、少しでも話せれば幸せだった。

 それでも、相手に好意を持たれてしまうともう駄目なのだ。

 想いを告げられる時の緊張した表情、私だけに向けられる優しい眼差し、震えた声、それを受け入れることができないのだ。

 だけど、彼の気持ちには気がついていたから。それでも、私は彼を想うことができていたから。もしかしたら、彼なら大丈夫かもしれないという淡い期待を抱きながら、いつも分かれ道の真ん中に立っていた。

 自分の気持ちを彼に伝えて結ばれるのか、彼に嫌悪感を抱いてしまうのか。


 私は、彼のお姫様にもなれなかった。

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