瞳の中の言葉
甲高い機械音のような叫び声がした。それは彼に対する最後の抵抗だった。
彼は、彼にすがる二本の腕を振り払い、地表に叩きつけた。
隠されていたものを取り上げて、紺色の制服に身を包んだ、仲間たちとその場を立ち去る。
地表に項垂れながらも煌々とした瞳は、彼の姿を見続けていた。
空からの光が差し込み、あたりは翡翠のように澄んでいる。水の流れが体に感じられ、ついに没入したことを知る。
指定された場所に誤りはなかったはずだった。
彼は陰に潜み、あたりを伺った。
入り口はサンゴ礁付近のカクレクマノミに聞かなければならなかった。
しかしイソギンチャクのあたりを探しても、簡単には見つからない。
サンゴ礁の周りをぐるりと回ろうと、彼は体を動かした。
額に大きな瘤を持ち、のらりくらりと泳ぐ。ボートを漕ぐかのように尾ひれを左右に揺らせ、水の流れを楽しんでいると、前方にハナゴイがこちらに向かってくるのが目にはいった。
一匹のハナゴイは、こちらに気がついたようで、ちらちらと泳いで向かってくる。
どうやら参加者のようだ。
彼は胸びれを手を振るかのように漂わせる。
ハナゴイも大きく尾びれを左右に揺らせて合図を送った。
ハナゴイはとうとう彼の目の前にくると、
「ボウ!」と音を出した。
彼は挨拶の仕方について質問をすると回答が現れた。
彼も浮き袋を用いて、「ボウ!」と音を出してみた。
ハナゴイは尾ひれを乱れんばかりに揺らして彼の周りを泳いだ。
すると音声会話も容易にできた。
「カクレクマノミを見かけましたか?」
「まだ没入したばかりなの。私があったのはあなたが初めてよ。」
ハナゴイは甲高い声で答えた。
「一通りの挨拶でいいみたいね。カクレクマノミを探しに行きましょうよ。」
「君の名前は?」
「ノル。あなたは?」
「私はロア。どうぞよろしく。」
ノルは、体を揺らして、紫色の体を光らせた。
ロアはノルの後を悠然と続いていった。
サンゴ礁一帯をぐるりと回ると、先程までいなかったカクレクマノミが、イソギンチャクから顔を出して周囲を伺っていた。
ノルは先程と同じように「ボウ!」と挨拶をした。
カクレクマノミは、「カチッ」と歯を鳴らして答えた。
やはり挨拶を経ると、声が出せるようだった。
「名前は?」
カクレクマノミがイソギンチャクをかけ分けながらいった。
「ノルとロアよ。それにしても面倒ではないの?はじめから声を出せればいいのに。」
「情緒がないね。」
カクレクマノミは、イソギンチャクをならして、奥に見える穴を指し示した。
「もちろん触ると痙攣するよ。」
カクレクマノミは、にやりと笑った。
ノルは、怒ったようにグンと素早く奥の穴に消えてしまった。
彼はなお、のらりくらりとイソギンチャクに触れないように進んだ。
奥へ進むとそこには100万もの魚たちが漂うていた。
遠く、岩の裂け目から差し込む光の筋が、魚たちの様々な色を受けて反射している。
ロアはただその光景に見入っていた。
まさかこんなにも集まっているのだろうか?
ロアが無防備にもただ水の流れに身を任せていたために、前方にいたノルとぶつかってしまう。
「ぼやぼやしてるのね、あなた。」
ノルはぶつかった箇所を揺らしながら、言った。
「趣向を凝らしがちなところからすると、演出に決まってるじゃない。」
「するとどれが本物なのだろうか?」
ロアは遥か遠くに漂う魚の群れを見ながら言った。
「おそらく遠くのものは飾りでしょう。話ができるぐらいの距離に見えるのは本物。 漂っていれば自然とわかるはずだわ。」
ノルは遠くを見渡すと、ぐるりとロアの方を向き直り言った。
「あなたはどうやってこの場所へ? 私はたまに簡易版とか、非公開の復元されたものを読む程度なんだけど…。もちろん復元を手に入れるのが悪いことだってわかっているわよ。でも…もちろんあなたもそういう人でしょう?」
「私は…通知をもらったのさ。復元を手伝ったりしてるから…」
ノルは顔をロアに近づけて、息を荒くした。
「復元を手伝っているの!? 例えばどんな?」
ロアはノルの興奮ぶりに驚いた。
「だだいっさいは過ぎて行く…という言葉を復元したよ。」
「それなら私も、聞いて知っているわ!…『道化』でしょう?
「簡略版しか手に入らなかったのだけど、没入しながら探していたら音楽ファイルの中に紛れ混んでいてて…あれはあなたの声?」
「いや、あれは今日の主催の…」
ロアはあたりを見渡した。
すると、胸びれがひときわ広いホウボウがこちらに流れてくるのが見えた。
ホウボウは「ボウー!」と低音を鳴らして挨拶した。
「やぁ、ノルとロアだね。今日はこの空間にやってきてくれてどうもありがとう。楽しんでる?」
胸びれをヒラヒラさせて、ノルとロアを歓迎した。
「今、スロスキーさんとやった復元について話していたんです。」
興奮して口を開けているノルを見ながら、ロアが言った。
「あぁ、あれはいい復元になったよね。君はどの言葉が好きかな? 私は『幸福も不幸もない』だね」
スロスキーはにやりと大きな口を歪ませた。
「ロアは復元に必要なデータを探し当てるのがうまいのさ。鼻が効くんだね。そんな驚いた顔をしてるってことは君も手に入れた口だね?」
ノルは身体を振って応えた。
「えぇ、見つけたときはゾクゾクしたわ。いったい誰がこんなことを仕掛けたんだろうって!」
ノルは抱きしめるための両腕がないことがもどかしそうに、ロアの周りを旋回した。
「原文の50%も編集された簡易版に比べたら圧倒的な迫力だったわ! あぁ、すべての内容を手に入れられたらいいのに…。」
「…私もすべては読んだことはないよ。」
ノルは、ロアの話す内容を聞き漏らさないようにじっとしていた。
ただえさえ、見つかりにくいとされているデータをどうやって見つけるのか? ロアの話が、気にならないものはいなかったのだ。
「僕もそのはなしが聴きたいな。」
近くを漂うていたカクレクマノミが言った。
先程、入り口にて案内役をやっていたカクレクマノミに違いない。
ノルは、カクレクマノミから離れて、スロスキーのそばへと寄った。
「君が例のデザイナーだったんだ? 音楽と音声の融合でうまく誤魔化してたけど、あれは殆どオリジナルだった。本当にどうやって手に入れたの?」
そういうとカクレクマノミは訝しげにロアを見た。
「本物の本をもっているんじゃない?」
カクレクマノミが口にした途端、あたりはしんと静まり返った。
ロアは悠然と胸ビレを揺るがせながら、カクレクマノミを凝視した。
「あんた途中から何様なの!? そもそも名乗らないで失礼じゃないの!?」
我慢しきれなくなったノルが甲高い声で言った。
「ふん、横からうるさいね。僕は、ゾウ。さぁ、僕の質問に答えてもらおうか?」
スロスキーは、ゾウの態度に慣れたような様子で、笑いながら答えた。
「そもそも原典が手に入らない世の中で、どうしてオリジナルだってわかる? あんまり変な詮索はする必要がないさ。」
スロスキーは注意をそらすように「ボウ!」と唸った。
「僕は持っていたんだ。オリジナルを!」
カクレクマノミは器用に静止して流れの中を漂うた。
「だから君がオリジナルを用いてあのファイルをデザインしたのもわかるんだ! けど、持っていかれてしまった…廃書官に見つからないと思っていたのに。」
すべてをはいて楽になったのか、ゾウは感情を露わにした。
ロアはゾウの声に驚いた様子で、水の流れにバランスを崩した。
スロスキーやノルは、ゾウの気持ちに寄り添い始めた。
「廃書官は、本当に奪っていくの…?」
「数年前、あの時のことは忘れない。あのオリジナルは、ずっと受け継いできたものだった。本当に廃書官は、略奪し、廃棄しているんだ。」
廃書官の話が出た時、ぽつりぽつりと魚たちが泡となって消えていった。
スロスキーはため息をついて、
「本日の集会は、おしまいにしよう。この話が出てしまった以上、ここも危ない…。また追って通知を出すよ。」
細かな泡に包まれて、ホウボウは形を失い、姿を消した。
ノルも泡に包まれて、ゾウに向き直った。
「みんな怖いのね、だからこうやって空間に身を隠して集まってる。でもね、復元ならあるわ。考えによってはまだ方法はあるもの…。また会いましょう。」
強制退去によって、ゾウやロアも体が泡となって空間から消えていく。
ロアは、うたかたとなって消えていくゾウを見続けていた。
没入から抜け出す瞬間は、深い眠りから覚めた感覚に近かった。
重い瞼を開けて、ぼんやりと見慣れた部屋を見る。
どこにも擬態の魚たちがいないことを改めて認めると、今が現実だとわかった。
ロアは、あの空間で起きた、復元への共感が忘れられなかった。
ロアは、枕代わりにしていた紺色の上着を着ると、立ち上がり、棚を眺めた。
それは彼が奪い、彼がまた奪った原典ー本であった。
思い出せば、あの時始めて手に入れたのが、この原典だったのかもしれない。
ロアは、棚の中から、題名がもはやわからなくなっているものを手に取った。
『名前も無くして、しかしまだ人を魅了し続けてやまない。こんなに恐ろしいものがあるか?』
そう問われた言葉を思い出す。
『簡易版でさえも俺は手に取るのをためらう。俺が奪うのは恐怖しているからさ。また人々がそれによって操られ、いがみ合うというのが。』
雨夜の時、煌々と光った男の瞳を忘れられず、奪い去った原典を握りしめたまま、黙り込むロアに、上官は、声をかけてくれたのだ。
『普通だったら歯向かわない人間が、あれを所持していることで、攻撃の意思を持つ。あの目をずっと覚えていろ。』
闇の中に浮かぶ二つの目、自分の手元にある原典。
それがどのような力を自分に与えてくれるのか?
彼はそれを知りたくなって、文字を読み始めてしまったのだ。
始めは、一枚をちり紙として切り取って、続きが気になって次々と破り取っていった。
ついには、強奪した本を盗みだすことにためらわなくなった自分がいた。
誰かに届けたい。そんな考えを持って、音声を音楽と融合させ、拡散したのだ。
「ボウ!」と突然通知音がなった。
「今晩、18時、場所は…」
空間を通して声が響く。
脈絡のないその言葉からでも、スロスキーがメンバーたちに通知を飛ばしていることがロアには理解できた。
指定された場所は、いつもの空間ではなかった。
また別の趣向を凝らしていくのだろう。
ロアは紺色の上着を脱ぎかけたその時、また別の通知音が鳴った。
『招集です。ただちに集合してください。』
「なにがあった?」
音声通知に思わず声をかけてしまうが、
通知は集合を呼びかけるばかりでなにも答えない。
ロアは、上着を着て、部屋を飛び出した。
本部に向かうと、上官や仲間たちが、すでに集合していた。
「ロア。オリジナルを復元した連中が現れた。」
仲間の一人が、壁に表示された映像を指差した。
そこには、あの煌々とした瞳を持った男が、紙を束ねたものを持って走る様が映し出されていた。
「他にも手伝っている人間がいることが確認されている。この男がなかなか捕まらないのもそのせいだ。」
上官は、映像をかえると、空間に没入した仲間の映像を壁に投射した。
「VR空間で不定期に集会が行われて、復元作業の情報交換をしていたようだ。もちろん警戒をしていたが、まさかオリジナルを手に入れて実物化するとは思っていなかったな。」
壁に表示される、様々な擬態ー。時には鳥、犬、魚ー。擬態を変えながら人を集っている様が映し出される。
「今晩、18時、奴らが集合し、オリジナルの拡散を図るそうだ。計画的な犯行ゆえに、我々への抵抗も考えられる。」
上官は、いくつかの武装を許可した。
「やつらのがらくたを撤去しにいくぞ。」
18時ー。
ロアは時計を表示して時間を確認する。
リアルな場での集合率はそんなに高くないはずだ。
ゾウやスロスキーが集合したらー?
ノルもやってくるのでは?
そんな思いを抱えながらも、彼は紺色の上着に防弾着と、一丁の銃を携えていた。
私は打てるのか?彼を彼女を?
ロアは仲間たちと、現場に配置され、周囲を監視し始めた。
来ないでくれ、集まらないでくれー。
しかし、あの煌々と光る男の瞳が、路地の向こうから現れ、雑居ビルの中へと入っていった。
「対象、現れました。」
『突入しろ』
上官の声が頭に響くと、一斉に仲間たちは前進した。
奪われることを覚悟しつつも抵抗する目がーロアの中でいくつも重なり合う。
耳をつんざくような音の反響の中に聞き慣れた声に気づく。
髪は長く、やせ細った体と白い肌。
瞳はこちらを凝視し、離さない。
抵抗の意思を感じさせる、強い眼差しー。
「あなたたちには渡さない! 」
甲高い声が響きわたると、彼女は一心に抵抗を試みる。
細い腕で抵抗する彼女を見るとー。
ロアは銃を手に取り、狙いを定めた。
仲間は、脚を負傷し、驚いたように振り向いてロアを見た。
ロアは彼女の手を取り、地表へと導いた。
「いや! みんなのいるところに返して!」
彼女の抵抗を受けながらも、ロアは彼女を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから!絶対に私が助ける。」
彼女はその声を聴くと、途端に動きを止めた。
「ロアなの…?」
鍛え上げられた体、日焼けした皮膚ー。
紺色の制服に身を包んだ廃書官の男。
見慣れない姿と聞き慣れた声との一致が出来ず、彼女は腰を落とした。
「ゾウやスロスキーは私が絶対に助ける。ノル、君は逃げるんだ!」
そう言ってロアは、引き返すー。
ただ奪うだけでなく、与え、守りたい。
そんな思いがロアの中で渦巻いた。
たとえ正体がばれてしまっても。
仲間を失っても。
ノルは、復元した言葉を読む。
ロアが守ってきれた言葉の連なりを片手にして、彼女は言葉を届けていく。
次に言葉をつなげるために。
ロアもまた、生き延びていた。
没入した空間を漂い巡り、復元したファイルを忍ばせていく。
どんな形であれ、生きている限り、言葉は読み継がれていくことを信じて。
彼女にいつか届くことを願って。




