夜行性の夢
ずっとシンデレラに憧れていました。
抗いようのない劣悪な環境の中でなんとか生き抜くその姿、
一夜限りの魔法によって美しく着飾られることの耽美さ、
王子様が自分を探し出してくれる熱情、あるいは強烈な劣情。
そして何より、妃であるその権限でもって、継母を殺しても許される世界への、劇的な移り変わりに憧れていました。
最近、飲みすぎるのです。私はビールにばかり手をつけます。
アルミ缶がドミノ倒しのように、少し押せば倒れそうなほどみっちりと並んでいます。
夜中にテレビなんか見るものですから、ビール缶がちらちらと光を反射して少しも寂しくありません。
無造作に転がる缶の山が私の足場を奪うように、床を埋め尽くしています。
いつか買ったオリエントカーペットが酒に濡れてしまっても気にならなくなりました。私が飲んだ分だけ増えるそのシミが、私にはどうにも面白いのです。
きみのことは好きになれない。
僕はきみに何も差し出したくないのにきみを見ていると僕にしか救えないような気がしてくる。
頼む消えてくれ。僕はきみに向いてない。
ウォッカに手を伸ばすとふいに電話が鳴りました。私は今日が仕事だと言うことをすっかり忘れていたようです。
スマホから少し耳を離しても、店長の甘ったるい声はじっとりと鼓膜に流れ込んできます。30分後に迎えに来ると言います。
手早くおめかしをしなければなりません。
アルコールの匂いをかき消すようにD&Gのライトブルーを振りかけ、髪をきつく巻きます。左側のひと束が少し跳ねたように浮いてうねっています。ぐしゃぐしゃと手櫛でかき上げ誤魔化しながらクローゼットの奥に丸まった安っぽい真紅のドレスを引っぱり出し、ああ下着も変えなきゃまずいとタンスをあけると勢い余ってそのまま一段落ちてしまいました。反射的にチッと舌打ちが出て黒総レースの下着とスリップを掴み取り身につけます。今日はドレスのチャックがすんなりと上がり気分が良い。息つく間もなく、落とすのが面倒でそのままにしていた化粧を直しに掛かります。ファンデをはたきマスカラを目のキワにぐりぐりと押し付けるように塗り、元あるアイラインをもう一度なぞったら口紅も赤で揃えようと決めやはりぐりぐりと塗りつけます。ウォッカの瓶がさびしそうに私を見つめていますが構ってあげられません。くちびるを擦り合わせてティッシュで押さえたら鞄に財布とグリンスとローションを忘れずに詰め込みます。
魔法ではない、現実の手によって、私は着飾られ慌ただしく夜の街に駆けて行くのです。
シンデレラは夜に生きています。
しかし、夜の、一体どこで生きれば、私にも夢が見られるのでしょう。
1月で100万円を産み出すこの体のどこに、夢は宿るのでしょうか。
姫にだって格があります。笑うだけで稼げる姫、早抜けして悠々自適に暮らす姫、お酌と露出で稼ぐ姫、内緒で××する姫、なんでもしますが売りの姫、お酒を注文して成る束の間の姫。そして私はその中でも文字通りなんでもする姫なのです。
電話が鳴りました。黒のセダンが階段から見えています。
エナメルヒールに少し剥げてしまっている箇所が見えますが、強請ればすぐに、だれかが贈ってくれるでしょう。
かつかつと夜中に迷惑な靴音を鳴らしながら、あなたはどうしているかと考えています。
相変わらず同じような日々が続いています。この頃昼に起きることがどうにもできません。早くベットに入っても、なんだか勿体無い気がして眠れないのです。
目を開けたまま、天井を見つめているだけでも退屈しないのですから、羊を数えたって楽しんでしまうのでしょう。
ベッドに横になるといつも、体から粘液のようなものが出ていると感じます。髪や首や背中や太腿から何かが漏れ出しているような気がしてならないのです。
シャワーを浴びて隅々まで洗っても流れ落ちないようで、張り付いてまとわりつくような感覚を強く呼び起こします。ひどくべたついているのです。気づけば手のひらも濡れたようなその感覚に犯されて、不快感に満ちている。
少しでもそれを減らしたくて髪を切りたいと思うのに、あなたがロングヘアーを好きだったことを忘れられずに決心できません。
シーツの上に流れる私の髪が、あなたの指に絡まることを思います。この細くよくしなる髪はそれでも掴まれれば痛みから逃れられません。
身動きできない不自由さと心が体が分離していくような奇妙な感覚を遠く思い出します。
仕事を辞めて。俺を選んで。
あざのある体は売り物になりません。隠したって浮き出てきて、文字通り染み出すように青が出る。
お客様を待ちながら、待機室で無為な夜を過ごします。
ひどく煙たい部屋です。けばけばしいワンピースやブランドのもののコスメ、誰のものかわからないライターと錠剤が転がっているのが見えます。
そんながらくたの山に足を伸ばすのが窮屈で、体育座りで何もせずに待っています。
とても安直な表現ですが、ここはこの世の果てのような様相をしています。
金髪や、リスカ痕や、ラリった目や、女の頭を引きずり回すヤクザや、呆然とした顔でぼろぼろ泣いている未成年、どこかで間違えてしまった人の行き着く、終着駅がここです。
ここにいる人間は、それなのに笑うのがとても上手い。
それ以外にはもう、何も持てないのです。
どうしてこの仕事をしているの。こういうことが好きなの。俺のはどうだった。借金でもあるの。こんな仕事やめなよ。彼氏いるの。何歳?店の外で会いたい。自分を大事にしなよ。普段は何してるの。さっさとして。付き合おうよ。イきそう。もう生でいい?家族は知ってるの。今日何回目。どれくらいしてきたの。いつまでこの仕事を続けるの。
「私はこの仕事、気に入ってるんです。屑で不潔で欲望の醜さに辟易する毎日でどうしようもない人ばかりだけどそれでも気に入っているんです。
お金だってたくさんもらえるから生活に困らない。お金があれば好きな人にしてあげられることも多い。
私ね、お仕事をした日に必ずひらくノートがあるんです。そこには、どんな人としたかと、数をつけてるんですよ。した人の数。仕事を始めてからずっと、欠かさずに書いてるんです。
きっともう二度と会えない人の数が、正の字になって増えていくんです。
何度も来てくれる人より、一度きりの人が増えていくのが嬉しい。
私も、相手も、きっと一度会ったことなんておぼえてない。したことも、忘れてる。おぼえてないことが、ただの数として在って、ふしぎですよね。
私も相手もおぼえていられないのなら、私の本音のひとつやふたつ、こぼしたってバチは当たらないと思うんです。
他人の距離なら、私を否定できない。やめられないんです、それが。
近くにいる人はとても大事で、信用できないから」
私はずっとシンデレラに憧れていました。
その美しさでもって他人を誑かし、忠誠を誓わせ、私という存在の全肯定を約束させる。
もう二度と会えないことの甘美な誘惑に打ち勝てず、舞踏会とは程遠い夜の淵から離れられない私の弱さを、あなたは見ている。
もう何年も、あなたは見続けている。
電話が鳴りました。仕事です。
「許して」
あなたの濡れた声が、確かに聞こえたように思いました。
それは身体中に纏わり付いて離れません。手のひらにあの感覚が蘇ってきます。
あなたのかけた、呪いの影が。




