異国情緒
◆一、空の彼方
――久方の 天つ空にも すまなくに 人はよそにぞ 思ふべらなる
『古今和歌集』巻十五 恋歌五 七五一
*
「あの人は行ってしまわれた」
彼女は泣きはらした目で、寒空の彼方を見上げて、つぶやいた。ともしびが白い息をわずかに照らす。もう二度と会えないと思うと、哀しみが溢れ出てきて止めることができない。異国風の服を涙が濡らす。
いや、諦めてはいけない。最善は尽くした。きっとあの人なら……あの人だったら、きっと会いに来てくれるはず……いつかきっと……そう信じるしかなかった。
そのとき、空に一筋の光が宙を駆け抜けるのがみえた。
「あ、流れ星……」
しかし、願い事をする間もなく、一縷の希望はうたかたのように消えてしまった。
どのくらい物思いに耽っていたのだろうか。遠くから、しびれを切らした心配そうな声が聞こえてきた。
「乙姫さま、どうしたのです。そんな格好で外に出ていると風邪をひいてしまいますよ。」
ああ、もう呼びにきてしまったのね。彼女はあわてて涙をふいて、お城に戻っていった。
○
蒸し暑い夏の夜。
彼はいつものように星を観察していた。彼は夏の夜空が好きだった。
とはいえ最初から好きだったわけではない。小さい頃、行きつけの喫茶店の店主に連れられて、天体観測をはじめてしたのは冬だった。手始めに、南の空に輝くオリオン座の見つけ方を教えてもらって、ベテルギウスやリゲルの位置を覚えたり、ウルトラマンの故郷M78星雲が実際にあることを知って興奮したりした。
プラネタリウムに行くようになってからは、ギリシャ神話に端を発する星座の物語がすごく好きになった。
今はもっぱら夏の大三角形が彼は好きだった。特にベガ、アルタイルが好きな星だった。織姫と彦星のあの浪漫溢れる七夕伝説が大のお気に入りだったのである。
ついに明日、二人は会うことが許されるのだ。一年に一度とはいえ、再会できるなんて、彼は二人が羨ましくて仕方がなかった。
あくる日。笹飾りの前に彼はいた。
彼が短冊にかく願い事は、あの日以来、ずっと変わらなかった。
<乙姫さまにまた会えますように>
そう、彼は乙姫とよばれる女性に会ったことがあるのだ。誰に言っても信じてもらえないのだが、これは純然たる事実である。夢などではない、すべてはっきりと覚えている。そしてこの出来事は、彼の人生を文字通り変えてしまったのであった。
今年も同じ願い事だけかいて、彼はそそくさと研究室に戻っていった。
◆二、おとぎの国
――汝、生有るものの中にも、鶴は千年、亀は万年とて、命久しきものなり。忽ちここにて命をたたん事、いたはしければ、助くるなり。常には此恩を思ひ出すべし
『御伽草子』
*
人の記憶は不思議なもので、たいていの日々のことは忘れてしまうのに、ある特定の日々のことは細部まで映像のように鮮明に覚えていることがある。彼にとって、言うまでもなくそれは、乙姫と出逢ったあの夏の日々だった。
ここからは、彼の回想である。
○
それは中学二年生の夏休みでした。宿題を早々に終わらせた私は、思いきり自由を謳歌していました。
毎年恒例のキャンプに行く途中で、小さな子どもたちが五、六人あつまって、なにやら楽しそうに騒いでいるところに遭遇しました。そばによってみると、ウサギの子を囲んで、棒でつついたり、石をぶつけたり、さんざんにいじめているではありませんか。あまりのひどさにいても立ってもいられなくなり、私は言いました。
「こら、キミたち。かわいそうじゃあないか。やめた方がいいよ。」
しかし子どもたちは聞く耳をもちません。それどころかいじめ方がどんどんひどくなっていきました。
よくみると、ウサギは悲しそうな目でこちらを見つめていました。助けて、と悲痛な叫びが今にも聞こえてくるようでした。
そこで私はふところからお金を取り出すと、子どもたちに差し出して言いました。
「それなら、そのウサギを売ってくれないかい。これで買うから。」
こうして私はウサギを助けることができ、すぐに逃がしてやりました。
数日後、楽しいキャンプも終わり、家に帰る途中のことでした。突然、誰かに名前を呼ばれているような、そんな気がしたのです。
「おや?誰かいるのかな?」
「わたくしですよ」
そこには助けてやったウサギがまるで人間のように、ちょこんと立っていました。
「わたくしは、先日助けていただいたウサギです。今日はそのお礼に参りました。」
はて、立って喋るウサギなんてこの世にいただろうか。不思議におもいつつも、夢ではないようだし、己の目でみたことはなんでも信じる方だったので、平静を装って答えました。
「当然のことをしただけですよ。たいへんだったでしょう。」
「本当に助かりました。もう少しで怪我をするところでした。ところであなたは竜宮に行ったことはありますか。」
ここでハタと気がつきました。この展開はまるで浦島太郎のようではありませんか。たしか、浦島太郎は楽しい日々を過ごして玉手箱を持ち帰ってきて、それを開けてしまって真っ白のおじいさんになってしまうという……。
これはどういうことだったのだったかな。ウラシマ効果といって、未来へ時間旅行をしてしまった、というのを聞いたことがあるような気がする。
でも考えてみれば玉手箱をあけなければこの体のままのはずだし、未来をみてみたい気もする。
生来の強い好奇心に打ち勝てず、私は興奮を隠しながら答えました。
「行ったことはないです。竜宮ってどこにあるのですか?」
「それはなんとも答えづらい質問ですが、遥か彼方ですよ。」
「遥か彼方……とても興味がありますね。どうやって行けるのでしょうか。」
「わたくしがお連れしますよ。ただし条件があります。竜宮への行き方は秘密なので、一度眠っていただいて、その間にお連れします。もちろん、帰ってこられますのでご安心を。」
すでにウサギの話に夢中になっていた私は、深く考えずに、竜宮に連れていってもらうことにしました。
今思えば、これが人生の分かれ道だったのですね……。
○
目がさめると、私は宮殿のような場所にいました。ここが竜宮のようです。異国情緒の溢れるその風景に、心臓が高鳴りました。そこでは聞いたことのない魅惑的な音楽が流れ、天にものぼる気持ちになりました。
そこへ麗しの乙姫さまがやってきたのです。
その姿は神々しく、気品があふれ、自分と同じ人間とは思えないほどでした。彼女は耳をくすぐるような美声でいいました。
「ようこそおいでくださいました。先日はウサギを救ってくださり誠にありがとうございます。お礼に、竜宮をご案内いたします。どうぞごゆるりとお過ごしくださいね。」
竜宮は天国のように居心地のよい場所でありましたので、ついに外に出ることなく竜宮生活を満喫したことになります。楽しい時間があっという間に過ぎるというのはまさにこのことでした。一日一日がとても短く、毎日あっという間に夜になりました。かの浦島太郎は、郷愁の想いにかられて自ら帰ることにしたようですが、早くに両親をなくし児童養護施設で過ごしていた私はまったく寂しくなりませんでした。いつまでもここにいて良いとさえ思いました。
懐郷病にかかる代わりに私は恋の病にかかってしまったようです。竜宮での楽しい生活は、いつしか甘い恋の生活へと変貌を遂げたのでした。
しかし幸せはいつしか終わりが来るのが世の常です。
ある日の乙姫さまは神妙な面持ちでした。いつも笑顔なのに、どうしたのだろうと思い、尋ねると、彼女は云いました。
「あなたは帰らなくてはならなくなくなってしまったの。」
唐突な宣告にとまどう私。
「どうして?いつまでも居たいよ。君と一緒にいたい。」
「法で定められたことだから、だめなのです。どうしようもありません。もちろんあなたと別れるのはとてもつらいけれど、仕方がないのです。」
「それならば、君もこっちの世界に来れば良いのでは……」
「それもだめなの。そもそもそれは最初から許されてはおりません。わたくしはあなたのもとの世界には行けないのです。」
「そんな……」
「ひとつだけ渡すものがあります。」
そういって彼女は一つの箱を持ってきました。
「おみやげにこの箱を差し上げます。どうしても、どうしても寂しくなったら、この箱をあけてください。」
「何が入っているのだい?」
「それは秘密です。きっとわかる日がくるでしょう。それからひとつだけわたくしからお願いがあります。」
「なんだい?」
「理科と数学の勉強をしっかりやってください。きっといつか役立ちますから。」
不思議なお願いでしたが、幸運なことに私は理科と数学がもともと好きでした。乙姫さまにいわれたのならば、死ぬ気でやるしかありません。
「わかりました。しっかりやります。今以上にがんばります。」
「それを聞いて安心しました。あなたにもう一度会えることを信じています。さあ、もう時間です。行かなくてはなりません。さあ、この薬をのんで……」
ふたたび眠りに落ちた私は、どんな方法かはつゆ知らず、元の世界へと戻っていきました。
◆三、匣の中の真実
――奇妙なことだが、真実だ
真実はつねに奇妙であり、
作りごとよりも奇妙だから
バイロン『ドン・ジュアン』第14歌
*
浦島太郎の物語では遠い未来へ時間旅行しているはずでしたが、じつはそんなに時間がたっていないことがわかりました。まだ夏休みは終わっていなかったのです。私は行方不明とされ、捜索されていたようですが、なんとか元の生活に戻ることができました。
二学期がはじまってから、私は理科と数学を一生懸命がんばりました。なぜそうすべきなのか理由はわからないのですが、乙姫さまとの約束は必ず守らなければなりません。おみやげにもらった箱は開けることなく、大事にとっておきました。開けてしまったらなにかたいへんなことが起きそうな気がして、開けられなかったのです。
その箱をあけるときがきたのは大学時代でした。乙姫のお願いのおかげか、日本最高峰の大学の理学部に入学できたのはよかったものの、健全なる男子にとって大きな問題がありました。私に振り向いてくれる黒髪の乙女など一人たりともいなかったのです。いえ、茶髪だろうが赤髪だろうが、いませんでした。私はいつしか、失恋の帝王となっていたのです。
このままでいいのか! そんなはずはあるまい。寂しい。寂しすぎる。持て余した青春のエネルギーをどこにぶつければいいのか。
鬱屈した心情で一週間ほど悩みました。あの箱を開けるべきか否か。脳内賢人会議がはじまりました。
脳内デカルト「われおもう、ゆえに開けるべき」
脳内カント「開けるべきであることはアプリオリに明らかである」
脳内ソクラテス「世界を動かしたいと願うなら、まずは自分自身が動きなさい」
――満場一致!
私は賢人たちを信じ、箱を開けました。
果たして――――
モクモクモク……などと煙が出てくることはなく、箱の中には手紙が入っていました。
○
一筆啓上申し上げます。
あなたがいつこの手紙を読むかは存じませんが、いかがお過ごしでしょうか。箱を開けたということは、寂しく思っていらっしゃるのですね。あの日、突然あなたを帰らせなければならなくなったときは絶望の淵に落とされた気持ちでしたが、この手紙に最後の希望を託します。
まずは、あなたが過ごした竜宮と、わたくしについて説明しなければなりません。
わたくしは、人間ではありません。いえ、正確にはほとんど人間なのですが、DNAがわずかに異なっています。実はわたくしは、あなた方の言葉でいえば、地球外生命なのです。
驚いたでしょうか。今まで黙っていて申し訳ありません。そう、竜宮は、地球から遠く100万光年離れた星にあったのです。こちらの星は地球よりも遥かに科学文明が進んでいます。すでに宇宙に進出していますし、わたくしたちの技術を使えば、どんな距離でもほとんど一瞬で移動することができます。この技術を使って、専門教育を受けた宇宙航行士は地球に自由に行くことができ、地球の知的生命体の観察を続けてきました。美しい地球は、わたしたちが唯一発見した、知的生命体がいる星だったのです。
さらに、善良な地球人をみつけて、こちらの星に連れてくることも行われました。
しかし、実はわたしたちと地球人との恋愛は厳しく禁止されているのです……。わたくしは隠しきれませんでした。あなたが帰らなければならなくなったのはそのためです。本当に申しわけございません。
ですが、唯一残された道があります。特例によって、恋愛が認められる場合があるのです。それは――――
<地球人みずからが、わたしたちの技術を用いずにこちらの星にくる方法をみつけること>
それだけの卓越した知性をもつ人であれば、わたしたちの仲間として認められます。
わたくしは一般人ですので、わたくしたちの科学技術については存じませんが、地球でもすでに長い距離を一瞬で移動する研究している人がいるようです。理論物理学者のキップ・ソーン博士の論文を読むとよいかと存じます。
きっとあなたならできると信じています。
かしこ
乙姫拝
すばるさま
◆四、異国風の冒険
――ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ?
リルケ『ドゥイノの悲歌』第一歌
*
手紙を読んですぐ私はキップ・ソーン博士の論文をとりよせ、怒涛の研究がはじまりました。
<エキゾチック・アドベンチャー>
これがその秘密のプロジェクト名でした。エキゾチックな竜宮の乙姫に会うための冒険です。
まずは問題をよく知らねばなりません。これまでの知識から、私は次のようにまとめました。
□乙姫さまは100万光年先の星にいる地球外生命である。
□100万光年を普通に移動したら光速で100万年かかる。
□光速をこえたら時間が逆流し過去に戻ってしまう。
□実際に私は乙姫さまに会ってタイムトラベルせず戻ってこられた。これは原理的に不可能ではない。
□どうすれば乙姫さまの元へ行くことができるのか?
ああなんてむつかしいのだろう。だけど難しければ難しいほど、私はその問題に萌えるのである。
○
「おい、すばる。いつまでそんながらくたで遊んでるんだ。お金になる研究をやりたまえ!今がキャリアを決定する分かれ道だぞ!」
もう100万回は聞いたかと思える台詞を聞き流して、私は今日もエキゾチック・アドベンチャーをつづける。
ワームホールは理論的には存在しているが、その安定化が難題であった。重力によって閉じようとする力が働いてしまうせいで、通路がブラックホールとなってしまうのである。通路は何かによって支えられていなければならなかった。
これに必要なのが負の質量を持つ物質である。通常の正の質量を持つ物質同士は重力によって引かれあうが、正の質量を持つ物質と負の質量を持つ物質は逆に反発しあう。いわば逆重力が生じることによって、ワームホールが閉じるのを防ぐのである。
その負の質量は、エキゾチック物質と呼ばれていた。
もう少しでエキゾチック物質を実験的に構成することができるとこまできていた。乙姫さま! もう少しの辛抱を!
○
キャリアを捨てて、エキゾチック物質をめぐる冒険に人生を賭けて早十年。同期の友人たちは社会の第一線で大活躍していたが、私は私の道をゆく。
皮肉にも、研究を進めれば進めるほど、エキゾチック物質の存在不可能性があきらかになる。エキゾチック物質が存在できる確率は地球に人間が生まれる確率よりもはるかに低い。乙姫さまの文明が、そんな奇跡に賭けたというのか。
最後の手段は、神にサイコロを振らせるというのがある。ある方法を使えば、きわめて低い確率であるが、エキゾチック物質が構成できるのであった。
私はその一か八かの大勝負にかけた。確率、100万分の1。
その方法を試す直前、普段こんなことをしないのだが、私は思わず天に向かって叫んだ。
「この私を、乙姫さまに会わせてください!」
(すばるの回想はここで終わっている)
○
「あ、流れ星……」
もう100万回はみたかと思われるほど、この星からは流れ星がよくみえました。ですがその日だけは、なんだか様子が違いました。
いつも願い事ができないのですが、その日だけはなぜかうまくいったのです。願い事の内容はもちろん、
<すばるくんとまた会えますように>
どのくらい時間がたったでしょうか。不思議なことにその流れ星はまだ消えませんでした。よくみると、夜空の向こうから、その星が近づいてくるではありませんか。
エキゾチックな意匠を凝らしたその星――エキゾチック号――は、わたくしのもとに降り立ちました。
そこから出てきたのは、あの知的な、気難しそうな、それでいて優しさの溢れる彼の満面の笑みでした。
○
最後の最後に語り手である。久闊を叙する。
エキゾチック物質をめぐる冒険を経て、すばると乙姫さまの関係がその後いかなる展開を見せたか、それを書くにはあと100万字は必要だと思われる。
子孫を残すことについてはDNAの壁も自らの知性で超えなければならず、その研究をするのにまた別のプロジェクトを経る必要があったし、次第に寿命が気になってきたから若返りの薬も開発する必要があった。また、平均寿命が100万歳までのびたためにその後の人生でも数々の困難な分かれ道に遭遇し、そのたびに書くに値するロマンチックなドラマが生まれた。それらについてはまたどこかで書くかもしれないし、書かないかもしれないが、これだけは言える。その物語は、がらくたなどではない、と。
もう時間だ。名残惜しいが、お別れだ。100万が一、再会することがあれば、そのときはよろしく。あなたも道中ご無事で!
この物語ががらくたではなくあなたを楽しませることに成功したことを私は祈る。そして、あなたの人生も決してがらくたなどでないと、私は信じるものである。




