白昼の箱庭
いつものように、先生は何も言わない。やわらかく日の差し込むこの部屋で、古びた椅子に腰かけた先生は、ただわたしの手もとを静かに見つめている。床にちらばる光と影と、まるでほの明るい水槽にとじこめられたようだ。ちいさな木箱にミニチュアを置きながら、遠くかすかな鳥の声を聞く。木の枝が風に鳴り、窓硝子がぴしりと音を立てた。見上げると、薄い雲のあいまを溶くようにして、水色が淡く広がっている。冬はもうすぐそこなのだ。
*
女の子たちは、わたしがここに来たときよりずいぶん減ってしまった。
空室の続く朝の廊下はしんと静まり返り、差し込む陽が、空気中のこまかな塵を鉱石のかけらのようにして反射させている。床のきしみ、吐く息は白い。ストーブに火を入れなければと、階段を降りていくと、がらんとした食堂の硝子戸から続く内庭に人影がある。既にそこには人魚姫がいて、華奢な足がちいさな影を踏んでいた。
「起きてたの」
わたしが出ていくと、彼女は振り向いて顔をほころばせた。
「おはよう。気が急いて、いつもより早く目が覚めちゃった」
霜のおりた内庭は、粒のような光に満ちている。池には薄い氷がはり、枯れ落ちた木の葉がその下に折り重なって凍りついていた。
「今日だね」
わたしの言葉に、人魚姫は頷いた。彼女には先週、手紙が来たのだ。
十八歳になると、町から迎えが来て、わたしたちはこの家を出なくてはならない。それはここに連れて来られた時に伝えられた、数少ない決まりのひとつだった。とはいえ誰も自分の生まれた日を知らないので、正確に十八歳だとは言い切れないのだったが。
「…ここに来た時のこと、思い出してたの」
人魚姫が言う。
「ずっとここにいたのに、今日の夜には自分がここにいないなんて、不思議」
わたしは人魚姫の隣に立ち、その指に触れる。
「怖い?」
「少し。…でもすごく待ち遠しいのが本当」
そう言って、人魚姫は幸福そうに微笑んだ。
それも当然なのかもしれない。わたしたちはその日を、彼女にとっては今日を、迎えるためにこの家に暮らしてきたのだから。
わたしたちは、それぞれがまだごく幼い時に、ここに連れられてきた。
わたしにとってのそれは何年前だったのだろう。ここでずっと暮らしていると、時はまるでないように流れていく。あの日、古びた門をくぐると、十人以上の女の子達が立ち、わたしの到着を待っていたのを思い出す。
「ようこそ」
今思えば当時一番年嵩だったのだろう、まず口をひらいたのはばら紅だった。
礼儀正しく澄んだ声の響き、美しい家とあざやかな草花の咲き誇る庭、艶やかに伸びた髪と、けがれひとつない細い手指をし、見たこともないやわらかな生地を身に纏う女の子たち。
わたしを待つ彼女たちの中には、まだ幼かった人魚姫もいた。ばら紅のスカートの裾を頼りなくつかみながら、髪を肩口で切りそろえた遠い日の彼女はわたしのほうを興味深そうにじっと見つめている。目が合うと、彼女はさっとばら紅の後ろに隠れた。
「この子も、同じように最近ここに来たの」
記憶の中のばら紅が言った。
「同じ年頃の子と会うのははじめてだから、気になるみたい」
彼女は人魚姫の髪をやさしく撫でる。そして、わたしのほうに視線を戻し、やさしく目を細めた。
――懐かしい。そう思っていると、ふいに視線の先、やけに頭の大きい人影が落ちる。
内庭の向こう、雑木越しに見える縁側に、鉢かつぎが立っていた。
いつもと変わらず、鉢かつぎはつばの広く、腰の深い帽子を被っている。そのため目元は影になり、表情は見えない。裸足のまま、じっとこちらを見つめている、その気配だけが感じられる。
鉢かつぎは、わたしと同じ日に、この家に来た。
彼女はほとんど話さない。ただ気がつくと、影のように立っている。
その口が、するっと動いた。
「きょうだよ」
頷くと、鉢かつぎはそのまま廊下の奥へすっと消えた。――
人魚姫は困ったように笑う。
風は冷たく、雲が流れていく。
まだしばらく内庭に残るという人魚姫を残し、わたしは家の中に戻った。
迎えの来る前に、するべきことをしなければならなかった。
「今日は本当におめでとう」
先ほどから、灰かぶりは焦がれるように続けている。
「本当に、とてもきれい」
太陽も天高くのぼりはじめた頃、部屋で唯一の高窓から陽が差し込み、薄暗く冷えた空間に、一筋光の道を作っている。家の中でも一番天井の高いこの部屋は半地下にあり、高窓から漏れる陽のほかは、ほかに明かりがないのだった。
がらんとした部屋には、中央にテーブルと椅子が3脚、テーブルには湯気が立つ小さなたらいと紅、ナイフ、白や青の切り花が置いてあり、もう1脚には、白い袖なしのドレスを着た人魚姫が座っている。薄手の布からは、彼女の色白い肌が透けて見えた。
最後の日、家に残る女の子たちは、――人魚姫のいなくなった後は、もう3人だけになってしまうが――家を出る女の子の身体をきれいにふききよめ、肌と唇に紅をさし、結った髪を花で飾る決まりだった。
わたしは、今まで何人もの女の子にしてきたように、たらいに満たしたお湯に清潔な布巾をひたし、かたくしぼって、丁寧に人魚姫の肩から腕、指先まで丁寧にふいてゆく。たおやかな手を取りながら改めて見る、人魚姫の爪はまるで桜貝のようにつややかで美しく、きっと彼女はきれいになっただろうと思う。
そうしている間も、あこがれるような口調で話し続ける灰かぶりに、人魚姫が困ったように笑った。
「本当にありがとう」
そして昔、ばら紅がそうしたように、彼女の頭を撫でる。
「わたしがいなくなったら、またこの家はさみしくなってしまうけど」
「大丈夫。だって、この家を出ることはとても名誉なことだから」
灰かぶりはそれからしばらく黙って人魚姫の髪を結っていたが、ふいに堰を切ったように、泣き出した。
彼女の涙が、人魚姫のドレスに落ちてしみを作る。さみしい、と彼女は繰り返した。
「わたしも早く、この家を出たい。美しくなって、それで素敵な人にみそめられて、そこで幸せに過ごすの。だってわたしたちはそのために選ばれて、ここに来たんだから」
灰かぶりは、ここに来てからの日が浅く、その面影もまだ幼い。だからなのか、ひときわ家を出た後へのあこがれと、自分のここにいることへの自負とが強いようだった。
わたしと彼女と――鉢かつぎ――、誰が先に家を出るかははっきりとはわからないが、その容姿年齢からして、彼女が最後であること間違いなかった。もうずっと長い間、あたらしい女の子も来ていない。自分がこの家を出る最後かもしれない、その思いが、灰かぶりの言葉に重みを生んでいた。
その町には、この世界中の殆どの人間が暮らしている。
夜も昼も関係なく光に満ち、建物の一つ一つは天を衝くほどに高い。人々は同じ言葉を話し、苦労することも何一つなく、身を粉にして働き、身体や心を壊すこともない。ただ美しい服を纏い、世に一つない見事な装飾品を身に着け、日々美しく享楽的に生きることだけを目的に生きている。
わたしたちはそこにいくために、ここに来たのだ。
――美しいまま燃やされて、彼らの美しい指やその首元に飾られる、宝石になるために。――
およそ100年前、人類の数と技術は臨界点に達した。以来、かつて何十億と言われた人口は減少の一途を辿り、今では殆どの町が廃墟と化している。100万と言われる人々の集まったたった一つの町が、かつて誇った文明の遺産の影に、夜も眠ることなく栄華を誇っていた。
わたしたちはその町の周縁の、打ち捨てられた廃墟に生まれた。
親の顔は知らない。町に行き損ねた多くの人々は、かつての遺物を食い潰し、次々子どもだけ生み捨てて、死んでいく。その子どもたちも、多くは長く生きられず、昨日は息をしていた身体が、翌朝には固くなって虫にたかられているのを幾度となく見た。ただの肉塊や骨が、道とも言えない道の彼方此方で臭気をあげる。わたしの親も、その中の一人だったのだろう。そこでは、歩いて人と出会うことはなく、時々動く何かを見た時は動物か、あるいは人間の形をした獣だった。
だから、彼らがわたしを見つけ、この家に来るか、そこにとどまるか、二つの道を提示した時、その実わたしにはそれを選ばないという道はそもそもなかったのだ。
彼らは薄汚いわたしの腕を取り、怪我がないか、痣などがないか、身体中を執拗に調べた。そうして、頷いたかと思うと、為されるがままだったわたしに名前を与えた。
「君には価値がある」
「きっと美しくになるだろう」
「君はがらくたのような今の姿から、生まれ変わることができる」
――少なくなった人間の灰を使って、宝石を作る。それは町に生きる人たちにとって最上の贅沢なのだと聞かされた。中々手に入らないそれは、今はもう見ることの叶わない海のように、美しく深い青色だという。その青の宝石を生むには、育ち切った大人の死体ではなく、年若くきよらかな少女たちの身体をつかうのが何より一番なのだと。
しかし、まだ幼い少女を燃やした灰では、宝石を生むのに量が足りない。だから、町から少し離れた場所で、十八歳になる時をわたしたちは待つのだと知らされた。――
「ねえ、お湯が冷めてきたから、上に行って沸かしてきてくれる」
布巾をひたしてしぼった後、わたしは彼女に言う。
「それにひどい顔だから、一度洗ってきたほうがいい」
「……うん」
灰かぶりがたらいを持ち、階段を上がっていくのを見送ると、わたしは冷めた布巾をきれいにたたみなおし、指で紅をとって、彼女の頬と唇に触れる。
「なんだか、ごめんね」
人魚姫が困ったように笑う。
「謝らないで」
「うん、でも」
微笑みながら、ちいさくうつむく彼女のうなじから胸元へ、まだまとめられていない髪が一筋さらりと流れ落ちる。わたしは後ろに立ち、その髪をまとめて手に取りそっとかきあげた。あらわになった白い首元に布巾がふれると、人魚姫は一瞬身をこわばらせる。
「ねえ、昔のこと、覚えてる」
「昔って、いつのこと」
わたしが訊くと、人魚姫も訊き返した。
「ここに来た時のこと」
――静まりかえった部屋に、ちいさく外から土を踏む気配がした。音は遠くからだんだんと近づいてきて、そしてすぐ上で止まる。わたしは全身で耳をすませた。高窓から差し込む陽が、影に遮られ、部屋は暗くなる。――
「……うん、覚えてる」
人魚姫は答えた。
「だから、ここに来たんだよ」
そして振り向いてわたしの目を見る。
「あなたもそうでしょう?」
わたしは上から、もう一度人魚姫の首元を見つめる。
「……そうだよ」
あの汚穢に満ちた場所から逃れ、永遠を手に入れるために、わたしはこの家に来たのだった。
「でも、」
わたしは手を回し、彼女の華奢な喉元を撫でた。見た目以上にそれは細く、頼りなかった。
私は言った。
「宝石も摩耗するから」
「え」
「宝石も永遠じゃないから。だから、永遠なんて嘘」
――鉢かつぎが教えてくれた。――
何の話、と人魚姫が声を上げる間もなく、わたしは撫でていた両手に力を入れた。親指に力を込め、彼女の喉を絞める。なんで、と彼女の口から苦しそうな息が漏れ、テーブルの花がばらばらと落ちた。なんでもなにも、とわたしは答える。人魚姫じゃなきゃだめだから。そう言ってかまわず力を入れ続ける、
*
棚から一つ、わたしはミニチュアを取り上げる。
女の子を模したそれをしばらく手であそばせた後、わたしは頭を指でつまむ。少し力を入れただけで、その首は簡単に手折れた。
それを砂の入った、内側が青く塗ってある箱の中に置く。
水槽だ、ともう一度思った。この箱の中は、ここは、水槽なのだ。海を忘れた魚たちの泳ぐ。
隙間から先生は何も言わないで、じっとわたしを見つめている。固くはめられた格子窓から差し込む陽は冷たい。拘束具をはめた頭が重かった。風が鳴る。冬は、もうすぐそこなのだった。




