鯉患ひ
約2万字。notハッピーエンド。
◇ 0.プロローグ ◇
「可愛い子……よくよく覚えておおき。人魚の力は呪いだ。力を使うなら、かならずやり遂げなければならないよ。なにがあっても、途中で止めてはいけない。行き場をなくした呪いは、術者へ返ってくるからね」
◇ 1.赤い鱗の人魚 ◇
ジュリィは退屈でした。穏やかな海の底は、とても美しい世界だけれど、どうにも刺激に乏しいのです。宮殿を飾る珊瑚や真珠を探すのにも、姫様の宴で披露する歌の稽古にも、すっかり飽きてしまいました。
飾りもの探しも、歌姫も、若い娘たちに人気のある大切なお役目です。それをつまらないというのは、よくないことだとわかっています。
けれども残念ながら、ジュリィは装身具に興味がありませんでしたし、華やかに着飾って宮殿で歌うよりも、陽の当たる浅い海を泳ぎまわり、自分の鱗がきらきらと輝くさまを見る方が、ずっと好きでした。
「ジュリィ。ジュリィ。きみは今日も綺麗だね。鱗がきらきら光ってるよ」
「あなたの背びれも素敵よ、マーリン」
「とてもとても。きみの鱗には敵わない」
ジュリィは、三姉妹の末っ子で、とびきり美しい娘としてしられていました。
みながみな美しい人魚たちの中にあっても、ひときわめだって、ジュリィの鱗は綺麗でした。珊瑚の紅いのを、濃い方から薄い方まで順ぐりに並べたような繊細な色あいに、一等綺麗な真珠にも負けない艶があるのです。
――私の鱗にはどんな装身具も見劣りしてしまうに違いないわ、とジュリィは思います。
みなが口々に褒める鱗のことを、ジュリィはとても誇らしく思っていましたし、美しい鱗どころか、しなやかな尾すらもたない人間の娘たちのことを、可哀想だとも思っていました。
「ジュリィ、その鱗をよくみせて」
「ジュリィ、つぎのお休みには南の海を泳いでみせて。あなたが通ると、ぱあっと水が華やいで、みんなとても喜ぶの」
「歌姫になったんだって? ジュリィ、この海で一等綺麗な人魚の歌を聴かせておくれよ」
ジュリィは、ツンとすまして答えます。
「いやよ。私は歌いたいときにしか歌わないし、泳ぎたいようにしか泳がないの」
ジュリィには、すこしばかり、気位が高くて、わがままなところがありましたけれども、とびきり美しい鱗をもつ若い娘として、みなによく愛されていました。
◇ 2.笛の青年 ◇
お役目をぬけ出したジュリィが、東の海をひとり泳ぎまわっていたときのことです。もっと陽の光をよく浴びようと、ジュリィが海面に頭を浮かべた拍子に、遠く、かすかな笛の音が聞こえました。
――きっと人間だわ。
ジュリィはふしぎに思いました。どうしてこんなところで、人の演奏が聞こえるのでしょう。人がたくさん暮らしている街までは、まだずいぶん距離があるはずでした。
風のイタズラかとも思いましたが、しばらく耳をすませていると、とぎれとぎれに笛の音は鳴りつづけています。優しく、穏やかな音色は、よく肥えたジュリィの耳にも心地よく感じられました。
ジュリィは、よほど人間の寄りつかない、ちいさな島がそばにあったことを思い出して、すこし近づいてみることにしました。
あまり褒められた行為ではないと、わかってはいました。姐さま方は、若い娘が人間へ近づくことを快く思っていないのです。語り部の大婆さまがいうことには、昔々、人の世に交じったばかりに、悲しい結末をむかえてしまった娘がいたのだそうです。
――でも、みつからなければ問題ないわ。
ジュリィは好奇心をおさえきれずに、島を囲んでくるくると泳ぎまわります。
すこしずつ、すこしずつ、輪を狭めて近づくほどに、笛の音がよく聴こえてきます。ここまできたら、ジュリィには、奏者の正体をしらずに帰るつもりは、まったくなくなってしまいました。
「だれもいないみたい」
泳ぎ疲れたジュリィは、ぐったりと岩場に上半身をあずけて、つぶやきます。
「べつに、残念に思うことなんてないわ。姐さま方の演奏のが、ずっとずっと素敵だもの」
漁夫たちの間では、人魚の奏でる音楽は、この世のものとは思えないほど美しいと語り伝えられているのだそうです。ほかの音楽をしらないジュリィには、どんなに言葉をつくした説明も、さっぱりよくわかりませんでしたが、姐さま方の奏でる歌が、とても素敵なものだということは、よくわかっておりました。
ジュリィは歌が嫌いなのではありません。けれど歌うことは、どうにも好きになれませんでした。
ジュリィもまた、見習いの歌姫ではありましたが、あの、とてもとても素敵な音の渦に包まれると、その中へ混ざって響く自分の声、まるで調和を乱すように響く声が、邪魔ものに思えてしかたなかったのです。
ため息をついたジュリィは、湿った岩から身を起こして、ぐっと背筋を伸ばします。きらきらとした日差しを浴びながら、ゆっくりと息を整えて、ジュリィはまぶたを下ろしました。――そうして、さざなみの立つ海面へ、ぽつぽつと歌声を落としていきます。
海の中はとても自由で、美しく、窮屈でした。こうして水の外に顔を出している間だけ、ジュリィは、だれにも聴かれずに、気の向くまま、まったく美しくもない旋律を、好き勝手に歌うことができるのです。
耳に残る笛の旋律を頼りに、軽い気持ちで口ずさみはじめたジュリィですが、そのうち気分が良くなってきて、すこしずつ、すこしずつ、声を張り上げていきました。ジュリィや姐さま方が暮らす西の海の底には届かなくても、島の海岸線に響き渡るほどに、だんだんと大きく、大きく――。
「素敵な歌だ」
とつぜん聞こえた人の言葉に、ジュリィは驚いて、身体も口も固まってしました。
「こんにちは、赤いお嬢さん」
振り向けば、若い人間の青年が、岩場の向こうに立っています。ジュリィはパチパチと目をしばたいて、それからあわてて尾を岩の陰に隠しました。理由もなく人間と接触したことがバレたら、姐さま方から厳しいお叱りを受けると思ったのです。
「ごめん、驚かせたかな。僕は目が悪くてね……きみがそこにいて、綺麗な赤いスカートを履いているのはわかるんだけど、近くまではいけそうになかったんだ」
そういって、困り顔で頬をかく青年の腰には、素朴な服装とは不釣り合いに、しつらえの良い横笛が下がっておりました。さきほどの奏者は彼であったのでしょうか。見るからに大切にあつかわれている笛を見て、ジュリィはすこしだけ、青年の話につきあってやってもよいように思えてきました。
「きみの歌声はとても綺麗だね」
「歌? いいえ私の歌なんて」
ジュリィは鼻で笑います。
――だって、私は、容姿も歌も平凡だもの。みんなが口々に褒めるのは、髪でも声でもないもの。
ジュリィは思います。
美しい旋律に乗った、美しい声。美しい調和。もしもジュリィに、あの中へ混ざる資格があるとしたら、与えられる役割はきっと、美しい鱗をきらめかせて泳ぎまわることでしょう。そうしてみな、ジュリィを褒めそやすのです。決して、ひとりの歌姫としてではなく。
「あなたは本当に素晴らしい歌をしらないのよ」
ジュリィは、ピシャリと赤い尾を水面に打ちつけます。自慢の鱗も、どうせ青年の目には見えていないのですから、かまいやしません。
「うーん……」
青年はすこし考えて、答えます。
「西の海には、いまでも人魚が暮らしているそうだね。彼女たちの歌は、それは素晴らしいものだと聞くけれど、残念ながら僕には、水中深くの歌を聴ける耳はないんだ」
なにがいいたいのでしょう。首をかしげたジュリィの様子を見て、青年はつけたしました。
「たしかにね、僕は歌をよくしらない。けれど、すくなくとも僕の聴いた中で、きみの歌が一番、自由で、突拍子もなくて……だからかな、僕まで嬉しい気持ちになったんだ」
青年は、屈託もなく笑っていいます。
「もう一度、歌ってくれないかな」
「いや。……絶対にいや!」
ジュリィはなんだかとても恥ずかしくなって、海水を飛ばして逃げだしました。カッカと照る頬を冷ますように、いつもよりずっとずぅっと深く潜って、一目散に泳ぎます。
――それでも、名乗りもしないまま別れた青年の声が、ふしぎに耳に残り、くすぐったくて仕方ありませんでした。
もどってきたジュリィを見つけて、教育係のミーリアがいいます。
「ジュリィ――ジュリエッタ! あなたはまた、どこへいっていたのです」
「ミィ姐さま……」
ジュリィは、まだどこかフワフワとした心のまま答えました。
「私、歌が好きになったのかしら」
「まぁ」
歌の練習から逃げだしてばかりのジュリエッタが、まさかそんなことを言いだすなんて、ミーリアは思いもしませんでしたから、すっかり驚いて、用意していた小言を忘れてしまいました。
「どうしたの。あなた、いつも歌姫なんて辞めたいといっていたのに」
「なんでもないわ。ただ、ミィ姐さまのように素敵な声で歌えなくても、私には私の歌があるって、気づいただけなの」
ぎゅっと胸の前で指を握って、ジュリィはいいます。あの人間に、ふたたび歌を聴かせることはないでしょう。それでも――もしも、いつか遠くにあの笛の音が聴こえたら――胸を張り、大きく喉を震わせて、音を重ねられたら――。
「あの、ミィ姐さま、私……」
ジュリィの決心を、ミーリアは喜んで聞きました。
「あなたの好きなようにすればいいのよ。だれも咎めたりしないわ。この海を泳ぎまわっていたときのようにね」
――その日から、ジュリィの日課に、歌の練習が加わりました。
◇ 3.大嵐の日 ◇
ひと月ほど過ぎたころでしょうか。歌の練習を終えたジュリィを呼び止めて、ミーリアがいいました。
「ジュリィ。東の海が荒れているの。すこしいって、様子を見てきてくれないかしら」
「私でいいの?」
「遠くへいきたがる娘は、少なくなってしまったからね。稽古をぬけ出して、なんども海を渡っていたあなたなら、安心して送り出せるわ」
ジュリィはすこしバツが悪くなって、もごもごと口ごもりました。その様子を見て、ミーリアは厳しく言い含めます。
「いい、見てくるだけよ。なにか異変があっても、決して関わってはいけないわ。どうしても気になることがあったら、帰ってきて私に伝えなさい。できるわね?」
「ええ! もちろんよ、姐さま」
一も二もなくうなずいて、ジュリィは逃げるように飛び出していきました。
通いなれた海も、その日は、なんだか様子がちがいました。ミーリアがいったとおり、東へ、東へと泳いでいくうちに、どんどん波が高くなっていきました。ジュリィは海中深く潜りつづけることができましたから、波に逆らって進むこともそれほど苦ではありませんでしたが、いつもより視界が悪くて、気をぬけば迷ってしまいそうでした。
……このまま沈んでいても、はっきりとした様子はわかりません。ジュリィは、とにかく海面まで浮上してみることにしました。
激しい雨と風を受けて、海はひどく荒れつづけていました。さすがのジュリィも、頭を浮かべつづけていることには苦労しました。なんとか姿勢を整えても、たちこめる霧にさえぎられて、遠くの様子はまるでわかりません。ひとつわかるのは、そう離れていない場所に、ぼんやりとした船影があるということだけです。
――こんな日に人間の帆船を見つけるなんて!
ジュリィは驚きました。ここは、大陸から遠く離れた沖合のはずです。ジュリィは、まだ自分がいる位置をきちんとわかっていましたが、あの船はどうでしょうか。
「まずいぞ、これ以上船体が傾いたら」
「くそ、風が強すぎて……身動きが……」
「おーい、だれかぁ!」
「無理だ、こっちだって手が離せな――ぁぁあぁ」
「どうした!? くそ、あと何人残ってる? 収まる見込みはないのか」
「ま……まちがいない。こりゃあ、噂の――」
雨風に混ざって、いくつもの悲鳴のような声が聞こえてきます。ずいぶんと立派な船で、甲板の上をあわただしく動きまわる人影もたくさんありました。そのうち、ひとりふたりが海に投げ出されたようにも見えましたが、ジュリィには関係のないことです。
「――大嵐か」
ひときわ凛と響いた声に、ジュリィはハッとしました。口ぶりこそちがいましたが、その声は、いつかの笛の青年とよく似ていたのです。
「殿下! 船室にお戻りください」
――そういえば、ここはあの島からも離れていないはずだわ。
ジュリィは、サッと青ざめて海中に潜ると、いまにも転覆しそうな帆船の下へ泳いでいきました。
かつては、人魚の歌には魔力が宿っていて、こうした大嵐を呼ぶことも、収めることもできたと聞きます。けれど、もちろんジュリィの歌にはそんな力はありませんし、たとえあったところで、たかだか人間ひとりの命のために、そんな勝手は許されないことでしょう。
このあたりと目星をつけて浮上していくと、頭上に船底が見えました。ジュリィの目の前で、船は大きくバランスを崩して、ぐらりと傾いていきます。水の中は静かなものでしたが、いまごろ海上は大騒ぎでしょう。
ジュリィは、こっそりと帆船の横に顔を出しました。激しい風と揺れの中、だれもが投げ出されまいと必死にしがみついていて、ぽつりと浮かんだジュリィに気づく人間は――いました。ただひとり、不安定な甲板の上から、どこか焦がれるようなまなざしで海面を見つめていた青年が、ジュリィと視線を交わらせたのです。
「ッ――」
目をみはってなにかをいいかけた青年は、驚いた拍子に手を緩めてしまったのでしょうか……突風に煽られるようにして、海へ投げ出されてしまいました。
それを見たジュリィは、あわてて荒海に沈む青年を追いかけました。
なんとか腕をつかんだものの、気を失った青年の身体は予想以上に重く、彼を抱えていては、いつものように自由に泳ぐことはできそうにありません。
まして水中で呼吸のできない人間がいつまで潜っていられるのか、ジュリィには見当もつきませんでしたから、とにかく必死になって浜を目指してみるしかありませんでした。
きっと、ここからあの島までなら、なんとかジュリィの力でも人間一人を抱えて泳ぎつけるでしょう――。
岩場を避けて、柔らかい砂の上に青年を横たえたジュリィは、このまま彼を置いて帰ってしまうべきか悩みました。
青年は、まだ目を覚ましません。じっと観察してみると、髪の色も、目鼻立ちも、やはりどことなく笛の青年に似ているようです。以前の服装とはうってかわって、ずいぶんと仰々しい上着をはおってはいましたが、あの笛のしつらえを考えれば、むしろこちらの方が自然なようにも思えてきます。
そのとき、ゲホゲホと咳き込んだ青年が、水を吐きだし、うすらと目を開きました。
「……生きて、いる……?」
「気がついたの?」
ジュリィの姿を見て、青年は丸く目を見開きました。もうすこし元気があったなら、きっと飛び起きていたことでしょう。
「きみ、は……僕を助けたのか? なぜ」
戸惑ったように青年は尋ねます。
「べつに、ただの気まぐれよ」
ジュリィはツンとすまして答えました。
――それに、もしもジュリィを見つけたせいで彼が落ちたのだとしたら、見殺しにするのも気分が悪くなったことでしょう。
もっとも、あのときのジュリィは、そんなことはこれっぽっちも考えておらず、ただ早く助けなくてはと焦っていましたけれど。
「てっきり、きみたちには嫌われているものだと思っていた」
青年は視線を外して、ぼそぼそとつぶやきました。
「え? なにかいった?」
「驚いたんだよ」
「あらそう。でも、私の親切心はここまでよ。デンカだかなんだかしらないけど、港まで送ってなんかあげないから、あとは自力でなんとかしなさい」
以前もここにいたのですから、帰れないということはないでしょう。ジュリィとしては、ミーリアに怒られる前に、早く宮殿へもどってしまいたかったのです。
「いや、僕は、もともとこの地を訪れる予定だったんだ。おそらく迎えは来る」
「この島へ?」
「ああ……会いたい人が、いるかもしれないと」
ジュリィの顔に、サッと赤みがさしました。
「これも、なにかの思召しなのだろうか。だとすればなんと……」
ひとりごとのようにつぶやいた青年は、ようやく顔を上げてジュリィにいいました。
「きみは、よくこのあたりへ来るのか?」
「たまにはね」
ジュリィは肩をすくめます。
以前のように頻繁にぬけだせはしなくても、息抜きに遠出することくらい、許されるだろうと思ったのです。
「あらためて礼をさせてほしい。五日間だけ、僕に時間をくれないか?」
「それは――」
「もちろん、期日が過ぎれば帰す。考える時間もいるだろう。もし気が向いたらでいい。一週間後、またここで会おう」
青年の強いまなざしに押されて、ジュリィはなにもいえないまま、こくりとうなずいてしまいました。
◇ 4.魔女の呪い薬 ◇
ジュリィが助けた青年の正体は、ミーリアが教えてくれました。
「きっと、大陸の王子ね」
「オウジ?」
「人間の姫さまのようなものよ。彼らは男が政をするの」
「姫さまの……」
とてもそんな風には見えなかったけれど、とジュリィは首をかしげます。ジュリィのしる姫さまというのは、とても美しくて素敵な方だけれども、すこしばかりおそろしくも感じられるほど、凛と生命力に満ちた瞳をしているものでしたから。それに比べると、一度目に会った彼は、すこしばかり無邪気すぎ、そして二度目に会った彼は――なんだかおかしな影を負っていたように思うのです。
ジュリィが考えこんでいると、ミーリアは厳しくいいました。
「まさか、その王子様に恋したわけでもないのでしょう? 会いにいくのはやめておきなさい」
「でも――」
「ジュリィ。陸で生きる術も、代償を捧げる覚悟もないのなら、あきらめるしかないのよ」
広い海を渡り、自由自在に泳ぎまわることのできる人魚ですが、陸の上を歩くための脚はもっていません。
……ジュリィには、大婆さまの語る昔話のように自慢の鱗を差しだすつもりはありませんでしたから、しぶしぶミーリアの言葉にうなずくしかありませんでした。
しかし、素直にはあきらめきれない気持ちのまま、ジュリィは、しばらく海底を泳ぎまわっておりました。
「ジュリィ」
しゃがれた声に呼び止められ、ジュリィは顔を上げます。
「おいで。お前を悩ませるものがなにか、私はしっているよ」
「魔女さま……!」
それは、百年を生きた魔女とも呼ばれる、年嵩の人魚でした。すこしばかり偏屈なところがある魔女は、にぎやかな若い娘を嫌い、また娘たちからも陰気な性格を忌み嫌われているようでした。
けれど、ジュリィは別です。ジュリィは、呪いが得意な魔女のことを慕っておりましたし、魔女もまたジュリィのことを娘のように可愛がってくれました。
「ジュリィ。美しい我が娘。お前の願いを叶えてやろう」
「本当に!? 魔女さま」
ジュリィは喜んでいいました。
「私、脚が欲しいと思うわ。陸の上ならね。でも、海を自由に泳ぎまわれる、この尾をなくしてしまいたくはないの」
「ああ、わかるよ。陸にいる間だけ、脚が欲しいんだろう?」
「ええ、でも……」
ジュリィは、紅い綺麗な鱗に覆われた尾を、ゆらりと一振りします。
「もとどおりにもどれる?」
「もちろん、私の言いつけを守れるのなら、術はある。でもね、お前もしっているように、私の呪いには代償が要るんだ。お前は地上で足を得る代わりに、声を失うだろう」
「つまり、話せなくなるってことでしょう」
「水の外だけだがね。言葉を音にできなくなるんだ。……話したい相手がいるのかい?」
ジュリィはすこし悩みましたが、好奇心に負け、魔女の条件をのむことにしました。
一瞬、ジュリィの歌を褒めた青年の顔がよぎりましたが、二度ともどらないわけでもありません。陸上での刺激的な体験を思えば、安い代償だと思ったのです。
「いい子だ……それから鱗を一枚もらうよ。お前がもどるために必要になるからね」
魔女は満足げに微笑んで、ジュリィに薬を渡してくれました。
「なんですって!?」
ジュリィの話を聞いて、ミーリアはギョッとしました。
「陸に上がるなんて正気じゃないわ、ジュリィ。あなた、大婆さまのお話を忘れたの?」
ジュリィは、もうすっかり心を決めていましたから、いくらミーリアに反対されても、意志を曲げるつもりはありませんでした。
「いいえ、姐さま。私は望まれて陸へ上がるのよ。ほんの五日間、人間の気まぐれにつきあってくるだけ」
――あの青年は、喜んでくれるでしょうか。
つまるところジュリィは、別人のように暗い眼をしていた王子様のことが、気になってしかたなかったのです。
◇ 5.お迎えの日 ◇
約束の日、ジュリィはミーリアに止められないように、こっそりと宮殿を離れました。いつもならめだつ紅い鱗も、日の出前の海の中では、よほど眼を凝らして探さなければ、見つけられないことでしょう。
東へ、東へと泳ぎつづけ、ジュリィは暗いうちに島へたどり着きました。魔女の薬は、しっかりと胸に抱いています。
青年と出会った岩場に腰を落ち着け、ジュリィは、薬の入った小瓶を開けました。
ようやく太陽が顔を出して、世界を一面の橙色に染めていきます。
瓶の底には、ちいさな真珠色の丸薬がひとつ沈んでいました。朝陽に透かすと、丸薬は、橙色の輝きを集めるように色を変えていきました。
「綺麗……」
ジュリィはうっとりと見惚れて、それから、茜色に染まった丸薬をゴクリと呑み下しました。するとみるみるうちに、紅い鱗に覆われた尾は、赤いスカートに隠れた脚に変わりました。――魔女の薬の効果は本物のようです。
おそるおそる足先を海水につけてみます。パシャパシャと水を跳ねさせてみても、脚がもとにもどる様子はありません。
ふしぎな感覚に夢中になって遊んでいると、ジュリィの隣に影が落ちました。
「来ないだろうと思っていた」
――不意に話しかけるのが好きな人ね、といおうとして、ジュリィは口もとを押さえました。ぱくぱく、と普段のように唇を動かしてみても、息を送ってみても、なるほど魔女のいうとおり言葉にはなりません。
お忍び用らしき軽装をまとった王子は、ジュリィの近くへ寄って首をかしげます。
「どうかしたのか?」
人間のように文字を綴る習慣があればよかったのですが、長い時間を海の底で生きる人魚たちは、歌や語りによってのみ言葉を伝え残すのです。ジュリィも例に漏れず、文字を綴ることはできませんでした。
意思疎通する術がみつからず、ジュリィは喉に手を触れて左右に首を振りました。
ジュリィの様子に、ほんのすこし驚いたように目をみはった王子は、すぐに平静な顔を取り戻して笑います。
「なるほど、……そういうことか」
そういって、どこか暗く、それでいて嬉しげに笑うのです。ジュリィはいびつな表情が気に食わず、『おかしな笑い方をするのね』と小馬鹿にしてしまいたかったのですが、やはり言葉にはなりません。
しかたなく代わりに、すぐ近くにあった王子の頬をつまんで、気持ちの悪い笑みを崩すことで溜飲を下げることにしました。
「な……」
いきなり頬を伸ばされた王子の顔といったら、あまりにも間が抜けていて、ジュリィは手を離しながら、思わず笑ってしまいました。
「楽しそうでなによりだけど、きみをそのままの姿で連れていくわけにはいかないんだ。僕の言葉はわかるんだろう? この上着を貸すから、羽織ってついてきておくれ」
ため息をつきながらジュリィの手に服を押しつけると、王子はさっと身を返し、港の方へ歩いていきます。その背中を見て、はたと思いだされたことがありました。
――目が悪いといっていたのは、うそなのかしら?
渡された上着をはおり、両手の空いたジュリィにだって、紅いロングスカートをさばきながら慣れない脚で岩場を歩くのは、なかなか難しかったのです。
思わず先を進む王子の腰元を確認してしまいましたが、あの、上等なしつらえの横笛は下がっていません。たまたまかもしれません、けれど、あの笛のことが、なんだかジュリィは気になったのです。
視線に気づいた王子は振り返り、まったく危なげのない足取りでもどってきて、ジュリィに手を貸してくれました。
「きみがいいのなら、抱えていこうか?」
ジュリィは、首を振って王子の申し出を断りました。いまのうちに、すこしでも脚で歩く感覚に慣れておきたかったのです。
「そう――ああ、ひとつ言い忘れていた。きてくれて嬉しいよ。本当に」
手を握りながら「ありがとう」と微笑む王子に、ジュリィはなにもいえずに、コクリ、とうなずきました。すこし前の影のある微笑とは一転、無邪気な笑顔は、あのときの面影にもぴたりと重なるようで――彼の本性がどこにあるのか、ジュリィにはわかりませんでした。
◇ 6.王城の暮らし ◇
ジュリィを城へ迎え入れた王子は、たいへん手厚くもてなしてくれました。
壮麗なお城――装飾の美しさだけを競うなら姫さまの宮殿の方が数段上ですが――華やかな衣装――ドレスを着つけようとする女性からジュリィは必死で逃げました――せわしなく歩きまわる人々――その多くは冷たい目をしていました――なにもかもが目新しく、ジュリィの好奇心をくすぐる体験でした。
けれど、どんなに新鮮な体験でも、次第に飽きがくるものです。三日が過ぎるころには、ジュリィは、城内の散策にすっかり飽きてしまって、与えられた一室のソファにぐったりと横になっておりました。
王子は日中、執務室とやらにいるのだそうですが、それはあまりにも無機質な部屋で、ジュリィはあまり近づきたくありませんでした。「なにかあれば自由に来ていい」と教えられた王子の私室もまた無味乾燥としていましたから、あれは王子の好みなのかもしれません。なにもかもが無色で、ついぞ彩りというものの見当たらない部屋なのです。
ジュリィは、ぼんやりと、昨夜のことを思いだしました。華やかな宴。華やかな場所に集う、華やかな人々。華やかな一時を彩る、華やかな音楽。余興に招かれた『歌姫』は、美しく着飾った美しい人間の娘で、なるほど美しく澄んだ声をしていました。けれど――。
「ほう……これほど美しい歌声は初めて聴いた」
しみじみとつぶやく王子の顔を、ジュリィは見ることができないまま、音にならない声でつぶやきました。
(いいえ、姉さまの方が素敵だわ。あなたも本当に素晴らしい歌をしらないのね)
ジュリィは、いつかの笛の青年が王子ではないことを、とっくにわかっておりました。すこし前、若い侍女が廊下で怒られているのを、聞いてしまったのです。――王子殿下は赤い色がおわかりにならないのだから、身の回りの品をそろえる際にはくれぐれも気をつけなければなりませんよ、と。
そうした配慮の結果が、あの彩りのない部屋なのでしょうか。思えば、たしかに王子は、嵐の日も、城へ招いてくれた日も、庭園を案内してくれたときも、色の話題はいっさい出しませんでした。
王子はまた、もしもジュリィが望みさえすれば、ジュリィの滞在を永遠にでも認め、ゆくゆくは王冠すらも与えてもよいと――どこまで本気かしれませんが、とにかくそのようなことを周囲に漏らしているらしいことも、ジュリィはしっていました。
人の良さそうな外見に反して、王子はなかなかしたたかで抜け目のない性格をしているようでしたから、もしかしたら遠まわしにジュリィを引き留めようとしていたのかもしれません。
しかしこれまでのところ、王子にジュリィの自由を奪おうとするそぶりはありませんでした。また、あれ以来、暗い影を感じさせることもありません。
王子の好意は、ありがたいものです。けれど、ジュリィにとって、陸の生活は思いのほか退屈なものでしたし、なにより王子を愛する気持ちには、なれそうにありませんでした。言葉や態度とは裏腹に、王子から向けられるまなざしから、真摯な恋慕を感じたことなど、一度もなかったのですから。
――帰りたい、とジュリィは思いました。あの美しい海の底へ。美しい音と彩と、あたたかな好意に満ちあふれた故郷に、帰りたくてたまりませんでした。
◇ 7.暗転 ◇
約束の朝。ジュリィは王子の部屋の前に立って、どうやって自分の意志を伝えようかと考えていました。このまま王子と暮らすつもりはない、約束通り海に帰る、ただそれだけのことを王子に理解してもらえればよいのですが、言葉を音にできず文字のわからないジュリィにとっては難しい問題でした。
ようやく覚悟を決めて戸を叩こうとしたジュリィの目の前で、扉は勝手に開きました。
驚いて固まるジュリィを、王子もまた驚いた顔をして出迎えます。
「きみか……めずらしいな、僕に会いたくなった?」
ジュリィは黙って王子をにらみつけました。このひとは、いつも。やわらかい微笑みを張り付け、瞳と口の端にだけ相手を小ばかにする色をのせた器用な顔で、思ってもないことばかり言うのです。
「冗談だよ。どうぞ入って」
王子はおどけた振りをしてジュリィを迎え入れます。
毎朝、彼の寝室の奥にある小部屋で、向かい合ってお茶を飲むのが二人の日課でした。とはいっても、いつもは王子が迎えに来て、強引にジュリィを連れ込むのですが。
そこは、寝室と繋がっているだけあって、使用人にも入らせない特別な部屋なのだそうです。ジュリィには、ほかの部屋となにが違うのかよくわかりません。ただ、床に大きな戸があるので、きっと王族専用の隠し通路かなにかだろうと思っていました。
こうして二人で会うときの王子は、人に囲まれているときよりもいくらか自然な感じがして、ジュリィはこの時間が嫌いではありませんでした。
「もう五日か、あっという間だったな。きみと過ごした時間は本当に楽しかった」
――うそつき。
ジュリィはそっと視線を外しました。あなた、私がお城にきてから本当に嬉しそうな顔をしたことなんて、一度もなかったじゃない。
「……出会わなければよかった」
聞き間違いでしょうか。あまりにも似合わない、弱弱しい声のつぶやきに、ジュリィは目を丸くして王子を見つめます。王子はハッとした表情で、とりつくろうように続けました。
「別れ際にそう思うような別れはよくないだろう。きみには満足して帰ってもらいたいんだ。すこしでも心残りがあるのなら、もっと滞在期間を延ばしてもいいんだよ」
ジュリィはだまって首を横に振りました。この場所に、ジュリィが望むものはなにもありません。まあ、あなたが心から望むのであれば付き合ってあげなくもないけれど、とジュリィは心の中で付け足します。もっとも、そんなこと、あるはずがないのです。
――それに、見ていたくない。
執務中に紙の束を見下ろす、温度のない瞳。淡々と叱責を飛ばす、誰のことも信用していないと言いたげな硬い声。こそこそと噂話をする侍女たちに向ける、ぞっとするほど冷たい無表情。宮中での王子の振る舞いを見るたびに、なんともいえない感情が胸を満たしてジュリィは苦しくなりました。
たった五日間を過ごしただけのジュリィにも、王子に心からの親愛を向ける人間が存在しないことはわかりました。おなじ王族でも、みなを愛し、みなに愛されている姫様とは全然違うのね、と始めは驚きましたが、いまは哀れにも感じます。ここはそういう場所なのです。あたたかい海の底とは、なにもかもが違いました。
あなたの方こそ、そんなふうに生きているくらいなら、こんな退屈な世界は抜け出して、海のそばで暮らせばいいのに。あの島で話していたときが一番いきいきしていたわ。もっとちゃんと笑えていたじゃない。
そんなジュリィの考えなど、王子が知るはずもありません。
「どうしても気持ちは変わらない? そう――なら、しかたない」
ジュリィの不満をどう受け止めたのか、王子は意外なほど素直に答えを受け止めて席を立つと、床の戸に手をかけてジュリィを手招きました。帰り道を見せてくれるのかしら、とジュリィは素直に席を立って、王子に近づきます。
「きみは水の中にいたほうが幸せだと僕も思う」
古めかしい戸が持ち上げられると、覚えのある香りが鼻につきました。
この匂い、は、まるで――。
「ごめんね」
その声が聞こえるか聞こえないか。どん、と背中を押され、懐かしい海の匂いに誘われて身を乗り出していたジュリィは、頭から戸の奥に落ちました。驚く間もなく、ばしゃりと大きな音を立てて、深い水の中に沈んでいきます。
――どういうこと? 帰してくれるんじゃなかったの?
ごぽり、と空気の泡が漏れ出して、代わりに水が流れ込んできます。とっさに喉を押さえましたが、ジュリィはすぐに息の仕方を思い出しました。
ここは水の中。
私の慣れ親しんだ、海の水。
落ち着いてまわりを見渡すと、全身が浸って、尾さえ戻れば泳ぎ回れそうなほど大きな、周囲を囲まれた水槽の中にいることがわかりました。唯一開いていた天面も、ジュリィが見つめる前で蓋が閉じて、すぐに鎖と鍵がつけられてしまいました。
(あなた、なにしてるの!?)
ジュリィの喉は、ひさしぶりに音を発しました。
しかし、この状況をつくった犯人――王子にはまったく聞こえていないようです。
「驚いたな、きみは本当に水中で呼吸できるんだね。とても綺麗だよ……ずっと閉じ込めていたいくらいに」
地下室の中へ降りてきて、しらじらしく口にする王子の姿を、分厚いガラス越しに、ジュリィは茫然とみつめました。
◇ 8.届かない心 ◇
王子は毎晩のように地下へやってきて、大きな水槽の底で丸まるジュリィを、虚ろな目で見つめました。
「なぜ、僕を助けた……なぜ、この国に来た……きみは、本当に、なにもしらないのか?」
(しるわけがないわ。ただの気まぐれだっていったじゃない。ねえ、ここから出してよ)
ジュリィの声は、なんど試してみても、王子には届きませんでした。
なぜか王子の声は聞こえるのに、こちらの声は聞こえないようなのです。これも呪い薬の効果なのかもしれません。きっと、王子はジュリィに声が聞こえていることにも気づいていないでしょう。
だからこれは、ジュリィに向けられた言葉ではなく、ただのひとりごとなのです。
「この国は、いや、この血は、人魚に呪われている。あれは十年に一度の特別な夜だった。王家の者が海に出れば大嵐が船を沈める。厳重に隠されてはいるが、いくつもの記録が悲劇を物語っていた……僕はそれをしっていた」
王子はひとり淡々と語りつづけます。
「しっていたんだ。半信半疑ではあったけれど、……あの日、大嵐が船を襲うことを。そして、きみを見つけて、確信した」
王子の拳が、無造作に水槽を叩きます。伝わる振動と、苦虫をかみつぶしたような王子の表情に、ジュリィはびくりと震えました。
「なのになぜ、僕はまだここに生きている」
窮屈な水槽には、逃げ場はありません。とっさに後ろに退いたジュリィは、ガラスに背中をぶつけて我に返りました。
王子は、なにに憤っているのでしょう。
いまのところ、彼は水の中にいるジュリィを害するつもりはないようでした。
ガラスにくっつきそうなほど顔を寄せ、距離の縮まった王子に、一抹の希望を抱いて、ジュリィはすがりつきます。
(出して。ここから出して。帰して! あなたの事情なんて、しらないわ。ただ私は――)
「あとすこし……あとすこしだけでいい……それで、すべて終わる」
やはり、いくら水中で声を張り上げようとも、ジュリィの想いは届きません。
これから先、どれほどの時間がたったとしても、声の届く場所まで王子が沈んでくれることはなく、もし仮にそんなことがあったとしても、彼の心は固く閉ざされていて、ジュリィの意思が受け入れられる余地はないのでしょう。
ジュリィは、いつまでも視線の交わらない王子の頭を見つめ、震える指をガラス越しに重ねました。
――届かないのです。こんなものがなくとも、決して。
◇ 9.魔女のナイフ ◇
約束の期日から、さらに一週間がたった、ある日のこと。来る日も来る日も、水の中から出ることも許されず、じっと水槽の底で横になっていたジュリィの前に、ゆらめく陽炎のような人影があらわれました。
(――大婆さま? ……どうしてここに)
ガラス越しに見える姿は、語り部たる最長老の大婆さまのものです。ガラスに張りつくようにして身を寄せたジュリィに、影は笑いかけます。
「私が思うにね、ジュリィ。『人魚姫』はいくつかのあやまちを犯した」
(え?)
「お前は賢い子だ。先人の犯したあやまちを、よくしっていた。お前が自ら求めたおかげで、こんどばかりは間違いのないように、あるべき筋へと導いてやることができる」
(なにをいっているの、ねぇ、大婆――……)
ジュリィは違和感の正体に気づきました。
(魔女、さま?)
大婆さまが、こんなことをおっしゃるはずがありません。この語り口は、しゃがれ声の魔女のものです。呪いが得意な魔女であればこそ、こうしてジュリィの元に姿をみせることができたのでしょう。
「よくわかったね。そうさ、これは我が娘の姿を借りた現し身。自慢の髪を差し出しても、妹を救うことのできなかった、哀れな姉の老いさらばえた姿だよ」
(私の声が聞こえているのね! 魔女さま、どうしてこんなことに……ああ、私はどうすればいいの?)
「いまさら悔いたって、どうにもならないんだよ。可愛いジュリィ。こうなることはわかっていたじゃないか」
(そんなこと……術はあると教えてくださったのに)
「私の言いつけを守れるのなら、といっただろう? あれは、末の娘を奪った憎き王の末裔なのさ――いいかい、これで、あの王の血を引く息子を刺すんだ。それですべて終わらせられるよ」
魔女は、ガラス越しに、赤い刃物をみせました。
(さ、す……?)
それは、とても美しい紅色をしていました。一等綺麗な真珠にも負けない艶があり、部屋の灯りに照らされて、きらきらと輝くその紅を、ジュリィはよくしっていました。
「お前の鱗から作ったナイフだよ」
魔女は答えました。
「これはお前の一部。お前の心。何者もお前から取りあげることはできない。お前が自由を取り戻したとき、初めてお前に還るだろう――」
魔女の姿が煙の中に消えると、ジュリィを捕らえていた水槽の鍵は、みるみる腐食して壊れてしまいました。
おそるおそる蓋を押し上げ、ひさしぶりに外へ出たジュリィは、絨毯の上に濡れた足先を下ろし、遺された赤い魔女のナイフを――そっと、拾い上げました。
◇ 10.王子の望み ◇
ジュリィは、魔女のナイフを胸元に抱いて、小部屋へ上がり、隣室につづくドアを開けました。鍵もかかっていないなんて、これも魔女の力でしょうか。
音を立てないように気をつけながら、素足のまま絨毯の上を歩いていきます。
王子は、寝台の上で眠っているようでした。あまりにも安らかな寝顔に、ジュリィはもう王子が死んでいるのではないかと思っておそろしくなりましたが、よくよく見れば、胸元がかすかに上下していました。
――刺すんだ――あの王の血を引く息子を――魔女の声が、くりかえし頭の中に響きます。
燭台の灯りを反射して、ナイフが紅くきらめきます。
王子は仰向けに、そして無防備に、じっと横たわっています。
規則的に上下する胸の上に、震える手でナイフを構え――ジュリィは、そこでどうにも動けなくなりました。
「……殺さないのか」
不意に、王子が目を開け、静かに問いました。
すっかり油断していたジュリィは、ナイフを握ったままピタリと動きを止めました。
「僕が憎いだろう。許せないだろう。嫌いな人間をひとり殺せば、きみは故郷に帰れるんだ。なにを迷う必要がある?」
ジュリィは、首を振りました。――嫌いでは、たぶんないのです。
「先のことを心配しているのなら安心していい。帰すと約束しただろう……。僕が死んでも代わりはいる。きみが手をくださなくとも、僕は早晩、病死することになっている。夜の間に街を抜ければ、その先を追われることもない。生きているのが手違いのようなものだからな」
王子は淡々と、おそろしいことを口にします。
「もとより、僕という個人に好意的な相手などいなかったが……きみにも周りにも、いよいよ見捨てられてしかたないことをしたと思っている」
首を振りつづけるジュリィの手首をつかみ、王子は微笑みました。
「妄言と聞き流してくれていい、僕は……愛されることより憎まれることより、きみに捨てられることが、おそろしくてたまらなかった。死を覚悟した船上で、きみと初めて目があった瞬間から、ずっと、それだけが」
ジュリィは、王子の目を見て、気づきました。彼がジュリィを通してみていたもの、ずっとひそかに望みつづけてきたことに、気づいてしまいました。
そう、あのときも――あの、嵐の日も、彼は、まったくおなじように、焦がれるような眼で海を――死を、見つめていたのでした。
ジュリィはもうナイフを手放してしまいたいと思いましたが、どうしても指は開こうとせず、手のひらにくっついてしまったかのように、ナイフはピクリとも動きません。
「勝手な願いだとわかっている。だがこれは、きみにしか解けない呪いだ」
その間にも、王子はジュリィの手を動かして、ナイフの切っ先を、自らの胸にあててしまいました。
「どうか――僕を生かしたきみの手で、僕を終わらせてくれ」
ジュリィの指が震えて、力が抜けたその瞬間――まるで吸い込まれるように、ナイフは音もなく王子の胸の中心へ沈んでいきました。
ジュリィは声もなく叫んで、飛び退きます。
床の上にへたりこみ、震えるジュリィの目に、点々と散った赤いしぶきが映ります。……すこしばかりわがままで、気位の高い王子様の声は、もう聞こえてきません。
血濡れた魔女のナイフは、それでもまだジュリィの手のひらに吸いついて、すこしも離れようとしませんでした。
◇ 11.ひとり舞台 ◇
……海に。
海に、帰らなければなりません。
ジュリィは、ぼんやりと思いました。
夜の暗いうちに、城をぬけ出して、街を越えて、逃げのびなければなりません。王子から受け取ったすべてを置いて、あの暖かい故郷へと――そんなことが、許されるのでしょうか。
(私……どうすれば……ねぇどうすればいいの、魔女さま……いわれたとおりになったわ……もうあとにはもどれない……もどらない……ああ魔女さま、どうして……導いてくださるというのなら最期まで、……ッどうしてだれも教えてくれないの!?)
ジュリィの言葉は、水の外では、やはり音になりません。――いまだ、声を上げて泣くことも許されないのです。嘆きと鎮魂の歌を捧げることも許されないのです。
思えば、幼いころから教わる物語はバッドエンドばかり。あなたはそうならないようにね、と、口を酸っぱくして言い含められてきました。教えに背いたのは、ジュリィです。
紅いナイフはジュリィの咎をつきつけるかのように、ずしりとその存在を主張します。いつまでも、いつまでも……まだ終わらせてはくれないのだと、思いしらされるのです。
王子のいったとおり、あんなことがあったというのに、城をぬけ出す間、だれもジュリィを見咎めてはくれませんでした。
騒ぎが起こっていないわけではないのです。奇妙なことに彼らの関心の矛先は、だれが王子を殺めたかということではなく、王子が亡くなった――本人の言葉を信じるならほんの少し早く――ということ、それ自体にしか向いていないようなのです。
ジュリィにはもう、どうしたらよいのか、まったくわかりませんでした。ただ黙々と、捨てることのできないナイフを片手に、石畳の上を歩きつづけます。
――立ち止まってはいけない。進まなくてはいけない。でもどこへ? やはり海へいくしかないの?
ほかの案など、ジュリィには思いつきません。海に帰れば、それで、終われるのでしょうか。
次第に足の感覚が遠のいて、がくがくと震えだします。一歩一歩踏み出すたびに、突き刺すような痛みが強くなっていくようです。ふらふらと、暗い闇の覆った街をさまよい歩くジュリィの耳に、王子の言葉が蘇りました。
――あとすこしだけでいい……それですべて終わる。
終わってなどいないのよ。勝手に役を降りたのは、あなただけ。あなたのワガママのせいで、滑稽な私のひとり舞台は、まだつづいているの。悪夢のように。
――僕は早晩、病死することになっている。
勝手な人。なにもかもを受け入れて、自ら結末を手招いているかのように取りすまして。私、しってるのよ、あなたのこと。よくしっているわ。
――僕を生かしたきみの手で、僕を終わらせてくれ。
だって私はあなただもの。まるであなたの写し鏡だもの。ねえ、わがままで気位の高い王子様。あなたは負けたくないだけなのよ。欠陥を抱えたあなた自身を認められないだけなのよ。意地を張って、心を閉ざして、目を逸らしたまま……終わりを、望んだのでしょう。
(私が、終わらせた……)
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――こんなつもりじゃなかったの。こんなことになるなんて、しっていたのなら、私は姫さまの宮殿を離れなんてしなかった。
……いいえ、うそ。私は、しっていたわ。人と関わった果ての悲劇を、きちんと教えられていた。だけど、変える方法があるなんて、だれも教えてくれなかった。もっとひどくなる可能性なんて、だれも。
ずっと限界を訴えていたジュリィのひざが、とうとう、心とともにガクリと折れました。石畳にぺたりと腰をつけて、ジュリィはうなだれます。もう、力が入りそうにありません。立ちあがる気力も、歩く気力も、……生きる気力さえも、ないのです。
ぽろぽろと、ジュリィの目から涙がこぼれてきました。そんな資格はないと思っても、止まらずあふれてきます。
帰りたい――海に――帰して――もういや――これは悪い夢――なにもかもすべて夢の出来事――。
それでもしばらくの間、ジュリィはすこしでも故郷の海へ近づこうと、両腕の力だけで石畳を這っておりましたが、両脚に血のにじみだす擦り傷が増えていくばかりで、一向に港へ近づけそうにはありませんでした。
身も心も疲れ果てたジュリィには、脚の痛みすらも感じられません。力も入らず、感覚もない――もしかしたら、魔女の呪いが解けかけているのでしょうか。そうすると、やはりあの王子は生きてはいないのだと――ジュリィが与えたナイフの傷により、孤独のまま世を去ったのだと――ジュリィはますます苦しくなって、泣きながら海を目指すよりほかなくなるのです。
せめて、王子の望んだ悲劇を演じきるために。
◇ 12.私の愛した王子様 ◇
ゆらゆらと揺れる感覚に起こされて、ジュリィは、自分が眠っていたことに気づきました。
「海に、帰せば……きみを救うことができるのかな」
ぽつりと落とされた声に、ジュリィは身じろぎします。――だれ? だれかわたしを抱えているの? わたしを海へ帰してくれる?
「気づいたかい?」
うすらと目を開けたジュリィに、青年は柔らかく笑いかけました。その顔は。その声は。
「もしかしたらとは思っていたんだ。こんな形だけれど、また会えてうれしいよ。本当に」
「……ぁ、ぁぁ」
あなた、と言いかけてジュリィは、かすかな音が喉から漏れ出たことに戸惑いました。
「無理に話さなくていい。だいじょうぶ、このあたりに人目はないし、きみの海はもうすぐそこだから」
青年に触れられている脚の一部に、赤い鱗ができていることに、ジュリィは気づきました。生暖かく濡れた感触を感じるたびに、鱗の面積は増えていくようでした。――ナイフ、が。ジュリィの手に、いまだピタリと吸いついたままの紅いナイフが、青年の腕を傷つけていたのです。そして、青年の腕から伝う血に触れたところだけ、呪いが解けかかっているようです。
「代わりに僕の話を聞いてくれないか。わけあって離れて暮らしていた弟が、病に倒れたそうでね。もう長くはない、僕に帰ってこいという報せがきた」
――ああ、なんてこと。
ジュリィは、ようやく青年の正体を、分かたれた彼らの運命を悟りました。
――どうして、あなたも王子なの。
「病床に臥せっている弟自身からも使いがきたよ。まだどちらが『贄』になるか決まっていなかったのに。勝手なことをして失敗したからやり直す、自分に何かあれば赤い少女を海へ送ってくれと言うんだ」
息をのむジュリィに、青年はさみしげに笑いかけました。
「……きみがここにいるということは、僕は間に合わなかったのかな。海が荒れて、予定より一週間も遅くなってしまったから」
ジュリィには、もう、なにが本当のことなのか、すっかりわからなくなっていました。
一週間。思い出すのは、約束の日から毎夜毎夜ジュリィを閉じ込めた水槽の前に通い詰めては、思いつめた目をしてたたずんでいた王子の姿です。
なにを考えていたのでしょう。
なにを待っていたのでしょう。
ただひとつ確かなのは、あのときのジュリィは、いいえ、それ以前も、ずっと、わかってもらいたいばかりで、なにも知ろうとしていなかったということです。
「どうしようもない弟だけれど、どうか許してやってほしい。きみに一体なにを強いたのか知らずに勝手を言うけれど……もう終わりにしてくれるのなら、どんな罰も代わりに受けるつもりだ」
ジュリィの意に反して、魔女のナイフはカタカタ、カタカタと小刻みに震え、青年を突き刺そうと暴れはじめていました。魔女はいいました。あの王の血を引く息子を刺せ、と。――まだ、呪いは終わっていないのです。配役ちがいの舞台の幕は、まだ、下りていないのです。
「実を言うとね、帰りたいわけではないんだ。望んだ居場所ではないけれど、あれでも僕の家には違いない。みな守るべき僕の家族だ。僕は家族を救いたい。そのためなら、たとえ悪魔の契約でも結んでしまうだろう。あいつも、きっと……これは愚かな人のサガなのだろうね」
――愚か? いいえ、愚かなのは私。なにも知らず、知ろうともせず、不満ばかりを口にしていた幼い私。
柔らかく、己の運命を呪うでもなく、ただ受け入れて微笑む青年のことが、ジュリィにはまぶしく感じられて、しかたありませんでした。
もし、『僕が死んでも代わりはいる』と王子が語ったのが、兄のことであるのならば、王子を死に――それも限りなく自殺に近い死に――かりたてたのは、この優しい青年の存在と、ジュリィとの出会いなのでしょう。終わりに焦がれていた者に、かっこうの口実と手段を与えてしまったのです。
――私は。
――私にできる、選択は。
ジュリィは、震えつづけるナイフを握りしめ、その刃を腹に――自分自身の腹に、すこしずつ埋めていきました。青年を傷つけることがないように。青年が傷つくことがないように。苦痛の声も上げることができない今の自分ならば、目の悪い青年には悟られず、海につくまで庇いきれると思ったのです。
ふしぎなほどに、迷いはありませんでした。
この痛みも苦しみも、なにもかも、ジュリィが王子に与えたものです。
国中から疎まれた、哀れな王子様――ジュリィに出会わなければ、彼は、いくばくかの欠点を抱えながらも、皆に愛される王子でいられたでしょうか――あるいは愛された王子のまま、海の藻屑と散れたのでしょうか。
あの嵐の夜、ジュリィのワガママが彼を生かしたのです。
そして今夜、ジュリィのワガママが彼を殺したのです。
青年の優しさを感じるほどに、ジュリィの胸は苦しみを覚えました。あの歪んだ王子の想いが、いまなら痛いほどにわかりました。苦しくて、苦しくて、それでも言葉にしたい感情は山ほどあるのに、伝える術は失われているのです。
――ありがとう。
――ごめんなさい。
震える腕を青年の首に回して、音のない唇を動かします。はじめから……ジュリィが彼を愛し、彼のために終わりを選んだのなら、物語は美しく幕を閉じたのでしょうか。もしもまだ救われることがあるとすれば、ジュリィにはたったひとつだけ選択が残されていました。呪いを完成させない、という、あまりにもささいな抵抗が。
――愛したかった。叶うことなら、あなたを。けれど、もう。
ジュリィは、たったひとつの願いを、最後の別れに込めました。
――どうか。
――どうか、あなたは、しあわせに。
すべてを押し隠すように微笑んで、驚く青年に口づけを贈ると、ジュリィは身をひねり、尾ひれのように血を流しながら、呪いのナイフもろとも海に沈んでいきました。
深く、深く、暗い海の底へ沈んだ果てに待つ『終幕』を、ジュリィはよくしっていました。それは魔女の望む終わりではなく、そして王子が思い描いた終わりでもないのでしょう。
これは人魚姫などではなく、望まれて陸へ上がり、望んで海へ還った、ワガママな人魚の娘の物語――それで、よいのです。ジュリィが選んだのは、人魚の愛に気づいてくれない王子様などではなく、気づいた上で別れを強要する、残酷でワガママな王子様なのですから。
ともに過ごした、わずかな時間――交わらない視線を、不器用な優しさを、深い孤独の闇を、とうとう嫌うことができずに、こうしていま、ジュリィは彼の期待を裏切ろうとしています。それでよいのだと、決めたのです。
赤く染まった水面の向こうに立ちつくす青年の歪んだ像を見つめて、ジュリィは微笑みました。
――せめて、あなただけはなにもしらぬまま。
それは、ジュリィの遺した、最期のワガママでした。
◇ 13.エピローグ ◇
我に返った青年は、あわてて海に飛び込みましたが、暗い海に沈んだ少女の行方はわかりませんでした。
やがて、その耳に、かすかな歌声が届きます。それは、かつて海岸で聴いたときよりも、ずっとずっと澄んだ美しい歌でした。青年は、歌の聞こえる方へ向けて腕を伸ばしますが――その手がつかんだのは、海中をただよう無数の泡だけでした。
海面に顔を出した青年は、その頬に一筋の涙を伝わせ――言葉にならない慟哭を、冷たい夜に響かせました。彼の眼には、半分に欠けた月と周囲を飾る無数の星々の輝くさまが、生まれて初めて鮮明に見えていました。
なにより見たいと願ったものが失われてしまった後で、ようやく完全な視界を手に入れた王子様は、色と形を分け合った双子の弟と、互いに欲しがった少女の喪失を、冷たい海の中、ひとり噛みしめておりました。
人魚と王の息子たちの出会った島は、ずいぶん昔に沈んでしまったそうです。一説には、人魚の嘆きが大嵐を招き、海底深く飲み込まれてしまったのだとも伝えられておりますが……その海域に潜ると、どこからともなく哀しげな人魚の歌声が響いてくるのだそうです。完成されることのないまま術者に返った呪いが、人魚の願いへと形を変え、今も尚、水底深く息づいているかのように。
海の泡と消えた人魚は、数百年の時を越え、ひとり愛しみを歌いつづけているのです。
――これは、恋の病に侵された、わがままな人魚の娘による、遠い昔の御伽噺。