第6話 雲はモフモフ
飛び降りて来たハルを雲は優しく包み込み、トランポリンのようにポーンと跳ね飛ばした。飛び上がったハルは器用にクルクルッと空中一回転して雲に着雲し、また何度も飛び跳ねる。
人間の力を超えた、凄まじい跳躍だ。
ハルは全然ストレス無く、思いっきりエンジョイしている。それに対しシュンは戸惑うばかりで、ふらつきながら躍動するハルを見つめるだけだった。
すっかりご機嫌なハルは何度目かの跳躍後、シュンのいる雲に戻って来て勢いよく寝転び、ゴロゴロとあちこち回転しまくった。これが地面なら叩き付けられてお陀仏だが、雲だから問題ない。
「わー柔らかい! モフモフする! モフモフだよ! モフモフ〜! 私、モフモフ好きなんだ〜♡ 小学校の遠足で動物園に行った時見た羊やアルパカなんて、もう最っ高!! 三つ前の学校にいたウサギも可愛かったし。だから生き物係やってたんだよ! ちょー気持ちいい!! あ〜モフモフ〜〜 モフモフ〜♡」
本当に気持ち良さそうで、極上のケーキを賞味した後みたいに、ほっぺたが落ちている。あの、猫を捕まえた時の表情とそっくりだ。そんなモフモフに夢中な彼女を置いて、シュンは散策することにした。
何も遮るものは無い。本当に雲だけの世界だ。風になびきゆったりと形が変化するので、とにかく落ちないように、注意深く歩く。ハルでは無いが、フカフカする歩き心地が気持ちいい。
雲の端から見下ろすと、眼下にはミニチュアのような山や町が広がっていた。模型店で見るジオラマより、はるかに精巧だ。地形と都市の関係が、良く分かる。
シュン達のミェバも、やや遠くに見えた。太陽を浴びた雲が、下の町に投影されている。こうやってみると、何処にも自治区の境界はない。
シュン達が乗る綿菓子雲は、他の雲達と連なって大編隊を組み始めた。風で進むので、速度はゆったりとしている。速く軽やかに飛ぶ鳥達が、雲の下を抜けて行った。シュンはハルを忘れ、暫く下の景色に見入っていた。
痛ッ!
背中に何かがぶつかった。振り返るとハルがシュンに向けて、何かを投げつけてきた。しゃがんで足元で何かをこねている動作を見るに、雲をちぎって丸めてボールにしているようだ。
「それ!」
無数の玉を、マシンガンのように連射して豪速球で投げつけて来た。なかなかの運動神経で、このスピードならエースになれる。売られた喧嘩は買う性格のシュンも、手元にある雲をちぎって丸め、投げつけた。
「きゃ!」
一投目は、見事にハルの顔に命中だ。
雲も雪と同じ水の結晶だから、怪我の心配はない。
だがこの一撃は、ハルの闘志に更なる火をつけたようだ。
目がさっきよりも一段とマジになっているのが、遠目からもわかる。
「やったなあ!」
しばらく激しい雪合戦、もとい雲合戦が始まった。
「ひゃ!」
一進一退の攻防が続く最中、ハルの姿がこつ然と消えた。
「どうした?」
事態の把握に勤める為に、ハルの居た場所に走りよる。
するとそこには、大きな穴が開いていた。
どうやらボールを作り過ぎて、雲が下まで抜けたらしい。
ハルは何処に? もしかして?
「さ、櫻菜さん〜?」
流石に心配になる。
「ここだよ〜」
元気な声のする方を見下ろすと、こちらを見上げるハルの顔が穴から見えた。ちょうどうまい具合に、下の雲に飛び降りられたようだ。
「こっち来なよ!」
ハルは気軽に呼ぶが、足元にぽっかり開いた穴と真下にある街を見てシュンは怯む。長い葛藤の後、文字通り清水の舞台から飛び降りる気持ちで、シュンは意を決してジャンプした。
* * * * *
地に足がつかない感覚はふんわりモゾモゾして、落ち着かない。目を瞑りながら落ちると、永遠とも思えた瞬間の後、柔らかいクッションに包まれ無事着雲した。落下中は血の気が引いたが、やってみると何とかなるもんだ。
「おりゃぁ〜!」
勇気を振り絞ったシュンの心意気をこれっぽっちも全く理解しないハルは、シュンから逃げるように大きく飛び跳ね、隣の雲へ飛び移って行った。
「ほら、こっちまでお出で〜」
いたずらっ子のように、舌を出して挑発してくる。一度やってみて、シュンも要領を掴んだ。何故か跳躍力が普段の何倍にもなり、カエルやバッタみたいに軽々と跳べる。
ハルは既に慣れたもので、雲から雲へと、八双飛びで渡って行った。
まるで、テレビゲームみたいだ。
時折スカートが風とジャンプの勢いで凄い状態だが、極力目をそらす。
「あのおっきな雲まで競争しよ!」
更なる勝負を挑まれたシュンも、受けて立った。
「よっしゃ〜」
様々な速度で流れる雲を、二人はうまく使って、どんどん飛び乗っていった。
初めて分かったが、雲の質はそれぞれ微妙に違う。バネとなる雲の弾力は、実際に乗らないと分からない。ジャンプもあわせて力の入れ具合を注意しないと、飛距離を出せない。
加えて気流も場所によって異なり時折押し返されるので、思った通りに中々進まなかった。逆にそれが、二人のやる気に火をつけた。
やっとの思いでシュンが目的地に着いたとき、ハルは既にゴールして待っていた。
「残ねーん! ビリ! じゃあ罰ゲーム!」
「え、聞いてないよ!」
「うん、今決めた」
「分かったよ」
何を言っても無駄だろうと、シュンは既に諦めていた。
「ほっぺにチューして」
「え?」
「ほっぺた•に•チュー! キス! ご褒美で良くやるでしょ?」
予想外のお願いにシュンは戸惑い、心臓の音がバクバクする。
自慢じゃないが、生まれてこのかたそんな経験は無い。あ、もしかしたら小学校一年の時に、ユキとしたかも知れない。あん時はあいつもまだ可愛気あって、シュンのお嫁さんになるとか言ってくれてたな。けれど所詮は大人の真似事で、おでこ同士がぶつかり痛かった記憶しか無い。
第一、女子の、しかもかなり綺麗な子のほっぺたに触れるなんて恐れ多い。それが今、目を瞑ったハルが、無防備に、ほっぺたを差し出していた。シュンはこわごわと、もう少しでハルの柔らかなほっぺに触れそうな至近距離まで、近づいた。
オキミ神社の時とは違う質の心臓の音が、ドクンドクンと頭の先まで循環している。頭が混乱し、足も震えてきた。が、
「きゃー」
「うわっ」
急に突風が吹きぬけ、二人はよろめいた。雲は一段と早く流れ、ミニチュアのような街並は、さっきの二倍速ですーっと流れ去っていく。雲の固さは変わらないが、気流の影響をもろに受け、シュークリームにバナナにと、雲は更に目まぐるしく変化していった。
「きれい」
ハルはさっきの罰ゲームをすっかり忘れたようで、下界を見下ろし、小さな街並をうっとりと眺めはじめた。シュンも、隣でハルと一緒に景色を眺めた。
遠くから眺める風景は、リアルなノイズを消し去り、絵画のように綺麗に変換される。あの動く車や川の流れが、普段見るのと同質とは思えない。どこか他人事な風景だ。
人が住む領域は思ったより狭く、山野の方が大きな比重を占めていた。切り開かれた道は細く、大部分は野生の動物達が我が物顔で走り回る。昔からの風景だ。
それでも広大なカナ平野は圧巻で、別格だった。
長年に渡り隅々まで人の手入れが行き届いた様が良く分かる。
そしてその中心に、イェドがあった。
「お、久しぶり!」
ハルは旧友に会ったように、イェドの街に声をかけた。
えぐり取られたように見える円形の海は、黒い一週間の跡だ。
周辺を取り巻く超高層ビル群は、一部が雲を貫いていた。