第5話 櫻菜ハルは変貌する
「起っきろぉ〜 シュン!!」
遠くで僕を呼ぶ声がする。
母さん?
いつもの朝かと思って、シュンは条件反射的に目を開けた。
だが、
(うわ、眩しい!!)
開いた視界の先はハレーションを起こすくらいの乱反射と輝度で眩しく、シュンはまた目を瞑った。体を起こすのも辛い。
そんなシュンの状況に気付いているのかいないのか、声の主はシュンの方へ近づいて来た。だんだんと声が明瞭になってくる。
遂には側に立ち、シュンを揺さぶり始めた。小さな声で「こら起きろ!」とブツブツ言ってる。母さんでもカエデでもない。でも、最近よく聞く声だ。
ぼやけた筋がシャープな一本線になるように、シュンの意識も覚醒し始めた。
まださっきの光が、瞼の裏に焼き付いている。
手足の感覚があるから、死後の世界では無さそうだ。
だがどうも、変だった。
姿勢は横でも普段のベッドと違い綿菓子かマシュマロの上にいるように不安定で、シュンが動かなくても上下にふわりふわりとしている。
状況把握出来ないが、まずはゆっくりと指先を動かしてみた。
すると、
「あ、動いた!」
とさっきの声がした。
声の主はシュンを更に揺さぶり始めた。上下左右と激しく動かされる。寝てるのに失礼だなと思いつつも、これ以上たぬき寝入りを誤魔化せそうにない。
ここに至って、シュンは漸く恐る恐ると再び目を開けた。
何度も瞬きしたり手をかざし、やっと目が慣れてきて最初に認識したのは、覆い被さるほど間近にある、女の子の顔と髪だった。
「うわっ!!」
それが櫻菜ハルと分かり、心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。
覗き込むハルの表情は、少し不安げだった。
リボンが外れた髪は、風にたなびいている。
更に魅力的なハルに、シュンは反射的に後ずさりする。
手が触れる地面は、フワフワして頼りない。
「う、うーん」
幸い痛みもない。手足も問題なく動かせるようだ。
「良かった。シュン、大丈夫?」
やっとハルも、安堵したようだ。
本当に嬉しそうな櫻菜を見て、シュンは顔が熱くなった。
「ありがとう。ここは?」
櫻菜を直視する代わりに周りを見渡したシュンだが、視線の先は遥か先まで真っ白だった。
見上げると、今度は一面の青だ。
白と青、透明な二色の世界。
不安定な足元と相まって、シュンは自分の居場所を悟れなかった。
「何これ?」
「凄いでしょ? 私達、雲の上にいるのよ?」
「へ?」
意味が分からず、シュンは戸惑う。
「さ、櫻菜さん、」
「ハルって呼んで!」
愛らしい表情で膨れっ面をする櫻菜に、シュンは思わずにやけそうになった。
「もうさー、お隣じゃん? 美人の私が隣にいるのよ! いい加減馴染んで欲しい訳よ、こっちとしては! 分かる?」
シュンが無事と知って安心したのか、怒りモードに入ったらしい。
「は、はい」
「ホントに分かってんの? 信用出来ないんだから! 大体男ってやつは……」
シュンの思いとは裏腹に、櫻菜は堰を切ったようにマシンガントークをぶっ放して来た。今まで大人しく物静かな印象とは百八十度違う。あの猫と近い。やはりこれが本性なのか。
* * * * *
櫻菜に限らず、転校生はどこかに謎を抱えて神秘的だ。仮に実体が平凡だったとしても。
思えばシュンも、転校生だった。
小学校の入学式、慣れない土地で急に沢山の子供達に囲まれ怖かったのを覚えている。泣いて母さんにしがみつき一人だけ離れようとしなかったと、大きくなってから両親に笑われた。
ただ入学式みたいにゲーム最初からの参加なら、まだいける。
人間関係が出来上がった場への途中参戦は、難易度が五〇ぐらいは上がる。
大体が転校生は見た目が第一。良くも悪くもそこから虚像が一人歩きしやすく、実像を正確に認識するまで、時間がかかる。
櫻菜は無難にやってそうだったが、どうも違ったようだ。その怒りの矛先がシュンに向かうのはどうかと思うが、この状況では、矢面に立つしかない。
「そもそもシュンは、転校した経験ある?」
万物を凍らせるような目力に圧倒されながら、ハルの演説は続く。
「無い、、です」
面倒だから、相手に合わせた。
「やっぱり。そーだと思った。折角のお隣さんがこんな可愛いのに、つっけんどんだし。あんただって思春期なんだから、こんなに可愛い女の子がいたら、気になるでしょ? 時々やらしい目で見てんの、知ってんだから!」
「ご、誤解……」
でもない。
「いい? 知らない人達の間に入り込むって、何度やっても大変なわけ。初日なんて、ストレス溜まりまくりなの!」
「あの……猫……」
「うるさい! 人って第一印象が八割だから、とにかく最初は笑顔で、立ち振る舞いは大人しくが鉄則! うまくやらないと、その後もっと面倒だし。今まで何度転校したと思ってんの? どんだけ苦労したか知ってる?」
「い。いえ……」
どうやら、怒りに触れたらしい。
どんどんヒートアップする。
「口答えしない! 大人しくしたらスマしてる、明るく振る舞ったらふざけてるって、言いたい放題。 前の時は隣の子が人気者のイケメンで勝手に気に入られて女子からハブられたし、今度はあんたみたいな鈍臭い奴だし。あ〜もう面倒!」
何かを思い出したのか、櫻菜は本当に忌々しげな顔をしている。
「でもやらなきゃいけないの、指令だから! 純ニッポン人だからって気楽に9自治区も転校する羽目になったの、知ってる? ホント、この齢でリーマンやるとは思わなかったわ! もうどんだけ大変なのか、あんた分かる?」
「い、いえ」
その勢いに圧倒されるシュンは、頷くしかなかった。
「ま、このクラスは楽で良かったけど。一応あんたも紳士だから助かったわ」
やっと褒め言葉が出て、少しホッとする。
「と•に•か•く、こっちとしては事を穏便に済ませたいの。勉強少し出来たら文句言うし、おバカな振りしたら先生に怒られるし。転校生だからって好き勝手言われる気持ち、わかる? 私は動物園のパンダじゃないっつーの!!」
「は、はあ」
「だからわざわざ大き目の猫かぶってるのに、何で珍獣見るように遠ざけるの? デートに誘うとか出来ないの?」
「い、いやそれは……」
あらぬ方向に話が進んでいる。
櫻菜の戦略ミスではと言いかけたが、取りあえず黙った。
「えー、できるって! 私だって、好きな映画とか、音楽とか、聞けば答えるよ? あんた、ぼーっとして全然聞いてこないじゃん! カバンに付いてるマスコットは何、てだけでも話のネタになるし! 世界の歌姫カネンスだよ!知んないの?女の子にはそうやって近づくの! ほんと、まじ全然喋ってくれないし!」
すっかり拗ねて、うっかり今この世界にいる緊急事態を、忘れてしまいそうだ。隙を見せない櫻菜もどうかと思うが、それを言うとユキどころじゃ無く炎上しそうなので、火に油を注ぐのは控えた。
そもそも会話の幅を広げる術など、シュンは持ち合わせてない。カバンのキーホルダーも、今ならユキから聞いて知ってるよと言いかけたが、止めておく。
「話すの、得意じゃないから……」
「じゃあ、何でユキとは仲いいの? あんたら付き合ってる訳? そういうこと?」
変なところは、しっかり見ている。
「あ、あいつとは昔から一緒だから……」
どもりながら答えた。
「ふーん、ま、良いわ」
疑いの眼差しだが、ひとしきり喚くと気が済んだようだ。
櫻菜の顔は、二人がいる空のように晴れ晴れとしていた。
どうやら櫻菜の嵐は収まったようで、シュンはほっとした。
「とにかく、これが今いる私達の世界よ!」
そう言って櫻菜、いやハルは両手を一杯に広げて大きくジャンプし、背面跳びで雲に向かって勢い良く飛び込んだ。