第29話 新たな入り口
油絵の匂いがする広い部屋で二人は思い思いの席に座り、スケッチブックと睨めっこし始めた。
絵を描くのは、自分と向き合う孤独な作業だ。自由に描いて良いと言われると、逆に何を描こうかシュンは悩んでしまった。仕方ないから先ず幾つかアイディアだけラフに描いて、そこから決める事にした。
ハルの方をちらっと見ると、既に描き始めている。
完全に没頭し、こちらが口を挟む余地は無さそうだ。
シュンも邪魔されたく無いので丁度良かった。
ペンを動かす音だけの、静かな時間が続く。
しばらく経つと、ハルはふいに席を離れ部屋にある美術品を見て回り始めた。一方で筆の調子が乗り始めたシュンは、ハルを気にもとめていない。
シュンはユージとの思い出に、あの山を描こうと決めた。
夏の激しい緑に覆われたタイリュー山と、そこを歩く四人の姿だ。まだあの時を夢に見てうなされる時もあるが、良い思い出にしておきたい。レイアウトが決まれば作業も速くなる。
とにかく頭の中に浮かんだ構図を描き切ろうと、シュンは一心不乱に描き殴った。
そんな気持ちを知ってか知らずか、シュンに近づく不穏な足音がする。
集中して気付かないシュンの手前で、その足音は止まった。
すると、
「ほれ!」
と声がしたので、シュンはやっと顔をあげた。
するとそこには、真っ白なおっぱいが剥き出しになっていた。
「うわあ!」
驚いて椅子からのけぞったが、良く見たら石膏の胸像だ。
ハルの肌に近い色なので、一瞬見間違えてしまった。
中一の頃、美術の休み時間に井口らが近づいて触ってみろとかやっていた、下らない遊びを思い出す。中三にもなってそんなものに引っかかるとは…… 幾ら集中していたとはいえ、シュンは自分が情けなくなった。
「驚いた?」
ハルは完全に、気が抜けていた。
今日はもう打ち止めなのか、ゆるゆるモードのようだ。
「い、いや」
シュンのうわずった口調に、ハルも当然気付いている。
そうなると、いたずらっ子のいたずらは容赦なく続く。
「私とどっちが大きい?」
「な、何言ってんだよ」
顔が火照った。たった三ヶ月だがハルと一緒に居る時間は、親やカエデより濃密かもしれない。当然体型にも詳しい……訳が無い。ただ大人っぽいとは思うが。いや、何を考えているんだ?
女子の胸なんて直視しないから、具体的な大きさなんて想像でしかない。
「あーあ、飽きちゃった。終わんないの? 遊ぼうよ!」
無邪気なハルは、また部屋のあちこちを見て触って遊んでいた。ここも、屋上の資料室に負けず劣らず色んな物が雑多に置かれている。高和先生の趣味なのか和風人形が多い。
「ほらこれ、」
またハルは、良く分からない民芸品を持って来た。不思議な顔が描かれた壷だ。再び集中を取り戻したいシュンは、上の空で聞きながら描いていた。その態度につまらなくなったのか、ハルはシュンの席から離れぶらぶら歩いて色々見ている。
「あ、」
ガタンと、大きな音がした。何かずれたようだ。先生の作品を倒したのかも知れない。そうなると、ちょっとまずい。
「シュン〜」
急を要する声に変わったので、シュンは顔を上げてハルを見た。シュンから離れた場所にいるハルは、こっちに来いと手招きしている。
その様子が尋常では無いので、やむを得ず席を立ちハルのところへと向かった。ハルはやってきたシュンを見もせず、壁の奥を覗き込んでいる。
「これ、何かの入り口みたい。開いちゃった」
そう言うハルの先には、先が真っ暗な廊下が続いていた。足元を見ると下り階段で、中に灯りがないから先は良く見えない。
「どうする?」
意味ありげにハルはシュンに聞いた。好奇心で目がらんらんと光っている。
つまり、ハルは先に行きたいのだ。
何度も危ない目に遭遇しているのに、好奇心や冒険心は無限大なのがハルらしい。こうなると彼女に付き合うしかシュンの選択肢は無かった。
「行ってみる?」
即座にうなずくハルは、「まずシュンから行って」と命令する。
相変わらずだが、頼られて悪い気はしない。シュンは初めて月面着陸したアームストロング船長のように、慎重に階段への一歩を踏み出した。石段のようで軋む音もしない。大丈夫だろう。
「行けるよ」
ハルを促し、二人で下りて行った。二人が完全に中に入り切って少し進むと、シュンは何かを踏みつけた感触があった。すると背後からゴゴゴッと重い音がして、徐々に光が薄れ始める。
「あ、閉まる!!」
振り返って静止する間もなく、重く頑丈な石扉が再び開く機会は無情にも失われたようだ。真っ暗になり戸惑う二人だが、目が慣れて来ると先に仄かに浮かぶ焔を見つけた。これなら視野は確保出来そうだ。道は真っすぐ続いている。
だが灯りの存在は、自分達以外の人間か化け物がいる可能性を表す。
くれぐれも用心せねばならない。
「もしかしてこれ、出口塞がった?」
「そうみたい」
努めて冷静に言ったが、またどうなる事やら。一旦二人は立ち止まるが、物音はしない。足元が覚束ないので、一段下りるだけにも慎重にした。
* * * * *
この前と違って怖いのか素直なのか、ハルは手を繋いできた。温かい。さっきまでの好奇心旺盛な姿からの変貌につっこむ余裕はシュンにも無かった。やはり、いささか頼りない。
何段下りたか分からない階段も漸く終わり、水平になった。廊下になったらしい。さっきの薄い灯りは、丁度この起点にあたるようだ。
通路の先を見渡すと、曲がり角になって折れている。石段から木の廊下に変わって、少しギシギシと撓む。うぐいす張りのような乾いた音だ。いるかも知れない相手に極力悟られないように、更に慎重にゆっくり歩いた。
足音はしないけれど、仮に件の化け物が現れても今の2人では対処不可能だ。丸腰が不安なんて中学生らしくないが、今は何が起きても不思議じゃない。シュンがそろりそろりと曲がり角の先を覗き見ると、もう少し歩いた先は行き止まりだった。
だが、何か妙だ。
周りに何も居ないのを確認して、二人は行き止まりまで辿り着く。壁であるけれど、足元の隙間から微かに光が漏れている。壁の向こうに部屋がある。
「何かスイッチみたいの無い?」
シュンはハルに伝えた。ハルは恐る恐る手を離すと、辺りの壁を触り始めた。ハルはシュンの反対側に向かい、同じように探す。
「あ、これ」
そう言ってハルが何かをしたら、ズズズズッと目の前にある壁が自動に左右へと開いた。壁の先は明るく、二人は眩しさに眼がくらみ暫く動けなかった。
そしてやっと目が慣れて辺りを見廻すと、
「橘先生!」
シュンは思わず叫んだ。
「良く来たな、新未、櫻菜」




