第1話 転校生は猫になる
「みゃ〜〜」
猫の声がする。
梅雨の合間の少し晴れた空の下、美城ヶ丘にあるミェバ自治区立イチ山第一中学校(通称イチイチ)からの帰り道。オキミ神社の境内を通り抜け、街へと下りる石段に向かおうとした手前で、新未シュンは、思わず立ち止まった。
波長が違う。猫じゃない。人間だ。
「みゃ〜〜 みゃ?」
ミャー!
ミャーーミャーーー
シャーーー!!
声の主は、どうやら本殿の裏からである。
合間に聞こえる本物の鳴き声は、緊急警報を発している。シュンは一旦歩みを止めると、砂利で足音が立たないように、すり足で慎重に慎重に本殿へと進んだ。
ここオキミ神社はイチイチの通学路から少し外れていて、人通りは殆ど無い。
庁舎前へ続く下り坂の途中にある薮におおわれた小道を抜けると、丁度ここの裏口に当たる。鳥居がある本来の入り口とは反対側に位置し、何時も薄暗く不気味でもある。ただ誰もいないのが楽なので、一人で帰りたい時シュンはいつもここを使っていた。
今日は母に頼まれて本を受け取りに行く途中なのだが、好奇心が勝った。
とにかく気になる。気になるんだから、仕方ない。
樹齢四百年を超えるスダジイが鬱蒼と立ち並ぶ境内は、彼等の鳴き声の他は奇妙なほど静かであった。
* * * * *
シュンが初めてオキミ神社を訪れた六年前から、既に此処は猫の溜まり場だった。軒下には餌が常時置かれ、色とりどりの猫達が無秩序に我が物顔で遊んでいる。
それを知ってか、休日は子供達が沢山遊びに来ていた。
だからミェバ自治区一古い由緒ある本殿は、至る所に引っかき傷の跡が刻まれている。でも真っ白で長く立派な髭をたくわえた年寄りの宮司さんは、目くじらを立てることも無く何時も和やかな笑みを浮かべ、時には近所の子供達と一緒に戯れていた。
「もう造れないのにね」
その様子を見て、父は苦笑いしていた。
父も咎める顔では無いのが、印象的だった。
* * * * *
気付かれないように緊張しながら、件の本殿に辿り着く。
現場は、もう目と鼻の先だ。
(誰だ?)
シュンは忍者のように抜き足差し足でこっそりと近づき、意を決してそうっと覗き込んだ。心臓の鼓動の高まりと掌に滲む汗が、自分でも分かる。
そこには……
大きな猫、もとい、女の子が一人で猫達を追いかけ回していた。
尻尾や肉球が付いてるかのように、「ミャーミャー」言いながら四つ足で走り回るその様は、正に化け猫かとまがうばかりだ。ここまで猫になれる子は、そうそういない。
ノンビリ中の虚をつかれたのだろう、猫達は慌てふためき一心不乱にあちこち逃げ惑っていた。恐怖で硬直して隅にうずくまる黒い子猫もいれば、死んだようにぐったりした老猫もいる。
彼女の到来は、猫達にとって核爆弾級の災害だった。
それほどまでに怯える猫達を意に介さず、渦中の娘は俊敏な動きでとうとう一匹の三毛猫をさっと抱きかかえた。激しい格闘の後らしく、髪留めの青いリボンがずれ髪も乱れている。
だが彼女はそれよりも、お宝をゲット出来た事に満足げのようだ。勝ち誇って満面の笑みを浮かべ、そのままパックリ食べそうなほどの勢いで猫の頭に顔を擦り付けていた。
哀れな三毛猫は一刻も早く逃れようと、彼女の腕の中でもがき暴れている。
ミャーーー!!
必死の反抗にもめげずに三毛猫をひしっと抱く彼女の腕には、勲章の擦り傷が無数にあった。必死の思いでゲットした宝物だろうから、猫には悪いが彼女の喜びも分かる。
しかしその猫、彼女の意に沿う気は毛頭無いようだ。
何度も暴れ回って機をうかがい、一瞬の隙を逃さず遂に脱出に成功した!! それを見て、(やっと終わる)と、シュンは安堵する。シュンには無関係であるが、馴染みある三毛猫だからあれ以上苦しめば助けに行こうかと思っていた。
だがそれは、束の間の平和に過ぎなかった。
さっきより三倍速の猛烈な勢いで逆襲に転じた彼女は、直ぐさま脱獄者を追いかける。
「ふぎゃー ふぎゃー ふぎゃーー!!」
機敏な動きは猫を圧倒している。
一進一退の白熱した攻防の最中、ふとした拍子に、シュンと彼女の目が合った。
「はにゃ!!!」
その刹那、顔を紅潮させた彼女は立ち上がり、シュンの傍らをつむじ風のようにさっとすり抜け、シュンが通るつもりだった石段へひゅうっと走り去って行った。
* * * * * * *
神社はようやく静寂と厳粛を取り戻し、本来の刻が回り始めた。
解放された猫は完璧な自由に安心したのか、雲がかった夕焼けの日だまりに、他の猫達と一緒にまどろみ始めた。幸い、死んだ猫はいない。
(お疲れさま)
シュンは心の中で呟き、石階段をゆっくり下りた。
曇り空なのでぼんやりした夕陽だが薄暮を迎える街は一日を終え、夜へ衣替えする最中だ。この石段は百三十段あって、街が一望出来るのが気持ちいい。
階段を下りた先に、彼女の姿は何処にもなかった。
気になりながらも、シュンは目的地の教哲堂書店へと向かった。
(あの女の子……)
そう、シュンは彼女に見覚えがあった。
転校生の、櫻菜ハル。
* * * * * * *
彼女は何の前触れも無く、朝のホームルーム時に担任の橘ヨーコと一緒にやって来た。転校生が来るなんて、橘は全く言ってなかった。六月の転校生なんて珍しい。
もっとも数学担当の橘は授業こそ理路整然としているが、普段の連絡を忘れるのはしょっちゅうだ。今回も、うっかりなんだろう。三児の母と先生を同時にこなすのは簡単じゃない。
櫻菜はさっき神社で見た時と同じ、他校生と直ぐ分かる襟が大きい半袖セーラー服姿だった。全体にきっちりして、とても大人しそうな印象だ。緊張のせいか、表情はやや強ばっていた。青いリボンで完璧に結わえられたポニーテールの黒髪は綺麗で、大きな眼鏡が優等生を演出していた。
猫っぽいと言われると、そうだったかも知れない。
だがそれよりも、彼女の挨拶がクラスの空気を一変させた。
「イェドから来ました、櫻菜ハルです。よろしくお願いします」
⎯⎯⎯簡単な挨拶でも、印象づけるには十分だった。
十年前の混乱“(暗黒の一週間)”した非常時ならともかく、人口五千万を越えるメガシティのイェドから、人口三十五万のミェバ自治区に転校してくる子なんて今どき居ない。
ここ数年は人口管理が厳密になり、他の自治区への転校は親子共々ランクAが必須だ。ランクCかDが殆どの自分達には、転校なんて縁遠い世界だった。
ざわめきが起こり、皆が彼女を見る目に、羨望が加わった。
「井口、机と椅子持ってこい」
「は〜い」
お調子者の井口ケンタは橘先生に命じられ、空き部屋から机を持って来た。
「何処に置くんすか?」
「そうだな、そこにしとけ」
橘先生が指示した先は、窓際最後列にいるシュンの隣だった。
彼女はもの珍しそうな視線の中を気にも留めず歩み、橘の言われた通り井口が用意した席に座る。
「宜しくお願いします」
「あ、はい」
髪が軽く舞い、優しい香りがする。
急な隣人にシュンは内心嬉しくも慌て、挙動不審になった。
(普通の子に見えたけどなあ)
猫と闘う素振りなんて微塵も見せなかった。誰もそんなこと聞かなかったけど。
* * * * *
休み時間。早速話しかけてきた女子達との会話を聞く限り、彼女は直ぐに溶け込んだようだ。
「ハルちゃんって呼んで良い?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「イェドもどの辺にいたの?」
「ナカァ区です」
「へえ〜 すごい〜」
話しぶりは静かで、落ち着いた様子だった。聞き耳を立てるつもりは無かったが、住居は街で一番豪華な近衛マンションだと漏れ聞こえた。
イェドに憧れる女子達も興味津々で、色んな地名や店の名前が飛び交っていた。昼も世話好きな女子達に囲まれ、弁当を食べていた。男子達は遠巻きに見るだけだった。
そう言えば五時間目の国語の時間、教科書を忘れたらしくキョロキョロして困っていた。シュンが見せれば済んだが上手く切り出せず、気付いた副担任の清水先生が貸して事なきを得た。もっと仲良くすれば良かったが、下手なんだから仕方ない。
そんな訳でこのAN暦二〇八年六月十三日は、窓際最後列で外の緑萌ゆる山々を眺める日常が急転換したシュンにとって記念すべき日となった。
その彼女を、シュンが見間違える筈も無い。
だが何せ初対面だったし、もしかすると生き別れの双子とか、複雑な事情があるかも知れない。そう思い始めると何でもありだ。どんどん妄想が膨らんでいくシュンであった。
* * * * *
石段を下りた区域は街の中心地から少し外れていて、屋根瓦も壁も同じ黒い色調の昔ながらの木造住宅が立ち並ぶ通りだ。二百年前から生きるこれらの建物を眺めるのも、シュンは好きだった。
その区画の角地を占める古代の城みたいな五層の建物が、本屋の《教哲堂》である。オキミ神社ほど古くは無いものの、古代建築に則り釘を使わない建物は市内唯一である。
シュンは一階のゲートを通って中へ入った。
右手に付けているユニコンが、反応して青く光る。
ここではサンプル本を読み放題だ。家で読みたくなったら本のコードをユニコンで読み取り、電子書籍か現物で受け取れば良い。
電子書籍化が進んで紙製の本は高級品となり、制限がかけられている。
学生と言えどもランクD以下は漫画等の購入は限定的であった。
ハイランクの道楽品と、揶揄する人もいた。
幸いシュンの母はランクBなので古書も入手可能だが、代理含め直接受け取りが義務だ。シュンが中学生に上がると、古書好きの母はこれ幸いと受け取りを頼むようになった。紙の本を幾らでも読めるし、シュンも願ったり叶ったりだった。
小さい頃から紙の本に慣れ親むシュンは、ここでの時間が好きだった。
木の薫りが、リラックスした気分を誘う。
学校帰りのこの時間帯は、子供達でごったがえしていた。知った顔もいる。
シュンは読み途中の漫画と小説を何冊か取り、檜作りの机で読み始めた。
ゴツン!
突然、後頭部を叩かれた。
驚いて振り返ると、同級生の秋野ユキだった。
「よう!」