二心同体
シュルリ、と裸の少年が真っ白いシャツに袖を通す。幼げなその双眸には、まだ色濃く睡魔の誘惑がかけられているようだった。ノロノロとした手付きで制服を着込む。靴下は左右反対。特に気付いた様子もなかった。
衣擦れの音が遠い。
自分が服を着替えているのを、どこか別のところで見ているような感覚。
こうして意識をしっかりと持っているのはきっと僕のほうなのに、どうにも身体を動かすのは彼の役目のようだ。そのギャップが自分自身の着替えを見下ろすように感じさせているのだろう。
一つの身体に二つの思考回路。二心同体というのは僕オリジナルのネーミングだ。
こんなもの、実際はジキルとハイドみたいに劇的でもなければ、喜劇になるほど愉快でもない。そもそもこうして二つの意識があるのは不思議だ。彼もそうなんだろうか――?
制服に着替えた彼が家を飛び出す。どうにも幼く見える。いや、僕が歳に不相応なだけかもしれない。彼は僕と違って快活な性格だ。まず明るさを長所に上げられるような、そんな人物。まるで正反対。
「なぁ、頭の中でウジウジ考えないでくれるか?」
ごめん。
彼が満足そうにうなづく。ずいぶんと横柄な態度だった。まるで自分が絶対のものであるような、王様が家来に対してするような、そんな感じ。
「寄生虫が宿主様の邪魔をするなってことさ」
どうしても思考は読まれるらしい。
同じカードの表裏のはずなのに、彼は僕を異物として拒絶する。自分こそが主人格であり、僕はそこから派生したただの寄生虫だと、本気で思っているらしい。
傲慢。それ以外の何物でもない。
確かに肉体を制御しているのは彼のほうだが、思考回路に僕が存在しているという事実を無視は出来ないはずだ。感覚的に言えば、身体を制御しているほうが主だと思う確率は高いだろうけど、肉体だって脳が制御している。そしてその一形態として僕が存在している以上、僕等の関係に上下などはなく対等なはずだ。それを彼は分かっていない。
「だから、うっとうしいから考えるのをやめろ」
知るもんか。僕が考えることを君に咎められる理由はないよ。僕だって生きているんだ。ここにいるんだ。嫌なら脳みそを手術して僕を追い出してみろ。
「さっきは謝ったくせに」
ウジウジとした思考、っていうのに対してだけね。思考そのものは僕の生き甲斐なんだから、それを邪魔するなら僕にも考えがある。君の大嫌いな想像でもしてあげようか。
憶えているかい? 僕が精密に編み出す想像は、君の脳に明確な映像として映るってことを。怖がりの君には殺人鬼が斧を持って追い回してくるような、そんな話をプレゼントしてあげるよ。僕の想像で君に夢を創造出来るんだ。
「……くそがっ。身体を支配してるのは俺だってのに」
彼はぶつくさ文句を言いながらも、僕の思考を邪魔してこようとはしなかった。どうしたって追い出すことの出来ない存在だと、知っているだけに諦めるのも早々だ。
少し速度を落としていた足並みが早まった。苛立ちを運動で発散させる。彼らしいとても有効な手段。もっとも、僕には絶対出来ないことだけど。
彼の視界を通して僕にも外の風景が見える。一体これはどういう原理でこうなっているのだろう。だがまぁ晴れ上がった空に浮ぶ入道雲を、僕の大好きなその景色を確認できるなら、原理なんてどうでもいいか。
「なぁ、そろそろ学校だからよ。少し黙っててくれよな」
彼が再び僕の思考をとぎらせる。
今度は若干、控え目な口調だった。
高校の授業は、僕にとって退屈なものだった。彼も退屈そうにしているが、僕のそれとは意味が異なる。要するに、解りきった事を教えられる退屈さと、全く理解の出来ないことを教えられる退屈さ、その違いだ。
「なぁ、ここって9でいいんだよな?」
どうやったらそこが9になるんだ。
「だからぁ、ここの方程式がこうだから……」
言ってノートに全く見当違いな式を書き出す。端から見れば彼はブツブツ呟き、必死に悩みながらノートで計算しているように見えるだろう。けど実際はポーズだけだ。答えるのはいつも僕。
ほら、上の式を使うんだよ。だからここは9じゃなくて4になる。
「あぁ解った解った……っと、んで?」
答えだけをすいっと答案用紙に書いて、彼は次の問題の答えを聞いてきた。考える気も理解しようという気も全くないらしい。ノートにでたらめな式が散乱しているのに、答案用紙には式が1つも載らず、答えだけポツンと書かれている。これで教師が不信がらないのだから、不思議で仕方ない。
まぁ式が書いてない解答なんて、当てずっぽうが良く当ったな、とでも解釈されるのだろう。もっともこれが勘なら、彼は超能力者にでもなれるくらいの正解率を叩き出しているが。
「んー。これは?」
君さ、少しは自分で考える気ないの?
「ない。算数でやめた。俺が努力するのは運動と恋愛だけ。頭使うのはお前に任すわ。どうせお前にゃそれくらいしか能ないんだしな。――んで、これは?」
素直過ぎて何か言う気も起きない。僕はいつも通り解答を読み答え、彼に満点の解答を取らせた。せめてもっと難しい問題なら、僕も退屈せずに解けるのになぁ。
「はーい。そこまで。回収まーす」
教師の声が響いて、後ろからプリントが周ってくる。彼は自信満々に自分の答案用紙を載せて前にまわした。単純で羨ましい。
「助かったぜ。今日はケーキをご馳走してやろう」
食べるのは君だろ?
「分かってるジャンか。まぁ糖分は脳みそに大事なんだから、悪りぃことじゃねぇって」
そういう自分に役立つ知識だけは良く憶えてるんだね。感心するよ。
「俺は俺の為に生きてるんだ。役立つことは憶えるだろ。さて部活部活っと……」
彼はそそくさと荷物を仕舞い込むと、体育館に向かった。バスケットボールの全国大会が近いらしい。学校の主たる目的は、勉強よりもそちらのようだ。
『俺は俺の為に生きている』
そうきっぱりと言い切れる彼を、僕は少し羨ましく思う。それが肉体を持つ者の実感なのだろうか?
僕は僕自身の為に生きているかどうか――分からない。
ある日、彼に手紙が届いた。
それはピンク色の可愛らしい封筒に、ハート型のシールがついた、一目見てそれだと分かるラブレターだった。
「やり。今度は誰だろな」
君には彼女がいたんじゃなかったっけ?
「馬鹿だなぁ。それとこれとは話が別なんだよ。それに俺、あいつのことあんま好きじゃなくなってきてたし、丁度いい」
恋愛感情というのは、僕にはあまり理解できない。これも身体がないからなのか。彼が今の彼女と付き合い出した頃など、それはもう毎日際限なしに僕の思考を邪魔して、ノロケ話を聞かせてきたというのに、今ではケロっとこれである。本当に理解に苦しむ。
ねぇ、その子と付き合うのかい? 今の彼女とは別れて。
「さあな。この手紙の主次第ってやつだ。可愛い子だったらそうするけど、あいつ以下ならとりあえずお断りだ」
さっき彼女のことは好きじゃないって言わなかった?
「ったく、頭でっかちはこれだから……まぁ考えることしか出来ねぇ奴だから仕方ねぇか。こういうのはてめぇにゃ理解出来ねぇことなんだよ」
珍しく彼にしては的を得た意見だった。確かに、僕には到底理解できない事柄らしい。
「おっ、2組の絵里子さんじゃん! まじかよっ?!」
送り主は、どうやら彼のお眼鏡にかなったようだ。それが彼女にとって幸福になるか不幸になるか……とりあえず、彼はその日のうちに自分の彼女に別れを告げた。
二股ってやつをしないだけ、彼はまだまともなのかもしれないな。そう考えてみると、
「俺は嘘がヘタだからばれるんだよ。バレないならやってるね」
まぁ、予想通りの答えだった。
彼はもてるだけに、こういった場面に出くわす事はしょっちゅうある。顔のほうは並くらいだと思うが、スポーツをやっているだけあって身長は高いし、運動神経もいい。そして学問の面は僕が協力しているためトップクラス。なのに性格がこれだから、万人に受けるのだろう。
彼の頭が本当は悪いこともあり、勉強が出来ない人の気持ちも分かる、というのも1つの魅力らしい。それに、僕に対してはぞんざいな言葉使いばかりをしているが、礼節はそれなりに踏まえている。高校生が感じる人間的な魅力としては、十分なんだろうな。
「……お前が俺を褒めるなんてな。変なもんでも食ったか?」
食べれるわけないだろう。分かって言ってる?
「可愛くねぇなぁ、お前は」
可愛いなんて思われたくないからね。……そういえば、僕の性別ってどっちなんだろう。
「男に決まってるだろ。身体が男なんだから」
彼に相談するのは止めた。性同一性障害なんてものもある世の中なのに、身体的特徴が男というだけで決めつけるような人とは議論しても意味がない。
多重人格者の多くは自分と同じ性別のものが多いようだが、異性の人格が別人格として現われるパターンもちゃんとある。それを考えるならば、僕が女だという可能性も十分にありうるだろう。
「やめろよ気持ち悪い。お前が女の子だったなんて思いたくもねぇ」
どうなんだろう……僕は男か女か。どちらとも言える気がする。ますます自分のことが分からなくなってきた。僕は一体なんなのだ?
「だから寄生虫だって」
……彼の言葉がちくりと僕の胸を突いた。
もっとも、僕に胸なんてないけれど。
僕はそれ以来あまり考え事をしなくなった。何か考え出すと切りがないし、結局のところ僕は何も分からないのだ。正直彼が羨ましい。彼はやろうと思えばなんだって出来るのだ。
「……お前、ますますうざくなったな」
そうかもしれない。だって寄生虫だし。
「開き直るなよ。面白くもなんともねぇ」
彼は不機嫌そうだった。最近はよく喧嘩をする。それも前のように終わってから微笑がもれるようなものじゃなくて、ただ不愉快になるだけの最悪のパターンだ。
僕は切に肉体というものを欲していた。自分の足で歩きたい。空気を肌で感じたい。今は理解の出来ない恋愛と言うものもしてみたい。本を読みたい。彼が読んでいるものを盗み見るのではなくて、僕が読みたいものを読みたいだけ。
毎日毎日、そう強く願っていた。
そして僕の願いは叶った。思えばこれが悲劇の始まりだったのかもしれない。
「あれ……右手、動かねぇ」
困惑の表情を浮かべる彼を尻目に、僕は力を入れる。右腕がすいっと持ち上がった。彼の顔がますます強張ってゆく。
「うわっ?! なんだこれ!!」
ぷらぷらと振ってみる。空気の流れが感じられた。そうか、大気に触れるというのは、こんなにも気持ちの良いものだったのか。今までずっとこんな思いを独占していた彼に、少しだけ憎しみが湧いた。
「おい! お前が動かしてるのか?! か、返せよ。俺の右手!!」
なんで?
「なんでって……コレは俺の身体だぞ!」
今はもう、僕の身体でもある。
「そんなこと認めるかよっ!」
君が認めるかどうかは関係ないんだよ。僕は自分で右腕を動かせる。それが事実で、現実なんだ。君は右腕を失った。
「……うそだ」
じゃあ動かしてごらんよ?
僕が問いかけると、彼は目をつむり意識を右腕に集中しようとしているようだった。だが、右腕はピクリとも動かない。僕は自分の口元が限りなく吊り上がっている事を認識した。
分かったろう? もうこれは君の手じゃないんだ。僕のものだ。
「ちくしょう! なんでだ?! 今までこんなこと一度もなかったってのにっ!!」
彼の狼狽する声が僕には心地よかった。僕はやっと肉体を手に入れたのだ。一部ではあるけれど、確実に外界との接点を得た。これは今までの閉鎖された世界にいた僕にとっては快挙とも言える出来事だった。
それ以来、僕と彼の関係は少しずつ変化していく。残念なことに右腕以外の部分は相変わらず彼のものだったけれど、彼はいつか全身を奪われるんじゃないかと、僕に恐れを抱くようになったのだ。
「なぁ、飯を食いたいんだ。右手動かしてくれ」
いいとも。僕にも栄養が必要だからね。
「なぁ、トイレだ。右手使ってくれ」
仕方ないな。生理現象は誰にでもある。
「なぁ、頭が痒い。右手を使ってくれ」
君にはまだ一本手が残っているだろ?
いつも通りの会話のようだった。少なくとも表面的に彼が変わった所はない。けれど、僕は彼の脳の中にいる。だから分かってしまった。彼が僕に対して強く恐れを抱いていることを。言葉の端々に、いつも憎しみがこもっていることを。
やがて彼は高校を卒業し、フリーターになった。学年トップクラスの成績――まぁ僕のお陰だが――を利用して、大学に進学することもせず、仕事につくこともなかった。付き合っていた彼女達も、自分の右手に話しかけているところを不信がられ、次々に彼の元から離れていった。高校を卒業して、新しい世界が彼女らの前に広がったことも、大きな要因と言えるだろう。
彼はとても無気力になっていた。昔見られたはずのあの明るさは陰鬱な影に取りつかれ、瞳には暗い光しか浮かばなくなっていた。両親に何を言われても、彼は答えない。
ただ――それでも僕との会話だけは、やめることはなかった。
「お前は一体なんなんだ?」
それは僕が聞きたいくらいだよ。
「俺はお前が怖い。気付いてると思うが、いつか乗っ取られるんじゃないかと思ってる」
どうだろうね。君の恐れはよく伝わってくるけど、僕としては自分でどうこう出来るものじゃないからね。こればっかりはなんとも言えないよ。
「本当か? 本当にお前の意思でこうなったんじゃないのか?」
そりゃ、少なくとも僕だって身体が欲しいと願っていたよ。けどそれが実際にそうなるなんて思わなかった。もちろんなんでなったかも分からない。制御を君に返すことも方法だって分からない。まぁ分かっていてもそんなことはしないけど。
「……お前は楽しんでいるんじゃないか?」
楽しんでいる? 一体何を?
「本当はいつでも俺の身体を奪い取ることが出来るのに、俺が惨めになっていくのを見て、腐っていくのを見て、楽しんでいるだけじゃないのか?」
馬鹿な。そんな無駄なことはしないよ。
「なぜだ?」
肉体には成長と老化がある。永久じゃないんだ。すぐに土に返ってしまう。もし僕が君の身体を奪えるのだとしたら、今すぐにでも奪って無駄な時間は過さないよ。
「…………」
…………
「…………」
…………
「…………」
…………
「…………」
…………っ?! 君! 今何を考えた?!
「うるせぇよ。俺はもう嫌なんだ」
彼は自分の机からカッターナイフを取り出し握り締めていた。刃は限界まで剥き出しにされ、鈍く光を反射している。
止めてくれ! 君が今やろうとしていることは、僕にとっても君にとっても、不利益しか発生しない!
「てめぇが邪魔なんだ。俺が駄目になったのはてめぇのせいなんだよ」
それは確かに……僕の存在が君にとって一般とは違う影響を与えたことは認めよう。けれどそれだけじゃないだろ? 僕は君に協力だってしていたじゃないか?!
「うるせぇ」
勉強だってそうだ。恋愛だっていくらでも話を聞いた。君の不利益になることは極力避けていたはず――
「うるせぇ……うるせぇうるせぇうるせぇぇぇぇええええぇぇえぇえぇぇぇっ!!!」
ズッ!
単純で、それでいてあまり聞きなれない音が耳に届く。瞬間やっとの思いで得た、僕の外界との接点に激痛が走った。いや、それは痛みというよりも熱さだったかもしれない。大量の血液が噴火する火山のごとく、突き立てられたナイフの元へ殺到していった。
痛い! 止めてくれ! 死んでしまう!!
「この右手が邪魔なんだ! なければいいっ!」
血だっ! 見ろ! 血が出ている! コレ以上やったら本当にちぎれてしまうよっ!
「俺はちっとも痛くねぇ! はははっ、もっと早くこうしてれば良かった。おかしいなぁ。俺の右手だったはずなのに、今はこうやってナイフが刺さって血が流れたって、なんも感じないんだ」
本当に止めてくれ! 痛くて気が狂ってしまいそうだっ!!
「いいんだよそれで! てめぇは苦しめばいいんだ! それで消えちまえっ!!」
彼は何度も何度も自分の腕だったものを刺した。僕はそのたび激痛に襲われ、発狂しかかっていた。やがて右手はずたぼろにちぎれ飛び、部屋中に赤い雨を撒き散らした。指が数本なくなっている。残っているものも、肉を殺ぎ落とされ元の形から掛け離れていた。
だが、それでも僕が消えないと分かると、彼は肩にナイフを突き立てた。関節に塗れた刃が突き刺さり、深い苦痛が更に僕を苛む。今度は彼も痛みを感じているようだった。
僕は彼の受けている遠い痛みと自分の痛み、二重の苦痛を感じより激しく泣き叫んだ。
それでも、彼は凶刃を握り締めたその腕を放さなかった。
ナイフは何度も突き立てられ、肉がだんだんと殺ぎ落とされていく。やがて骨が見えるほどになると、刃は真ん中あたりで二つに折れてしまった。彼はそれを狂気に満たされた瞳で一瞥すると、部屋の隅にあった金属バットで強かに剥き出しの骨を打ち据えた。
元スポーツマンの、頑強な骨がその衝撃を耐えたのは、一体何回ほどだっただろう。何度目かの衝撃の後、細かくヒビが走り、亀裂を立てたそれはボキリと気味の悪い音を上げて折れた。右腕が血だまりになった床に転る。
ボチャリ、と不気味な音を立てて。
その時の僕は意識を失いかけていた。初めて感じる強烈な痛みに、耐えることが出来なかったのだ。しかし――
「はぁ…はぁはぁはぁ……」
血臭が鼻を鋭く突き上がる。部屋は彼自身の血で真っ赤に染まっている。
「……くそったれっ」
僕は、まだ生きていた。
彼は右腕が切り離されるまでナイフを肩に突き刺し、本当に僕を殺す気でやっていた。けれど、腕がなくなってしまったところで、僕の存在自体は消滅しなかった。
もっとも、外界との接点はなくなり、僕は空気を感じることは出来なくなっていたけれど。なのに、それなに痛みだけは鋭く心に突き刺さる。傷の痛みはもう感じないはずなのに、この胸を鷲掴みされたような痛みはなんなんだろう。
何かか僕の中に込み上げていた。
「なんで……なんで消えねぇんだよちくしょうっ!!」
僕は…君の……頭に、いる、んだ……消えるわけ、ないだ…ろう……?
「……そうかよ。頭を潰さなきゃ消えねぇのか。寄生虫野郎」
やめ…そ、んな……したら…き、み……も……
「知るか。もうどうだっていい。てめぇが俺の頭ん中から消えるならなんだっていいっ!」
や…めて……っ?!
彼が血まみれの金属バットを振り上げた。どこか白濁とした蛍光灯の灯りに、それは薄気味悪いほどマッチし、奇妙な美しさすらを僕に感じさせ――
彼が、振り下ろす。
「ああああああああああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁっ!!!」
――ぐちゅ。
カラカラと、金属が渇いた回転音を立てる。
僕は頬に当る風を感じ呟いた。
「ァー……」
『んだよ。本望だろ。ようやく念願の身体を手に入れたんだ』
「……」
『動かないんじゃ意味がない? 知るかよ。生きてるだけマシだと思え』
「…………」
僕はゆっくり時間をかけてうなづいた。
車椅子を押している看護婦さんは、気持ち悪いものを見るような目で僕を見ている。嘘。見ることは出来ないけど、でも視線は確かに感じていた。話に聞いていた白衣の天使とはだいぶ違うもんだな、と思った。
『んなもんさ。俺が前に入院したときはもっと対応良かったけどな。自分で片腕切り落として、頭まで叩き潰そうとした狂人なんか、受け入れてもらえただけありがたかったってもんだろ』
「……ァー…………」
『みっともねぇなぁ。あんまりあーあー言うなよ』
そんなこと言われても仕方がない。僕にはもう言語を正しく発声する機能が残されていないんだから。それどころか目も見えず、視界は常に暗黒に塗り潰され、感じられるのは包帯を通して染みる夕暮れの秋風だけだ。
『……お前には悪いことしたと思ってるよ。』
「…………」
『お前の立場になってみて、初めてお前の考えてたことがちっとは分かるようになった。なんつーかよ……寂しかったんだな。こんな気持ち、初めて味わった。――悪かったな。どうせなら、まともなときにお前に身体を貸してやりたかったよ』
「……ァー」
『馬鹿。泣くやつがあるか』
「ァー……!」
『落ち着けよ。またあの不細工な看護婦に嫌われっぞ。お前の言葉が分かるのは俺だけなんだからよ。さぁ、そろそろ病室に戻ろうぜ。冷たい風は身体に悪い。知ってたか?』
それくらい知っている。いくら身体をもっていなかったとはいえ、知識だけなら僕のほうが上なのだ。話せない身体でも、意思疎通が出来るなら知能が高いのはきっと僕のほうだ。
「…………」
ロクに動けない身体で精一杯身じろぎすると、看護婦は車椅子を押して病室まで連れていってくれた。やはり始終嫌そうな顔をしていたが、仕事はきちんとこなしてくれる。
しかしそれにしても――
「……ァー」
『結局なんでこうなったかって? そんなこと俺が聞きてぇよ』
「ゥー……」
『今度はうーか。ったくこれが元々は自分だったかと思うと情けなくて涙が出てくらぁ。まぁ自業自得か。ぜーんぶ俺が自分でやったことだもんな。その代償が、お前にいってるってのは、さすがに辛いけど……でもな、こうなってみて一個だけ思うことはあるぜ』
「……?」
『お前と俺の関係。これで案外バランスいいのかもな、ってことさ。前は俺が身体、お前が脳みそ、完全に分かれてて――まぁあれはあれで俺にとっては良かったが――今は動けない身体のお前と、脳みそん中に移った俺がいる。なんつーか、難しいことは分からねぇんだけどよ。これくらいで丁度いいんだ。そう思える。前は俺が威張りすぎてたんだ』
「……」
『やっぱお前は違うか? ずっと閉じ込められてて、やっと出られたと思ったら半身不随で言語障害だもんなぁ。そりゃそうか。まじどうしようもねぇな、俺は……』
違う。そんなことはない!
だが、伝わるはずの思いは何故か彼には届かなかった。意識の中で見える彼の姿はひどく幼く、自分に対する嫌悪と自責の念で今にも押し潰されそうになっていた。
違うんだ。僕は、君に対してそんなことを思ったことないんだ!
彼の姿がどんどん薄れていっているような気がした。このままだと彼は消えてしまう。何故だか分からないけれど、それは僕に湧いた確信とも言えるものだった。
何もしなければもう、彼と話すことは出来なくなる。僕があの、バットが振り下ろされる一瞬に感じた、あの思いを伝えることが出来なくなってしまう。
彼が僕に自身に悪意を向けたときのあの悲しみ、腕を切り裂かれたときより感じた強烈な痛み。力強く僕の心を込み上げていったあの思い。
僕はまだ……彼に伝えていない!!
「ち…がう……」
『!? お前――今、口が!』
彼の声が、やっと聞こえてくれた。
「ぼ、くは……いま、しあ…わせ……」
『幸せ? そんな身体になって、俺だってまだ脳みそに残ってる。それでもか?』
そうだよ。僕は幸せなんだ。だってそれは――
「…………と、もだ…ち……」
『――っは、馬鹿かよ。俺とお前が友達? あんなことしたんだぞ俺は?』
僕だって君に辛い思いさせた。僕が感じなかった苦しみを、君も味わっていたはずなんだ。そうでなければあんな……あんな悲しい瞳はしないはずだ。
「ち…がう、の……?」
『…………』
沈黙。
彼は押し黙ってしまった。僕ももう何も言えない。これ以上は強要して得られるものではないから。けど、僕は信じている。彼のあの悲しげな瞳が、僕と同じ思いから現われたものだということを。
だから、答えは分かっていた。
『違わねぇよ! てめぇがそれでいいってんなら、俺らは友達だ。』
一際大きく、少しだけ照れた彼の声が聞こえた。
なんだよ。馬鹿にしてたくせに、君だって涙声じゃないか。
「……と、もだ…ち」
嬉しそうに言いやがって。やっぱ馬鹿かよ。
『でも――ありがとよ……』
ずっと、ずっと長い間考えて辿りついた。心をから求めていたものを、僕はようやくと手に入れた。それは身体なんかじゃなくて、唯一の、彼という存在。
残された左手がピクリと動く。それは僕の意思だった。足もかすかだが、少しだけ動くような気がした。この身体……彼からもらったこの身体は、まだ、いける。
こうして僕は二人分の身体を取り戻す長い戦い始めた。
口の悪い、最愛の友人と共に――