クローン人間
僕は暗闇に包まれた路地を歩いていた。
サラリーマンも辛いものだな。ため息をつくと、大通りへと出た。
若者たちは声を上げていれば、酔っ払いの人もいる。
こんな退屈な毎日の繰り返し。嫌気がさすよ。
でも、僕には帰りを待つ妻がいる。
そんなことを考えていると、つい歩調を速めてしまう。
信号は青になり、交差点の横断歩道を渡る。
そのときに、微かであったが僕と全く同じ顔の人とすれ違ったような気がした。
振り返ると、その男の姿はなかった。首を傾げていると車のクラクションを鳴らされた。
「おい、信号を守れよ」
我に返ると「すいません」と言い、足早に去った。
なんだったのだろうか。気のせいかな。
そう自分に言い聞かせて、自宅のドアを開ける。
「ただいま」
すると、妻が驚いたように玄関に出てきた。
「どうしたの?」
「なにが」
唐突にそんなことを告げられても意味が分からない。
「今日は仕事があるから、家に帰れないんじゃなかったの?」
「は?」
なにを言っているんだ。そんなの一言も言っていない。
「さっき電話で言っていたじゃない」
「電話なんてしてないよ」
「嘘だわ」
「本当だよ」
そうやって、口論を続けていると携帯電話が鳴り響いた。
一瞬、静寂に包まれる。
僕は携帯電話に出てみると、父さんからであった。
「お前、明日暇か?」
「いきなりなんだよ」
「重要な話があるんだ」
僕は不思議に思いながらも、明日、父さんの研究室に行くことになった。
「どうしたんだよ。父さん」
研究室は書類だらけであった。
少しぐらい綺麗にしろよな、と思ったが口にはしなかった。
「それが大変なんだ」
「なにが?」
髭が生えている父さんは慌ただしかった。
ちなみに父さんは科学者でいつも怪しげなものを発明している。
「単刀直入に言う。お前のクローン人間が脱出してしまった」
「えっ」
僕のクローン人間が逃げ出したとはどういうことだろう。
「実は、つい最近、クローン人間が完成したんだ」
「そんな馬鹿な」
「この頃、おかしいことはなかったか」
「おかしいことと言えば、昨日僕に似た声の人が妻に電話してきたけど」
「それだ」
父さんは書類をパラパラ捲っている。
「すまないが、お前のクローン人間を作ってしまったのだ」
「嘘だよな?」
「本当なんだ。お前の顔、性格、体型、記憶も完璧に同じクローン人間を作ったのだ」
「どうして、僕のクローン人間を?」
まだ半信半疑であったが、質問をぶつけてみた。
「だって、他人のクローン人間を作ってはいけないだろう」
「それで僕を選んだの?」
「そうだ」
ついため息を吐いた。呆れた父親だ。
「それでな、お前のクローン人間を退治してほしいのだ」
「どうやって?」
「このスプレーを使うんだ」
父さんは鞄からスプレー缶を取り出した。
「これをクローン人間にかければ体が溶けていくのだ」
そうして、そのスプレーを僕に手渡した。
「大丈夫なのか?」
「普通の人にかけても何も害はない」
僕はスプレー缶を見つめながら、言った。
「でも、どこにいるのか分からない」
「さっき言っただろ。全くお前と同じやつなんだ。夜に自分の家の前で待っていればいいのだ」
不安はあったが、やることにした。
研究室を出ようとしたとき、ふと思った。
「父さん。クローン人間に心はあるのかな」
「それはクローン人間に聞け」
僕は苦笑いを浮かべた。
父さんに別れを告げた後、ずっと自宅の前の電信柱の陰に隠れていた。
本当に僕のクローン人間なんて来るのかな。
そう考えていると、いつの間にか太陽は沈んでいた。
それから数時間後、人影が見えたので息を潜める。
目を凝らすと、まるで鏡でも見ているかのように僕と同じ顔の人が現れた。
やはり、父さんが言っていたことは本当であった。
僕のクローン人間はだんだん、こちらへ近づいてくる。
緊張しながらも、スプレーを持つ手に力が入る。
クローン人間が足を止めた。
どうやら、あちらも僕の存在に気づいたのだろう。
僕は大丈夫だ、と言い聞かせて電信柱の陰から飛び出した。クローン人間は口をぽかんと開けて、動かない。
今しかない!
僕はクローン人間に向けてスプレーをかけた。相手は驚いた目でこちらを見る。
これでクローン人間を退治できた。
そう思っていたが、全然溶ける気配がない。
「あれっ」
僕はもう一度、スプレーを吹きかけるが効果はなかった。
父さん、言っていることが違うじゃないか。
僕は諦めて、クローン人間を殴る作戦に出た。
相手は我に返ったのか、あちらも殴りかかってきた。
僕はクローン人間を殴ろうとしたが、かわされてしまった。
突然のことで、ひるんでしまう。
そのとき、クローン人間は僕が持っていたスプレーを奪い取った。
そして、スプレーを僕に吹きかける。
そのとき、何か熱いものが感じられた。
なんだろう、と思っていると僕の手が溶けていくのが分かった。
どうして、僕の手が……。
そのとき、分かってしまった。
目の前にいる『僕』はクローン人間ではない。
本当のクローン人間は今、溶けている『僕』の方だったんだ。
父さん、分かったよ。
クローン人間にも心はあるんだ。
そう思いながら、意識は沈んでいった。