江戸期の手野家
元々、手野家は、砂賀家の分家であった。
1798年、寛政10年、岡山において、砂賀家が砂賀繊維という店を起こす。
これが全ての始まりだった。
1799年、寛政11年に現在の大阪府手野市にある荒地を開墾し、砂賀繊維で用いるための綿花や麻の畑を作った。
1800年、寛政12年には、京都に布商いの店を出した。
後にこの布商いは服屋となり、和服、呉服、唐服などを製造販売するようになる。
1810年、文化7年に手野家が新たに開墾した土地の近くにある山から石炭と金を発掘することに成功。
これを手野鉱山と命名し、鉱山業を取り扱うようになった。
今では、手野公園にある山である。
それと同時期、砂賀家において、お家騒動が勃発。
跡継ぎをどうするかで、長男側、次男側でもめてしまったのだ。
そこで、江戸幕府にそのことがばれたら大変と、手野家へとそっくり業務を引き継がせることになった。
砂賀家は、岡山にある砂賀繊維改め手野繊維の店長として、世々継いで行くということにし、それ以外の一切を手野家が承継することとなった。
1820年、文政3年のことである。
この年、江戸へと繊維の店を出すこととなり、これを機にして店名を手野繊維へ変更。
安政7年、1860年には官許として陸運、海運業を始めることとなったが、手野繊維とは別組織とすることとなった。
1861年、文久元年に、陸運業の事業の一つとして、手紙を配達することをはじめる。
また、代筆業を行い、大いに栄えたと伝えられている。
ちなみに、手紙は1枚当たり120文だったそうだ。
そして明治になり、より多くの事業へと参画していくことになるのだが、それはまた別の話。