バジル=ロシェット・4
リリアの家の扉を開けると、甘い香りが鼻をついた。
「早く来ないと冷めるわよ」
まとわりつくような匂いとは対照的に、さっぱりとした口調でリリアが呼ぶ。テーブルには、やはり湯気の上がったカップを前に座っているバジルがいて、その対角線上にもう一つのカップが置かれている。デルタは軽く一礼をして、その席についた。
「いい匂いですね。ハーブティ?」
「そうよ。疲れがとれるって評判いいのよ」
「さっき、バジルさんぐらいしか飲まないって言ってたじゃないか」
「だから! お父さんに評判いいのよ。ね!」
リリアが父親を覗き込むように見た。一方、バジルの方はちらりと一瞥すると、「まあな」とだけ答える。
「もう、つべこべ言ってないで飲みなさいよ。飲まないなら下げるわよ」
「いや、悪かった。飲むよ。……うん。うまいな。温度も丁度いい。俺はハーブには詳しくないんだが、何が入っているんだ?」
「レモンバームという柑橘系のハーブと、他にも色々入ってるのよ。特製のブレンドなんだから」
リリアはハーブが好きなのだろう。お世辞程度でたずねたハーブのことを、懇切丁寧に教えてくれる。デルタは正直草花のことはさっぱりわからなかったが、その楽しそうな表情を眺めているのは飽きなかった。
「……さて。お父さんの溜まっている洗濯でもしようかしら。あなたはどうする? 帰りは本当に馬車で帰るから構わないわよ」
「いや。俺、この町に来るの初めてなんだ。少し町を見物してこようかと思っている。……よければ、帰りも送らせてもらいたいんですが構いませんか?」
後半の言葉をバジルに向けて言うと、彼は表情を変えないまま「好きにするといい」と言った。
「リリア、町を案内してやればどうだ?」
デルタは一瞬喜んだが、リリアは全力で否定し始めた。
「駄目よ、今日はお父さんに会いに帰ってきたんだから」
「せっかくの客人だろう」
「お父さんとだって久しぶりだわ?」
言い合いに発展しそうな二人の間に、デルタが割ってはいる。
「あの、本当にいいんです。一人で勝手に見て回りますから」
とはいえ、デルタも落ち込んではいる。あれだけいい雰囲気を作り出せても、あっさりと父親に負けてしまうあたり、リリアにとってデルタは大した存在ではないのだろう。ひそかにショックを受けつつ、ハーブティを最後の一滴まで飲み干した。
やがて、デルタが挨拶をして家を出ると、庭の整地の続きをすると言いながらバジルが後ろから出てきた。
「デルタと言ったな」
「はい」
おもむろに話しかけてきたバジルに、デルタは一瞬ビクリとする。話してみれば話しやすい……とは思うが、声には凄みがあるのでやはり迫力はある。
「リリアを泣かすなよ」
「は……でも、まだそういう関係ではないんです。俺が一方的に……その」
歯切れの悪いデルタを見て、バジル勝ち誇ったような笑みを浮かべて草刈り用の鎌をとった。
「なんだ、……まだまだ若造だな」
「はあ……」
「リリアはああ見えて恋愛には臆病だ。以前手ひどく振られたことがあってな。まあ、そいつはわしがボロボロにしてやったが」
おそらく冗談では無い言葉にデルタの笑いがひくつく。
「わしからあの子を奪いに来るときは、お前もそれなりの覚悟をしておくといい」
バジルは笑ったが、デルタは背筋がぞくっとした。凄みと言うんだろうか。普通に話しているときには感じない殺気が、空気を通してピリピリと伝わってくる。
けれど、バジルの言葉は肯定的なものだ。『リリアを泣かしたときは』ではなく『奪うときは』と言った。少なくとも、付き合いを進展させることくらいは認めてもらえたととってもいいのかも知れない。
デルタはバジルに負けないように、しっかりと見据えて答えた。
「はい」
「……夕方には戻ってこい。早めに夕食を食べてから二人で首都まで戻るといい」
「はい。ありがとうございます」
「あのリリアが馬に乗ってくるんだ。よっぽどお前の事は信用してるんだろう」
バジルが頬を緩め、場の緊張感が解けた。デルタは深々と礼をして、町の探索へと足を伸ばした。
*
夕刻、再び訪れたリリアの家からはいい匂いが漂っていた。一日中町の中をふらついていたデルタは空腹のあまり口の中に唾が溜まった。
「いらっしゃい。待っていたのよ、夕食にしましょうか」
迎えるリリアは屈託のない笑顔で、デルタは緊張を解いて中に入った。バジルの方は相変わらず愛想がいいとは言えない顔だったが、邪険にする様子はない。「この町はどうだった」などと話しかけてくるときさえある。
剣術の話になるとそれなりにはバジルとも話が弾み、夕食は和やか似終わった。リリアは手早く片づけをはじめ、バジルに食事についてあれやこれやと伝えていた。
「じゃあお父さん。また来週くるから。ちゃんと食べてよ? 次に来る時までにこの食材残したら駄目だからね!」
「別に、毎週帰ってこんでもいい。料理くらいできる」
「だめよ。一人だとあまり食べないじゃないの。先週持ってきた青野菜が腐っていたわよ」
「わかったわかった。うるさいからもう行け」
「うるさく言わないと聞かないのは誰よ!」
険がたった言い合いをしている割には、二人とも顔は楽しそうだ。邪魔をすることもないか、とデルタは先に外に出て愛馬の背を撫でた。やがて、バジルの方が先に出てきてデルタの肩を叩く。
「すまんが頼んだぞ、若造」
「はい。ちゃんと送り届けます」
後ろから出てきたリリアが、デルタに荷物を渡しながらバジルを睨む。
「お父さん、ホントにちゃんと食べてよ」
「わかっとる。気をつけて帰れ」
「では、失礼します」
来たときのようにリリアを馬に乗せ、バジルに挨拶をすませるとデルタは馬を走らせた。辺りはもう薄闇がかかっている。城につく頃には真っ暗になってしまうだろう。足場がまだ見えるうちに、とデルタは馬を早めた。
しかし家が遠ざかるにつれ、リリア物静かになる。怖いのかと寂しいのか。おそらくは両方だろうが、問いかけたところで素直に認めはしないだろう。
「リリアは冒険に出たことは無いのか?」
「え? 無いわね。学生の時の冒険実習だけだわ」
「じゃあ知らないかな。ここから南東の村では、サルに芸をさせる見世物がはやってるんだ」
「サルに? へぇ、それは見たこと無いわ」
徐々に暗くなり、危険を避けるため馬のスピードを少しずつ緩める。リリアの寂しさを紛らわせようと必死に話をしていることもあって、どうしても乗馬に集中しきれない。結果、行きに比べてかなりの時間がかかったが、リリアは特別文句を言うことはなかった。
城下町に入り、城門前まで送る。
「また水曜に待ってる」
別れ際にデルタが言うと、リリアは黙ってデルタの腕を引いた。照れたように視線をはずし、暗がりでも分かるほど頬が染まっていた。
「一時間早く」
「え?」
「お昼、……一緒に食べましょう?」
デルタは思わず口元を手で押さえる。初めてのリリアからの誘いに、胸が躍るように高鳴り、にやけるのが止められない。
「ああ、待ってる」
意気込んで返事をすると、リリアが柔らかく微笑んだ。
「今日はありがとう」
リリアが城門をくぐっていくのを、デルタは初めてうれしい気分で見送った。