掛け替えのない汚れ
心が実体化します。トランプのハートマークを想像してください。
ちょっと不思議な話かもしれませんが、よろしくお願いします。
「お前、嫌なヤツになったな」
久しぶりに会った古い友人に、そう言われた。
「何で?どこがだよ?」
「どこってことでもないけど」と友人は考え込み、応えた。「昔はもっと明るいヤツっていうか、分かり易いヤツだったよ。でも、今のお前は、周りの目ばかり気にして、上手く生きようとだけしている。俺は、昔のお前の方が好きだったな」
そいつの言葉に、俺はショックを受けた。
無神経な人のただの戯言だ、と聞き流す事は出来なかった。そいつが無神経な人ではないということは、俺も知っている。それに、ただの戯言じゃないってことも知っていた。
気にしないようにしているだけで、俺にもなんとなく自覚ある事だった。
友人の言葉が悔しくて悲しくて、俺は家に帰ってすぐ、洗濯機に向かった。
俺の心はこの一個だけだから、心を他のものに入れ替える、なんて事は出来ない。だから、今ある一個だけの心を、何とかするしかない。
俺は、なんとなく恥ずかしくて、部屋の隅でこっそり心を取り出した。
改めてよく見てみると、俺の心には、いろんな汚れが付いていた。身に覚えのある汚れもあれば、何時何処で付いたのかさっぱり思い出せない汚れもあった。最近の汚れは少ないが、その代わりに見るからに頑固そうな、すっかりこびりついた汚れもある。
この汚れを落とさないと、そう思い、俺は心を洗濯機に入れて、心の洗濯をした。
一刻も早く、そんな想いからお急ぎコースを選び、洗剤は少し多めに入れた。
身体の中から心が無くなった俺は、ぼんやりと洗濯機の頑張りを眺めながら、洗濯が終わるのを待った。
お急ぎコースにした甲斐あって、三十分もかからず洗濯は終わった。
洗濯機の中を覗き込むと、いくらか汚れの落ちた、しかしシワシワになった俺の心があった。どうやらスピードコースにしたせいで、普通より多くシワが付いてしまったらしい。
洗濯機の中から俺の心を取り出すと、ベランダに向かった。
パンッパンッと心を引っ張ってシワを伸ばし、洗濯バサミに挟んで心を干した。
まだ心の抜けたままの俺は、心が乾いて行く様子を黙って見守った。
そろそろ乾いたかな? もう乾いたかな? どうやら、俺の心の素材は、なかなか乾きにくいものらしいな。 まだ乾かないのか?
天気の後押しが悪く、俺の心が完全に渇くことの無いまま日が暮れた。俺の部屋には乾燥機がない。少々生乾きになってしまうが仕方なく、俺は心を取り込んだ。
多少なりとも綺麗になった心が、俺の中に入った。
しかし、自分ではどう変わったのか、その実感がない。
だから俺は、久しぶりに心の入った身体を動かし、友人の所へ急いだ。
「嫌なヤツになった」と俺に言ったそいつは、今度は「湿っぽいって言うか、陰気な感じになったな」と俺に言った。
やはり、ちゃんと乾燥させなければいけなかったようだ。
湿っぽい生乾きの心を抱いたまま、俺は眠りについた。
そして次の日。
その日は天気も良く、まさに洗濯日和と言った感じだ。
俺は早速、心の洗濯をすることにした。
昨日気付いたのだが、洗濯機を使ってやると心が痛んだ。洗濯機だと、どうやら心を洗うには力が強過ぎるらしい。だから俺は、風呂場の洗面器を使って、手で洗うことにした。
水を張った洗面器に、洗剤を入れる。そして、そこに心を入れて、手もみで洗う。
力を入れ過ぎると心が痛むから、程良い加減で。でも、汚れがひどい所は、心が痛むのを我慢して力強くこすって洗う。
みるみる洗面器に張った水が汚れて行った。
その反対に、心は綺麗になって行った。
手で洗うことにしたのは、正解だったと思う。汚れが落ちて行くのが見て取れるし、俺の心にはすっかり奥まで沁みついてしまったしつこい汚れが多く、そこに集中して洗い落とす事が出来る。
気付けば、午前中いっぱい使って、心を洗濯していた。
すっかり綺麗になった心は、よく日の当たる所に干した。今日は天気が良いから、昨日よりも早くしっかりと乾くだろう。
俺は、真っ白になった俺の心を眺めた。
――きっと、あれを入れたらすごい満足感を得るだろう
そう思うと、心が乾くのが待ち遠しかった。
楽しみに待っていたのに、乾いた心を入れても、何も感じなかった。
おかしいな、と不思議に思いながらも、俺は、友人の所へ行った。
「嫌なヤツになった」と俺に言ったそいつに、心の汚れが無くなった俺を見てもらったら、そいつは「つまらないヤツになったな」と俺に言った。
「俺も、そう思う」
正直な感想を、俺も言った。
俺の心は綺麗になったはずなのに、どこか味気ない。
例えるなら、いろんな人が思い思いに好き勝手なことを書いた黒板が、真っ白に消されてしまった気分だ。何書いてあるのか分からなかったけど、汚かったけど、真っ白くなるよりはずっと良かった。
「俺はさ」と友人が言った。「綺麗なお前が好きだったわけじゃないんだよ。俺は、不格好でもがむしゃらに頑張る、泥だらけのお前が好きだった」
「なら昨日、俺に『嫌なヤツになった』って言ったのは、どういう意味だったんだよ?」
「それは、お前が汚れないように生きていたから。そんなの、お前じゃないだろ」
そいつに言われて、俺はやっと気付いた。
昨日から一生懸命落とし続けた汚れは、落としちゃいけない汚れだった。
俺が落とした汚れは、俺が必死に生きたという証だった。
「真っ白になって、お前どうするつもりだよ?汚れが付くのが怖くなったのか?」
友人は言った。
――そうかもしれないな
俺は思った。
昔だったら、「がむしゃらに」とか「ひたすらに」とか、普通にできた。でも、少しずつ大人になってくると、それだけじゃいけないと知るようになった。「要領よく」「効率的に」「出来ない事はさっさと諦めて、早く次に」と、そんなことを覚えるうちに、「泥にまみれながら、がむしゃらに、ひたすら頑張る」ということをしなくなった。
いつの間にか、泥道を避けて歩き、汚れない道ばかりを歩いていた。
いつの間にか賢くなったバカな俺は、大切な汚れまで失くしてしまった。
「そんなことないよ」
俺は、友人に応えた。
大切なことに気づかせてくれた友人を心配させてはいけない、そう思った。
「汚れるのは怖くない。怖くないけど、あまり汚れ過ぎると洗濯に困るんだ。俺ん家乾燥機無いからさ、たまった洗濯物が全部生乾きだと、着る服無くなるんだ」
俺が言うと、そいつは笑った。
「それは確かに困るな」
「だろ?」
「乾燥機じゃなくても、除湿機は無いのか?」
「ああ、それもないな」
「なら、今から除湿機買いに行こう。再会記念に、少しで良かったら俺からも金出すよ」
「それは悪いよ。けど、せっかくのご厚意だ、甘える事にする」
棚からぼたもちならぬ、棚から除湿機だ。……危ないな。
俺達は、除湿機を買いに言った。
立派な除湿機も手に入れて、洗濯物には困らなくなった。
もう、汚れるのは怖くない。
これからは、死ぬ時に触るのもためらわれる位の汚れを、俺の心に刻もうと思う。
話の中では「汚れ」と一口に言いましたが、「汚れ」の中には「消耗」も入っていると思ってください。
私は、新品の物が苦手で、使っていくうちに味が出てくる革製品のようなものに強い魅力を感じます。だから、「古くなって汚れも増えたし、新しいのにかえなよ」とか言われると、「いいの、これで」と不機嫌になります。
何が言いたいかというと、本作の主人公は、そういうあってもいいはずな「汚れ」まで消した、ということです。
「心を入れ替える」という言葉の意味が変だ、「どうやって心を取り出したのか?」など、気になることもあるかもしれませんが、気にしないことが一番です。私にとって。