1.
「最悪だ……」
「皆川さんなんか顔色悪いですよ」
まかないを作ってる高橋がおれのひとり言に反応して、怪訝そうに首を傾げている。
「いや、なんでもない」
ホウキとチリトリを手にバー・ブルーラグーンの開店前の掃除を始めた。
「まさか子どもができちゃったとか……」
「お前はアホか!」
絵理さんにキスをした後はいつの間にか眠ってて、それで由希が10時くらいに起こしてくれた。帰るとき、絵理さんはまだぐっすりと夢の中。2日酔いの頭はガンガン、バックバーに並ぶお酒のボトルは、出来れば見たくもないけど仕事は仕事。
「はああ……」
「今度はため息ですか。皆川さん幸せが逃げますよ」
「高橋、全くその通りだよ全くよ」
ため息と一緒に力が抜ける。最悪ーーその理由は2日酔いとかそんな元々知ってたことじゃない。おれとしたことが……このおれとしたことが、酔ってたとはいえ絵理さんの連絡先を聞き忘れた!
由希に聞くなんて冗談じゃない、間違いなく疑われる。「どうせ体が目的なんでしょ」とか、「わたしの妹に手を出さないで」とか言われて残念ながら一貫の終わり。床に集めたホコリの山がため息と一緒に飛んで行く。終わった、始まってもないけど終わったんだ、もう……。
「はああ……」
「……またですか」
正直言って高橋が作るまかないは旨い。さすがは元イタリアンのシェフの卵だっただけのことはある。今日の料理はトマトソースのなんたらかんたらと鶏モモ肉のなんとかかんとか。
「高橋、この肉料理、薄味で旨いな。メニューのひとつに考えてみたらどうだ」
店長の長澤さんがそう言うのももっとも。多分、薄味にしたのはおれの体調を気遣ってくれたから……どうかな。
「マジでうまいッス!」
ホール担当の大塚は相変わらずの変な眼鏡。だから生まれ年のワインを……。
「皆川」店長が声をかけて来た。「今日、仕事終わったら飲みに行かないか?」
今日は勘弁……そう口から出そうだったのを堪えて「お供します」と二つ返事、なんらサラリーマンと変わらない。
ブルーラグーンの開店時間は6時。歌舞伎町入ってコマ劇場の裏、その場所は6時過ぎにキャバクラで働くお姉さんの同伴に便利らしい。今日は平日だし多分ヒマだろう、そんな予想は歌舞伎町には当てはまらない。
当てはまらないはずだったーーまさかのヒマ、いわゆる閑古鳥が鳴いてるってやつだ。
「ヒマッスね」
「大塚、ヒマ潰しに昔の彼女の話しでもしてくれよ」
バックバーのボトルの肩と口をウエスで拭きながらちょっと思い出し笑い。
「皆川さん、もしかしてネタにしてません?」
「だっておもしろいんだもん」
突然BGMが変わった。ハウスっぽいレゲエ?
「これいいだろ」店長がCDのジャケットを手に笑顔で言う。「昨日買って来たんだ」
静かに流れるそのメロディーは、暑くなり始めた7月中旬の夜にピタリとハマる。さすがは元DJ、さすがはSM好き……関係ないか。
そんな話しをしているうちに大塚の「いらっしゃいませ」が店内に届く、と同時に気持ちが仕事モードに切り替わる大塚以外の3人。
紫のワンピースは常連のチカさん。キャバクラ嬢……じゃなかったような違うような、けど一緒に来た中年の男性は始めて見る顔だ。
「オーダー入ります。カンパリソーダと生です」
カンパリソーダ……少しの間だけ忘れてたのに、大塚の声にこうも簡単に記憶は甦る。「かしこまりました」そう言うとバックバーからカンパリのボトルを逆手に取り、宙で半回転させてボディーを掴みトップをはじく。
グラスに添えられた絵理さんのフラッシュは鮮明で、澄んだ真っ赤なカンパリは彼女の手のひらの中でたゆたう海?
「お願いします」
カンパリソーダと生ビールを大塚が慣れた手つきでトレンチに乗せる。大塚とカンパリ……見比べたら笑いそうになる。
「いらっしゃいませ」
店長の声に反応して入口に視線を送る。池袋のダイニングバー、店長の平山さんはカウンターに座った。
「平山さん今日は休みなんですか?」
「水曜日はひまだから休みにしたんだ」
笑顔で語る平山さんの、いつものようにはセットしてない髪型に疲れを感じた。平山さんはブラントンをロックでオーダー、相変わらずの酒好きは健在で、少しだけ安心した。
大概、カウンターに座るお客様はバーテンダーと話しをしたがる。そっとしておいてほしいお客様は、今日のチカさんみたいにテーブルを希望する。
「最近ラスティーは忙しいんですか?」
「いやいや、名前通り寂れちまってるよ」
錆びた釘って名前のラスティーネイルはウイスキーベースの、カクテル。うちではベースにCCを使っている。
話題の中心は専らバーの話し。あの店はこの店はって、横の繋がりが広い人の話しはおもしろい。途中から店長も加わり酒での失敗談で盛り上がった。
「皆川くん、ブラントンおかわりで」
「かしこまりました」
できるだけお酒の香りを嗅がないようにグラスの中で丸氷をビルド、じゃないと二日酔いの頭に響く。
そんな時、ズボンのポケットに入れておいた携帯電話のバイブが振動した。バイブの感覚からメールだって冊子がつく。
「皆川くんは失敗談ってあるの?」
失敗談ーー昨日のことは言えるはずもなく、酔って山手線に乗ったら眠って気づいたらバス乗って早稲田大学に到着した、なんて当然ウソだと思われた。まあ、ウソにしか聞こえないけど、けどさ、マジなんですよ……。