1.
「お姉ちゃん彼氏と別れたって聞いた?」
「ホントに?」
朝の身支度を整えてる絵理の横で、それをじっと見てる。
「なんかね、副業でコンビニのバイト始めたらしいよ」
「そうえいば生活大変って言ってたね」
ただ見てる。
「あの、雅也さん?」
「なあに?」
「着替えたいんだけど……」
「どうぞ」
「どうぞじゃなくてあっち向いてて!」
やっぱりダメかと思いつつ当然の成り行きに、どこかに反射するものないかなって……なかった。
「そういえばさ」
「キャッ、エッチ!」
薄いピンクの下着、今日はそれだけを胸に部屋に帰ろう。
「見たでしょ」
「……見てないよ」
「ホントに?」
「ピンクかわいいね」
「コラー!」
着替えが終わり振り返り、そのまま絵理を抱きしめた。
「雅也さん、昨日の夜、なにも……」
「大事にしたいから」
交わる唇はディープキス、そおっと右手を絵理の胸に置くと、交わす息は少しだけ上がる。
「もう……」
「少しづつ、ね」
照れる頬がかわいくて、もう1回キスして帰った。
「皆川さん、やっぱり恋っていいですね」
そう言う高橋は満面の笑み、気持ち悪いくらいに白い歯を覗かせている。
「獣の高橋くんのセリフとは思えないなあ。で、やっちゃったの?」
即答でやってないですよ、そして続く彩香さんとのお付き合い宣言、どっちでもいいけどそれなりに幸せそうだ。
「おめでとう」
「今日のまかないは期待しててください」
高橋が持つフライパンからは香ばしいバターの香り、高橋に期待しろって言われれば掃除もいつもよりはかどる。
「で……なんでフォアグラ?」
店長の声に「買って来ちゃいました。皆川さんへのお礼です」と答える高橋。フォアグラ……食べたことないそれにナイフを突き刺しクスクスと一緒に口にほおりこむと広がる芳香は絶妙で、店長の鶴の一声でメニュー候補の1つになった。「いいなあ」なんていきさつを聞いた大塚に、ワインの思い出は忘れろって声をかけた。
「グラスホッパーの思い出よりは……」
「なんだそれ、聞いてないぞ!」
「……あ!」
とりあえずフォアグラを食べさせろ、面白そうな話しはそれからだ、大塚は予想通りの落ち着きのなさ。楽しそう!
「よくドラマとかであるじゃないッスか。グラスに指輪が入ってて、それを口に入れた女性が、あ!……て。それで男性が結婚しようって。それに憧れてやってみたんです。でも透明なグラスに入れるとバレるから、グラスホッパーにしてみました。彼女はそれを口にすると、なんか入ったって言ってきっちのシンクにペッてなって、あ!って。その後は気まずい空気が……」
「ははは、お前バカだろ!」
「生クリームまみれの指輪かよ」
「最高!」
今日1番の笑いがテーブルを包み、「いや」とか「だって」とか言う大塚は額に汗を滲ませていた。
「ところで皆川」店長が笑いながらも話しかけて来た。「今日から大塚にバーテンの仕事を教えてやれ」
「えええ、マジですか?」
「先輩、よろしくッス!」
「大塚、スパルタ、な」
高橋はまだ笑ってる。もし営業中にグラスホッパーを頼まれたら、きっと笑いを堪えられない。
「大塚、とりあえずそのなんとかッスってのやめろ」
「分かりましたッス」
「……帰れ」
絵理の次の休みは水曜日、それに合わせて休みをもらった。その日が引っ越しの日になった。
「大塚、ミキシングとバースプーンは知ってるよな」
「はい、知ってるッス……知ってます」
絵理と出会ったのも水曜日、出会ってからまだ1週間しかたってない。住む部屋は絵理の部屋、おれの部屋は解約してもいいけど、しばらくは倉庫として使うつもりだ。
「ミキシングをバースプーンで混ぜることをステア、代表的なカクテルはマティーニ、マンハッタン、ギブソンとスタンダードが並んでる。ステアが出来なければお話しにならない」
「……はい」
どんな生活が始まるかなんて想像もつかない。お互いが働いてる時間帯にはズレがある。スレ違いだけにはならないように気をつけようと思ってる。
「とりあえず、1日5000回まわせ」
「5000回?」
セックスはどうしよう、おならってしてもいいのかな、洗濯は、げっぷは……。
月曜日はゆっくり時間が流れていく。バーカウンターの中で大塚は1人ガッチャガッチャとステアの練習。
「指が痛いッス」
「ス?」
「痛い、です。皆川さん、皮の指が……」
「ならバンドエイド貼って回せ」
不満そうな顔に「バーテンダー辞める?」って聞いたら頑張りますって意気がった。キツイ……そんなことは知っている。けど1杯800円するマティーニの原価はおよそ120円、残り680円にバーテンダーの技術料が何%かを占める。
それに、ここで働く前、おれがどれだけ殴られたか。客商売だから顔じゃなくて腹や胸、肋骨折られても文句を言えない自分がいた。
水商売ーー裏側は見せられないセカイだ。