2.
朝7時に電話しようという作戦は、いとも簡単に失敗した。きっかけは閉店と同時に携帯電話に届いたメール。5時半、203号室のドアのインターホンを鳴らすと聞こえる絵理の声、すぐに開くドア、赤いパジャマ姿の絵理。
「おかえりなさい」
「ただいま、食べる!」
ハッシュドビーフ作っておいたよ、多分起きてるから部屋で待ってるーーこんなに嬉しいドッキリはないと思う。始めて入る絵理の部屋はおれの部屋と同じ造り、けれど彩る家具は想像以上にかわいかった。乾燥ハーブ、ビン詰めのリングイネ、カンパリ、布じゃなくてなんて言ったか忘れたけど、いろいろな色の布。
「座って待ってて」
「寝てないの?」
「早めに眠っておいたの」
最近、キッチンに立つ人間は高橋しか見ていない。大塚……記憶から消してしまおう。ハッシュドビーフの香りと鍋の音と、絵理の後ろ姿に魅力を感じ、そっと後ろから近づき絵理の肩を抱く。
「もう危ないでしょ」
腕に当たる絵理の胸は意外と大きい、香るシャンプーは銘柄とかよく分からないけどいい香りだ。
「ありがとう」
絵理から腕を離すとテーブルの横に座った。飲み物はウーロン茶、カンパリはまたあとで。
「味どう?」
「すげえ旨い」
「よかった」
「今日マズイの食わされてさ……」
大盛りのハッシュドビーフを一気に平らげる。高橋の料理より旨い、そう思うのは愛?
「ゆっくりしてってね」
「本当に寝たの?」
「大丈夫だよ」
デパートでの婦人服の販売、社員としてけっこう大変なんだと思う。「まだ時間あるし少しねむったら?」って提案に「じゃあちょっとだけ」って答える絵理は、やっぱり無理してくれてたんだって思う。
「雅也さんここにいてね」
ベッドは真っ白、そこに潜る絵理の頭を優しく撫でて小さな手のひらを包み込む。細い指がゆっくり絡み、伝わる体温はちょっと冷たい。
「冷え性?」
「冷たいでしょ。雅也さんあったかいね」
由希とは出会ってから、多分45分くらいでどこかのビルの非常階段でセックスした。絵理とは、今はそういう気持ちは全く起きない。感情にーー左右される感情に、ただ何も言わないで従っている、今はそれで充分。
部屋のライトのスイッチを押し、朝の6時を回ったカーテンの奥の光と絵理の寝顔は、あの時と一緒だなんて考えて、起こさないように絵理の頬にキスをする。違うのは、絵理がちゃんと眠ってること、秘密にする必要がないこと、静かに立ち上がるとキッチンに向かった。
お礼なんて思いながら冷蔵庫を開けてみる、怒られないかなって考えながらもベーコンとタマネギを見つけた。まな板と包丁を探してベーコンとタマネギを細かく切る。ナベは小さなミルクパンを棚に見つけた。弱火で炒めるベーコンとタマネギから立つ香りに、完成するまで絵理には届かないでねってお願いしつつ、2時間後に起きた絵理に「コンソメスープ飲む?」って聞いたときの絵理の笑顔はかわいかった。寝起きの絵理、思わず抱きしめてキスをする。ちょっと歯が当たって2人で笑った。
「激しすぎ」
照れる絵理のパジャマ越しに伝わる胸の柔らかさと温かさは、おれの心を優しく包んでくれるよう。
「おいしい」
「ちょっと焦げちゃったけどね」
また作ってねって言う絵理にもう1回2回キスをして、またねって言って自分の部屋に帰った。モノトーンでまとめた部屋はカッコいいって思ってた。けれど実際は、疲れたからだを癒してくれる唯一の場所じゃなくなっていた。
明日の朝は用意できないかもなんて言う絵理に大丈夫だよって、そんな会話を思い出しながら冷蔵庫から霜が張ったズブロッカを取り出しグラスに注ぐ。
「あ……」
もう少し部屋にいたら絵理の着替えを見れたかもって、でもそんなんじゃないし別にいいかって……。
シャワーを浴びてベッドに潜り込んで真っ白な天井を見つめる。今日は土曜日、今日さえ乗り切れば明日は少し楽になる。
仕事がんばってね、言い忘れたから絵理にメールを送った。ありがとうゆっくり休んでね、その文面を確認して眠りについた。