4.
「どうぞ」
皿の上ではトマトソースの中でムール貝とブラックタイガーが踊ってる。
「平山さん、カンパリってボトルキープできますか?」
「大丈夫だよ。名前はどうする?」
「2人の名前で」
新品の青いラベルにボトルネックが飾られ、そこに雅也と絵理、それに今日の日付を油性のマジックで書いた。
「記念に」
「はい」
何を話していいか分からないのはきっと彼女も同じだと思う。彼女ーーそう、文字通り絵理は彼女になった。
「気付いてたんだ」
パスタを取り皿に分けながら絵里さんさんに聞いた。
「寝付けなくて。目を閉じてたら皆川さんが起き出して、声をかけようかなって思ったら……」
「なんかごめん……」
ネグローニを口に運びながら申し訳なくなって下を向いた。
「嬉しかったんです。それに、キスした瞬間、その、電気みたいのがビビビって……」
「今度はちゃんと……」
カンパリソーダもネグローニもトマトソースも全部が赤。
「ちゃんとしよ」
彼女には赤がよく似合うーーいつか、赤い洋服をプレゼントしようって決めた。
それから何を話した?仕事が大変だってこと、映画や音楽が好きだってこと、東京に来て自分が働いてるデパートの大きさにビックリしたこと、好きな食べ物嫌いな食べ物、とにかく時間はあっという間に過ぎていった。
「そろそろ帰らないと」
「そうですね」
「変だよ」
「……え?」
「敬語」
「あ、うん、そう、だね」
平山さんにチェックを伝え、お財布を用意する絵理さんに大丈夫って声をかけ店を後にした。
「絵里さん」
「皆川さん、絵理でいいよ」
「じゃあ絵理、皆川さんもやめようか」
「……雅也、さん」
ハタから見たらただのバカップルだろう会話は、2人にとってはきっと、大事な会話。
「でも同じマンションってすごい偶然だよね。もはや奇跡に、近い」
「そう、だ、ね」
例えば「送ってくよ」とか駅で後ろ姿を見送るとかがない別れ、敷いて言えばマンションのドアの前で「また明日」、そう言うくらい。
7月の外の風は気持ちいい。西口公園に差し掛かるころ、左側を歩く絵理の手をそっと握ってみた。目が合うと絵理はギュッと握り返し、お酒のせいなのかあったかい彼女の手のひらに安らぎを感じた。
203号室のドアの前で、ちょっと気まずく立っている。
「お茶、飲んでく?」
「遅いし今日は帰るよ」
絵理がドアに鍵を差し込み開閉音と共に開く先、構造はやっぱり同じでもそこは絵理のセカイだった。玄関に入り振り返る絵理の目はこんなに大きかったかな……テーブル越しで見るよりもっと近くに絵理がいる。
だから抱き締めた。背中の後ろで勝手に閉まるドアの音がする。腕の中の絵理の肩は小さく腕は細く、でも丸いおでこはおれの胸を頼ってる。
「……絵理」
ゆっくり上を向く彼女と視線が優しく交わると、精一杯そっと唇を重ねる。感じる電気は前回よりも強く、腕を添える両肩を、絵理をおれが守ると、誓わせるには充分だった。
永遠ーーそこには永遠って名の時間が確かに存在する。「また明日」、そう手を振るまで、確かにそこには永遠があった。
ずっとずっと一緒にいれると思ってた。絵理といつまでも一緒にいれると思ってた。付き合った数時間後に、将来2人が別れることを想像する方が難しいのは当たり前のこと。
でもなんでだろう、なんで2人の心はスレ違いを始め、結果として別れを決断し、駅のホームで絵理を20時間も待つことになったんだろう。
なんで……。