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秋夜

掲載日:2026/07/22

一 光の源

私に光がないのは、私のせいではない。だって注がれるべき人から光源になるものをもらわなかったんだから。そして、おそらく母親である彼女もそうなのだろう。母親に会いたいと、これほどまでに明らかなほど確かめられる思いになるほどに思ったのは初めてだった。仮にあったとしても、何も話すことはない。光がない母と娘が、そのことについて一体何を語り合うというの。ただ、その事を理解したわたしとして母親と向き合いたい。わたしは一度も母親に向き合おうとはしなかった。もし、しておけば、人と人として、母と娘とは違う位置関係や距離間をもてたかも知れない。こんな仮説めいた思いからは何も生まれない。そう思って打ち消そうとすればするほど、涙がこみ上げてきた。そして、自分が自分である秘密を認めた。あの人の娘であることであり、それは消し去ることのできない刻印のように私の体の奥のどこかに押されているということも。

私がそうだったように彼女もまた、そういう人間だった。私は数学の照明問題を解き終え出鉛筆を置くように、それ以降思考を終えた。そして問題を解き終えた後のように、そっと目を閉じた。

 未解答の問題は、解かれると事実になる。事柄の中身は変わっていない、判っていくだけで道程になったり、事実になったりする。帯びている意味合いが変質していくものなのだ。霞は、たった今自分の歯車が音を立てて動いたのを聞いた。

 霞は憐憫の情を、一つまみほどを母のもう見ることのない背中にかけてやりたかった。それ以上の同情や慈愛は不要だ。もう感傷に浸ったり、過去の思い出を美化する作業は誰からも求められてはいないのだ。ただ私は新たに見つけた道程を頼りに新しい道を歩いて行きたい。母親と何かを共有していることに揺れる心を抑えた。

 窓の下に広がる校庭を眺めた。詩ガスが強い青空に似た景色が胸に広がる感触があった。景色をただの景色として受け入れることのできる心境にあった。校庭で友人と走った時のことが思い出された。霞はいつも一番足が速かった。ある少女とどちらが速いか、競うように併走した。空気を引き裂いてその子を引き離して、独りで疾走する。周りで見ていた数人の友人の驚きが沈黙として響き、その後で少女を応援する声が聞こえる。校庭の端まで走り抜けても霞は疲れなかった。爽快感。その時にその事を知った。乾いた風に両目からは一粒涙がこぼれた。疾走した後の気持ちは、泣きはらした後の気持ちによく似ていると霞は思う。不思議だった。ここに来て泣いたことは一度もないのに・・・・・・。泣いても何も解決はしない。ただそのあとは、スムーズにことが運ぶことがよくあった。

 今の苦痛の原因は、自分にあるのではないことが判った。自らの努力不足、怠慢にあるのではない。自分の手の届かないところに存在する事柄が原因で、かつその問題は永遠に解決されない。解決されないものを問題として放置しておくことは霞には耐えがたかった。問題とは、解かれ、解決される宿命にあるのだと、彼女は定義していた。問題に定規で2本線を引き、道程と書き換え、まぶたの中でノートを閉じた。


大きな欠落したもの様な場所を自分は抱えていると、霞は思い始めていた。アスファルトの道がある日突然大きく陥没したニュースを見た。思わず自分の胸に手を当ててそのニュースに釘付けになった。ただ、音声は少しも耳に入ってこなかった。自分も同じものを内部に抱えている。それは砂漠に水を注いでも注ぐそばから地底に水を吸い込んでいくように、わたしの中の穴も何を注ぎ込んでも埋まることのない。

天井を見上げると一片の埃がゆらゆらとゆれながら落ちて来るところだった。何故かその埃が自分のように思われた。左のまぶたが小刻みに震えた。

省エネ、精神の省エネと霞が独り考えた生き方で溜め込んだはずのエネルギーはいつの間にか自分の中から消えていた。どこかに吸い込まれるように。溜め込んだエネルギーが当てにならないことを悟った霞を助けたのは、いつか自分にご褒美がもたらされるという神話だった。だがその褒美はいつになっても彼女には与えられなかった。恵まれるものは更に恵まれ、そうでないものは更に貧しくなるという現実の前に、おとぎ話の主人公に与えられる幸せは訪れなかった。もう誰にも期待しないし、求めてもいけない。と霞は人生の早い時期に悟り、その悟りを友に歩んできたはずだった。

友人たちと就職活動を始めると少し様相が変化を見せた。自己実現。なりたい自分になれる! 自分を変えるチャンス。そんな文言が不思議と目に付く。そんな誘いに導かれるように、学校という職場を選んだ。子どもたちの笑顔に囲まれた生活ができるのではないか。一体どうして私はこんな場違いなところに来てしまったんではないか。もし、運命というモノがあるとしても、ロマンをまとった響きを感じない。霞は思う。それはむしろ、無機質で機械的な響きに似ている。線路のように一度そこに乗るとそこから外れることはできない。いくつかのポイントが用意されてはいるものの、レールかは外れずに進むことは約束されている。

私は何度となく諦めてきた。一度諦めればそれで終わりだと思うと、しばらくそのレールに乗って進んでいくとまた諦めなければならない何かに当たる。この先ずっとこの諦めの繰り返しを私は約束されているのだろうか。普段なら気持ちの沈みがちになるこの思考も今はレールの上をスムーズに走っていく。しかし、今はスムーズに進むこの私の思いもこのレールから外れたいと脱線を望む力によって軋んだ音を立て、突然点灯した赤信号に急ブレーキをかける列車の如く。レールに火花を散らし、自分のレールに抗いたくなるのだった。

この仕事は子ども達に光を注ぎ込まなければならない。そしてそれを続けなければならないの。ただ自分にはその注ぐべき光などない。むしろ、光をもらいたいのは私の方で、私は光を求めて、この職を選んだ。でも、ここに来て分かったことは、その光は教師が浴びせた光を子ども達が鏡のように反射しているのだってこと。子どもは教師によって在り方が大きく変わる。光の注ぎ方を知らない教師には否応なく牙をむく。光を上手に注げる相手には美しい輝きでもって応える。彼らの存在はそれ自体が諸刃の剣。

職員室で隣のデスクに座っている初任の同僚が言っていた。放課後、子どもを残して勉強を教えているとき、自分が胡坐をかいた祖父のひざに抱かれているときのことを思い出すと。そう語る彼からは、普段は見せない笑みがこぼれ、全身から光が出ていた。それは確かに靄がかった光だった。湯気のような形状をした光がその体のいたるところから放射状に発せられていた。


二 神的な

このごろ潜在意識というものの存在を感じるようになった。生き別れた母がどこからともなく潜在意識の入り口を通って彼女の中の出口から姿を現すのである。顔も見せず、言葉もこぼさず、その背中から伝わるメッセージは、お前の進む道はそっちではない。母から初めて教えてもらうことがそんなことであるのは、不条理に思えたが、母の存在は絶対的に大きく、その母の小さな背中を見るだけでほんの少しだけ胸の内の空白が満たされた気持ちになったりもした。霞と母との関係は、誰から否定されることもなく肯定されることもなく、もちろん知られることもなく今の胸の中にしまっておくものとしてあると信じていた。それがどれほど自分を追い込み痛めようとも、誰からも邪魔されたくはない。それは祈りにも近いある種の信仰になった。心の片隅にいつも母がいた。強く意識することもあれば、敢えて隠したくなることもあった。それは思春期の親と子の関係に似ていた。友人が母親の愚痴をこぼしたり、ときに自慢げに話して聞かせたりしてきたときも、自分の中の母親については隠して、嘘の母親像をつくって語った。自分は孤独ではない、高みから友人たちを見ている自分を思い描いた。孤高なのだと。母親的な存在を年上の女性に求めたこともあった。ある時は保健室の養護教諭であり、ある時は知り合いの女性だった。しかし彼女たちは時が来ると彼女の前から姿を消した。それが分かると霞は母親を感じさせる女性たちと一緒にいると、別れのときを先回りして感じてしまい落ち着かないのであった。不意に冷たく接してしまったり、生意気な態度をとったりと自分の思いとは裏腹な態度をとる自分に嫌気がさして、やがて年上の女性とは関わることを拒むようにした。どうせ彼女たちにとって自分は通行人程度の存在でしかないのだからと、彼女は幼いときからそうであったように、終始物分りの良い少女を演じることに長けていた。それは自分の心を守るために身につけたスキルでもあった。次々と移り変わる世界に自分を賭した異議申し立てをしたところで、世界の色を明るく塗り替えることなどできはしないのだから。無駄な力は使わずに省エネでいこう。流行の言葉に自分の行き方を重ねた。

わたしは母に愛されたことがなかった。より正確に言えば、愛されていると感じたことがなかった。彼女はいつも、自分の欲求を叶えるために要求をしてきた。霞がそれに答えられないと決まって怒った。

熱いものがこみ上げてくる。また天井を見た。暖色の照明が滲む。母親のことを思って泣いたことなど一度もなかった。母もまた光をもたない人間だったのかも知れない。今初めて自分と母が重なった。母親は自らが母であることから逃げなかった。自分は今、教職から逃げようとしている。この場から離れなければどうにかなってしまう。


三 声

教室の後ろにかけられているカレンダーに目が行く。理科の学習のために太陽系の惑星の距離間が分かるように描かれている。左端に太陽、水星、金星、地球、火星と順に一列に配置されている。描かれた惑星たちに目を細める。再び目が微かに潤んだ。それまで胸につかえていたものが一気に払拭され、雲ひつつない青空が胸いっぱいに広がる思いがした、久々に新鮮な空気を吸い込めた気がした。

「ごめんね、みんな」

教室にきれいに並んでいる子ども達の机に向ってそう呟いた。

「さようなら」

沈黙が満ちる。

「光がないの・・・・・・」

 その言葉は、子ども達に言ったのか、自分に言ったのか、誰に向けて放たれた言葉か分からなかった。

「水の出ない土地をいくら掘っても水は出ないのと同じ。無いものはいくらがんばっても出ない」

 宛て先のない言葉たちが自然に流れ出ていく。もう気づいてしまったのだ。

「それはさ、愛情ってものとも違うの」

 ふと、外を見る。もう暗い。教室の中が窓ガラスに映し出されていた。もう、そんなことどうでもいい。

「なんか、すっきりした顔してるもん。わたし」

「不思議だね」

「辛いトンネルから抜け出したみたいな気持ち」

暗くなった窓外には、住宅のオレンジ色の灯りが見える。

「長いトンネルだった?」そんな声も聞こえた。もしかすると自分の声かな。窓にふと、教室の窓側の隅の席に十歳の自分が見えた気がした。


四 出遭い

母のことを思い出した。これまでとは違う母が思い出の中に潜んでいる。母のことを思い出すと決まって伴ってくる強い揺さぶり、は訪れなかった。それままるで静かに佇む街を嵐が襲うようにいつの間にわたしを撹乱する。でもその時の霞は凪に包まれていた。物音も聞こえてこず、風も吹かなかった。すべてのものが理に適って、そこに静かに在る。そういう世界が視界の中にいた。


「いろいろな人がいるからね」手の掛かる子どもや無理難題を申し付けてくる保護者が話題になると、決まって誰かから語れるその決まり文句。という台詞は職員室のBGMのようになっている。仕事をしながら誰かがその言葉を吐き、誰かが頷く。だが、今のわたしは、ちょっと違った意味づけをして、全く違う人の見方をここにいる人々に伝えることができるだろうと思う。それは、光を与えられてきた人と光を与えられなかった人。その人たちがどんな道を進むかまでは予想はできないけれど、少なくともわたし自身の進んできた道を振り返れば、だいたい予感が外れることはないと思う。光を当ててもらえなかった人はね、ずっと光を求め続けるの。わたしは、きっとそっちの方なの。わたしは光を求めなければならない宿命。わかる? 光をくれる人を求め、関係をもつ。でも、分かるの。この人はわたしが欲しいだけの光はくれないって。そして次の光を求めて、次の人や場所を探す。ちょうど、この家は暮らしてみたら思っていた住居とは違いました。他の物件はありませんかって、不動産屋に聞いて回る賃貸人よ。霞は笑みを湛えながら続ける。すぐに出て行くべきなの、違うとわかった時点でね。敷金も礼金も無駄払いだけどね。合わない人と一緒にいたり、合わない場所にずっといるのに比べたら安いものよ。教職に就くのだって、勉強して、免許とって実習もして、試験受けて面接官に思ってもいないこと言って、結構大変だったけどね。でも、そうして就いた仕事だからっていう理由だけで自分を“教壇”に立たせ続けるのはもうだめ。自分で自分を許せないし、耐えられなくなりそう。

「あはは」乾いた小さな笑い声がシンとした教室に吸い込まれる。


「ぼくが見えるんだね」音もなく教室に入ってきた(いつ入ってきたかわたしは知らないが)少年は確かにそう言った。


五 彼の名は

「見えるよ。声も聞こえる、こうして」この子は果たして何組の子だろう。いや、四年生には、こんな子はいない。他の学年の子?

「ちがうよ!」男の子は、いたずらな笑みを口元に浮かべわたしを見据えている。

「その先を言わないで・・・・・・」それ以上話させると聞きたくないことを語りだしそうなのだ。四年生でもないし他学年の子でもない。物音も足音もなく教室に入ってきた?いや、わたしは今まで物思いに耽っていたから、きっと聞こえなかっただけで、この子はそれなりの音も立てて人が入ってくる気配も伴ってわたしの教室に侵入してきたはずだ、そうに違いない。だとすると、他校の児童が理由もなく校舎に入り込み、なぜかわたしの四年三組に立ち入っている。これは、“不審者”として扱っていい案件だ。こんな厄介者と自分の教室で遭遇してしまったというアクシデントは、それはそれで面倒ではあるが、もう一つの想定できる事柄に比べると比較にならないほど安堵の気配が匂う。

「かみ、よごれてるよ」涼やかに空気を揺らす声がわたしに知らせる。わたしは慌てて前髪に手をやる。少年の視線がそこに向けられていると思ったからだ。

「ちがうよ!」少し力みのほどけたような声。声に笑いがにじむ。

「そっちのかみじゃないよ」

霞は手元に目を落とす。

万年筆のインクが白い紙に黒く豆粒大に拡がっている。わたしは驚きと落胆がない交ぜになった声を上げた。成績欄、出欠欄は完成し残すのは日ごろの生活の様子や学習の成果と課題を記す所見欄だけになっていた。その所見欄も八割がた書けていた。

「あらら・・・・・・」少年はおもむろに心配げな表情を浮かべる。霞の左後ろに立って霞の肩越しにインクの滲みを見下ろしている。

「あなたのせいよ!」苛立つわたしは感情そのままに責め立てた。

「ここまでくるのに、どれだけかかっていると思っているの! 差し替えることも、消すこともできないじゃない! 通知表には修正液は使えないの!」

ひとしきりわたしは少年をなじった。

「ごめんなさい」そう言った時には少年は一メートルほど霞から遠ざかっていた。

「わたしはね、この仕事が一番嫌いなの。これ以上手間をかけさせないで」

「他の先生もそう言ってるよ」

「どうして、それがあななに分かるの?」

「だって、そう言ってるから。そう思っていないのは変わり者の数人の先生だけだよ」

「へぇ・・・・・・って言うか、あなただれ?」

「えっと、さかまきじゅんいち。坂道の坂に、巻き物の巻に、順番の順に、一番の一」

「って言う名前のおばけ?」そう言いながら、震えが止まらなかった。職員室では時折、この学校の心霊現象について語られている。だからいくつかの話は知っていた。暮れ時であったり、深夜間近の時間であったりした。時期としては、今のように学期末や学年末、卒業式前など節目に集中しているようだった。しかしわたしはそういう類の話にはまったく興味がなく、もちろん信じてもいなかった。忙しさやストレスで精神が不安定になっている一部の教員の幻聴の一種に決まっていると。

「おばけって言われると、ちがうとは言えないけど、いい気持ちはしないよ」

「じゃあ、ユウレイ?」他にどんな言い方があるのか、あるなら教えて欲しい。明らかに人とは違う何らかの存在が自分と話している。出る出るとは聞いていたが、これがそれなのか。

「ザシキワラシって聞いたことある?」

「あるけど、妖怪でしょ」

「あんまり、嬉しい呼び名じゃないけど」古い日本家屋に棲み付いていてこけし人形のように前髪のそろったおかっぱ頭の少女が思い浮かんだ。

「そういう子ばっかりじゃないんだ」順一という少年はわたしの言葉として発していない思考を掬い取っているようだった。

「ザシキワラシって、陰気臭くて悪戯する子どもの妖怪でしょ?」

「だからそういう子ばかりじゃないし」

そう言われて、わたしはいつもの必要以上に相手を追い込んでしまう癖が出たと少し反省した。でも通知表を一枚ボツにした責任は重い。精神のバランスを崩した自分が見せた幻覚だろうが、正真正銘の心霊現象に遭ってしまったのかどちらでもいいと思った。この子と話していると、どちらにしても大差ない、そんな気がしてきたのだ。いつの間にか体の震えは止んでいた。まるで普段接している子ども達と、同年代の子どもそのもの。

 「あなたは妖怪? お化け? それとも幽霊? どれも違う気がする」目一杯の笑みをたたえて、わたしは順一と名乗る少年に訊いてみた。いったいこの子は、何者? どう考えればいいのだろう? 聡明そうなこの子はいったいなんて答えるのだろう? この時、霞にこれまで経験してこなかった好奇心とともに不思議な力が湧いてきたのを感じた。

「何だろうね? ぼくは人だと思ってるけど・・・・・・」人?意表を突かれた言葉にわたしはしばし言葉を探す。

「人?」やはり、その言葉しか吐き出せなかった自分に落胆する。こちらを見る少年の目線に自分の中身を抜き取られてしまう様な感覚に襲われる。ここにいちゃいけない。物音一つ立てないで教室に入ってきた男子児童が自分のことを「人」と言っている。滑稽すぎて笑えない。

その時、教室の後ろの扉がガラガラと音を出して開けられてた。

「お疲れ様でーす。日直です。戸締りお願いします!」

普段よく話をする先輩教員が、校舎の戸締りに回ってきた。

「・・・・・・」

「どうしたの? 具合でも悪いんですか?」

こちらの様子を探るような表情だ。

「・・・・・・」

「大丈夫?」

彼女が教室の中に一歩二歩と歩みを進めた。しかし彼女は、何かを感じ取ったのか、それ以上わたしに近づこうとはしない。

「・・・・・・所見終らなくって」ようやく平静を装って沈黙を埋めるように言うが、声がかすれていた。

「え、もう所見書いてるんですか? わたしなんかまだ所見に手をつけられてないんですよ。お邪魔しちゃってすみません。集中しないと書けないですもんね」

彼女はそう言って、そそくさと教室を後にした。あの対応からして、わたし呆然としていたのだろうか、それとも悄然としていたのだろうか。いつもなら数分の間雑談を交わしてもおかしくなかった。その数分が数十分に延びて、互いの愚痴を聞き合うこともしょっちゅうだ。

わたしは少し不思議だった。あの少年と話している自分は恐れや怯えなどとは無縁でいられたと感じているからだ。むしろ素の自分に近い状態と言ってもいい。順一と名乗る少年が立っていた黒板前は、それまで以上に誰もいない空白の空間としてわたしは意識した。

 

 六 ハチョウ

帰りの電車の中で立っている間も、少年のことを考えていた。考えているというより頭から離れない。いつもなら空席を探してでも座りたいのだが、今日はなぜか閉じたドアに背中を預けて宙をぼんやりと眺めていたかった。あの後職員室に戻り明日の授業準備をしている時も、我に返ると手を止めて順一と名乗る少年のことを考えていた。彼の顔が何も無い空間に浮かび上がる。頭のスクリーンに映し出されているようだ。やはり噂の古くからここに棲みつく幽霊なのだろうか。でもその話をしている教員たちが語る恐怖感からは遠くかけ離れていた。そのことが、彼のことを誰にも打ち明けてはいけないような気持ちにさせた。

―なぜ、わたしの前に現れたのだろう。

―わたしの前である理由を知りたい。

―またいつか現れるのだろうか。

「知らないよ」電車がレールを走る振動にのせて、少年の声がかすかに響いた気がした。

「『知らないよ』って、それってどういうこと?」無意識にわたしはそう返す。周りの乗客には、わたしたちの声は聞こえていないようだ。

「ぼくだって別に自分からわざとあなたの前に現れたわけじゃないんだ」スクリーンに現れた少年は続ける。「いつもの様にふらふらしていたら、あなたがこっちを見ているから、驚いたんだ。それで、声をかけてみたんだ。黙っていなくなるのも、あれかと思ってさ」

「いつもふらふらしてるの?」

「そうだよ」

「ちょっと! 気持ちわるい!」乗客が一斉にわたしの方に目を向けた。叫んでしまったようだ。わたしは一瞬にして血流が逆流するほどの動揺に包まれ、顔が紅潮し汗が噴出すのを感じた。すぐに体を反転させて窓の外を見た。夜の畑が見えるだけだ。今さらながらカバンからスマホを取り出して、電話をしているふりをした。

「知り合いのおじさんの話だと、ぼくたちとあなた達でハチョウの合った者同士は、見えたり聞こえたりするらしい」

「波長?」わたしは少年の言葉をそのまま受け入れるしかなかった。その会話を最後に少年の声は途絶えた。

とりあえず次の駅で一度降りホームのベンチに腰かけて待ってみたものの、少年はもう現れてくれなかった。少年について蜃気楼のように現れた少年を改めて考えてみると、小四にしては落ち着いた雰囲気であること、またその年齢にしては難しい言葉を使いこなしていることに訝しさを感じた。

 わたしは翌週の水曜日に少年と再会した。一人の教室で仕事をしていると少年が出てきそうで、職員室のほうが落ち着いて仕事ができた。彼にはまた会ってみたいとは思うものの、自分が教室で仕事をするというシチュエーションをつくること自体がその出現を誘っているようで憚られたが、でもわたしには日に日に募る好奇心があった。一週間ぶりに放課後の教室で、テストの採点をしていた時のことだった。

「こんなわくわくとドキドキ、経験したことない」そう一人ごちしたタイミングで少年は現れた。初めに現れたところと同じ黒板前だった。

―なぜ、わたしの前に現れたの?

再び現れた少年に、前置きなしに、わたしは訊いた。

―そんなの知らないよ。そう言ったじゃないか。

―もっと詳しく教えて。

少しやわらかな声色で訊いてみる。

―ぼくだって別にわざとここに現れたんじゃないんだ。いつもの様にしていたら、あなたがこっちを見ていたんだよ。それでこっちが驚いて声をかけたんだ。

―いつもそこをふらふらしているの?

―そう。

「ちょっと気持ち悪い!」

―この話、いつかもしたね。確かあなたにあったその日に。そう言って、少年はやわらかく笑った。わたしも声を出さずに笑う。

―立って話すのもなんだから、座ろうか。

そう言われて、立ち上がっていた自分にわたしは気づいた。子どもに着座を勧められるのもおかしかったが、たしかにこのやり取りを立ちっぱなしでするのも億劫で滑稽だと思い、椅子に座りなおした。座った時に金属が擦れる音が鳴き声のように小さく響く。こんなところまでいつもと同じだ。採点中のテストをデスクの脇に重ねる時に紙同士が擦れる音がする。改めて、この時が夢でも幻想でもないことを知らされた気がした。

―一応ことわっておくけれど、いろんな人がここをふらついているよ。もちろんきちんと目的があってここを通行している人もいるし。

「世の中知らぬ方が身のためであることは沢山あるのね。」

―周波数が合うもの同士は姿が見えたり、声が聞こえたりするらしい。それは知り合いのおじさんの言っていることだけどね。

「君はいったいいくつなの?」

わたしは唐突に不思議に思っていたことを訊いてみた。

「生きていたのは十歳までだけど、もう死んでから二十年は経つから、実際には三十歳くらいかな」

「実年齢ってことか、なるほど・・・・・・」

―うん。

「そんな数え方をするのね」

―あ、ああ、まあ。

 わたしは、よどみなく答える彼に、浮んだ疑問を聞いてみたくなった。

「ちょっと話し変えていい? そのハチョウっていうのは、年齢にも関係あるものなの? つまり歳が近いほうが合いやすいとか、その逆に離れている方が合いやすいとか」

―どうだろうね。それも少しはあるかも知れないけど、あんまり関係ないんじゃないかな」

「ふぅん。えっと、きみのこと、もう少し聞いてもいい?」

―別にいいよ。

「君は、西暦で言うと何年に生まれたの?」

―一九八六年

「わたしと同い年じゃない!」

―あ~そう」

「きみと話していると不思議と子どもと話している気はしなかったの。その訳が分かった」

―僕は体がないから、見た目にはあの当時のままだけど、一応歳は重ねているからね。

「幽霊も歳をとるのね」ユウレイという言葉の響きを聞いて少し言葉を選らばなすぎたと悔やんだが、他に彼の存在の形態を指し示す言葉はすぐには見つからなかった。

―そうなんだ。こうしてぼくは学校にいるからさ、一日一日を感じて一年間を意識して生きている実感はあのころとほぼ同じだと思う。生きていたのはずっと前だから、もうその感覚自体をはっきりとは思い出せないんだけどね・・・・・でも多分あの頃もこんな感じだったと思う。時間が過ぎるという感覚は。

「そうなんだ」

―時間を感じないという人もいるらしいけどね。それは体の変化が無いからだろうってその人、あ、例のおじさんは言う。

「時間を同じように感じるなら、ずっとこんなところにいて、飽きやしないの? 子どもなんて、帰りの会が終ったら勇んで学校から出て行くじゃない」

そう言って、彼が見た目どおりの子どもじゃないことを思い返し、不躾なことを言ったことを悔いた。

―ここにいると、子ども達だけじゃなくて、大人の教師のこともよく分かるよ。少年は私の問には直接答えず、そうひそひそ話をするようにこう続けた。

―どんなことを考えて暮らしているか、どんな悩み事を抱えているか、子どもの頃には想像もつかなかったことがね。

「へぇ~そんなに見透かされちゃってるのね。わたしたち」

―人によるけど、心の中が丸々見えちゃう人もいる。心の扉が開きっぱなしで、長い独り言を語る人もいれば、ぽつりぽつりと呟きがこぼれる様に廊下に聞こえてくる人もいる。

「おっかしぃ」わたしは相好を崩してして笑った。

―聞こえてくるのは、結構女の人が多いかな。反対に中年の男の先生はあんまりそういうのがぼくには聞こえてこないんだ。

「そうなのねー」

あまりに彼の話に集中しすぎたせいで呼吸が浅くなっているのに気づき、深く息をしてみた。いつになく澄んだ空気が胸に広がる。

「ところで、私以外に君のことが見えている人はいるの?」自分の声からこわばりが消え自然と口から言葉が出るようになっていた。

―今はいない。あなただけ。

わたしだけと聞いて、安堵の色が胸に広がる。

「以前はいたのね」

―結構前にね。もうかれこれ一〇年くらい前かな。

廊下を、誰かが歩いてくる気配がした。

「いろいろ話してくれてありがとう。わたし、小野原霞って言うの。かすみって呼んでね。どうやら同い年だし」

―りょーかい。じゃ、ぼくも。ホダカジュンイチ。稲穂の穂に、高い。順番の順に、数字の一。じゅんいちで。お願いします。

 順一は丁寧に頭まで下げた。

 帰り道のアスファルトを照らす蛍光灯の白い光が、いつもより澄んで感じるのは気のせいだろうか。夜の闇にあって、わたしの心は昼間の陽光が注したように明るかった。


七 心を眺める

 順一と名乗る少年と打ち解けたその夜、わたしは夢を見た。死んだ双子の兄の夢だった。兄は俊平と言った。品行方正で人一倍正義感が強く賢く健康だった。勉強、遊び、友達の作り方、どれをとってもわたしよりもずっと秀でていた。自慢の兄であり、憧れの存在でもあった。幼稚園の頃、お正月のかるたであと一枚で俊平で並べるところまできたが、最後の一枚を取られて、わたしは俊平の右腕に噛み付いたことがあった。それ以来彼はわたしに勝ちを譲ることがあったが、その親心ならぬ“兄心”に、わたしはまた腹を立てた。

 ふと、今もまだ俊平が自分の横を歩むように年齢を重ねていたらと思うことがあったが、ここ数年そのような妄想めいたことをすることもなくなっていた。時の流れは全てを押し流してくれる。時間の帯は過去へと繫がっていても、離れるにつれ情景は霞んでいって、やがて、その存在も確かめられなくなるように、兄の存在もまた記憶の中にぼんやりと灯る明かりのように輪郭を失いながらおぼろげな幻の中に飲み込まれていくようだった。

 わたしは視線を感じ、我に帰った。

「そう言えば、夏休みに教室の掃除をしていた時よ。教室の後ろのほうに重ねておいた椅子が突然崩れたの。崩れないように重ねておいたのに。確かに窓は開けていたけど、弱い風が入ってくる程度だった。そもそも風で動くような物ではないし、崩れるような危うい置き方もしていない。あの時、あなたが悪戯をしていたの?」

―ううん。

 少年は首を横に振って続ける。

―そういうことはしないな。例えば物を動かしたり、風を起こしたり、温度や湿度を変えたりもね。ぼくはただ、そこにいる人の心を眺めているだけ。景色を眺めるみたいに。

「心って眺められるものなのね」

―人はさ、身体があるから中が見えない。つまり体の中にある心が。もしかすると身体の一部である目を使ってしか眺めていないのかもね。ぼくには眼球そのものがないし、そこから入る視覚情報を処理する脳も持っていないから。だから、逆に心を眺めることができるのかも。

「そうかー。お互いの気持ちが分からなかったり、心が通じ合わなかったりするのは、この体があるからなのね。すごく納得しちゃった。体がある分、言葉を使わないと自分たちの思い伝え合うことができないのね。生まれる国が違えば、その言葉まで違ってくるから、わざわざ外国の言葉を学ぶことまでしないといけなくなるのね」

 言葉のチョイスを誤って関係がギクシャクしたり、逆にそんな言葉というものの価値を高めているのも、わたし達がもっている身体なのだろう。わたしは順一の言っていることが妙に腑に落ちた。そして今、順一が身体を持たない分、わたしのコミュニケーションがスムーズで、短い時間でも関係を築けているのかもしれない。


八 雲か靄か

「ねえ、きみさぁ」

―なぁに?

「きみ、わたしのお兄ちゃんに会ったことある?」

―え?

順一は質問の意味を取りあぐねているようだった。

「まぁ、ごめんなさい。きみならきっと、いえ、もしかしたらいろんなことお見通しなのかと思っちゃって」

―そんなことないよ。ぼくにも見えるものと見えないものがある。

「わたしには、双子の兄がいたの」

―そうなんだ。そのお兄さんに会ったことがあるかと訊きたかったんだね。

わたしは頷いた。

―どうかな。それは、会ったことがあるかも分からないし、なかったかも分からない。こうなってからも、ぼくは確かにたくさんの人に会ってきたからね。

「知りたいの。もしきみのように身体を失くしてからも、存在としては、居続けるのだとすれば」

―どんなことを知りたい?

「・・・・・・」

わたしは言葉に詰まって、窓に視線を向ける。暗い外からは、しとしとと雨音が忍び入るように部屋に響いていた。

―会ってみたいんだね、お兄さんに。

わたしは頷いた。

―きっと、いつか会えるんじゃないかな。

「そう思う?」

順一も黙って頷く。

「・・・・・・」

―どうしたの?

「ううん。本当はね、本当はお兄ちゃんに会いたいって思わなくなるのが一番いいのだkれど・・・・・・」

―それは、どうして?

「どうしてか分からないけど、そう感じるの。でも分かっていても、その思いは拭えないの。もう顔も思い出せないときもあるのによ」

―・・・・・・本当はよく分かっているんだね。

「うん、分かっていてもできないの。とっても、分かっているんだけどね」

 順一が瞬きをする。わたしもつられるように瞬きをした。

―いいんじゃない? 会いたいって思っていても、きっと。会いたいって気持ちは、我慢しちゃだめだよ、きっと。

「そうかなー」

―かすみさん、正直に言ってもいい?

「何? 急に」

わたしは順一の急な問いかけに、うろたえた。

―かすみさん、我慢しちゃいけないことを我慢しちゃってるんじゃないかな? そんな風に感じるんだよ。ほら、ぼくにはさ、伝わってくるんだけど、あなたの心の中にあることから向こう側が、全然分からないんだ。かすみさんの心を眺めていても、時々何も見えなくなるんだ。温度すら感じないというか、白い雲みたいな、靄みたいなものがかかっているというか。それが何だか、今分かった気がする。本当の自分の思いを見ないようにしている。それがぼくには何かを覆い隠すようにしている正体なんじゃないかって。

順一は真っ直ぐな視線をわたしに向けて言った。

「・・・・・・分かる気がする、すごく」

わたしも順一を見て、そう言った。

 雨音が教室に満ちていく。


九 光の満ちる教室に

 改めてあの少年の顔を思い出そうと試みた。でも、わたしの瞼には、何も浮かばない。ただ微かにわたしは自分の胸のあたりが温かくなったのを感じた。


 朝の会が始まる前、わたしの目の前に広がる教室。八時半から朝の会が始まり、挨拶をして学校が始業する。その前の束の間の自由と奔放の時。教室には子どもの笑い声と笑顔が満ちる。一人ひとりの身体から、光がぼんやりと漂うように放たれている。わたしの身体からもだ。

 いつの間にか、当たり前の風景になっている。子ども達が机に座って本を読み、机の間を歩きながら、談笑し、後ろのロッカーの前のスペースでは、車座になってトランプをしている。黒板の前に来てかわいらしい絵をチョークで描いている。

 放課後、順一という少年が顕われていろいろな話をした。まるで古くからの友人のようだった。その頃から、少しずつわたしの教室の様子が変わり始めた。随分と多くの時間を彼とともに過ごした気がする。しかし、今となっては、どんなことを話したのか、ほとんど思い出すことができない。


十BGMのように

 ふと、脈略なくある順一という少年との時間が、今の時間に流れるように入ってくる。それは、目の前に繰り広げられる出来事やわたしの言動に干渉することなく、まるでBGMのように自然に染み渡り、時空に馴染む。

「どうして、君はわたしの前に現れたの?」

わたしはこれまで、何度も浮んではきたが訊くのを憚ってきた問を尋ねてみた。これまでは順一には自分の思っていることが透けて見えているだろうと思ったからだった。隠していても仕方ない。そして、そんな自分の胸のうちが相手に筒抜けになっていることが、すごく楽に感じた。もう隠してもしかなないのだ。

―それはね、あなたが僕を求めたからだよ。

「え?」

予想とは違った答えにわたしの心臓はピクンと鼓動を打った。

―そう。

「わたしがきみを?」

―ぼくって誰からも見えるわけではないんだ。ぼくを見たい人しか見えないの。

「・・・・・・分からないわ。そんなこと言われても」

―受け入れられないのは、分かるけれど……心なしか申し訳なさそうに、順一は両肩を少し下げてそう言った。

―少しぼくの話を聞いてくれる?

「もちろんよ」

―ぼくがどうしてあなたの前に現れたかということを理解してもらうために必要な話さ。

「聞いてみたい。どうぞ」

―ぼくたちのような存在は、考えや思いによって具体的なものが現れてくるようにできているんだ。だから、苦しいことや辛いことばかりで作り上げられた現実に集まって過ごしている仲間たちもいる。似通った考えや思いをもっている人たちの集合意識でできている世界なんだ。

「うん? ちょっと、ちょっよ、話が難しくてついていってないよ、わたし。集合意識って聞いたことはあるけど、はっきりとは分からない。」

―そうだね。そもそも違う世界の話だから分かりにくいとは思うけど、もう少し聞いてみて。

「はい、どうぞ」

―それとは逆に嬉しいことや喜ばしいことばかり心に抱いている仲間たちで作り上げられた世界にいる人たちもいるんだ。

「人間世界ではちょっと考えられない」

―そうかな?

「え?」

―人間の世界にも外国とは違う考えや信仰があってそれに伴って違う現実がつくられていることってあるでしょ? それと似ているよ。

「うん? 」

―例えば、カレーライスをスプーンで食べるぼくたちだけど、インドでは手を使って食べるって聞いたことあるよ。かすみさんのクラスの子が給食を手で食べ始めたらどうする?

目の前にいつもの給食のカレーを手で食べている子供達が見えた。それを見て、呆気にとられている自分の姿もある。想像より明らかにリアルな映像が見えた。これは順一といるからなのだろうか。

「本当ね。あんなことは日本の学校じゃありえないものね。たしかに私たちも想念や観念とまでは言えないけれど、文化や生活習慣っていう目に見えないものが、現実を作り出しているってことはあるわね」

―あれは何?

順一はふと、教室の後部にあるロッカーの上に置かれているグローブに視線を向けた。

「あ、あれね。あれは大谷選手って知ってる?」

順一は首を傾げた。

「そうよね、知らないよね。日本人のメジャーリーガーなんだけど、とにかく凄いの。ピッチャーもやってバッターもやって、どちらも超一流なの」

―へぇ。

「そんな大谷選手が日本中の小学校にグローブを寄贈してくれたの。それもすごいでしょ。それが今は順番でうちのクラスに回ってきたの」

順一の話と大谷選手のメジャーリーグでの大活躍が私の思考の中で結びつき、順一の言った、想念や観念が現実を作り出すということが一抱えに飲み込めそうな気がした。

―そういうことだよ。

―そうやって、こっちの思考に入ってこないで。

笑いながら私は順一の想念を制した。

これまで誰もが否定してきたプロ野球選手の打者投手のと“二刀流”という離れ業を世界最高峰のリーグで実現してしまった選手は、もしかすると順一の話している現実の作り方を熟知していたのかもしれない。仮に多くの意識が集まってより強固な現実が作られていくのならば、これからは本当に二刀流の一流選手が多く生まれてくるのかもしれない。

 そんなことを思っていると、中学時代の体育の教師が言っていたことも思い出された。

「人間、自分ができると思えば何でもできるんだ。昔は100メートルを9秒台で走れるなんて誰一人思っていなかった。しかし、一人の選手が10秒を切ったのを皮切りにどんどん10秒を切る選手が現れた。他の選手が、『あいつができるなら俺もできる』って思ったんだ。要は、できるって思ったらできるんだよ」当時は、わたし自身もそんな無謀な精神論に辟易としている生徒の一人ではあったが、今になって順一の話と照らし合わせてみると、目から鱗が落ちる思いがする。けっこう思い込みや先入観が自分たちの現実世界を構築しているのかもしれない。

四角い顔の日焼けした陸上部顧問の顔が鮮明に思い描かれた。


十一 時空をたゆたう

身体をもった人間同士だって、似たもの同士生活を共にしている。それは町の中の住居の集まりを見てもそうだし、職場の同僚同士の結びつきもそうだ。あまりにも違う生活観や、生活水準の人たちと同じ地域では暮らせないし、価値観や趣味の似通ったもの同士はやはり波長が合う。そういう人々を結びつける核のようなものが身体を持たない純一達のような存在にもきっとあるのだろう。これまで信じるどころか思い浮かべることすらなかったことが、さも当たり前のことのようにわたしの中にあった。

―今かすみさんが思っていることは、きっと無意識に掴んでいることだったんだろうね。だからぼくの話に抵抗感無く入っていくんだね。

無味簡素なブランクに、しっとりと潤いのある温かな何かが満たされていくのに似た感じを私は自分の中に確かめることが出来た。

「わたしは今まで人と人、いえ、自分と誰かが本当に分かり合えることなんてあり得ないと信じてきたの。でも、たった今その信じていることが少し揺らいだというか少しだけ解け出したって感じがするの。固い氷が暖められて柔らかくなってやがて水になるように。もちろん誰とでもって訳じゃないのよ。分かり合える何かを持っている者同士。それぞれの中にあるものを照らし合わせることが出来たら、それってすごく素敵なことじゃない。すごく胸が熱くなることね、きっと。

―心が満たされて争いごとが全然無い人たちが集まっている場所にいたこともあるよ。それは、ここ(彼は指で床を指しながら)で言う天国ってところなのかも知れないな。

「ちょっと聞いていい? どうしてその場所にあなたは留まらなかったの?」

―そうだね、たしかに。

 順一は笑いながら首を振った。自分でも理由が分からないとでも言うかのように。

―合わなかったのかもね。確かに居心地の良い場所だったけど、物足りなかったというか。

「へえ、そんなものなの? この世からすると争いごとも苦しいこともない、あらゆる悩みから自由になれる天国って最上の場所かと思うけどな」

―人によるのかもね。きっと天国が居心地が良くてずっとそこにいる人もいるんじゃないかと思うよ。

「そういえば、ずっと行ってみたかった外国に滞在してみたけど、結局日本に戻ってきちゃう人もたくさんいるものね」

―意外とここも居心地がいいもんでしょ?

「悩みごとも辛いこともたくさんあるけどね」

ー悩み事や問題が解決したと時って気持ちがいいじゃない。

「確かにね。ずっと失くしていた物が、思いも拠らぬところから出てきた時なんて、特別に何だか嬉しくなるの」

―問題を自分から作り出しておいて、それを解消して心地よくなったりするでしょ? 

「悩み事の類なんて、大体自分が作り出してたりするしね」

考えようによっては、途方もない話をしているのに、また別の考え方によっては、他愛もない日常的な会話だった。この実態の薄いようで、とても濃い様で、固いようで緩いような時間の流れにいつまでも二人で漂っていたかった。

―何でも無いことに悩んで、何でも無いことに喜んでる。

「もしかすると今の私にとっては、喜びを得るには、ほどほどの悩みが必要なのね」


十二 箱の中

 私はいつの頃からか、朝の通勤の時間が嫌いではなくなってきた。席を探せば座れないこともない。しかし、ドアの側に立って、流れる景色を見ているのが、ルーティンになっている。野菜が日々畑の上で生長していく様を確かめたり、木々のつける葉や実の変化に季節の移ろいを感じたり、雨の日に踏み切りで立つ人たち傘の色を眺めてみたり、そんな些細なことが楽しみになっていきていた。

「一緒にわたしの心の中に入るの?」

―そう。かすみさんの中に箱が見えるんだ。箱というのは、あくまでものの例えだけど。

「どうゆーこと?」

 おぼろげになりつつある少年との出来事の記憶が、小さな水溜りの底から水が湧き出てくるように音もなく浮き上がってきた。

わたしは少年と頑丈そうな立方体の箱を見つけた。真鋳か何か。とても固くて重そうだった。それには蓋がしてある。

「重い。とても一人では持ち上げられそうにないわ」

―一緒にやってもいい?

「お願い」

―せーのっ。

その蓋は擦れる音を響かせながら開いた。中に黒い塊が見える。

「何これ?」

―・・・・・・それは、かすみさんの恐れ

「わたしの恐れ」

―まずは、それを外に出してみよう

わたしは目を凝らして箱の下のほうに座るようにしてある黒い塊を見た。それからは何も伝わってこない。

「・・・・・・また手伝ってくれる?」

―今度はかすみさん一人でやった方がいい。

てっきり手伝ってくれそうな少年の一言にわたしは一瞬戸惑った。でも、少年の言うことには、きっと意味があると思い、改めて黒い塊をじっと見つめる。わたしの恐れ・・・・・・

「分かった。やってみる」

―がんばって。

すっとわたしは両手を伸ばして、それに触れてみた。手触りは無いに等しい。生まれて初めての感触だった。重みは微かに手に感じられる程度。

―そう。

私は安心したくて少年を見る。彼は微笑んで頷く。

―そのまま外に出してみて。

わたしは彼の言うままに、両手でそれを拾い上げる。

―そう。

「次にこれをどうしたらいいの?」

―そのまま空に放り投げるようにしてみて。少年はパントマイムのように、何かを頭の上に放り投げる真似をする。

それを見てわたしは自分の恐れを放り投げた。

―そう。それでいいよ。

少年は笑った。手を叩いて喜んでいる。わたしは彼の気持ちに追いついてゆけないで、反応できずに、自分が放り投げた物を、空に浮ぶ雲を見上げるように見つめている。

無色透明の空にばらばらになりながらシャボン玉が上がっていくように高く上がっていく。

「うわぁ」

わたし思わず声を出していた。


十三 ごんぎつねと・・・・・・

「ごんはきっとさびしかったんだと思います」

「だからにいたずらをしたんだ」

「そうなんだ~」

「みんなもさびしいといたずらしたくなる?」わたしはクラスの子達に問いかける。今日は国語の『ごんぎつね』を読み進めて、主人公ごんの性格や対役のとの気持ちのすれ違いについて理解させる授業だ。子ども達はこの『ごんぎつね』が大好きで上手に自分の体験や日ごろの喜怒哀楽を下敷きにして、物語文を読み深めていく。

「うん、いたずらって言うか、だれかが上手くいっていることが、いやになってくる」

「うん、うん」

「そうそう。他の人が喜んでるのを見るとウザって思う」

「だから、兵十がうなぎをとったり、友達と親しくしているのがおもしろくなかったんじゃないかな」

「っていうか、自分の方に気づいて欲しかったんだよ。ずっと一人だったからね、ごんは」

「へえ~そうなんだ~」

「かすみ先生はそういうことないの?」

感心しながら子ども達の話し合いのなりゆきを見守っていたわたしに、佳子という普段は目立たない女の子が、意見を求めてきた。一斉に子ども達の視線がこちらに集まる。

「・・・・・・本当はそう思っていたのかも知れない」

それを聞いた子ども達は一様に満足げな表情を

「『本当は』って?」

なぜかわたしの胸は温かくなり顔が火照る。

「先生は、みんなみたいに自分の気持ちに素直に生きて来なかったのかなって、みんなの話し合いを聞いていて思ったの・・・・・・」

「へぇ」子ども達はポカンと口を開けている。

「そんな風に感じて良いのか知らなかったの」

 ぽつりと目から涙が滴った。


十四 わたしが母

 教室に残る子ども達の歓声の響きに身を浸す。こんなことも最近のわたしはできるようになった。今日も和やかに、子ども達一人ひとりと心を通わせた一日だった。黒板には数人の子が帰りしなに残していった落書きがある。

 ふと、順一という少年との記憶が窓から吹き込む心地よい風のように訪れる。


「お母さんは、きっとお兄ちゃんに死なれちゃったことが許せなかったのよ。代わりに生きていたのがわたしだったことも含めて。きっと目の前にある現実すべてを憎んでいたんだと思うの」

―かすみさんが生きていたことが許せなかったって?

「それは大きな現実の一部でしかないの。それも含めて全部よ。お兄ちゃんとわたし二人が生きていた時の母との良い思い出がないの、多分あったはずなのに・・・・・・」

―そうなんだね・・・・・・

「わたしも子どもの頃はね、それでも何だかんだで、ごまかしながらやっていた。子どもって不思議ね。何だかんだで、やり切れちゃうのね。でも思春期を迎えて、大学に通うようになった頃から、本当に辛くなってきたの。そして、大人になると昔は目をつぶってこられたことが、そうできなくなるのよ。母との関係とか、兄と自分の比較とかそれを引きずってごまかして生きてきたこれまでの半生とか・・・・・・負いきれない荷物みないに圧しかかってくるようになったの。誰に相談しても解決しないしね。時折そういうことの一切が心を押し潰しそうになって、何をするにも億劫になるの・・・・・・」

 わたしはそう言うと焦点の定まらない視点を教室の後ろの黒板に向けた。すると、気づいた。緑色だった黒板が、黒く見えるのだ。黒板の両脇には子ども達が描いた木の水彩画が三十四枚飾られている。それらも白黒の写真のように色彩を抜かれてしまって並んでいる。

「えっ! うそっ」

 そう叫んで目を閉じた。

―今かすみさんが見ている風景は、お母さんが見ていたものと同じだよ。

「お母さんは色のない世界を見ていたということ!?」

 わたしは目を開けた。

 するとひんやりとする布団の中にいた。背中が薄い敷布団を通して冷たい畳も感じられる。天井には確かに見覚えがある。円形の裸の蛍光灯が二重にあって、わたしを見下ろしている。重くて固いかけ布団が辛うじて守ってくれていた。頼りなさと寒さに横を向いて背中を丸め、海老のようになった。

「消えてなくなりたい」胸の内に湧いた思いをただ握り締める。

 懐かしい匂い。

 深く吸い込む。

 お母さんの匂いだ。

 ゆっくり息を吐いた。

 その呼吸に応えるように、玄関の鍵が外から開けられる音が聞こえた。耳を欹てる。ドアが重そうに開いた。

 微かな足音。

 誰かが靴を脱ぐ。

「だれ?」身をさらに縮めて目を固く閉じる。

―目を開けてみて。

 順一の声にもわたしは目を開けることができない。

―ほら・・・・・・

 順一の手がわたしの手を包むように握った。温かい。

 目を開ける。

 いつの間にか順一はわたしの横に立っていて、そしてわたしは自分の世界が色を取り戻したと知る。体の至るところがひんやりと冷たい。握り締めていた拳を開いて、両掌を見つめる。

「今のは?」

―あなたのお母さん

「どういうこと?」

―ぼくも分からない

小さい頃、母と住んでいたアパートが瞼に浮かぶ。わたしの細胞の一つ一つが、その頃の時間と空間を記憶している。何かに抗おうとする意識とは裏腹に、たった今経てきた時間が母のものだとわたしの体は訴えている。

―ほんの束の間、かすみさんはお母さんになったんじゃないかな?

「そんなこと!」

そんなわたしも順一の言葉を否定できないことを知っている。あの匂い、自分の母親の匂いを忘れる娘がいるだとうか。

わたしはあの人の娘なのだ。

 その夜、ある夢を見た。高い煙突を見上げている。その先からは白い煙が、風のない曇り空に昇っている。わたしは息を飲んだ。雲の切れ間から覗くはずの空が色を失ってはるか遠くにある。わたしはある視線に気づいた。横に立つ少女の視線。上目遣いにこちらを見ている。それは幼い日のわたしだ。彼女にどんな眼差しを向けてやれば良いのか分からなかった。

わたしは母となって再び兄の葬儀に引き戻されたのだ。

空だけでなく、葬儀場の建物も、参列した親戚たちも。見るもの全てにあるはずの彩が失われている。ただ、そこに立っているので精一杯だった。

目を覚ますと、わたしはベッドの上だった。こんな日は、仕事に出かける気にもならなかったが、でもこのままベッドで横になっている方がよほど不幸な気がした。とりあえず、ベッドから起きて日常を始めようと思った。 

放課後教室で一人、仕事をして彼を待ってはみたものの、それからしばらくの間、順一という少年はわたしの前には現れなかった。朝の電車で胸の中で彼に語りかけてみたが、それに応える声も聞かれなかった。

―久しぶり。

もう現れないのかと諦めかけた頃、少年はひょっこりいつものように放課後の教室に訪れた。それはちょうど冬の始まりを感じ始めた頃だった。

「ずい分、ご無沙汰ね。もう来ないのかと思ったわ」

わたしは子ども相手に明らかにすねた口の利き方になった。そんな自分が恥ずかしかったが、言ってしまってから後悔しても仕方がない。

「ずっと来て欲しかったの」

―何があったの?

少年はわたしの胸のうちがまるで伝わっていないようだった。

「また自分がお母さんになったのよ。夢の中で」

―どんな場面だったの?

「お兄ちゃんのお葬式。それでね、わたしもよく憶えているんだけど、火葬場の煙突から出る煙を見ているうちに、空が煙と同じ灰色に変わっていくの。そうしたら周りの何もかもが色がなくなって白黒映画の世界みたいにモノトーンになるの」

あの人の見ていた景色を、わたしは自分の目で見ていたのだ。


十五 跡を描き残す

 教室に残る子ども達の歓声の響きに身を浸す。こんなことも最近のわたしはできるようになった。今日も和やかに子ども達と心を通わせた一日だった。黒板には数人の子が帰りしなに残していった落書きがある。

 ふと、順一という少年との記憶が窓から吹きこむ風のように訪れる。

 黒いシャボン玉のような塊が空に昇っていったのを物語の中に迷いこんだ主人公のような気持ちでわたしはぼんやり眺めている。

―そうしたら、また中を覗いてごらんよ

私が少年に促されて箱の中を覗いてみると、形のある何かが見える。

「何だろう」

―これは、かすみさんの恐れに覆われていて見えなかった気持ちだよ。

「おそれ?」

―さあ、取り出してごらん。

「うん」

わたしの手は迷うことなくその何かに伸びた。細い毛のような半透明な糸に編まれた布に包まれているそれは丁度左右の掌に載るくらいの大きさだった。そっとそれを眺めてみる。これがいつかの自分の思いなのか、信じられない思いがするが、あながち嘘でもなさそう。少しずつ本当のことと信じられそうになる。信じてしまえば簡単なのに、だがどう信じてよいものやら、どう感じてよいものやら、考えあぐねているわたしに順一が語りかける。

―ほうら、それだよ。そんなこと思わなくていいのさ。ただ聞いたことや感じたことをそのまま素直に受け入れていーんだよ。

「わかってる。でも、それがいつもできないの・・・・・・」

―大丈夫。すぐにできるようになるから。

わたしはその何かを引き寄せて、恐る恐る胸に抱いてみる。

―どう?

―うん。不思議な感じ。でも嫌な感じじゃないわ。ちょうどお気に入りの曲を聴いている時のような、落ち着く感じ。少し体の真ん中が温かくなってくる気もする。

―その調子。そのまま続けて。

―温かさが全身に広まって、足の先まで降りて来た。

―わかるよ。かすみさんの周りの空気も少し温度が上がったよ。

宙を見上げていたわたしが自分の掌から重みがなくなったのを感じ、掌を見るとやはり何もなくなっている。

―じゃあ、次の箱に行こうか。

 こうしてわたしたちは、いくつもの入れ物にある順一の言うわたしの以前の感情を確かめて歩いた。そんな思い出に浸って、時計を見たが針は一分も進んでいなかった。もっと長い時間が経っていたように感じた。薄れ行く順一との記憶を留めておきたくて、彼の似顔絵を黒板の右端に描いて、一一月二二日の「月」のマグネットで隠した。

 

 十六 放つ

―次はどんな箱だろうね。

「え? きみも知らないの?」

わたしは思わず声を上げていた。

―うん。もちろん知らないさ。だってここはかすみさんの心の中だもの。

そう言って順一は柔らかに笑った。

白い靄の中を少し行くと細長い筒状の箱のような物が見えてきた。金色の装飾が施されているが、下の方が黒くくすんでいる。こちらまで温かい温度が伝わってきた。それはストーブのように熱を発しているようだ。

「あっつい・・・・・・」

―うん、この箱自体がとても熱くなっているみたいだね。

「箱の蓋をつまめるかしら?」

―心配するわたしをよそに、少年はどこからともなく、トングのようなものを見つけてきてわたしに手渡した。

「いつの間に?」

―ここでは必要なものは、ひとりでに用意されるみたいだね。

 順一はいつも柔和な笑顔を見せてくれる。

わたしはその心細いほど小さなトングを使って、蓋についた取っ手を摘まみ上げた。すると、箱の中から熱風が噴き出した。

「熱い!」

わたしは思わず顔を背け、後退りした。

―きっと怒りの感情に包まれている何かが、ここには入っているんだろうね。

 わたしは中にある黒い包みを手にとってみた。熱いと感じたのは幻だったのか、両手で持ってみても楽に手に持つことができた。

―それは、きっとかすみさんの熱さだから持てるのかもね。

「熱さがわたし自身のものだから?」

そう問い返しながら、順一の言うことがいつものように妙に腑に落ちた。その一方で、わたしはこんなにも熱く感じられる怒りを心の中に持っていたのか。そのことが信じられなかった。怒り。その感情はわたしには縁のないものと思っていたからからだ。

気がつくとわたしはこれまでと同じようにそれを胸に押し当てていた。その熱はわたしの中に流れ込んでくる。ひとりでに涙が流れてくる。やり場のない熱さが胸を破りそうな程に膨らんでいる。胸だけでは収まらない何かは、身体中に行き場を探すようにすさまじい勢いで流れ拡がる。隅々にまで広がる何かでわたしの心も身体も壊れてしまいそうになった。わたしは足踏みをしてやり過ごそうと思い、何度も地面を踏みつける。

「ちきしょー!」

わたしは順一を睨みつけた。

「どうしたらいいの!」

―さあ、それも空に投げてしまおうよ。

それを中空目がけて思い切り放り上げた。微かな重みと熱の余韻が掌に残る。それはしばらくの間、わたしに何かを語りかけているようだった。

それはやがて地面と空との間を漂っていたが、少しずつばらばらな小さな塊になり、黒い蒸気のようになって空に拡がりながら昇っていった。

気がつくとわたしは順一の手を握って立っていた。


十七 名残り

 朝の会が始める前、私の目の前に広がる教室。八時半から朝の会が始まり、挨拶をして学校が始業する。その前の束の間の自由と奔放の時間とも言うべき時。

 教室には子ども笑い声が満ちる。笑顔が満ちる。一人ひとりの身体から、光がぼんやりと漂うように放たれる。わたしの身体からもだ。

 いつの間にか当たり前になった風景。子ども達が机に座り本を読み、机の間を歩きながら談笑し、後ろのランドセルを収めるロッカーの前のスペースでは、座って輪になってトランプをしている。黒板に出てきて、かわいらしい絵をチョークで描いている。

 放課後、順一という少年が教室に顕われていろいろなことを話した。まるで古くから知っている友人の様だった。その頃から、すこしずつ自分の教室の様子が変わり始めた。ずいぶん何日も彼とともにすごした気がする。がしかし、今となっては、どんなことを話したのか、ほとんどと言っていいほど思い出すことが出来ない。

 年の瀬が近づき、教室は冬休み前の浮き立つ空気で膨れている。子ども達の話題はクリスマスプレゼントに何を貰うかとか、冬休みはどこに出かけるかとか、休み時間だけでなく、授業中にわたしが隙を見せるとすぐにひそひそ話が始まる。二学期の終業式を明日に控えて、今日は大掃除だ。いつもの掃除は十五分だが、特別に四十五分で普段は手の届かない隅まで子ども達と一緒に掃除をする。綿棒を持参して、窓のさんをきれいにする子。机や椅子の脚について固まった埃を爪楊枝で取り去る子。棚の上に備え付けられたテレビモニターの後ろにたまった埃を水ぶきしている子。いつもは黒板けしできれいにするだけの黒板も今日は水ぶきでわずかなチョークも消し去る。黒板の担当になった女の子が何やらにこにこしながらわたしに話しかけてきた。

「どうしたの?」

「せんせー、わたし見つけちゃったの」得意げに、そしてどこかいたずらっ子っぽい笑みを浮かべている。

「はなちゃん、一体何を見つけちゃったの?」わたしも楽しくなって笑いをこらえながら彼女に応じる。

「誰かが落書きを隠していたの」

「えー?」

わたしは目を丸くした。彼女の笑みは黒板のどこかに落書きが隠されて残っていたのを発見したと得意げになっていた笑みだったのだ。

「どこどこ?」

はながわたしの袖をつまんで黒板の端に連れて行く。

「これ!」

 はなが勢い良く十二月の「月」のマグネットを捲ると、そこには男の子の顔と思しきイラストがあった。マグネットの下でいくらか時間を経たであろうその男の子は、ほっそりとした面長の輪郭におかっぱの髪型をしてにこやかにわたしを見ている。

「せんせー、これ誰が描いたんだろうね?」

「本当ね。でも、これ誰かに似てない? 誰かの似顔絵じゃないかしら?」

「えー?」

今度は、はなが目を丸くして考える。

「でも、うちのクラスにはこんな感じの男子はいないよー」

「・・・・・・たしかに、そうね」

わたしも自分の考えを打ち消した。誰にも似ていない。

「せんせー、消しちゃうよ」

「お願いしまーす。大掃除だからね」

「後で描いた人に、消したわたしが叱られたら、先生わたしを守ってよね」

はなが笑いながらそう言って、濡れた雑巾で男の子を消す。


 十九 和解

 修了式を終え、教室から子ども達を送り出した教室で、わたしはたくさんの贈り物を胸に抱いて立っていた。手紙や折り紙で作られた花束。その中には、保護者からの礼状もある。これまで、こんなに多くの別れの辛さと出会えたことへの喜びに浸ったことがあったろうか。

 窓の外を、何かを探して見る。ガラスに写ったのは、繭のような白いものを抱いて立っている自分だった。窓ガラスに写ったわたしの抱いたそれは、やがて透き通って透明な塊になり、流れ入るようにわたしの中に染み入ってきた。目の前には小学生の自分がいる。「ただいま」という帰りを伝える声に応えて欲しかった自分だ。でも、母は兄の死に心を痛め、仏壇の前で崩れるように泣いている。その姿を目にして以来、わたしは帰った時、黙って音を立てずに自分の部屋に行くようになった。母もそれを望んでいると信じて。母の背中に言えなかった帰宅を告げる声が、今またわたしの胸にこだまする。あの頃、受け止めて欲しかった「ただいま」を、確かめるようにして両腕で抱きしめた。

 その夜、また母になる夢を見た。

「お母さん! ただいま!」

 玄関から薄茶色のランドセルを背負ったままの小学生のわたしが駆け込んでくる。仏壇の前に正座していたわたしは我に返って慌てて短い廊下に出る。目の前に迫る小さいわたし。受け止めようと左右の手を広げた。廊下の壁に手の甲が当たる。それでも、何とか小さいわたしが駆け寄ってくるのに、体を開くのが間に合った。薄い胸に固い額がぶつかった。

「危ないっ」

 わたしは小さな自分を抱いたまま仰向けに倒れた。

「痛い!」

夢なのに後頭部に痛みがあった。廊下の天井が見えた。ここの天井はこんな色をしていたっけ。

「お母さん、ただいま」

 小さな自分が胸の中で叫ぶ。

「お帰り!」 

後頭部の痛みに顔をしかめながら、わたしは笑顔でそれに応えた。

 

 二十 ただいま

四角くて白い壁の病院。どの壁も真っ白で、純白という形容がしっくりくる。母の入院している病棟に通うようになって三ヶ月が経とうとしていた。

 咲き出した紫陽花の花たちを愛でながら、母に会いに行く。

 昔からの友人のように、わたしは母に語りかける。母もそれに応えて、時折笑顔を見せて聞いてくれる。

 最寄の駅から出ているバスには乗らず、わたしは決まって病院までの道のりを歩くことにしている。

 受付で面会の許可を得る。

 正面奥にあるエレベーターに乗り、数字の「7」を押すと扉が閉じた。音もなくエレベーターはわたしを母のものへ連れて行く。

ドアが開く。

小走りになる。

リュックが揺れる。

病室の扉をノックする。

返事は待たない。わたしは勢いよくドアを開けた。


                  完




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