針の筵(むしろ)の加護職人 〜火魔法しか愛さない伯爵家に捨てられた私は、刺繍に神の加護を宿らせて隣国で愛される。え? 私のいない我が家が燃え尽きそう? 知りません、自業自得です〜
数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。
拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。
「おい、無能。早くこのドレスの裾に刺繍を完成させなさい」
頭上から降ってきたのは、私の実の姉であるエレノアの、傲慢に歪んだ声だった。投げつけられた上質なシルクのドレスが、私の顔にべっとりと張り付く。
「……エレノアお姉様。これは明日、お姉様が夜会で着るドレスですよね? まだ半分も終わっていません。学校の課題もあるのに、今からでは徹夜になってしまいます」
私がドレスを退けながら静かに抗議すると、今度は部屋の扉が乱暴に開いた。入ってきたのは、2歳年下の妹、セリアだ。
「ちょっと、お姉様! 私の学校の課題の刺繍もまだ終わっていないじゃない! 早くしてよ、明日提出なの。真ん中のくせに、これくらいしか役に立たないんだから!」
二人は私の返事も待たずに、部屋のソファーにふんぞり返る。
ここは、伝統あるフレアード伯爵家。この家では、代々強力な『火魔法』を宿す者が至高とされ、優遇される。
姉のエレノアは、触れるものを一瞬で灰にする「業火」の適正。
妹のセリアは、遠くの敵を正確に射抜く「炎弾」の適正。
二人は若くしてその才能を開花させ、伯爵家の誉れとして両親から文字通り蝶よ花よと育てられていた。
一方、真ん中の私――アイリスはといえば。
「おい、アイリス! また姉妹の仕事を拒もうとしたのか!」
地響きのような足音と共に部屋に入ってきたのは、父親であるフレアード伯爵だった。その後ろには、冷ややかな目で私を見下ろす母親の姿もある。
「お父様。私は自分の課題もあり……」
「黙れ! 自分の食いぶち分も稼げない無能が、口を利くな!」
お父様の怒号が狭い部屋に響き渡る。その手の先から、威嚇のために小さな火花が散った。
「お前が授かった魔法は何だ? コップ一杯を満たすのがやっとの、使えない『水魔法』だろうが! 火の家系である我が家において、水などという相反する無能な属性を持って生まれたこと自体が恥なのだ。エレノアとセリアは、我が家をさらに高みへと導く至宝。その二人の雑用をこなすことこそが、お前の唯一の存在意義だ!」
「そうですわ、アイリス。嫌ならこの家から出ていきなさい。もっとも、平民以下の魔力しか持たないあなたを、雇ってくれる奇特な場所があればの話ですがね」
お母様が扇子で口元を隠しながら、くすくすと下品に笑う。
エレノアもセリアも、勝ち誇ったような笑みを浮かべて私を見ている。
(……ああ、やっぱり。この人たちは何も分かっていない)
私は俯き、そっと自分の手のひらを見つめた。
私の魔法は、確かに攻撃力など皆無の「僅かな水」だ。けれど、教会で行われた魔力測定の際、水晶はもう一つの光を放っていた。神官様すら気づかなかった、あまりにも繊細で、特殊な光。
私の本当の能力は――『刺繍への加護付与』。
針を通し、糸を紡ぐ。その一針一針に魔力を乗せることで、衣服に絶対的な「属性耐性」や「身体強化」、「結界」の加護を付与することができる、世界に二人といない規格外のレア職人。
それが、私だった。
姉や妹が学校で「彼女たちの魔法は、暴発しても絶対に衣服が焦げない。それどころか、魔法の威力が跳ね上がる」と天才 slave(奴隷)のように噂されているのは、全て私が夜通し血を滲ませて縫い上げた、加護付きの衣服を身に着けているからだ。
二人が放つ火魔法の熱から、彼女たち自身の身を守っているのも、私の刺繍のおかげ。
もし私の刺繍がなければ、彼女たちは自分の魔法の熱波で、今頃大火傷を負っていただろう。
けれど、家族はそのことに一切気づいていない。ただ「自分たちの才能が素晴らしいからだ」と盲信している。
「分かりました。……お姉様とセリアの分も、仕上げておきます」
私は静かに頭を下げた。
悔しかったからではない。悲しかったからでもない。
(これで、ようやく踏ん切りがついた)
来月、私は13歳の誕生日を迎える。この国では、13歳になれば自立のための「国外留学」の申請が、本人の意思のみで可能になる。
実は数ヶ月前、私の刺繍の価値を偶然見抜いてくれた、隣国の「アウストラリス帝国」の外交官の方が、私にこう言ってくれたのだ。
『君の技術は、我が国であれば国賓級の扱いを受けるものだ。もし、その技術を不当に搾取されているのなら、我が国へ来ないか? 喜んで君を迎え入れよう』
その時は、家族への一縷の望みを捨てきれず、返度を保留にしていた。
けれど、もういい。この家には、私の居場所も、私を愛してくれる人もいない。
「……あと1ヶ月。それまで、精々私を使い潰すがいいわ」
私は心の中で冷たく微笑みながら、針に糸を通した。
もちろん、これから縫うドレスには――これまでの半分も、加護は乗せない。
それからの1ヶ月間、私の生活は地獄のようであり、同時に最高に充実していた。
昼間は姉と妹の雑用、夜は二人の学校の課題の刺繍。寝る時間は毎日2時間ほどだったけれど、私の心は驚くほど軽かった。なぜなら、着々と隣国への亡命――もとい、留学の準備を進めていたからだ。
アウストラリス帝国の外交官、ラインハルト様とは、秘密裏に魔導通信で連絡を取り合っていた。
『アイリス嬢、受け入れの準備はすべて整った。我が国の皇帝陛下も、君の来訪を心待ちにされている。君がこちらの学院に籍を置けるよう、特待生の推薦状も用意した』
『ありがとうございます、ラインハルト様。来月の誕生日の朝、一番の魔導列車で国を立ちます』
『分かった。国境の駅で私が直接迎えよう。……本当に、その、ご家族には何も言わなくて良いのかい?』
ラインハルト様が心配そうに聞いてくる。私はふっと微笑んだ。
『ええ。あの方々は、目に見える派手な「火魔法」しか信じませんから。私が何を言っても無駄です。それに……その方が、後から気づいた時の衝撃が大きいでしょう?』
『はは、君は意外と苛烈だ。だが、それだけの扱いを受けてきたんだ。当然の権利だよ。楽しみに待っている』
通信を切り、私は最後の作業に取り掛かった。
明日は私の13歳の誕生日。そして、この家を出ていく日。
そして、明後日はフレアード伯爵家が主催する、王公貴族を集めた大夜会が開かれる日だ。
姉のエレノアと妹のセリアは、その夜会で自分たちの「新必殺魔法」を披露すると息巻いていた。そのために、私に「最高に見栄えのする、動きやすいドレス」を作らせていた。
「これが、私から家族への最後の『贈り物』よ」
私は二人のドレスに、最後の刺繍を施す。
金糸と銀糸を使った、見事な鳳凰の刺繍。見た目はこれ以上ないほど美しく、華やかだ。
だが、その刺繍に込められた魔力は――『ゼロ』。
それだけではない。私は自分の部屋のクローゼットに眠る、過去に二人に作ってあげた全ての衣服、私服、学校の制服に至るまで、すべての「加護の糸」を、私の水魔法の応用で完全に『解呪』した。
これまで私が出し惜しみなく付与していた、最強の火耐性結界。
自動修復機能。
魔力増幅の最適化。
それらがすべて、ただの「ちょっと綺麗な普通の糸」へと戻っていく。
「ふう……終わったわ」
時計を見ると、午前4時。
私は必要最低限の荷物(愛用の針と、ラインハルト様から貰った手紙だけ)を小さな鞄に詰め、引き出しの奥に「留学届の受理書」と「置き手紙」を残した。
手紙には一言だけ。
『本日をもって、私はこの家を出ます。今までありがとうございました。皆様、どうぞご自慢の火魔法で、これからも輝かしい未来をお築きください』
私は静かに部屋を出て、まだ朝靄に包まれる伯爵邸を後にした。
振り返ることは一度もしなかった。
ガタゴトと心地よい揺れに揺られ、魔導列車は国境を越えた。
アウストラリス帝国の国境駅に降り立つと、そこには約束通り、高級な外套を身にまとったラインハルト様が、数人の護衛を連れて待っていた。
「お待ちしておりました、アイリス嬢。……いや、我が国の至宝となってくれる、未来の聖縫師殿」
ラインハルト様は恭しく一礼し、私の手を取った。
「お迎えありがとうございます、ラインハルト様。今日から、よろしくお願いいたします」
「ああ、まずは長旅の疲れを癒やしてくれ。……と言いたいところだが、実は皇帝陛下が、君の『加護付与』の技術をぜひこの目で一度見たいと仰っていてね。少しだけ、宮廷に付き合ってもらえるかい?」
「はい、喜んで」
私は馬車に揺られ、帝国の皇宮へと向かった。
フレアード伯爵家の古びた屋敷とは比べ物にならない、圧倒的な威容と美しさを誇る宮殿。その謁見の間で、私は現皇帝である、ルミナス・アウストラリス陛下と対面した。
「面を上げよ、アイリス・フレアード。……いや、我が国に来たからには、もうその姓は不要だな。アイリスよ」
若き皇帝陛下は、鋭くも優しい瞳で私を見つめた。
「君の噂はラインハルトから聞いている。一針ごとに神の加護を宿すとか。我が国は魔法の属性を差別せぬ。実力ある者が正当に評価される国だ。……早速だが、そこに用意した騎士の外套に、何か加護を施してみてはくれぬか?」
用意されたのは、帝国騎士団が使う一般的なウールの外套。
私は一礼し、針と、帝国が用意してくれた魔導糸を手に取った。
スウ、と息を吸い、心を研ぎ澄ます。
家族のために無理やり縫わされていた時とは違う。私の技術を、私という存在を必要としてくれる人のために、全力を尽くす。
(紡げ、水の癒やし。防げ、万物の災厄)
私の指先から、ほんのりと青い光が溢れ出る。
それは、伯爵家で「コップ一杯の水しか出せない」と言われた私の、魔力の真の姿。私の魔力は、外に放出するのではなく、「糸に収束させる」ことで、何百倍にも膨れ上がる特性を持っていたのだ。
針が、流れるような動きで外套の襟元に、小さな「蒼い薔薇」の刺繍を刻んでいく。
わずか数分。
仕上げの一針を終え、糸を切り離した瞬間――。
――ゴオオオオオン!!!
謁見の間に、神聖な鐘の音が響き渡ったかのような、圧倒的なプレッシャーが走った。
外套から、肉眼で見えるほどの濃密な、けれど温かい聖なる障壁が、波紋のように広がっていく。
「な……ッ!!?」
皇帝陛下が、玉座から勢いよく立ち上がった。
側近や、周囲を警護していた近衛騎士たちが、一斉に目を見張り、声を失う。
「これは……! ただの防御結界ではない! 『絶対破邪』と『全属性物理魔法無効化(大)』の加護だと!? 馬鹿な、国家最高位の聖女が3日かけて行う儀式でも、ここまでの加護は宿らんぞ!」
宮廷魔術師長が、狂ったように魔力測定器の数値を読み上げながら絶叫する。
「それを、わずか数分……しかも、針仕事だけで成し遂げただと……?」
皇帝陛下はゆっくりと歩み寄り、私の縫った外套に触れた。その瞬間、外套が主として認めたように、陛下に馴染む。
「……素晴らしい。素晴らしいぞ、アイリス! これほどの才能を、前国は『無能』と罵り、雑用係にしていたというのか? 正気の沙汰ではないな」
陛下は私の前に跪き、私の手を優しく包み込んだ。
「アイリス。我がアウストラリス帝国は、総力を挙げて君を保護し、優遇することを誓おう。君には最高位の『宮廷聖縫師』の称号と、専用の工房、そして伯爵級の年俸を用意する。帝国最高峰の魔法学院へも、特待生として通うといい。我が国で、君の翼を存分に広げるが良い」
「……っ、ありがとうございます、陛下!」
私は深く、深く頭を下げた。
視界が涙で滲む。けれど、それは悔し涙ではない。
ようやく、私の努力が、私の能力が、正当に認められたのだ。
こうして、私は隣国で「伝説の聖女」としての第一歩を踏み出した。
――その頃。
私のいなくなったフレアード伯爵家では、破滅へのカウントダウンが始まっていることなど、知る由もなかった。
「おい! アイリスはどこへ行った! 早く朝食の準備をさせろ!」
フレアード伯爵家の朝は、いつも通り伯爵の怒号から始まるはずだった。
だが、どれだけ待っても、いつもなら既に働き詰めているはずのアイリスの姿がない。
「あなた、アイリスの部屋を見てきましたわ。そしたら、こんなものが……」
伯爵夫人が、顔を青くして一枚の紙と手紙を持ってきた。
「なんだこれは……『留学届』!? 隣国のアウストラリス帝国への留学だと!? 本人の申請だけで受理される制度を使いおって……あの小娘、逃げおったな!」
「お父様、大変よ!」
そこへ、髪を振り乱したエレノアが駆け込んできた。
「私のクローゼットにあるドレスや制服、全部の刺繍がおかしくなってるの! いつもなら触るだけで私の魔力と共鳴して、最高のコンディションになるはずなのに、ただの硬い糸になってる! それに、今日着る予定の私服でちょっと火魔法の練習をしたら、袖が焦げちゃったのよ!?」
「何ですって!? エレノア、あなたの魔法は、あなたの服を焦がさないんじゃなかったの?」
「わからないわよ! いつもなら、どれだけ火を出してもドレスは無傷だったのに!」
「お姉様、私のもよ!」
セリアも泣き出しそうな顔で飛び込んでくる。
「学校の課題の刺繍、アイリスにやらせたやつを先生に見せたら、『何だこのゴミみたいな刺繍は! 魔力が全くこもっていない、ただの見栄えだけの素人仕事だ!』って怒られて、減点されちゃったわ! どういうことなの!?」
伯爵は、手紙に目を落とした。
『皆様、どうぞご自慢の火魔法で、これからも輝かしい未来をお築きください』
「……まさか」
伯爵の脳裏に、最悪の仮説が浮かぶ。
いや、即座にそれを打ち消した。
「あり得ん! あいつは『水魔法』の無能だ! エレノアとセリアの衣服が燃えなかったのも、魔法の威力が上がっていたのも、すべて二人の圧倒的な才能のおかげに決まっている! アイリスが何かしていたなど、そんなわけがない!」
「そうですわ、あなた! あんな無能、いなくなっても何も困りませんわ。明日は我が家が主催する大夜会です。エレノアとセリアの新魔法をお披露目すれば、我が家の地位は不動のものになります!」
「……うむ、そうだな。あんなゴミ一匹、どうでもいい。おい、仕立屋を呼べ! エレノアとセリアの夜会用のドレスを、至急最高のものに調整させろ!」
彼らはまだ、気づいていなかった。
自分たちがどれほど強固な「安全網」の上に胡坐をかいていたのかを。
その安全網を編んでいた蜘蛛を、自らの手で追い出したということに。
そして迎えた、フレアード伯爵家主催の大夜会。
会場には、王都の有力貴族や、さらには第一王子であるカイル殿下までが顔を揃えていた。
「フレアード伯爵、今日はお前の娘たちの素晴らしい火魔法が見られると聞いて、楽しみにしていたぞ」
第一王子カイルが、傲慢な笑みを浮かべて告げる。
「ははっ、カイル殿下! 期待を裏切りませんぞ。我が娘たちは、この国の火魔法の未来そのものですから!」
伯爵は胸を張り、エレノアとセリアを前に出させた。
二人が身に着けているのは、アイリスが最後に残していった、あの絢爛豪華な鳳凰のドレスだ。仕立屋に見せたところ、「これ以上手を加える必要のない、完璧なデザインです」と太鼓判を押されたため、そのまま着用していた。
デザインは完璧だ。
――そう、「デザインだけ」は。
「皆様、ご覧ください! これが我がフレアード家の誇る、次世代の焔です!」
エレノアとセリアが会場の中央へ進み出る。
二人は自信満々に、それぞれの魔力を練り上げた。
「私の『業火』よ、すべてを魅了しなさい! 【プロミネンス・バースト】!!」
「私の『炎弾』よ、華麗に舞え! 【フレア・ストーム】!!」
二人が同時に、最大出力の火魔法を放った。
いつもなら、アイリスの加護によって魔力は最適化され、美しい鳥の形を模した炎が、観客を傷つけないように天井へと昇っていくはずだった。
だが、今回、ドレスに加護は『無い』。
「……え?」
エレノアが最初に異変に気づいた。
放出した魔力が、制御を失って暴走を始めたのだ。魔力を増幅・安定させる加護がないため、炎はただの「破壊の質量」となって、周囲に撒き散らされる。
「きゃあああああ! 熱い! 熱いわお姉様!!」
セリアが悲鳴を上げた。
いつもなら、衣服に施された「絶対火耐性」の結界が、彼女たち自身を熱風から守っていた。しかし、今のドレスはただのシルクだ。
――バリバリバリッ!!!
「ひっ!? ドレスが、ドレスが燃えてるぅぅぅ!!」
エレノアの鳳凰の刺繍から、一気に火が燃え移った。アイリスの加護がないドレスは、ただの可燃物でしかない。二人の自慢の火魔法の熱に耐え切れず、高級なドレスが一瞬で黒焦げになり、激しい炎を上げて燃え上がる!
「何をしている! 魔法を止めろ!」
伯爵が叫ぶが、最大出力で放った魔法は、制御を失って止まらない。
「熱い! 助けて! お父様、お母様! あああっ、髪が、私の顔がぁぁぁ!!」
エレノアとセリアは、自分たちの放った炎の熱波に焼かれ、床をのたうち回った。
さらに、暴走した炎の弾が、夜会の会場のカーテンや絨毯に次々と着火していく。
「火事だァァァー!!」
「王子殿下をお守りしろ!」
「水を! 誰か水魔法の使い手はいないのか!?」
会場は一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄絵図へと化した。
貴族たちは我先にと出口へ殺到し、踏みつけ合いが起きる。
「くそっ、なぜだ! なぜこんなことに!」
フレアード伯爵は必死に火を消そうとするが、火魔法の専門家である彼に、消火の術はない。
「あなた! 水魔法の使い手ですわ! 我が家で唯一の水魔法……アイ、アイリスはどこにいるの!?」
伯爵夫人が、炎に巻かれながら金切り声を上げた。
その瞬間、伯爵の脳裏に、かつて自分がアイリスに放った言葉が蘇る。
『お前が授かった魔法は何だ? コップ一杯を満たすのがやっとの、使えない水魔法だろうが!』
『我が家において、水などという相反する属性は恥なのだ!』
「あ、あああ……!」
伯爵はガタガタと震え出した。
違う。アイリスの水魔法は、無能なんかじゃなかった。
二人の魔法が暴走しなかったのも、ドレスが燃えなかったのも、すべて、すべて――アイリスがいたからだ。彼女が、その水魔法の魔力を使って、すべてを裏からコントロールしていたのだ。
「アイリスぅぅぅ! 戻れ! 戻って火を消せぇぇぇ!!」
伯爵が虚しく叫ぶが、その声が届くはずもない。
結局、王宮の魔術師団が駆けつけるまで火は消えず、フレアード伯爵邸の歴史ある本邸は、その3分の2が完全に焼け落ち、灰となった。
さらに最悪なのは、その場に第一王子がいたことだ。
王子の服にも火が燃え移り、軽傷を負わせてしまった。
国家反逆罪にも問われかねない大不祥事。
さらに、エレノアとセリアは、自らの炎で全身に大火傷を負い、自慢の美貌は失われ、魔力回路も焼き切れて、二度とまともな魔法が使えない身体になってしまった。
フレアード伯爵家は、一晩にして、すべてを失ったのだ。
大火災から1週間後。
焼け残った物置のような離れで、フレアード伯爵一家は泥水をすするような生活を送っていた。
爵位は剥奪(厳密には、莫大な賠償金のために爵位を売却せざるを得なかった)、資産はすべて没収。エレノアとセリアは包帯ぐるみの姿で、毎日「アイリスのせいでこうなった」と、呪詛のような言葉を吐き散らしている。
「あなた、アウストラリス帝国へ行きましょう……!」
伯爵夫人が、狂気を孕んだ目で伯爵に詰め寄った。
「アイリスはあっちの学院にいるのでしょう? 連れ戻すのです! あいつに、エレノアとセリアの火傷を治す加護を縫わせ、我が家を再興させるためのドレスをまた作らせるのです! あいつは我が家の奴隷、真ん中の無能のくせに、勝手に幸せになるなんて許せませんわ!」
「う、うむ……そうだな! あいつを連れ戻せば、またすべてが元通りに……!」
現実逃避に陥った伯爵たちは、ボロボロの衣服のまま、かき集めたわずかな金で隣国行きの列車に飛び乗った。
そして、アウストラリス帝国の首都。
彼らが目にしたのは、自分たちの想像を絶する光景だった。
「おい、見たか? 今日のパレード。新しく『宮廷聖縫師』に就任された、アイリス様の御姿を!」
「ああ、お美しい方だったな。アイリス様が仕立てた国境守備隊の制服、あらゆる魔獣の攻撃を完全に無効化するらしいぞ」
「まさに、我が国の守り神、奇跡の聖女様だ!」
街の平民たちが、口々に「アイリス」の名を称えている。
「な、何だと……? 聖女……? 宮廷聖縫師……!?」
伯爵たちが呆然としていると、大通りを、豪華絢爛な馬車が進んできた。
帝国の近衛騎士たちに守られたその馬車に乗っているのは――。
見違えるほど美しく、気品に満ちたドレスを身にまとい、幸せそうに微笑むアイリスの姿だった。その隣には、彼女を愛おしそうに見つめる、帝国の若き皇帝ルミナス陛下の姿もある。
「アイリスゥゥゥーーッ!!」
フレアード伯爵は、狂ったように警備の列を押し通ろうとした。
「アイリス! 私だ、父親だ! 迎えに来てやったぞ! 早くその馬車を降りて、姉と妹のために針を持て! お前のような無能を育てた我が家に、恩返しをする時だろ!!」
「そうですわ、アイリス! よくも私たちを裏切ってくれたわね! 早く戻って、この子たちの火傷を治しなさい!」
伯爵夫人の汚い金切り声が、美しく晴れ渡った首都の空に響き渡る。
パレードが、ピタリと止まった。
周囲の帝国臣民たちが、不審者を見る目で伯爵たちを睨みつける。
馬車の扉が開き、アイリスがゆっくりと地上へ降り立った。
彼女の足元には、かすかに青い、神聖な魔力の波紋が広がっている。その圧倒的なオーラに、伯爵たちは気圧され、思わず数歩後退りした。
「……お久しぶりですね、元フレアード伯爵。それに、お母様も」
アイリスの声は、冷徹なまでに冷ややかだった。そこには、かつて彼らの罵倒に怯えていた、弱気な少女の面影は微塵もない。
「アイリス、お前、その態度は何だ! 誰に向かって――」
「不敬であるぞ、無礼者め」
アイリスの後ろから進み出た皇帝ルミナスが、冷酷な眼差しで伯爵たちを射抜いた。その覇気に、伯爵たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
「我が国の至宝であり、私の最愛の婚約者でもあるアイリスに、それ以上汚らわしい言葉を向けるな。つまみ出せ」
「こ、婚約者……!? 皇帝の……!?」
伯爵たちの顔が、驚愕で土気色に変わる。
アイリスは、包帯に巻かれて車椅子に乗っているエレノアとセリアを一瞥した。二人は、かつて見下していたアイリスの、あまりの神々しさと幸福そうな姿に、嫉妬と絶望で言葉も出ないようだった。
「お姉様、セリア。私の刺繍がなければ、あなたたちの火魔法がどうなるか……身を以て理解していただけたようですね」
アイリスは、悲しむ風でもなく、ただ淡々と告げた。
「あなたたちは、私の『水魔法』を無能と笑いました。けれど、私の水は、あなたたちの暴走する火を抑え、調和させるための『器』だったのです。それを壊したのは、他ならぬあなたたち自身ですよ」
「あ、アイリス……頼む、悪かった! 私が悪かった! だから戻ってくれ! この通りだ!」
プライドをかなぐり捨て、公衆の面前で地面に額を擦り付ける元伯爵。
だが、アイリスの心は、1ミリも動かなかった。
「お断りします。私はもう、フレアード家の人間ではありません。アウストラリス帝国で、私を必要としてくれる人々のために、この命と技術を使います。……さようなら。二度と、私の前に現れないでください」
アイリスが背を向け、再び馬車へと乗り込む。
「待て! 待ってくれアイリス! ああああーーーっ!!」
伯爵たちの絶叫は、帝国騎士たちによって手荒く遮られた。彼らは不審者、および他国の犯罪者として、その場で一斉に拘束され、二度と帝国の地を踏めないよう、国境の外へと文字通り「ゴミのように」放り出された。
衣服もボロボロ、魔力も資産も名誉も、すべてを失った元貴族の一家。
彼らに残されたのは、一生消えない火傷の痛みと、自らの愚かさを呪い続ける、地獄のような余生だけだった。
一方、馬車の中。
「すまないね、アイリス。不愉快な奴らを見せてしまった」
ルミナス陛下が、アイリスの手を優しく握り締める。
「いいえ、陛下。これで本当に、私の過去と決別ができました。……これからは、陛下の隣で、世界一幸せな聖縫師になってみせます」
「ああ、約束しよう。君の紡ぐ未来を、私が生涯をかけて守り抜く」
窓の外からは、二人の未来を祝福する、割れんばかりの歓声がいつまでも、いつまでも鳴り響いていた。
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