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第9話 「風の声」

波が静かに寄せては返す。

その音は、まるで遠い記憶を呼び起こすようだった。


防波堤の端に立つ悠の後ろで、朔の母が小さく声をかけた。

「――これを、渡さなきゃと思ってたの」


差し出されたのは、黒い小箱。

手のひらに収まるほどの古いフィルムケースだった。

「朔が最後まで現像しなかったフィルムよ。

あなたが見つけてくれる気がして……ずっと、取っておいたの」


悠は震える手でそれを受け取った。

ケースには、手書きの文字が薄く残っている。


“神原に渡すこと。俺の代わりに、撮ってほしいものがある。”


「……代わりに?」

呟いた声は、風にさらわれて消えた。

母は静かに微笑んだ。

「きっと、あなたにしか見えない“何か”があるのね。

朔がそう信じてたの。

だからお願い。あの子の代わりに、この続きを撮ってあげて」


悠は深くうなずいた。

涙は出なかった。

ただ、胸の奥にぽつりと灯がともった気がした。

“撮らなきゃいけない”。

それだけが、今の自分を動かしていた。


 


翌日。

学校の写真部室に戻ると、薄い光が窓から差し込んでいた。

机の上には、現像器と白いトレイ。

水の中に浮かぶ印画紙がゆらゆらと揺れる。

現像液を注ぐと、ゆっくりと像が浮かび上がってきた。


一枚、二枚――。

フィルムの中から現れたのは、見覚えのある景色だった。

夕暮れの校舎。

部室の窓。

そして――自分。


だが、それだけではなかった。

三枚目に写っていたのは、防波堤の上でカメラを構える悠の後ろ姿。

その横に、薄く滲むように――朔が立っていた。


「……これ……」


現像液の中で、写真の表面が光を返す。

朔は笑っていた。

ほんの少しだけ、風に髪を揺らしながら。

その笑顔は、あの日の夕方のままだった。


悠はその場に立ち尽くした。

自分が撮った覚えのない写真。

でも確かに、カメラの中に残っていた“朔の最後の瞬間”。

その視線の先に、自分がいた。


――「もし俺がいなくなっても、俺のこと撮ってくれよ。」


その言葉が、耳の奥で蘇る。

悠は現像液から写真を取り上げ、そっと拭き取った。

写真の中で、朔がこちらを見ている。

もう言葉はない。

けれど、その眼差しだけで、すべてが伝わった。


「……ありがとう」


声がかすれる。

涙が一滴、写真の上に落ちて滲んだ。

それでも朔の笑顔は消えなかった。

むしろ、柔らかく光って見えた。


 


夕暮れ。

校舎の屋上で、悠はカメラを構えた。

風が吹き抜け、遠くに海が光る。

シャッターを押す瞬間、なぜか雨の匂いがした。


カシャン。


その音が空へ溶けていく。

ファインダーの中には、光の粒が漂っていた。

まるで、朔の声が風に混ざって届くようだった。


――「悠、ちゃんと撮れよ。」


悠は笑った。

「……ああ、ちゃんと撮るよ。今度は、俺の目で。」


 


風が吹く。

雨の匂いが、再び空気を包み込む。

それはまるで、

もう一度、朔がここに立っているような――そんな気がした。

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