第8話 「消えない影」
翌朝。
夜の雨が上がった空は、薄い灰色に霞んでいた。
街路樹の葉から、まだ小さな雫が滴り落ちている。
悠は、昨日「光写堂」で受け取った封筒を胸ポケットに入れ、家を出た。
制服のポケットには、朔が撮った最後の写真――
海辺の防波堤が写っている一枚が入っている。
そこが、朔の“最後の場所”なのだと直感していた。
電車に揺られ、町の外れの海沿いへ向かう。
途中、車窓から見える田んぼの向こうに、鈍く光る海が広がった。
どこか懐かしい匂い。
潮と風の混ざった湿った空気が、胸の奥をざらつかせる。
駅を降りると、人影はまばらだった。
漁船の停まる小さな港町。
朔が転校してきた時、「海の近くの学校から来た」と言っていたのを思い出す。
――まさか、あの言葉がこんな形で繋がるなんて。
歩いて十五分ほど。
潮風が強くなり、耳の奥で風が鳴る。
やがて視界の先に、コンクリートの防波堤が現れた。
どこまでも真っ直ぐに伸びて、海と空の境界へと溶け込んでいる。
悠は、写真を取り出した。
同じ場所、同じ構図。
海の向こうに傾いた太陽。
――ただ一つ違うのは、写真の中に朔が立っていること。
「……ここ、なんだな」
潮の音に消されるような声で呟く。
防波堤の端に近づくと、花束が一つ置かれていた。
包み紙は色あせ、リボンはほつれている。
けれど、誰かがつい最近まで手を合わせていた跡があった。
悠はしゃがみ込み、そっと手を合わせた。
潮風が髪を揺らす。
その瞬間、背後から小さな声がした。
「……あなたも、あの子を知ってるの?」
振り向くと、ひとりの女性が立っていた。
年の頃は三十代後半。黒いワンピースに薄いストールを羽織っている。
目元には、少し疲れたような優しさがあった。
「もしかして――高瀬さんの?」
「……ええ。あの子の母です」
悠の胸がぎゅっと締めつけられた。
「神原悠といいます。朔とは、同じ高校で……」
「やっぱり。あなたが“悠くん”なのね」
「……え?」
「朔、よく話してたの。
“写真部に、空ばっかり撮る変なやつがいる”って。
でも、その声は楽しそうでね……あなたの話をしてるときだけ、あの子は少し笑ってた」
悠は何も言えなかった。
喉の奥が熱くなり、声にならない。
母親は海の方を見つめ、静かに続けた。
「三年前、この防波堤で事故があったの。
撮影に来てた写真部の生徒が、一人……波に攫われたのよ」
「……三年前……?」
「ええ。朔は、その子の兄だった」
悠の心臓が止まったように感じた。
頭の中で、断片的な記憶が繋がっていく。
――三年前に廃校になった青葉第二高校。
――“いなくなった写真部員”。
――朔の影に重なるもう一人の姿。
「朔はね、弟を失ってからずっと、自分を責めていたの。
撮影の約束をしていたのに、行かなかったから。
だから、転校してからもカメラを手放せなかった。
“あの日の続きを撮らなきゃいけない”って……」
母親の声が震えた。
「でも、あの子、あなたと出会って少し変わったの。
“あいつの写真、綺麗なんだ”って。
笑った顔、初めて見たのよ。
それが最後だったけれど……」
悠は涙を堪えきれなかった。
波の音が、まるで朔の声のように胸に響く。
自分の中でずっと引っかかっていた“影”の正体――
それは、朔の弟。
そして、朔自身がその記憶を閉じ込めるために撮った“最後の光”だった。
「……彼、きっとあなたに託したのね」
母親が静かに言う。
「何をですか……?」
「罪じゃなくて、記憶を。
自分がここに“いた”という証を、あなたに残したかったんだと思う」
悠はカメラを取り出し、防波堤の先に立った。
風が吹き抜け、空と海が一つに溶け合う。
朔が見ていた景色。
朔の弟が最後に見た光。
「……朔」
シャッターを切る。
カシャン。
その音が、波に消えていく。
ファインダーの中には、誰もいない。
けれど、悠にはわかった。
そこには確かに“彼ら”がいる。
雨の匂いとともに、静かに、確かに――。




