第4話 「残響」
それから、季節がひとつ変わった。
教室の窓から見える桜の花びらが、少しずつ緑へと変わっていく。
朔が転校してから、もう三週間。
それでも、悠の中ではあの日が終わらないままだった。
放課後になると、自然と足が部室へ向かっていた。
誰もいない部屋。
机の上のカメラ、棚に残った現像液の匂い、
そして――壁に掛けたままの朔の写真。
それは、あの日の夕方に撮った一枚。
少し照れくさそうに目を逸らす朔の横顔が、
いつ見ても同じように胸を締めつけた。
「……やっぱり、うまく撮れてないな」
悠は独り言のように呟いた。
ピントは少し甘く、光の入り方も不自然だ。
でも、この写真を消す気にはなれなかった。
朔がそこに“いた”証だから。
カメラを手に取り、レンズを拭く。
手の動きはもう習慣のようなものだった。
けれど、ファインダーを覗くたびに感じるのは“空白”だった。
どんなに景色を撮っても、
どんなに人を撮っても、
――朔のいた場所だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
「……いなくなっても撮ってくれよ」
耳の奥に、あの声が蘇る。
まるで部屋の中で誰かが囁いたみたいに、はっきりと。
悠は顔を上げた。
窓の外には、曇り空。
遠くで雷のような音が聞こえる。
雨が降りそうだった。
その瞬間、ふと胸の奥がざわついた。
あの日も、こうやって雨の匂いがしていた。
そして朔は――“いなくなった”。
悠は立ち上がり、カメラを首にかけた。
気づけば、足は外へ向かっていた。
空が低く、風が湿っている。
校門を出て、駅までの道を歩く。
夕方の街の匂いが、胸の奥にしみていく。
ふと、踏切のそばにある古い写真屋の前で立ち止まった。
「光写堂」――昔ながらの店。
朔と何度か立ち寄った場所だった。
ドアを開けると、ベルが鳴る。
カウンターの奥から、白髪混じりの店主が顔を出した。
「おや、久しぶりだね。高瀬くんは元気かい?」
その問いに、悠は少しだけ息を詰めた。
「……転校しました」
「そうか。仲良かったろ、君たち」
「はい。でも、もう会えないかもしれません」
「写真ってのは、不思議だよ。いなくなった人も、そこにいるままなんだから」
店主の言葉が、静かに胸に落ちた。
悠はポケットから、一枚のネガを取り出した。
それは、朔がいなくなる前の最後の写真。
現像せずに、ずっと持ち歩いていたものだ。
「これ、現像できますか?」
「もちろん。少し時間をもらうけどね」
「待ちます」
店主が奥へと消える。
悠は椅子に座り、ぼんやりと店内の時計を見つめた。
秒針の音がやけに大きく聞こえる。
やがて、現像液の匂いとともに、店主が戻ってきた。
「はい、できたよ」
手渡された写真。
そこには、雨の中で傘もささずに立つ朔の姿が映っていた。
顔は半分陰っていたけれど、確かに笑っていた。
あの日の夜――最後に見た光景と同じだった。
悠の視界がにじんだ。
涙なのか、光の反射なのか、自分でもわからなかった。
ただ一つだけわかるのは、
この写真が“生きている”ということ。
そこに朔の気配が、確かに宿っているということ。
「……ありがとう」
悠は写真を胸に抱いた。
雨音がまた聞こえ始める。
外に出ると、静かな夕立が降っていた。
濡れたアスファルトに映る街灯の光。
その中に立ち尽くしながら、悠はそっとカメラを構えた。
今度は――朔のいない空を撮るために。
カシャン。
シャッターの音が、雨に溶けて消えていく。
けれどその余韻は、確かに心の中に残った。
――残響のように。




