第3話 「消えた光」
朝の校舎は、雨上がりの匂いで満ちていた。
濡れたアスファルトが光を跳ね返し、空にはまだ薄い雲が残っている。
神原悠は、カメラバッグを肩にかけながら、校門をくぐった。
昨夜はあのまま、朔と雨を眺めていた。
話した言葉は多くなかったけれど、沈黙が妙に心地よくて、
二人のあいだに流れる空気がいつもより柔らかかった気がする。
――「もし俺がいなくなっても、俺のこと撮ってくれよ」
その言葉が、朝になっても耳の奥に残っていた。
冗談のようで、どこか本気のようでもあった。
“いなくなる”なんて、そんなはずないと思いながらも、
なぜか胸の奥がざわついていた。
昇降口を抜け、教室へと続く廊下を歩く。
遠くから友人たちの笑い声が聞こえる。
いつもと変わらない朝――のはずだった。
だが、教室の扉を開けた瞬間、空気が少し違っていた。
いつも窓際の一番後ろに座っているはずの朔の席が、
ぽっかりと空いていた。
「……あれ?」
悠は思わず声を漏らした。
机の上には何もない。
昨日まであったはずの筆箱も、教科書も、
置きっぱなしのカメラ雑誌も、すべて消えていた。
「神原、聞いた?」
隣の席の女子が、小声で言う。
「高瀬くん、転校するって」
「……は?」
「今朝、先生が言ってた。家庭の事情だって。
昨日の夜、いきなり決まったらしいよ」
悠の思考が止まった。
耳の奥で雨の音が蘇る。
――“もし俺がいなくなっても、俺のこと撮ってくれよ。”
それが冗談ではなかったことを、ようやく理解した。
授業中、ノートの線は白紙のままだった。
頭では何かを書こうとしても、心が全くついてこない。
先生の声も、クラスメイトの笑い声も、
まるで遠い国の言葉のように響くだけだった。
放課後。
悠は部室に向かった。
夕陽が差し込む、昨日と同じ時間。
でも、そこに朔はいなかった。
机の上には、ひとつの封筒が置かれていた。
白い紙に「神原悠へ」とだけ書かれている。
手が震えた。
指先でゆっくりと封を開ける。
中には、現像された一枚の写真。
それは昨日、朔が「やめろ」と言いながらも撮らせたあの瞬間だった。
ほんのわずかに口元を緩めた、朔の笑顔。
そして、裏面には走り書きのような文字があった。
――お前の見る世界が、俺には少しだけ眩しかった。
だから、もう見てられない。
でも、その光を撮り続けてくれ。
俺の代わりに。
悠は、写真を胸に抱いた。
声にならない息が喉の奥で詰まる。
何かを言おうとしても、言葉は出てこなかった。
ただ、窓の外の空を見上げる。
その先に、もう朔はいない。
西日が差し込んで、机の上の写真が光った。
まるで、朔の瞳の奥にあった“光の粒”が、
今もそこに残っているかのように。
悠は静かにカメラを構える。
レンズの先に映るのは、空と、消えた友の記憶。
シャッターを押す指が、震えていた。
カシャン――。
その音が部室に響いた瞬間、
彼の時間は、少しだけ止まった気がした。




