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鈴谷さん、噂話です

寝肥の家

 0

 

 また、夫に当たってしまった。

 私は私が嫌いで、この苛立ちは間違いなくその所為で、それが分かっているのに、私はそれでも夫に苛立ちをぶつけてしまう。

 夫は何も悪くないのに。

 お人好しの夫は、戸惑い、何か自分が悪い事をしたのかと尋ねて来る。心から私を信頼し切っているのだ。

 私はそれを見て更に苛立つ。

 その所為で、私自身の醜さをより思い知らされるような気がして。

 

 罪悪感がより色濃くなる。

 

 “ごめんなさい”

 

 何故、その一言が言えないのか。

 何故、全てを打ち明けてしまわないのか。

 

 本当に嫌になる。

 

 醜く肥え太った私の肉体。

 それはもちろん半ば自棄になってあの“不快な甘味”を食べ過ぎた所為ではあるのだけど、だけどそれでも、それは私の醜いエゴが、肥大に肥大して、遂には心を突き破って溢れ出て来たかのように私には思える。

 

 動けない。

 醜く肥大した肉体……、否、醜い心が大きく重過ぎて。

 

 もしも、夫に本当の事を言ったら、私はきっと捨てられてしまう。いや、言わなくてもいずれはバレる。捨てられる。そうしたら、私の生活はどうなるのだろう?

 

 何もかも自分が悪いのに、それでも自分の心配しかしていない。

 本当に私は醜いと思う。

 

 私はうすぼんやりと夢想する。

 本当の私はこの部屋いっぱいに肥大した醜い脂肪の塊なのかもしれない。

 

 1

 

 同僚の佐々木宗太から「奥さんに給料は全て渡そうと思っている」という話を聞いた時、俺は正直ドン引いてしまった。

 いや、日本では奥さんが家計管理を担当している家庭が多いというのは知っているから特別変な話ではないのも分かっているのだが、ただ、それでもその時の俺には異常に思えてならなかったのだ。

 だから、

 「……本当にそれで良いのか?」

 と、思わず尋ねてしまった。

 後少しで佐々木は新婚生活を始める。多分、始まったからではその“慣習”を改めるのは難しい。思い直すのなら今のうちだと俺は考えたのである。

 「良いって?」

 「いや、だってお前、確か付き合って三ヶ月で結婚を決めたって言っていたよな?」

 相手の女性は20代後半だと聞いている。きっとそろそろ結婚適齢期だと焦っていたのだろう。

 「それがどうしたんだよ?」

 「“どうした?”って、そんなちょっとの間の付き合いしかない相手をそこまで信頼するのか?」

 “……もしも、結婚詐欺だったらどうするんだ?”

 という言葉を俺は思わず言ってしまいそうになってなんとか呑み込んだ。

 「するよ。と言うか、信頼しなくちゃいけないんだ。これからずっと一緒にやっていくのだから」

 佐々木の言う事は分からなくもない。“相手を信頼している”とアピールするからこそ人間関係が良好に保てるというのはあるのかもしれないし。

 だが、

 「それとこれとは別問題だよ。20代後半って言ったら人生経験もそこまで豊富じゃないぞ? 本当に任せて大丈夫なのか?」

 それは“能力を信頼する”のとは少しばかり違う。仮に人格に問題がなかったとしても、管理能力があるとは限らない。

 「大丈夫だって、彼女、お金を扱うのは自信あるって言っていたぞ?」

 “自信がある?”

 俺はそれを聞いて嫌な予感を覚えた。

 「それ、信じて良いのか? “金に自信ある”って意外に怖いと思うぞ? 自信がないのなら、リスクはできる限り避けようとするが、なまじっか自信があると危ない橋を渡ろうとしちまうもんなんだよ」

 その指摘で佐々木は初めて表情を曇らせた。多分、奥さんの人間性については信頼しているのだろうが、能力までは分からないのだろう。

 「お前の方でも何か気を付けておいた方がいいのじゃないか?」

 佐々木は何も返さなかったが、何かを真剣に考えているようではあった。

 

 2

 

 「有名なのは“私は嘘をついている”という命題だな。これが“真”だとすると、“嘘をついている”という文は誤っている事になり“偽”になる。ところが、“偽”だとすると、“嘘をついている”という文は正しい事になり、“真”になってしまう。

 つまり、“真”でも“偽”でも矛盾が生じる。その為、この命題は“解なし”って事になる。従来の論理学ではこの先は考えなかった。“解なし”の命題について研究はされて来なかったんだな。だから、もし研究をしたら何か発見があるかもしれない。未知の領域が広がっている分野だって事になる」

 火田修平がそのように佐野隆に向かって講義をしていた。とある大学の新聞サークル室。次の新聞の記事を書く為のミーティングの一環だ。

 佐野は少し困惑していた。火田から次の記事は“ゲーデルの不完全性定理”と金融経済関連の記事にしたいと言われ、「難しそうだから嫌だ」と返すと「そこまで難しい話は扱わない」と言って講義をし始めたのが、その“解なし”命題についてだったからだ。

 「一般に“ゲーデルの不完全性定理”は数学の限界を示したと言われている。が、解なし命題を受け入れるのであれば、むしろ新しい分野の可能性を切り拓いたとも言えるって話だな」

 そう火田は言い終えた。だが、佐野には何の事だかまったく分からなかった。

 「いや、分からないって。なんだよ、それは?」

 それを受けて少し火田は止まる。

 「ゲーデルの不完全性定理はな、さっき言った“私は嘘をついている”の解なし命題に似ているって言われているんだよ。自己言及構造を持つ理論は、絶対に不完全性を持つって理屈らしくってな」

 「分かった、分かった」と再び講義をし始めようとする火田を佐野は止めた。なんとか理解できたとしても、それで記事を書くのは無理だと思ったからだ。

 「話は分かったけどさ」

 本当は分かっていなかったのだが。

 「“解なし”命題のその先が仮にあったとしてもさ、それが何の役に立つんだよ? どうせ現実には存在しないのだろう?」

 単なる数学的概念だと一部に誤解のある“虚数”は実は電子の計算に使われているが、流石に矛盾を孕んだ命題が現実に存在するとは彼は思わなかったのだ。

 ところが、それを聞くなり火田はこう返す。

 「いや、それがあるんだよ」

 「へ? ある? どこに?」

 思わず阿保みたいな返事をしてしまった佐野に向けて火田はあっさりとこう返した。

 「金融経済だよ。金融経済は、自己言及構造を持っているんだな」

 

 3

 

 バブル経済。

 実体をかけ離れて、価格がどんどんと膨らんでいってしまう現象を言う。人間社会において度々起こり、時に破滅的な大問題を引き起こしてしまう場合すらもある。

 土地や株での発生が有名だが、チューリップ、ウサギなどの取引でもバブル経済は発生している。売買によって利益を得られる全ての商品で、バブル経済は発生し得るのだ。

 本来、市場原理においては、需要と供給のバランスで価格は決定される。価格が高くなり過ぎれば需要が低下をし、価格は安くなっていく。ところがバブル経済においてはその市場の自動調節機能が正常に働かず、暴走をしてしまうのである。価格が高くなり過ぎても、需要が下がらない。

 何故か?

 “安く買って、高く売る”。この目的で、何か商品を買う場合を思い浮かべて欲しい。もし仮に商品価格が高くなったら、「まだ儲けられる」と考えてむしろ需要が高くなってしまうのではないだろうか? そして有り得ない程高い商品を買い求める。

 もちろん、常に人々がそのように考えるとは限らない。しかし集団心理により正常な判断力が麻痺してしまえば別だ。お祭り騒ぎのような一種の高揚感で、人々は実際の価値とは大きくかけ離れた商品に高額を支払い、そしていずれは大損をする(あの天才物理学者ニュートンですらも、バブル経済で失敗をしたという逸話がある)。

 これは“金融経済”が通貨自体を商品として扱うからこそ発生する現象である。

 “通貨を稼ぐ為に、通貨自体を商品とする”という事だ。

 そして、これは金融経済が自己言及構造を持っているとも表現できる。

 ゲーデルの不完全性定理では、自己言及構造を持つ理論は不完全である事が示されている。金融経済の市場原理が無効となっている“バブル経済の発生”は、その一例であると言えるだろう。

 ただし、実は“不完全”だからといってそこで思考放棄をする理由にはならない。この不完全性を受け入れ、“自己言及構造を持つ理論”の研究を発展させていったなら、何か新しい発見が得られるかもしれないのだ。

 現在、かなり大規模なAIによる金融商品の売買が行われているが、それでもバブル経済は発生してしまう懸念がある。つまり、AIはバブル経済防止には対応していない。

 がしかし、もしも、“自己言及構造を持つ理論”を発展させ、それを活かせるようになったのなら、バブル経済を未然に防げるようになるのではないか? AIにだってそれを学習させられるかもしれない。

 

 ただし、現時点では、このような理論はまだ夢物語だ。バブル経済発生を感知したなら“バブル特別税”のような税制を敷き、バブル経済を抑制するのが最も効果的な手段になるだろう。それで増えた税収は、バブル崩壊後の対策に使う事もできる……

 

 4

 

 少し前、全固体電池の開発を手掛けているという海外の某会社の株を買うように知り合いから勧められた。技術開発が進んでいるという発表があったから、これから上がるだろうという話だった。だが、ただそれだけの情報だけで株に手を出すのは流石に軽挙に過ぎるだろうと思い、自分でも調べてみると、その会社は過去に何度も似たような発表を行っているらしいと分かった。

 これは信用ならない。買うのは止めておいた方が良いだろう。

 そう思ったから、その知り合いにもそのように言った。すると彼は大笑いをするのだった。

 「そんなの皆、知っているよ」と。

 彼が言うには、その会社は株価が下がってくると毎度そのような発表をするらしい。嘘なのか誇張なのかは分からないが、その後は何の進捗報告もないから、“株価を上げる手段”として使っているのはほぼ確実なのだそうだ。しかし、それでも株は上がる。株が上がるのなら儲けられる。だから、投資家達(投機家と言うべきか?)は、気にせず株を買うのだそうだ。

 つまりはプチバブルに敢えて乗っかっている訳だ。

 “なんだかな”と俺は思った。

 株ではないが、似たような事は他の会社でも行われているらしい。時折、信じられない技術の発表があるが、その中には投資マネー欲しさの虚偽も含まれているのだとか。

 なんだか、物凄く不健全であるような気がする。

 “一体、この世の中はどうなっちまったんだ?”

 職場の昼休み。興味を覚えた俺は、少しばかりそれについて検索をかけて調べてみる事にした。すると、プチバブルっぽい話がいくつか見つかった。AI関連の企業、エネルギー関連、そして食糧関係。チョコレートの代替食品。

 チョコレートやコーヒーは、ここ最近、国際価格が高騰している。天候不順の影響だそうだ。それで代替食品に注目が集まって値が上がっていたらしい。代替食品なのだから、値が上がったら意味がないと思うのだが。

 しばらく調べている内に、変な記事を見つけた。どっかの大学の新聞サークルが発表しているもので、バブル経済を扱った内容だった。

 “ゲーデルの不完全性定理…… ねぇ”

 その記事では、バブル経済の発生を、ゲーデルの不完全性定理に絡めて説明してあったのだ。そんな発想の記事は初めて読んだ。興味深いと言えば興味深いのかもしれない。

 記事には異様なほどに巨大に肥った江戸時代の女っぽいイラストが挿入されていて、“寝肥”と書かれてあった。短文だが説明があって、女が罹る妖怪病のようなものであるらしい。結婚した女が肥え太って騒々しくなるのだそうだ…… 男にとっては恐怖かもしれない。

 記者がどうしてそんな妖怪病のイラストを添えたのかは分からないが、バブル経済のイメージと合っているような気がしないでもないしインパクトもある。意外にセンスがあるのかもしれない。

 「まぁ、一歩引いた視点で、無難に対応するのがベストなのかなぁ?」

 俺はそう独り言を言った。もちろん、“バブル経済で損をしない為には”という意味だ。すると不意にこんな声が聞こえた。

 

 「なんだそれは?」

 

 佐々木宗太だった。

 俺は驚いて、

 「バブル経済の事を調べていたんだよ。良いだろう? 休み時間なんだし」

 そう言い訳をした。彼が会社のパソコンでネットの記事を読んでいる俺を責めたのかと思ったからだ。

 しかし、佐々木はそんな事はまるで気にしていないようだった。

 「いや、違うよ。そのイラストはなんだ?」

 ――イラスト?

 「もしかして、この江戸時代の肥った女のイラストか? “寝肥”っていう妖怪病みたいなもんらしいぞ」

 その俺の説明に「妖怪病……」と佐々木は深刻そうに呟いた。

 明らかに様子がおかしい。ここ最近、佐々木は元気があまりなかった。

 「何かあったのか?」

 少々心配になってそう問いかけた。

 すると彼はやや逡巡したような様子を見せた後で、「実は……」と口を開いた。

 「妻が病気になってしまったのかもしれないんだ」

 

 5

 

 “寝肥”のイラストを記事に載せる提案をしたのは、佐野隆だった。

 「わざわざ鈴谷さんにアドバイスまでもらったのに載せないなんてできない」

 というのが彼の主張だった。

 その時火田修平は“くだらない”といった表情を浮かべていた。アドバイスが欲しかったのではなくて、鈴谷凛子に会うのが本当の目的だと分かっていたからだろう。佐野は鈴谷凛子に惚れていて、何かしら口実を見つけては彼女の所属する大学サークル“民俗文化研究会”に会いに行きたがる。

 だからなのか、その“寝肥”のイラストを載せるのに当初彼は難色を示していたのだが、イラストを一目見て意見を翻した。バブル経済の記事に“寝肥”のイラストを載せるのは、遊び心があって面白いとどうやら彼は思ったようだった。

 バブル経済のイメージに合っていて、それでいて何処か外している感じに妙味がある。

 或いは、鈴谷凛子はそこまで考えてこのイラストを佐野に提案したのかもしれない。偶然かもしれないが。

 だが、その所為で変わった問い合わせを彼らは受ける事になってしまったのだった。

 

 『この“寝肥”という妖怪病について、どうかもっと詳しく教えてください』

 

 大学のサイトに載せている記事にはサークル用のメールアドレスを載せてはいるが、今までほとんど活用された事はない。そして、珍しく問い合わせがあったと思ったら、記事に関する内容ではなく、妖怪病だとされる“寝肥”に関するものだったのである。

 火田達は無視しようかと悩んだらしかった。しかし、問い合わせ内容を読んでみた限りでは、相手は真剣で相当に深刻そうだった。しかももしかしたら解決ができるかもしれない人物に彼らは心当たりがあったのだ。

 

 「結婚相手の女性が、新生活を始めた途端に肥り始めて、しかも性格まで悪くなってしまったらしいんだよ、鈴谷さん」

 

 佐野隆がそう言った。

 ――民俗文化研究会。

 火田も一緒に来ていて、目の前にはここの主とも言える鈴谷凛子の姿があった。

 「それはただ単に結婚した後に本性を現しただけ……」

 鈴谷は佐野の説明を聞いてそう言いかけたのだが、それから火田の顔を見て、「……という訳でもないのでしょうね」と言葉を結んだ。

 火田修平が相談に来たからには、それなりの理由があると判断したのだろう。

 その視線を受けると、佐野から引き継ぐようにして彼は説明を始めた。

 「その佐々木さんって人の奥さんは挙動がおかしくなってしまったらしくてな。例えばチョコレートの代替食品だっていう“ココシンス”ってのを食べまくっているらしいんだ。多分、その所為で肥ったのだろうが。しかも、どうしてそれを食べるのか訊いてみると“お金がないから”って答えるらしいんだな。

 “あなたがもっと稼いでくれば、こんなものを食べなくて済むのに!”

 なんて嫌味まで言って来るのだとか。

 でも、普通に考えれば、金が無いのだったら、無理してそんなものを大量に食べる必要はないよな? 明らかに異常だ」

 「ふーん」とそれを聞くと鈴谷は何かを考えるようにする。

 「で、何かしら精神病関連の症例でそういうのをお前が知らないかと思ってな。因みにその佐々木さんって人は、“寝肥”のイラストを見て本当にそういう妖怪病があるかもしれないって疑っているらしい」

 それを聞くと、彼女は腕組みをした。

 「“寝肥”の民間伝承の類は現時点では発見されていないわ。だから、創作妖怪だって思われている。未知の病気の可能性は少ないわね」

 「だろうなぁ」と火田は返す。

 「ただ、この佐々木さんって人が“妖怪病かも”って思うくらいに異様な速度で奥さんは肥ったのだろう? 少なくとも普通だとは思えない」

 「火田君はどう思っているの?」

 「俺は“間違ったダイエット”を疑っているよ。元から肥り易い体質だったのかもしれないし。昔の写真を調べみてくださいって返信したから、それはいずれ分かるな。ただ、絶対にそれだけじゃないだろう?」

 「そうね。じゃ、取り敢えず、そのココシンスっていうチョコレートの代替食品を調べてみるべきじゃない? って既にやっていそうだけど」

 「一応な。依存性があるとか怪しい噂は聞かない。もっとも、身体に良さそうな食べ物じゃなさそうだが。

 実際に食べてみようと思ってネットで注文したよ。高いって話を聞いてビビったが、それは少し前の話だった。今は安く手に入るみたいだ」

 「ふーん」

 「何か思い当たる点はないか? この奥さんがおかしくなってしまうような原因」

 鈴谷は軽く頭を捻る。

 「うーん。今のところは、何にも思い付かないわね。悪いけど、アドバイスはしてあげられそうにない。もっと情報を集めてみない事には……」

 火田は頷く。“流石の鈴谷でも無理だったか”と思っているのだろう。

 「そうか。悪かったな、時間を取らせて」

 「いいえ」

 それから火田は後ろを向くと、手でひらひらと挨拶をして去っていく。会話に置いてけぼりにされていた佐野は、飼い犬のような表情で鈴谷に何かを言おうとしたが、何も思い付かなかったのか「ありがとうね」とお礼だけ言って部屋を出て行った。

 

 6

 

 「いや、お前、どうして俺に頼むんだよ?」

 と、俺は言った。目の前には佐々木がいた。こいつは出社したばかりの俺にいきなり「うちの奥さんの昔の写真が欲しい」なんて頼んで来たのだ。俺はまだパソコンも立ち上げていなかった。

 「だって、僕が調べているって彼女にもし伝わっちゃったら彼女がショックを受けるかもしれないじゃないか」

 どうも大学の新聞サークルからの返信で、奥さんの昔の写真を調べてみた方が良いと言われたらしい。それで急激に肥った原因が分かるかもしれないのだそうだ。

 佐々木は必死の形相だった。

 話は分かったが、それでどうして俺に頼むかが分からない。自分で調べるのが嫌なら探偵にでも頼めば良い…… と思ったところで、佐々木が嫁に財布を握られている事を思い出した。こいつは今は小遣い制だ。そんな出費はできないのだろう。

 「分かったよ。調べてやる。でも、写真が手に入らなくても文句は言うなよ? 俺は素人なんだから」

 そうして渋々と引き受けたのだが、思いの外、それは簡単だった。

 

 佐々木の奥さん…… 梢さんというのだそうだが、彼女が昔から利用しているというSNSのコミュニティに入り、その内の古参の一人の女性に彼女の昔の写真が欲しいと頼むとあっさりと画像データを送ってくれた。ちょっとした仕事関係の知り合い(嘘ではない)に頼まれたと言うと、少しも警戒しなかった。

 それには理由があって、どうも、彼女達コミュニティの間ではこれは有名なネタであるらしい。“今更”という事だろう。

 『梢さん。最近、また激太りしているらしいじゃない』

 古参の女性はチャットでそう言って昔の梢さんの写真を見せてくれた。

 “また”という言葉が少々俺には気になったのだが、写真を何枚か見て理由に納得した。佐々木の奥さんの梢さんは、今まで何度も肥っては痩せてを繰り返しているのだ。リバウンドが当たり前の人なのだろう。だからこそこのコミュニティでもネタ扱いされているのだ。彼女は絶対に不健康な生活スタイルをしている。

 『旦那さん。知らないで結婚したんでしょ? 騙されたわね。可哀想』

 そう古参の女性が言ったので、俺はこう返した。

 『性格も本当は悪いのですか? 聞いた話じゃ、性格は良いって事になっていたのですが』

 佐々木からの情報だから信頼できないが、少なくとも彼はそう言っていた。結婚してしばらくはとても仕合せだったと。

 『性格? いいえ、そんなに悪い性格じゃないわよ。多少見栄っ張りで、自信過剰なところはあるけれど』

 俺はそれを聞いて意外に思った。佐々木から聞いた今の性格は、はっきり言って最悪だ。彼に当たり散らしているそうだから。古参の女性が梢さんに気を遣っているようにも思えない。何しろネタにして笑っているくらいだから。性格が悪いのなら、遠慮なく悪口を言っているだろう。

 それに、これは単なる印象に過ぎないが、肥っている頃の彼女の画像も痩せている頃の彼女の画像も穏やかそうに見える。

 本性を現した…… というよりは、まだ何か他にも事情があるのかもしれない。

 

 7

 

 「まずいね」

 と佐野が言った。

 「ああ、まずい」と火田が返す。鈴谷も無言で頷いた。

 「甘さが不自然で、なんか薬っぽいと言うか何と言うか。もし、これをチョコレートだって言って渡されたら怒るかもしれない」

 佐野が言うと、珍しく彼の意見に鈴谷が「同意だわ」と返した。鈴谷は意外にスイーツ好きなのだ。

 「しかし、信じられないな。てっきり俺はこの代替食品が美味しいのだとばかり思っていたんだが。佐々木さんの奥さんは、こんなものを毎日大量に食べているのか? 普通に体調を崩しそうだが」

 新聞サークルのサークル室に皆は集まっていた。目の前のテーブルの上には、クリーム状の茶色のお菓子が皿に乗せられてある。

 チョコレートの代替食品“ココシンス”。より正確には、それを混ぜたクリーム。

 テーブルには食パンも用意されていて、各々はそれにココシンス入りのクリームを付けて食べていた。佐々木さんの奥さんもどうやらそうやって食べているらしい。しかも、大盛りに塗りたくって。

 「いや、意外に美味しいのじゃないですか?」

 そこでそう声が聞こえた。皆が目をやると、いつの間にかその輪に園田タケシという新聞サークルのメンバーの一人が加わっていて、しかも勝手に食べている。

 彼は食パンにたっぷりとココシンスを付けていた。

 どういう味覚?

 と、全員が思っていそうだった。こいつはどう考えても特例。無言の間が流れたが、彼を無視して鈴谷が口を開いた。

 「とにかく、これではっきりしたわ。佐々木さんの奥さんは、美味しくってココシンスを食べていた訳じゃない。何か他に理由があるのよ」

 「理由って?」と佐野が尋ねる。すると、彼女は淡々と言った。

 「奥さんは“お金がないから”って言っていたのよね? きっとそれが理由よ。まあ、直接の理由ではないだろうけど」

 それを聞いて、全員が首を傾げた。

 彼女が何を言っているのか分からなかったのだ。

 

 8

 

 青い芝にテーブルが並べられてある。個人宅にしてはかなり広い庭で、そこに十数人ほどの人々が集まっていた。

 まるでアメリカのホームパーティーのような雰囲気だが、よく見ると違和感を覚える。家族同士の集まりには思えない。それもそのはず、彼らはSNSのコミュニティのメンバーなのだ。いわゆるオフ会である。大体は顔馴染みの古参だが、中には新人もいるようだった。

 佐々木梢は、多少ぎこちない様子で中央辺りに立っていた。

 テーブルの上には彼女が持って来た大量のココシンスが置かれている。クリームに混ぜられてあったり、板チョコのような形状だったり。皆、それを口に入れては顔をしかめ、口々に感想を言い合っていた。あまり減りはよろしくない。追加で欲しがる者はいないだろうが想定内だ。なんにしろ、ここにある分だけでも、卸値よりは少し高く売れたのだからまだマシである。

 彼女にはコミュニティ内の誰かに言った記憶はなかったのだが、どうも何処かでココシンスをたくさん持っている事を喋ってしまっていたらしい。それで彼女に「譲ってくれ」声がかかったのだ。お陰で少し助かった。

 「今日はありがとうねぇ」

 不意に話しかけられた。古参の女性で、彼女の随分前からの知り合いだ。

 チョコレートの代替食品“ココシンス”は、それほど出回っていない。一部では有名だが、ほとんどの小売店は扱っていないのだ。このパーティは“珍しいココシンスを皆で味見してみよう”というコンセプトで開かれていた。美味しいものではないと事前に伝えてあるからか、文句は出なかった。興味本位、話のネタ程度に皆は考えている。

 「でも、あなたは何を気に入って、こんなものをたくさん買ったの? 食べまくっているのでしょう? また、そんなに太っちゃって……」

 古参の彼女がそう尋ねる。強気な顔で梢は返す。

 「あら? 大丈夫よ。どうせダイエットすればまた痩せられるわ。知っているでしょう?」

 「そりゃ知っているけどね。まぁ、ダイエット前後のあなたの変わりようは見ていて面白いから、私も嫌いじゃないけど」

 そこで不意に声が聞こえた。

 「それは止めておいた方が良いです」

 聞いた事のない声だった。見ると、若い20代前半くらいの理知的な雰囲気の女性がいる。鋭い眼光に眼鏡が妙に似合っていた。

 初めて見る顔だから、きっと新人だろう。

 「過去の写真を見させてもらいました。激しいリバウンドを繰り返しているようなので、“食事制限”によるダイエットを行っているのだろうと考えましたが合っていますか?」

 梢は顔をしかめる。それに反応して彼女は「失礼。鈴谷と言います。大学生です」と自己紹介をしてから続けた。

 「差し出がましいかとも思ったのですが、このままでは佐々木さんが健康を害してしまうと心配になりまして。

 それに、そのダイエット方法ではいずれ限界が来ます。年齢と共に効果も負担も厳しくなっていくでしょうから」

 梢は一瞬頭に血がのぼりかけたのだが、周囲に人がいるのとその鈴谷という女性の毅然として態度に気圧されて何も反論はしなかった。鈴谷は続ける。

 「まず食事制限をすると筋力が衰えます。筋力が衰えると、基本的なエネルギー消費量が減り、脂肪が蓄積し易くなり、肥満や糖尿病のリスクが跳ね上がるのです。また、“飢え”を経験する事で、人間の身体は“脂肪を蓄えて備えなければならない”と判断するようになり、より肥り易くもなります。

 つまり、無理な食事制限によるダイエットを行うと、どんどんと肥り易い体質になっていってしまうのです」

 そのよどみのない自信たっぷりの口調に、梢は不安を覚えた。説得力があるように思える。

 「食事制限によるダイエットは止めておいた方が良いです。適度に食事を取り、運動中心に切り替えるべきでしょう。

 ……ただ、明らかに不健康そうなお菓子を大量に食べるのを止めるのには私も賛成ですがね」

 彼女が何を意図してそんな発言をしたのかは直ぐに分かった。ココシンスを食べるのを止めろと言っているのだ。

 何も事情を知らないで……

 梢は意識的に強い顔をつくると、脅すような口調で言った。

 「大人には大人の事情があるんです。余計な口出しは止めてちょうだい」

 しかし、鈴谷は怯まない。

 「はい。事情があるのは分かります。まだまだ在庫を抱えているのでしょう? このココシンスという食品の」

 「なっ!」と、それを聞いて思わず梢は声を漏らす。

 「どうして知っているの?」

 「知っているも何も、こうしてココシンスを卸値より少し高い程度の値段であなたが提供しているのなら、簡単に予想がつきます。小売店から買ったとは考え難いですから。

 ……少し前、このチョコレートの代替食品はプチバブル状態でしたよね? あなたはその時に売買差益を狙って購入し、大量に在庫を抱えてしまったのではないですか?」

 その指摘に梢は口を閉じる。態度で肯定してしまっているのは自覚していたのだが、何も言葉は出て来なかった。鈴谷は続ける。

 「ココシンスの在庫を抱えたままの状態でバブルは弾けてしまった。その結果、かなりの損失を被ってしまったのでしょう?

 少しでも高く売れるチャンスを待っていたのか、それともそもそも買い手がなかなか見つからなかったのかは分かりませんが、あなたはココシンスを何処かの貸倉庫に保管しているのじゃないですか? なら、それなりの料金が発生しているはずです。

 焼け石に水…… かもしれませんが、だからあなたは少しでも在庫を減らそうと食事の代わりにココシンスを食べ始めた。食事代も節約できますしね。その結果、そのように肥ってしまった…… のではないですか?」

 それを聞き終えると、梢の感情は一気に爆発した。

 「そこまで分かっているのなら、どうしようもないって分かるでしょう? どうやって在庫を失くせば良いって言うのよ? 断っておくけど、廃棄処分にだってお金がかかるのよ?」

 「そんなの簡単です。あなたの旦那さんに相談をすれば良いのですよ」

 「それができるのならやっていたわよ! 私がお金を管理するって大見得を切って、今更泣きつけるはずないでしょうが!?」

 その言葉に鈴谷は大きく溜息を漏らした。

 「それは何故ですか? 旦那さんを信頼していない?」

 「違うわよ! 彼のことは信頼している。だからこそ、彼の信頼を裏切りたくないのよ。まだ、損失を減らす手段はあるかもしれないのだし。そうしたら……」

 「まだそんな希望に縋るのですか? ココシンスがこんなに不味いとバレてしまっている状況では興味本位の需要くらいしかありませんよ? 素人でももう損切りするしかないって分かります。

 それに、あなたは旦那さんに酷い暴言を吐いていると聞きました。それはその不安定な精神状態の所為なのじゃありませんか? 多分、旦那さんも、あなたに真っ当な精神状態に戻ってもらう事を願っていると思いますが」

 「あなたに何が分かるのよ!?」

 「分かりませんが、ココシンスの悪影響についてもう一点だけ忠告をしておきます。

 実は糖分の過剰摂取が人間の暴力行動に影響を与えている可能性を示唆する研究もあるのです。まぁ、小難しく考えなくても、不健康な状態で苛立っていれば、攻撃的になってしまうのは容易に想像が付くでしょう? つまり、あなたが旦那さんを酷い言葉で傷つけているのは、ココシンスの所為かもしれないのです」

 その説明に梢は退くような顔を見せた。論破されたのとは少し違う。スッと少し心が軽くなったような。

 “彼を傷つけていたのは、自分ではなく、ココシンスの所為”

 鈴谷の語る理屈にはそのニュアンスが含まれてあった。それで多少なりとも救われたからかもしれない。

 それから鈴谷は優しい口調で続けた。

 「あなたが素直に旦那さんに相談できないのは、捨てられてしまうかもしれないと不安に想っているからなのじゃありませんか? ならば、恐らくは不安に想う必要はないと思います。

 きっと、旦那さんは、あなたを心配しているだけで捨てるつもりなんかないでしょうから……」

 「どうしてあなたにそんな事が言えるの?」

 そう返した梢の瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。それに鈴谷ははっきりと返す。

 「その理由は簡単です。この話を聞いている旦那さんが、既に許していらっしゃるようだからです」

 それを聞いて“え?”と彼女は表情を変える。そして、後方を見ている鈴谷の視線の先を恐る恐る振り返る……

 

 9

 

 佐々木宗太が梢さんの方に向かって歩いていく。

 俺はその様子を少し離れた場所から眺めていた。

 佐々木はなんだかちょっと照れている様子だった。分からなくもないが、呑気ではあると俺は思う。

 梢さんは恐らくは夫婦の貯蓄をかなり使っている。下手すれば借金をしている可能性だってあるだろう。もっと怒ったり危機感を持ったりしても良いはずだ。

 ……もっとも、既に覚悟していただけなのかもしれないが。

 

 大学の新聞サークルから連絡があった。

 “ココシンスはちょっと前にバブル崩壊している。梢さんがココシンスを大量に毎日食べているのは、投機に失敗して大量に在庫を抱えているからじゃないのか?”

 要約するのなら、彼らはそう佐々木に指摘していた。

 なるほどね、と俺は思った。チョコレートの代替食品がプチバブルを起こしていた事をそういえば俺も調べていたのだ。

 後は、どうやって梢さんにそれを素直に認めさせるかだ。詰問しても良いが、それでは夫婦関係が壊れてしまうかもしれない。そこで俺達は、先日俺が知り合った梢さんが参加しているコミュニティに所属している古参の女性に相談をしたのだ。彼女の家はそれなりに裕福らしく「そういう事なら協力する」と、快く“ココシンス・パーティ”を開いてくれた。内心では“面白そうだ”と思っているような節もあったが邪推は止めよう。昔からの知り合いが転落しそうなのをなんとかしてあげたいという気持ちもあったのだろうし。

 ココシンス・パーティを開きたいと古参の女性が連絡すると、二つ返事で梢さんはオーケーを出したのだそうだ。きっと普通に売るよりはマシな値段でココシンスを買い取ると彼女が言ったからだろう。

 小売店で売っている値段よりは安いから、梢さんが投機に失敗しているだろう事はこれでほぼ確実だと俺達は判断した。

 

 佐々木が近付いて来るのを見て、梢さんは怯えたような表情を見せた。

 「あなた……」

 と、呟く。

 「ごめんなさい。私、私……」

 そんな彼女の頭を佐々木は抱きかかえるようにする。

 「梢さん。大丈夫です。安心してください。僕は怒っていませんから」

 と彼は言った。

 俺はここに至って感心した。

 “あいつは本気で奥さんを愛しているんだな”

 と。

 夫である自分に相談もせずに危険な投機に手を出して失敗をして、夫婦の貯蓄を溶かしてしまったのだ。その上、自分に八つ当たりをし続けていたとくれば、怒って離婚を言い渡しても不思議ではない。が、彼にそんな気は微塵もないようだった。

 「僕の方こそすいません。僕がもっと安心させあげられていたら、あなたも相談していてくれたかもしれないのに……」

 そんな事まで言った。

 “彼の信頼を裏切りたくない”

 俺は梢さんがそう言った理由を少し分かった気になった。ここまで信頼されていたら、失うが怖くなるかもしれない。特に彼女は肥満になっていた時期に男から酷い扱いを受けた経験もあっただろうから。

 「それにもう一つ謝らないといけない事があるんです。実は僕はあなたに全ての貯金を渡してはいません。5百万ほど、別口座に貯金してあります。その…… あなたの事は信頼していますが、お金の管理能力については分からなかったので…… まぁ、同僚に忠告を受けたからなのですがね」

 俺はその佐々木の言葉に驚いた。

 忠告をしたのは俺だ。どうやらちゃんと受け止めて、真剣に考えていたらしい。

 「なら……」と梢さんが言う。

 「はい。取り敢えず、当面の生活は問題ありません」

 そこで新聞サークルの関係者だという鈴谷さんという大学生が口を開いた。

 「旦那さんは、“寝肥”と呼ばれる妖怪病の存在を知って、私達に連絡をして来たそうです。あなたがその妖怪病に罹ってしまったのではないかと心配になったのですね。私は……、趣味の範囲ですが、多少はそういった方面に強いものですから。

 “寝肥”は江戸時代の奇談集『絵本百物語』に収録されているもので、民間伝承の類が発見されていない事から、創作だと言われています。

 ――ただし、仮にそうだとしても当時の時代背景は影響しているでしょう。

 恐らくは女性優位の家庭が当時からあり、その優位に胡坐をかいている女性への揶揄や教訓の意味合いが、この“寝肥”には込められているのではないかと思われます。

 一部の方は反論したいかもしれませんが、“恵まれている主婦”層は現代の日本にも確実に存在しています。実際、幸福度調査では女性の主婦層の幸福度の割合は高い。

 “仕事で成功を収める”という価値観を持っている方にとっては、今の日本社会は男性優遇と言えるでしょう。がしかし、それとは異なった価値観を持つ方にとっては、必ずしもそうではありません。

 考えてみてください。

 働きに出ている男性は、家族の暮らしを支える為に仮に会社から横暴な扱いを受けたとしても我慢しなくてはならないのです。これは実質的に家族を人質に取られているようなものです。心身ともに相当な負担になっているのは想像に難しくありません。実は男性優位社会の方が、男女平等社会よりも男性の寿命は短い事が知られているのです。男性の中にも収入を担う役割から逃れたいと思っている人はいるのではないでしょうか? しかし、彼らのほとんどはその望みを叶えられません」

 突然、鈴谷さんは何を語り始めたのかと思ったが、恐らくこれは梢さんに反省を促すのが目的だろう。

 「性格が良く、ある程度以上の収入の男性と結婚できた女性は、ですから“相当に恵まれている”という事が言えると思うのです。現代は様々な電化製品のお陰で家事も楽になっているので、家事のクオリティを求められないのであれば負担も低いでしょう」

 当然、佐々木が梢さんに対し、完璧な家事を求めているとは思えない。まだ子供もいないから、恐らく家事は楽なはずだ。

 梢さんは俯いてしまった。

 「人間とは環境に甘えてしまうものです。そして、環境に甘えてしまえば、自己のコントロールは効かなっていく。

 ……そういう意味では、梢さんの陥ってしまった状態は“寝肥という妖怪病に罹っていた”とも言えるかもしれません」

 それだけを言い終えると突然鈴谷さんは頭を深く下げた。

 「失礼しました。私のような学生が偉そうな事を語ってしまいました」

 その態度を観て俺は思った。

 きっと、この鈴谷さんという大学生には、大人びて見えて、幼い部分がある。自分が多少なりとも関わってしまった人達が不幸になっていくのを見て見ぬ振りができず、つい“なんとかしてあげたい”と思ってしまうのだろう。時にドライになる事だって生きていく上では必要だろうに。

 ……もっとも、今回はそのお陰で助かったのであるが。

 鈴谷さんは謝罪をしたが、梢さんには元から気分を悪くしている様子はなかった。それどころか彼女は謝罪を受け、畏まった態度で、「いいえ、ありがとうございます」と頭を下げた。

 

 10

 

 大学の新聞サークル室。

 「金融資本主義と普通の資本主義は本来別物と捉えるべきなんだよ。資本主義における市場原理が金融経済では通じなくなる場合があるんだから」

 鈴谷から事の顛末を聞き終えると、火田がまるで感想を述べるようにそう言った。

 佐野が尋ねる。

 「でも、別に悪影響があるって訳じゃないのだろう?」

 火田は首を振った。

 「いいや、少なくとも俺は大いに悪影響があると考えているね。例えば金融経済には“金を持っていれば持っているほど有利”という性質がある。それによって“正のフィードバック”が発生し、富が一部へと集中していってしまう……

 アメリカみたいな金融経済が活発化した国では、とんでもないレベルの大金持ちがいたりするだろう? それはこの所為だよ。ここ最近、世界では法律に違反している訳でもない創作活動が規制を受け始めている。決済業者が特定の作品を規制しているらしいんだな。富が集中した事で一部の人間の権力が強くなり過ぎてしまった事が原因なのじゃないかと俺は疑っている」

 火田が語り終えると、鈴谷は軽く溜息を漏らした。

 「佐々木梢さんも、そういう“煌びやか世界”に憧れて危険な投機に手を出してしまったのかもしれないわね……」

 「普通に働いていたんじゃ絶対に得られないくらいの大金を得られるからな。

 でも、それが本当に妥当な収入なのかどうか?ってのは大いに議論するべきだと俺は思うぞ。

 本来、収入っていうのは労働に対する対価であるべきっていう考え方もある。仮にその考えを採用するのであれば、絶対に何百何千倍って規模の所得格差が生まれてしまうのはおかしいんだ」

 「なるほどね」

 と、それを聞いて佐野が言った。

 「“収入の妥当性”の研究なんて聞いた事がないし。問題が棚上げされているのだろうなぁ」

 火田が頷く。

 「でも、本来は絶対にもっと議論されるべきテーマなんだよ。どういう風に収入を決めれば…… “富を配分”すれば世の中はより良くなるのか、納得性があるのか。

 まぁ、もしも議論されるようになったら、絶対に金持ち連中は反発してくるだろうがな」

 それを受けると鈴谷が言った。

 「もしかしたら、経済全体が病気に罹っちゃっているのかもね。欲の所為で肥大に肥大した大きな大きな脂肪の塊……」

 恵まれた立場の所為で、却ってコントロールを失ってしまった経済。

 また、鈴谷は溜息を漏らした。

 今度はより深く。

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