第3話「新しい名前、新しい絆」
彼女の世界は、その紋章に集約されていた。
冷たい金属の竜が、稲妻に締め付けられている。
その絵は鍵だった。彼女の心の中で開いた扉は、ギィィと音を立てなかった。ドカンと爆発したのだ。
フラッシュバック。ガラスの破片のように鋭い、バラバラのイメージ。
ゴオゴオと燃え盛る炎の海に飲み込まれた、一軒の木の家 。その前に、一人の男が膝をついている。彼の世界は灰と化した。男が振り返る。その目には、深く、絶対的な絶望だけが映っていた。
炎よりも熱く焼くような、囁き声。
「…お前のせいだよな…?」
ゾクッと、氷のように冷たくリアルな恐怖が彼女を包んだ。呼吸がハッ、ハッと荒く、速くなる。
叫び声。**ガキン!**と金属がぶつかり合う甲高い音。血の匂い。
そして、炎、炎、炎!至る所で、すべてを喰らい尽くすオレンジ色の激情が荒れ狂っていた。
その時、地獄に一瞬の静寂が訪れる。優しく、温かい手が彼女の顔に触れた。破壊の騒音を切り裂く、穏やかで聞き覚えのある声。
「ずっと・・・愛してる・・・」
ドン。
肩をポンと叩かれ、彼女はハッと我に返った。目の前には、太陽の光と潮の香り。心配そうな顔で彼女を支えているミッコがいた。
「おい!大丈夫か?何かあったのか?」
少女はパチパチと瞬きをした。悪夢の激情が、青い空という現実を前にして霧散していく。
「だ、大丈夫・・・」と彼女は嘘をついた。
見たものを、どう説明すればいい?あの炎の海を、あの非難の言葉を。
私が、やったの?
その問いは、彼女の中の恐ろしいほどの空虚にコダマした。
ミッコは空を見上げ、太陽の位置を測った。
「もうすぐ時間だ。魚を売りに持っていかないと。」
彼は少女に視線を戻した。彼女は困惑した様子で彼を見つめ返す。ミッコの顔に、フッと迷いが浮かんだ。彼女を一人でここに残すのは危険だ。村に連れて行くのは、もっと危険かもしれない。
彼がうーんと考えていると、少女は小屋のそばに積まれた鎧の部品にテクテクと近づいた。彼女は、他の部品と一緒になっていた分厚い革のベルトに触れた。
「あら・・・」と、彼女は興味深そうに呟いた。
ベルトに付いていた革の鞘から、彼女は剣を引き抜いた。柄は金色で、複雑な装飾が施されている。奇妙なオレンジ色の金属でできた両刃の刃には、根元に黒い石が埋め込まれており、そこから黒い線が刃の中ほどまで伸びていた。
「うおぉ・・・本物の剣だ!」ミッコは目をキラキラさせて叫んだ。
英雄気取りで、彼はその武器を手に取った。印象的な円弧を描こうと剣を振るう。
ズシリ。
その重さに驚いた。
(自分の足を斬らないように気をつけろよ、英雄くん!)
体が前に引っ張られ、バランスを崩し、すてんと砂の上に尻餅をついた。
「大丈夫?」少女が彼の視界に現れ、心配そうに顔をしかめている。
「へ、平気だ」と彼は顔を赤らめながらぶっきらぼうに言った。
「自分を傷つけるかもしれないもので、遊ぶべきじゃないよ」彼女は、その小柄な体には似合わない真剣さで言った。
そして、彼女は剣を拾い上げた。その動きは滑らかで、何の苦も感じさせない。だが、その指が柄に触れた瞬間、彼女はブルッと震えた。
「どうした?」
「わからない」と彼女は答えた。「なんだか・・・ビリビリって、エネルギーみたいなのが体を走った。」
「それが、君が誰だったか思い出すきっかけになるかも!」ミッコは興奮して言った。
その言葉を聞いて、少女はビクッとした。その目に、突然の恐怖が宿る。ミッコはそれに気づいたが、理由を問うのはやめておいた。
結局、決断は下された。鎧と剣は、小屋の中にしっかりと隠しておくことにした。二人の秘密だ。
ミッコがくれた質素な服を着て、彼女は彼について砂浜を離れ、村へと向かった。鬱蒼とした森に沿って続く、土の道を歩いていく。
「あれは何?」少女が指をさして尋ねた。
ミッコは彼女の指の先を追った。
木々の上にそびえ立つ、非現実的なほど巨大な山脈があった。普通の山ではない。それらは幾何学的で、ほとんど四角い構造で、巨大な螺旋を描きながら空へとねじ曲がっている。その山脈は、見渡す限りの不可能な壁のように連なっていた。
「あそこは」とミッコは言った。「『彼方の地』だよ。」
「彼方の地・・・?」彼女は繰り返した。
「うん。『竜の揺りかご』って言う人もいる 。他には、『竜の国』とか 。もう一つ名前があって・・・『古の世界』。」
その言葉が響いた瞬間、ズキンと鋭い痛みが少女の頭を貫いた。金属と黒い木でできた門――そんな儚いイメージがチラッと見え、そして消えた。
「『古の世界』ってのは、『空の民』の呼び方だって聞いたな」 ミッコは、彼女の反応に気づかずに続けた。
「空の民?」
「この島の外から来た人たちのことさ。」
「島?」彼女は足を止めて尋ねた。
「そう、島。ここは島なんだ。それも、すっげー巨大な島だぜ!」
ミッコは彼女を見た。名前もなく、人間離れした力を持ち、奇妙な金属の山と一緒に浜辺で見つかった少女 。空の民 。
ピンときた。全ての辻褄が合う。
だが、それは問題だった。大きな問題だ。
村の年寄りたちは、よく昔話をした。空の民 の中には、平和的にやって来る者もいる。だが、他の者たちは・・・傲慢で、島民を見下していた。嵐の夜には、空での戦いや、艦隊が丸ごと消えた話が囁かれた 。ちゃんとした説明もなしに、そんな彼女を村へ連れて行くのは、火薬樽に松明を放り込むようなものだ。
彼には計画が必要だった。天才的な計画が。
「いいか」彼は真剣な顔で彼女の方を向いた。「誰かに聞かれたら、別の村から来たって言うんだ、いいな?それで、お前の両親は商人で、俺の友達だってことにするんだ。」
「わかった」彼女は頷いた。「でも・・・名前を聞かれたら?」
ミッコはハッとして立ち止まった。そこまで考えていなかった。
「覚えてないって言えばいいかな」と彼女が提案した。
「ダメだ!」ミッコは、**ピコーン!**と閃いた様子で目を輝かせた。「名前がなくちゃ!君の名前は・・・」
彼は、劇的な間を置いた。
「・・・ミッカだ!」
(なんて独創的な名前だ、ミッコ。まさに天才の発想。)
少女は、ポカーンと彼を見つめていた。
「私の名前・・・あなたの名前に『カ』をつけただけ?」
ミッコは、真剣で断固とした表情を崩さなかった。
「そうだ!」
「うん…」ミッカは呟いたが、その名前のロジックについては、もう何も言わなかった。
その時、ミッコの頭の中で何かがカチッと音を立てた。彼はハッとして立ち止まり、突然何かに気づいた顔で振り返った。
「おい、ちょっと待てよ」と彼は言った。「どうしてお前、俺の言葉がわかるんだ?」
ミッカはキョトンとして首を傾げた。「私…わかっちゃ、だめなの?」
「いや、だって、『空の民』は普通、違う言葉を話すんだ」 彼は後頭部を
ポリポリと掻きながら説明した。「まあ…なんだっていいか。」
どちらにせよ、それはこの少女が抱える謎の山に、また一つ謎が加わっただけだった。
「空の民」という言葉を聞いて、ミッカの動きがピタッと止まった。
ミッコが振り返ると、彼女は道の真ん中で立ち尽くしていた。その眼差しはまたしても悲しく、ボーッと遠くの、彼女にしか見えない一点を見つめている。
「今度はどうした?」彼は心配そうに尋ねた。
彼女は、ふるえる声で囁いた。
「私…もしかしたら…悪い人間、なのかも…」
「なんでそんなこと言うんだよ?」
彼女の目に恐怖が宿る。「私…嫌なビジョンを見るの。起きてしまった、悪いことの。それで、思うの…私のせいだって。」
ミッコは眉をひそめた。彼女が背負う痛みは理解できなかったが、その目にある恐怖は理解できた。そして、それを見過ごすことはできなかった。
「俺が見てるのはな」と彼は力強く言った。「俺の新しい友達、ミッカだけだ!」
彼女が顔を上げると、その目は涙でうるんで、今にも泣き出しそうだった。彼は、ニカッと広くて正直な笑顔を彼女に向けていた。
「たとえお前が過去に何か悪いことをしたとしても」と彼は続けた。「たとえ昔のお前に戻ったとしても…それでも、俺の友達だろ?」
ミッカはグッと涙をこらえた。静かな嗚咽。彼の優しさが、彼女の心の中の嵐を鎮める錨となった。彼女はコクンと頷き、唇に小さな笑みを浮かべた。
「うん!友達だよ!」
少しだけ心が軽くなり、二人は土の道を進み続けた。やがて、道は山脈から突き出た巨大な螺旋の一つに向かって、丘を登り始めた。
「着いたぞ」とミッコが告げた。
眼下には、すでにいくつかの家が浜辺の近くに点在している。人々が歩き、荷物運び用のトカゲであるガラドレイクが数匹、森のそばに生える草の上で寝そべっていた 。
「計画、忘れるなよ?」ミッコは真剣な眼差しで彼女に念を押した。
彼女はただこくりと頷いた。
ついに丘を登りきり、村の門として機能している大きな岩のアーチをくぐると 、ミッカの目の前には息をのむような光景が広がった。
村は、巨大な洞窟の中にすっぽりと収まっていた。家々はほとんどが四角い建築様式で、黄色やオレンジ色がかった岩で作られている 。その多くが、重力に逆らうかのように山の壁に
ピッタリと張り付いていた。生命の緑がいたるところから顔を出し、山から生まれた小さな川が滝となって流れ落ち、村の中をサラサラと流れる小川となって海へと注いでいた。洞窟の向こう側、遠くには、同じような岩のアーチがもう一つの門を形成しているのが見えた。
眼下の村の中心には、何本もの背の高い木々に日差しを遮られた、賑やかな商業エリアがあった。そして、さらに上方、洞窟の頂上近くの山肌には、神殿のような荘厳な建物が張り付いていた。
「こっちだ、ついて来い」とミッコは言った。
彼は、先ほど獲った魚で
ズッシリと重くなったズタ袋を担ぎ直し 、二人は村の賑やかな中心部へと続く道を
テクテクと下り始めた。
ミッコはずっしりと重かったズタ袋を担ぎ直し、二人は村の賑やかな中心部へと続く道をテクテクと下り始めた 。そこは様々な人々が行き交う商業エリアで、高い木々が涼しい木陰を作っていた 。
「わぁ……」
そこはミッカにとって、五感を刺激する饗宴だった。何十もの声がガヤガヤと値切り交渉をしたり、ワイワイと笑い合ったりする声。揚げ魚の香ばしい匂いが潮風に混じる。その活気に、彼女は目をキラキラさせた。
しかし、彼女の存在はすぐに注目の的となった。村人たちのほとんどは太陽に焼かれた褐色の肌をしていたが、ミッカの肌はまるで塩のように真っ白だったからだ 。彼女の短い金髪は、ガラドレイクの鱗のように太陽の光を浴びて輝き、誰もがジロジロと好奇の視線を送った。
ミッコは彼女をいくつかの露店が並ぶ場所へ案内した。「ここで待ってろ、すぐ戻るから」と言い残し、白髪の老婆の元へ向かった。二人の間では「もう、ミッコちゃんはまけてくれないねぇ」「こっちも生活がかかってるんだ、ばあちゃん!」なんていう、激しい攻防が繰り広げられている。
好奇心旺盛なミッカは、ふらふらと隣の店を覗き込んだ。そこには、色とりどりの磨かれた石や、虹色に輝く貝殻でできた装飾品が並んでいた。彼女の目が、深い海の色をした青い石の首飾りに釘付けになった、その時。
「何か気になるものでもあった?」
優しい声に、ミッカはビクッと体を震わせた。振り返ると、カウンターの向こうににこやかな若い女性が立っていた。計画を思い出し、ミッカは慌てて口を開いた。
「あ、あの、わたし、別の村の商人の娘で……」
女性はクスッと優しく笑った。まるで秘密を知っているかのように。彼女はミッカが見つめていた首飾りを手に取ると、「ちょっと失礼」と言って、ミッカの首にかけてくれた。「うん、すごく似合ってる」
「で、でも、お金が……」ミッカの顔がカァァと赤くなった。
「いいの。歓迎のしるしよ」
その頃には、二人の周りにはざわざわと人だかりができていた。塩のように白い肌にガラドレイクのような金髪の少女。好奇心に満ちた視線が集まり、ミッカはタジタジになっていた。その時、ようやく商談を終えたミッコがタッタッタッと駆けつけた。
「おい、何だよこれ!」彼は人だかりを見て、慌てて説明を始めた。「こいつは俺のダチの商人の娘なんだ!時々こっちに商売で来るんだよ!」
すると、人垣の中にいたヒゲ面の屈強な漁師が、ガハハと豪快に笑った。「気にすんな、坊主。俺たちの村は辺鄙だが、他の場所じゃとっくに『空の民』は来てるさ」
隣にいた女性も、うん、うんと頷く。「そうそう!中には島の人間と所帯を持った者もいるくらいだよ。みんないい人たちさ」
それをきっかけに、ワッと『空の民』に関する会話が始まった。ミッカはあっという間に注目の的となったが、その雰囲気は温かかった。彼らの目には、珍しいお客さんも、ただのかわいい子供にしか映っていないようだった。
だが、その和やかな会話は、ドーンと響く声によって中断された。「おーい、ミッコ!」
ミッコがよく知る、あの太った笑顔の店主だった。彼は鋭い視線で近づいてくる。「ほう……お前の友達の商人、ねぇ?そんなダチがいたとは初耳だが?」
ミッコの顔からサッと血の気が引いた。彼はしどろもどろになり、目が泳ぐ。なんて純粋な少年なんだ!
店主ははぁ、とため息をつくと、その優しい目をミッカに向けた。「お嬢ちゃん、君の名前は?」
「ミッカです!」
「……で、『本当の』名前は?」
その穏やかながらも核心を突く言葉に、ミッカも返答に詰まってしまった。沈黙が、答えだった。店主は二人の肩にポンと慰めるように手を置いた。
「こっちへ来い」
三人は店主の小さな市場へと向かった。店の奥は住居になっており、同じように人の良さそうな彼の奥さんが、お茶をコトン、コトンと二人の前に置いてくれた。
安心したのか、ミッコは全てを話した。もちろん、彼女が重い鎧を着ていたことや、人間離れした力を持っていることは隠して。
店主は黙って頷きながら聞いていた。「なるほどな」彼は顎を撫でながら言った。「わしの方こそ、別の村に商人の友達がいてな。少し噂を耳にしたんだ」ミッコはシュンとして「ごめん……」と呟いた。
「謝ることはない」と店主は言った。「『空の民』の大きな国が、『古の世界』へ向かっていたらしい。だが、途中でひどい嵐に遭ってな。空飛ぶ船の多くが、海に落ちちまったそうだ」
彼はミッカをまっすぐ見つめた。「お嬢ちゃんは、その大きな国の生き残りなんだろう」彼の声には同情がこもっていた。「何か思い出せるかい?」
ミッカは力なく、ふるふると首を横に振った。
「そうか……まあ、わしたちにできることはあまりない」店主は続けた。「この村は大きな街からは遠い。お嬢ちゃんを探しに来るにしても、時間がかかるだろう。もし、誰か来るとすれば、だがな」彼はミッコをじっと見た。「それまで、お前がこの子の面倒を見るんだ」
ミッコはドンッと胸を張った。「任せとけって!」
店主はガハハと笑った。彼の奥さんが微笑んで言う。「あらあら、ミッカちゃん。ミッコに『お姉ちゃん』ができたわね」
「ゲホッ!」ミッコは盛大にむせた。「なっ!?なんでこいつが年上なんだよ!?」
「見たまんまよ」と奥さん。店主も頷く。「お嬢ちゃんは15か16くらいに見える。それに比べてお前は」と、彼はミッコを指差した。「まだ13歳だろ。ガキじゃないか!」
「じゅ、14歳だ!」ミッコは顔を真っ赤にして叫んだ。
「もうすぐだろ!」店主はからかうように笑う。「まだ13だ!このガキんちょ!」
店主とミッコのやり取りを見て、ミッカはこらえきれずにクスクスと笑い出した。自分でも驚くほど、それは明るく、素直な笑い声だった。ミッコは恥ずかしそうに彼女を見る。ミッカは楽しそうに微笑んで、言った。
「よろしくね、弟くん」
ミッコの顔の赤みは、みるみると決意の笑みへと変わった。彼はニカッと歯を見せて彼女を見つめ、その新しい役割を受け入れた。
「任せとけって!ミッカ姉ちゃん!」