表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

余は狼である

作者: 橘 与一

初投稿です。

※自殺描写あり

 朝、スマートフォンを開いたとき、機種変更をすすめる広告が表示された。

「新生活に、あたらしい一台を」

 その言葉がやけに明るく目についた。自分のスマホはもう七年も使っている。充電の減りは早く、カメラのレンズはいつのまにか曇っていた。替え時であることに疑いはなかったが、思い直して画面を閉じた。


 窓の外を見てみと、ビルとビルの隙間を縫うように灰色の雲が広がっていた。湿気を含んだ風が、北の方からやってくるのを感じた。


 今日は雨になるだけの、普通の日だ。

 ただ一つ、心にざらつきが残っていた。


――


 昨日の朝、通勤途中の駅で、昔の担任にばったり出会った。小学五年のときの担任で、退職後は近所で古本屋を営んでいると言っていた。


「お姉さんに、似てきたね」


 その一言が、胸の奥に棘のように残っていた。


――

 

 姉が死んだのは、私が15歳のときだった。

 家の中だった。自分の部屋だった。


 ある朝起きると、普段は開いてない姉の部屋の扉が開いていることに気がついた。覗き込むと、天井に黒い影が揺れていた。

 姉だった。スカートの裾が風もないのにゆらりと動き、足が床から離れていた。


 当時のことは覚えているのかいないのかよくわからない。震えて、何も目に映らなかった。息が詰まり、喉が焼けるようだった。

 それでも私が姉を見つけて最初にしたことは、泣き叫ぶことでも母を起こすことでもなく――ただスマートフォンを取り出し、写真を撮ることだった。

 なぜそんなことをしたのか、いまだに自分でもわからない。


 写真は今も、スマートフォンの奥にしまってある。

クラウドには上げていない。「植物」という名のパスワード付きフォルダに、一枚だけ。


 写真を消すことはできなかった。

 だって、それが姉の「最後」だったから。


――

 

 通勤電車に揺られている間、ふと思い立ってあの写真を見た。

 画質は悪く、フラッシュも焚いていない。

 ぶれていて、照明も暗かった。ただ首が歪み、足が揺れている人影のようなものが、写真の真ん中にぼんやりと写っていた。

 

――


 職場でパソコンを立ち上げ、資料に目を通しながら、スマートフォンを取り出す。

 ホーム画面の片隅に、画像フォルダのアイコンがある。指を伸ばしかけて、やめる。


 いつか誰かに見られるのではないか、そう思ったこともあった。

 でも、それはありえない。誰にも見せたくないし、見せる理由もない。

 私が私であるために、それは私だけのものなのだ。

 私だけが、覚えていなければならないものなのだ。

 ただ、今朝満員電車で見た写真は、自分が撮ったものではないような気がした。


 

 仕事の帰り道。

 駅のホームに立って、線路の向こう側を見つめてみた。冬の夜は早い。ビルの谷間に冷たい風が通り、地面を濡らした雨の名残が光を散らしていた。


「本当に覚えていたいのは、何だろう」


 ふと、心の中にそう問いが湧いた。

 誰かに聞かれたわけじゃない。声に出したわけでもない。

 けれど、その言葉は不意打ちのように胸を貫いて、立っているだけで息が詰まった。


 忘れたいのか、覚えていたいのか、ずっとわからなかった。

 姉がなぜ死んだのか、その理由も、遺書も、わからないままだった。

 ただ、彼女は笑っていなかった。

 最後の数ヶ月、部屋にこもりがちで、声もほとんど出さなかった。

 私も、見ないふりをしていた。何かに気づいていたくせに、知らないふりをして。


「似てきたね」


 あの言葉が、まだ胸に残っている。

 何が似てきたのだろう。顔か、声か、仕草か。それとも、もっと根の深い、目に見えないものか。私は姉のようになるのだろうか。なぜ、それがこんなにも怖いのだろう。


 会社に戻れば、同僚たちと笑い合い、エクセルの色分けを気にして、数字の帳尻を合わせる自分がいる。でも、鏡の中の自分を見つめるたび、奥に誰かがいるような錯覚がある。


それが姉なのか、あるいは──


──他の誰でもない、自分自身なのか。


 電車が来た。風が強く吹いて、髪が頬に貼りつく。

 白い線路の上を、ヘッドライトがなぞるように伸びてくる。


 ふと、ある衝動が胸をかすめた。

 ただ線路に降りて、歩いていけたらどうなるだろう。

 そうしたら、姉がいた場所に近づけるのだろうか。


 だが足は動かず、私はそのまま電車に乗り込んだ。

 吊革に手をかけながら、スマートフォンを取り出す。指が、無意識にあのフォルダへ向かう。

 指先が震える。何度も見たくせに、見るたびに胸がひやりと凍る。

 バッテリーの膨らんだスマートフォンが熱を持っている。

 手のひらの中で、あの写真が呼吸しているような気がした。


 私はそれを取り出した。

 

 姉の首に巻かれたロープ。

 中途半端にかかったカーテン。

 暗い部屋の隅で、足元に散らばる教科書と、空になったコップ。

 

 そのすべてが、凍結されたままの記憶だ。

 動かず、朽ちず、意味を持たない。

 ただそこにあることで、私を縛り続ける。


――意味なんて、ない。

――死体に、意味を求めるな。


 心の中で誰かがそう言った。

 それは姉ではなかった。

 誰でもない、私自身の声だった。

 

 ロックを解除して――

 中を開く。


 姉の写真が、そこにあった。

 それなのに、私は思った。


「私が覚えていたいのは……これじゃない」

 

 写真には写らなかったもの。

 私が見なかったもの。

 それを、私は――ずっと見つめるふりをして、逃げていたのかもしれない。


――


 夜道を歩いて帰る。

 電灯の下、濡れたアスファルトが星のようにきらめいていた。

 ビルの谷間には、冬の空気が沈みこみ、冷たさだけが骨の奥に残る。


 姉の気持ちは、今もわからない。

 なぜ自分の部屋で、あのタイミングで、あの方法で。

 そのどれもが、最後まで霧の中だ。


「だからって、もういいってことには、ならないんだよ」


 私は小さく声に出してみた。

 それは誰にも届かないけれど、言葉にしないと消えてしまいそうだった。

 

 姉の死体の写真。

 あれは私の中の何かを封じ込めた呪文のようなものだった。


 もし削除すれば、姉の人生を否定してしまう気がした。

 でも、それは違う、実際はどうしようもないほど醜悪なものだと気づきはじめていた。

 

 私は写真を撮ることで、姉を自分の中から追い出したのだ。

 その姿を外に置き、姉の死だけを撮り出して、皮のように抱えた。


 記録のふりをして、私は姉を殺した。

 意味のふりをして、私は姉を無意味にした。


 あれを撮った瞬間、私は狼になったのだ。

 姉を殺し、その皮を被った、卑怯で、どうしようもない狼だった。


――


 画面に、今朝見た「機種変更」の通知が再び表示された。今なら無料でデータ移行もしてくれるという。

 迷った末に、私はふっと笑って、指で通知を撫でた。


――あの写真は、移さない。


 削除はしない。

 ただ次の機種には、もう連れていかない。


 ふいに、自分の口が動いた。


「……死体に、意味を、求めるな」


 それは呟きではなく、確認だった。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 私はゆっくりとスマートフォンの画面を閉じ、ポケットにしまった。

 そして、初めて目を上げて、夜の風景をまっすぐに見た。


 その一歩先には、何も変わらない日常が続いている。

 ただ──一枚の写真を連れていかない自分が、そこにいる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ