余は狼である
初投稿です。
※自殺描写あり
朝、スマートフォンを開いたとき、機種変更をすすめる広告が表示された。
「新生活に、あたらしい一台を」
その言葉がやけに明るく目についた。自分のスマホはもう七年も使っている。充電の減りは早く、カメラのレンズはいつのまにか曇っていた。替え時であることに疑いはなかったが、思い直して画面を閉じた。
窓の外を見てみと、ビルとビルの隙間を縫うように灰色の雲が広がっていた。湿気を含んだ風が、北の方からやってくるのを感じた。
今日は雨になるだけの、普通の日だ。
ただ一つ、心にざらつきが残っていた。
――
昨日の朝、通勤途中の駅で、昔の担任にばったり出会った。小学五年のときの担任で、退職後は近所で古本屋を営んでいると言っていた。
「お姉さんに、似てきたね」
その一言が、胸の奥に棘のように残っていた。
――
姉が死んだのは、私が15歳のときだった。
家の中だった。自分の部屋だった。
ある朝起きると、普段は開いてない姉の部屋の扉が開いていることに気がついた。覗き込むと、天井に黒い影が揺れていた。
姉だった。スカートの裾が風もないのにゆらりと動き、足が床から離れていた。
当時のことは覚えているのかいないのかよくわからない。震えて、何も目に映らなかった。息が詰まり、喉が焼けるようだった。
それでも私が姉を見つけて最初にしたことは、泣き叫ぶことでも母を起こすことでもなく――ただスマートフォンを取り出し、写真を撮ることだった。
なぜそんなことをしたのか、いまだに自分でもわからない。
写真は今も、スマートフォンの奥にしまってある。
クラウドには上げていない。「植物」という名のパスワード付きフォルダに、一枚だけ。
写真を消すことはできなかった。
だって、それが姉の「最後」だったから。
――
通勤電車に揺られている間、ふと思い立ってあの写真を見た。
画質は悪く、フラッシュも焚いていない。
ぶれていて、照明も暗かった。ただ首が歪み、足が揺れている人影のようなものが、写真の真ん中にぼんやりと写っていた。
――
職場でパソコンを立ち上げ、資料に目を通しながら、スマートフォンを取り出す。
ホーム画面の片隅に、画像フォルダのアイコンがある。指を伸ばしかけて、やめる。
いつか誰かに見られるのではないか、そう思ったこともあった。
でも、それはありえない。誰にも見せたくないし、見せる理由もない。
私が私であるために、それは私だけのものなのだ。
私だけが、覚えていなければならないものなのだ。
ただ、今朝満員電車で見た写真は、自分が撮ったものではないような気がした。
⸻
仕事の帰り道。
駅のホームに立って、線路の向こう側を見つめてみた。冬の夜は早い。ビルの谷間に冷たい風が通り、地面を濡らした雨の名残が光を散らしていた。
「本当に覚えていたいのは、何だろう」
ふと、心の中にそう問いが湧いた。
誰かに聞かれたわけじゃない。声に出したわけでもない。
けれど、その言葉は不意打ちのように胸を貫いて、立っているだけで息が詰まった。
忘れたいのか、覚えていたいのか、ずっとわからなかった。
姉がなぜ死んだのか、その理由も、遺書も、わからないままだった。
ただ、彼女は笑っていなかった。
最後の数ヶ月、部屋にこもりがちで、声もほとんど出さなかった。
私も、見ないふりをしていた。何かに気づいていたくせに、知らないふりをして。
「似てきたね」
あの言葉が、まだ胸に残っている。
何が似てきたのだろう。顔か、声か、仕草か。それとも、もっと根の深い、目に見えないものか。私は姉のようになるのだろうか。なぜ、それがこんなにも怖いのだろう。
会社に戻れば、同僚たちと笑い合い、エクセルの色分けを気にして、数字の帳尻を合わせる自分がいる。でも、鏡の中の自分を見つめるたび、奥に誰かがいるような錯覚がある。
それが姉なのか、あるいは──
──他の誰でもない、自分自身なのか。
電車が来た。風が強く吹いて、髪が頬に貼りつく。
白い線路の上を、ヘッドライトがなぞるように伸びてくる。
ふと、ある衝動が胸をかすめた。
ただ線路に降りて、歩いていけたらどうなるだろう。
そうしたら、姉がいた場所に近づけるのだろうか。
だが足は動かず、私はそのまま電車に乗り込んだ。
吊革に手をかけながら、スマートフォンを取り出す。指が、無意識にあのフォルダへ向かう。
指先が震える。何度も見たくせに、見るたびに胸がひやりと凍る。
バッテリーの膨らんだスマートフォンが熱を持っている。
手のひらの中で、あの写真が呼吸しているような気がした。
私はそれを取り出した。
姉の首に巻かれたロープ。
中途半端にかかったカーテン。
暗い部屋の隅で、足元に散らばる教科書と、空になったコップ。
そのすべてが、凍結されたままの記憶だ。
動かず、朽ちず、意味を持たない。
ただそこにあることで、私を縛り続ける。
――意味なんて、ない。
――死体に、意味を求めるな。
心の中で誰かがそう言った。
それは姉ではなかった。
誰でもない、私自身の声だった。
ロックを解除して――
中を開く。
姉の写真が、そこにあった。
それなのに、私は思った。
「私が覚えていたいのは……これじゃない」
写真には写らなかったもの。
私が見なかったもの。
それを、私は――ずっと見つめるふりをして、逃げていたのかもしれない。
――
夜道を歩いて帰る。
電灯の下、濡れたアスファルトが星のようにきらめいていた。
ビルの谷間には、冬の空気が沈みこみ、冷たさだけが骨の奥に残る。
姉の気持ちは、今もわからない。
なぜ自分の部屋で、あのタイミングで、あの方法で。
そのどれもが、最後まで霧の中だ。
「だからって、もういいってことには、ならないんだよ」
私は小さく声に出してみた。
それは誰にも届かないけれど、言葉にしないと消えてしまいそうだった。
姉の死体の写真。
あれは私の中の何かを封じ込めた呪文のようなものだった。
もし削除すれば、姉の人生を否定してしまう気がした。
でも、それは違う、実際はどうしようもないほど醜悪なものだと気づきはじめていた。
私は写真を撮ることで、姉を自分の中から追い出したのだ。
その姿を外に置き、姉の死だけを撮り出して、皮のように抱えた。
記録のふりをして、私は姉を殺した。
意味のふりをして、私は姉を無意味にした。
あれを撮った瞬間、私は狼になったのだ。
姉を殺し、その皮を被った、卑怯で、どうしようもない狼だった。
――
画面に、今朝見た「機種変更」の通知が再び表示された。今なら無料でデータ移行もしてくれるという。
迷った末に、私はふっと笑って、指で通知を撫でた。
――あの写真は、移さない。
削除はしない。
ただ次の機種には、もう連れていかない。
ふいに、自分の口が動いた。
「……死体に、意味を、求めるな」
それは呟きではなく、確認だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
私はゆっくりとスマートフォンの画面を閉じ、ポケットにしまった。
そして、初めて目を上げて、夜の風景をまっすぐに見た。
その一歩先には、何も変わらない日常が続いている。
ただ──一枚の写真を連れていかない自分が、そこにいる。