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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

泥沼に沈められた聖女の復讐ーー私、聖女エリアはゲテモノを食わされ、殺虫剤をぶっかけられた挙句、婚約破棄され、泥沼に沈められた!が、まさかの大逆転!沼は宝の山だった。今更復縁?「覆水盆に帰らず」です!

作者: 大濠泉

◆1


 その土地は、ドロドロとした汚泥が一面に広がる沼地だった。

 泥水はいつもボコボコと音をたてて、無数の泡が浮き立っている。

 常に悪臭を放っていて、汚染された大気が濃霧のように漂う。

 周囲の草木も枯れ果てた、不吉な土地だった。


 人呼んで「厄災の沼」ーー。


 普段なら、誰も近づかない呪われた場所だ。

 そんな土地に、今日は珍しく、十数名の名門貴族家の令息や令嬢が集まっていた。


 平民出身は、私、エリアひとりだけ。


 ゴホゴホと咳き込む。

 さすがに、息が苦しい。


 王太子の侍従バークが、私の耳元でささやく。


「お気をつけください、聖女様。

 迂闊に大気を吸い込むと、頭が痛くなりますよ」


 そんなこと言ったって、こんな不吉な場所に呼び出したのは、あなたの主人であり、私の婚約者であるレイド王太子殿下ではありませんか。

 まったく、貴族や王族の身勝手に振り回される、コッチの身にもなってもらいたい。


 嫌な予感がして、緊張しているのは、どうやら私だけのようだ。

 他のお貴族のお坊ちゃん、お嬢様たちは、この後、何が行われるか承知してるらしい。

 

「厄災の沼」を前にして、年若い貴族の令息、令嬢たちは、弛緩した表情で喋っていた。


「おお、鼻を摘んでも臭いな。

 すげぇよ。すごく腐敗している」


「昔から、罪人の死体を投げ込んでいたそうだ」


「保健局の話では、疫病が蔓延する原因にもなってるとか」


 心霊スポットにでも来たような、浮ついた集団のど真ん中で、私の婚約者であるレイド王太子が金髪を掻き分け、胸を張る。 


「エリア。ひとつ、確かめたいことがある。

 おまえが、ほんとうに聖女かどうか、だ」


 王太子の発言を耳にするや、貴族家の跡取りどもが、ニヤニヤし始める。

 令嬢方は扇子で口許を隠す。

 そんな彼らを背景にして、私の婚約者である王太子殿下は、沼地に向かって指をさす。


「あれが、『厄災の沼』だ。

 罪人を捨てるゴミ捨て場であると同時に、我が国に疫病をもたらす不浄の地でもある。

 聖女の力で、浄化できるかどうか、やってみろ」


 はぁ、と、私は溜息をつく。

 そんなこと、できるわけないじゃない。

 目の前の視界いっぱいに広がる、広大な沼地である。

 まさに泥の海だ。

 それを、私一人の力で、しかも今すぐに、どうにかできるはずもない。

 そんなことを承知で、殿下は「聖女」の称号を得ている私を、けしかけているのだ。


 とはいえ、いくら無茶振りとはいえ、我が国で最も偉い人物からの要請である。

 私は、悪臭漂う広大な沼地に向かって両手を掲げ、形ばかりの浄化魔法をかける。

 が、たいした変化は起こらない。

 長くいるだけ、息苦しさが増すばかりだ。


 しばらくして、王太子は吐き捨てるように言う。


「おまえ、聖女のくせに、浄化もろくにできないのか?

 わざわざ平民から抜擢したというのに」


 私、エリアは膨れっ面になった。

 そんなこと言ったって、相手は「厄災の沼」だよ?

 何百年もの間、腐敗を重ねてきた、我が国を代表する不浄の地。

 私には何もできないってこと、承知の上で、やらせたんでしょ?

 十数名のお仲間貴族に向けて、私が無能者だって晒したいがために。


 でも、一応、婚約者の務めとして、真面目に受け応えてみる。


「そうはおっしゃいますが、殿下。

 私の浄化魔法が働いていることは、私自身の体力が抜けることで、確認できます。

 きっと、少しは浄化されているはずです。

 が、相手は広大な『厄災の沼』。

 すぐには目に見えるような効果は……」


 不貞腐れ気味に言う私の顔を見ながら、意を得たり、とばかりに、レイド王太子は鼻を鳴らした。


「ふうん。じゃあ婚約破棄だな!」


「はい?」


「俺、レイド・ドルク王太子は、聖女を僭称する平民エリアとの婚約破棄を宣言する!

 ここにいる名門貴族家の令息、令嬢方が、その見届け人だ。

 ろくに浄化魔法を発揮できないエリアは、聖女と認められない。

 よって、婚約を破棄する。

 そして、改めて、俺はパーム・ランドルフ公爵令嬢と婚約する。

 すでに、このことは我が母デーム王妃殿下、及びランドルフ公爵夫妻も承認済みだ。

 やはり身分に相応しい相手と結ばれてこそ、幸せになれるのだ」


 扇子を広げた貴族令嬢の列の中から、一人の令嬢が前に進み出る。

 キラキラの金髪をなびかせ、青い目をした公爵令嬢パーム・ランドルフだ。

 彼女は扇子を閉じると、王太子に身体を預けるようにして、寄り添う。

 そして、私に向かって、顎を突き立てた。


「そういうことなの、平民さん。

 今まで、ご苦労様。

 良かったんじゃない?

 半年近くも王宮で生活できて。

 平民には過ぎた光栄よ」


 私、エリアは拳を震わせて抗弁した。


「そんなの、一方的です!」


 私にとって、王宮での生活は地獄だった。

 ちっとも「光栄」と呼べる体験ではなかった。

 今まで、親許から離されて、人々から隔離された生活を強いられてきた。


 それなのにーー。


 でも、レイド王太子は、碧色の目を細めるだけで、素っ気ない。


「一方的に婚約させられたのは、俺の方だ。

 君が万物を浄化できる聖女だというから、婚約させられた。

 ただ、それだけだ」


 パーム公爵令嬢が口添えする。


「あら、レイド殿下。

 いくら相手が平民とはいえ、元婚約者ですよ。

 何も渡さずに追い払うというのは、可哀想ではなくて?

 私たち貴族階級の評判にも関わるわ。

 次代の国王として、殿下の広いお心を見せてあげて」


 自身の胸元で甘い声を出す女性のリクエストに、元婚約者の王太子は答えた。


「そうだな。

 婚約破棄の慰謝料として、この沼地をエリア、君にくれてやろう。

 平民の、しかも女性が、王家から土地を下賜されるのだ。

 あり得ない僥倖(ぎょうこう)だぞ」


 レイド王太子は自らの人差し指を少し噛み切って、血を滴らす。

 そして、パーム公爵令嬢から扇子をもらい受け、そこへ血染めの契約書を記した。

 もともと王家の所有地である「厄災の沼」の所有権をエリアに譲渡する旨を記して、指輪型の紋章印を血糊で押した。


「ドルク王家に伝わる誓約魔法により、この契約の文面は水でも油でも消えることはない。

 扇子に記した臨時の書面だが、王家の紋章入りの、正式な契約書だ。

 これで、この『厄災の沼』はエリアのもの。

 婚約破棄の慰謝料として受け取れ。

 その代わりーー」

 

 レイド王太子が顎をしゃくると、それまで私の身近でずっと控えていた彼の侍従バークが、私を縄で縛り上げる。


「王太子殿下。これは……」


 身動きができなくなった私に、ついさっきまで婚約者だった男が近づいてくる。

 そして契約書の扇子を閉じて、私の胸の谷間に差し込みつつ、私の耳元でささやいた。


「もう二度とおまえの顔を見たくない。

『厄災の沼』は、おまえに相応しい場所だ。

 ここから出るなよ」


 そう言って、元婚約者は、私に背を向けて立ち去っていく。

 その一方で、私は、バークの手によって、麻袋に入れられてしまう。

 私は拝むような気持ちで、侍従バークに懇願した。


「お願いします。これでは謀殺です。犯罪ですよ!?

 どうか、殿下に思い直すようにーー」


 バークは肩をすくめ、首を横に振る。


「無理ですよ。あなたも身分をわきまえなさい。

 聖女だとおだてられても、しょせんは平民なんですから」


 侍従バークは、男爵家の三男坊ゆえに、五歳も年下の王太子の世話をし続けてきた。

 そうした身の上から、王宮で、もっとも私に同情的な態度で接してくれた人物だった。

 それなのに、今、王太子の命令で、私を殺そうとしている。

 裏切られた気分だ。


「そんな……勝手に、祭り上げておきながら!」


 侍従は私の頭を力づくで袋の中に押し込めてから、紐で縛って袋の口を閉じる。

 それから、大きな図体に物を言わせ、私が入った麻袋を抱え上げると、ズンズン歩み始める。

 当然、悪臭が湧き立つ「厄災の沼」に向かって。


 袋の中にいる私に、レイド王太子の声が聞こえてきた。


「死にたくなければ、本気を出すが良い。

 おまえがほんとうに聖女だったら、生き延びられるはずだ」


 なんて他人事な物言いだろう!

 婚約者殺しの犯人になろうっていうのに。

 いくら王太子だからって許されるはずがーー!


 そんなことを思っているうちに、身体が宙を舞う感覚になった。

「厄災の沼」に向けて、私は投げ捨てられたのだ。


「いやああああ!」


 ドシャアア!


 鈍い音とともに、身体ごと汚泥の中へと沈んでいく。

 麻袋が狭まって、周囲からまとわりついてくる。

 もはや悪臭を感じるどころじゃない。

 本格的に息が苦しくなってきた。

 もちろん、身体は動かない。

 それなのに、さすがは沼地というべきか、沈み方がゆったりとしていた。

 ズブズブと泥土の中に沈んでいく。


(酷すぎるわ。

 こんな死に方、納得できない。

 なんて悲惨な一生なの!?)


 私は自分の人生を呪い、唇を強く噛み締めた。

 


◇◇◇


 今から、およそ一年前のことーー。


 長年、不治の病に苦しんできたドルク王国のリイド王が、臨終に際して夢を見た。

 どんな夢を見たのかは、誰にもわからない。

 が、震える声で、国王陛下は遺言をした。


「必ず、我が息子、レイド王太子を、聖女と結婚させよ。必ずだ」と。


 リイド王は、予言力を持つと言われていた。

 従って、亡き国王の遺言は、政府によって、迷わず実行に移された。


 ドルク王国では、浄化魔法を使える者を「聖女」と称する。

 ただでさえ魔法を使える人材が少ないうえに、浄化魔法の使い手となると、さらに稀少だったがための名称だった。


 そして、リイド王の予言から半年後、浄化魔法の能力を身に宿す少女が見つかった。

 ドルク王国では、成人式の際に、個々人の魔法属性を調べられ、戸籍に登録される。

 浄化魔法を使える者が判明したのは、じつに五十年ぶりのことだった。


 浄化魔法の使い手である「聖女」エリアは、平民の女の子だった。

 亜麻色の髪をして、褐色の瞳がクルクルとして可愛い、十五歳の少女だ。

 それでも平民なので、王太子のお相手になるとすれば、このままでは済まされない。

 いずれは王妃様になるかもしれない人材なのだ。

 ゆえに親元から引き離し、エリアは聖女として、王宮に迎え入れられることになった。


 ところが、エリアにとって、王宮は針の(むしろ)だった。

 貴族社会で生活するための礼儀作法を叩き込まれるだけではない。

 王太子と結婚するとなれば、国母たる王妃になるわけだから、妃教育も必要とされ、そのための学習と称して、実際の貴族令嬢に要求される以上の歴史知識や語学、科学的知見を叩き込まれ、寝る間も惜しむほどの厳しいスケジュールを組まれて、ほとんど虐待の様相を呈していた。


 さらに、リイド王が臨終の際に予言さえしなければ、レイド王太子と結ばれるはずだった元婚約者パーム・ランドルフ公爵令嬢という存在がいた。

 筆頭公爵ランドルフ家のご令嬢である。

 彼女は、貴族令嬢として輝かしい将来を約束されていたのに、突然の不幸に見舞われたとして、若い貴族たちの同情を一身に受けていた。

 その反動で、平民のエリアに対する風当たりは、当初から相当強かったのである。


 エリアの身分は、ただでさえ低い。

 そのうえ、普通、魔法が使えるのは貴族のみとされていたので、平民のエリアが浄化魔法を使えることーーつまり「聖女」であることを疑う者が、後を絶たなかった。


 当然のごとく、王宮内では、聖女エリアに対するいじめが横行した。

 淑女教育の最中であっても、他の貴族令嬢たちから無視され続け、ダンスのレッスンでも相手が見つからない。

 エリアの魔法杖が、何者かによって隠された挙句、折って捨てられた状態でゴミ箱から発見されたりする。

 自室に外から鍵を締められ、閉じ込められることもあった。

 それなのに、妃教育をサボったとして、教師から問答無用で糾弾される始末。

 大勢の貴族たちから、平民ゆえに粗暴なのだ、と決めつけられた。


 結局、半年もすると、聖女エリアは、デーム王妃様の預かりとなった。

 デーム王妃は草花を愛する、心優しい貴族の淑女として評判の女性だった。

 それでも、王妃と聖女が打ち解けることはなかった。


 王妃は温室で植物を育てることが趣味だったが、平民出身のエリアを持て余した。

 デーム王妃にお仕えする侍女ですら、貴族家の令嬢だ。

 なので、王妃は彼女にとっての常識に従い、エリアを下女のように扱おうとした。

 ところが、エリアは、通常の王宮勤めの下女のような専門職的な能力を、まるで持っていなかった。

 浄化魔法を使えるとはいえ、いまだ使用訓練すらろくに受けていないので、能力を発揮する場面がなく、王妃から見れば、まるで役に立たない人材に過ぎなかったのだ。


「聖女というのは、浄化の力があるっていうけどーー温室の浄化も上手にできないのね」


 ちょっと温室内の換気を良くしてもらおうとしても、聖女エリアは使えない。

 デーム王妃にすれば、愚痴りたい気分だった。

 しかも、王妃が植物の手入れをしていると、エリアは、オズオズとした口調ながら、


「王妃様ーージョウカ虫を殺さないでいただきたいのですが……」


 と注文を付けてくる。

 下女から要求されることなど、デーム王妃は体験したことがなかった。

 眉を(しか)めながら、王妃は平民女に教え(さと)す。


「ジョウカ虫は害虫ですよ。

 どれだけのお花を枯れさせるか」


 ところが、モジモジとしつつも、聖女エリアは引き下がらない。


「ジョウカ虫は、花にとっては害虫ですけど、大気にとっては益虫なんです。

 浄化魔法を使ってみると、わかるんです」


 十五歳を過ぎたばかりの平民女が、四十歳を超えた王妃様相手に一生懸命、主張する。

 浄化魔法を使うとき、ジョウカ虫たちが方々から力を貸してくれるのだ、と。

 自分の浄化力を補うこともあれば、大量に浄化力が出過ぎた場合には、吸い込んでストックしてくれるのだ、と。


 でも、美しい草花を愛でる王妃にとっては、ジョウカ虫はあくまで葉っぱを食い尽くす害虫だった。

 園芸用のハサミをシャキシャキ動かしながら、デーム王妃は不満を漏らした。


「平民でも、聖女ともなると、大きな口を叩くものね」


「いえ。そんなことは……」


「私のお花たちは可哀想に思わないの?

 こんな黒いカナブンみたいな虫に、葉っぱを食べられてるのに?

 丹精込めて草花を育ててきた私を、馬鹿にしてるの!?」


「め、滅相もございません。

 ただ、ジョウカ虫には浄化の力があると思われるので、長い目で見て、共存を考えなければいけない、と……」


 そこへ、王太子の元婚約者パーム・ランドルフ公爵令嬢が、取り巻きを引き連れて温室へとやって来た。

 先程までの聖女のセリフを聞いていたらしく、温室に入るや否や、目の前の花の茎に掴まっていたジョウカ虫を、指で摘んでプチッと潰す。

 そして、白い花を手折ると、


「王妃様、どうぞ」


 と手渡す。


「まあ、ありがとう」


 ほんとうを言えば、大切に育てた温室の花を手折られるのは噴飯ものだったが、王妃は息子の元婚約者を可哀想に思い、贔屓(ひいき)していたから、何をしても許せる気分だった。

 しかも、花好きの王妃に気に入られるために、彼女は花を手折って寄越したのだ。

 悪い気はしない。

 特に、気持ちの悪い害虫を殺すなと説教をかましてくる平民女よりは、よほど可愛い。


 王家とランドルフ公爵家とは、家族ぐるみの付き合いをしてきた。

 デーム王妃は、子供の頃から、彼女、パーム・ランドルフ公爵令嬢を見知っている。

 しかも、彼女の母親であるランドルフ公爵夫人は、王妃にとって学園時代の学友だ。

 だから、パーム公爵令嬢が、自分に気に入られようとして行うことは何でも許せた。

 今も、パーム嬢が殺虫剤入りの霧吹き瓶を持ち出しても、笑顔で眺めることができた。


「王妃様。

 この素敵な温室には、仰々しい浄化魔法などは必要ありません。

 殺虫剤を散布するだけで、どんな虫も殺せますよ。

 ジョウカ虫なんか楽勝です」


 殺虫剤を霧吹きでシュッシュッと吹きつけて、目についた昆虫を殺しまくる。

 ジョウカ虫などは真っ先に、茎や葉っぱからコロコロと落ちて死んでいった。

 

 その様子を見て、デーム王妃は確信した。

 浄化魔法はーーつまりは「聖女」は、使い道がない、と。

 可愛い元婚約者が虫殺しに奮闘する姿、そして、それを必死に止めようとして、結局、取り巻き貴族どもに動きを抑えつけられている聖女の様子を見て、王妃は思った。


(王妃である私も、「聖女」ではない。

 それでも、今まで、何の問題もなかった。

 やっぱり、陛下は臨終に際して、血迷ったのよ。

 今からでも遅くない。

 息子の婚約者を、元に戻すべきだわ!)と。


◆2

 

 身元引受人の王妃様から嫌われて以来、聖女エリアは自室に引き篭もりがちになった。

 それでなくとも、名門貴族家の令嬢方から、いじめられ続けてきた。

 王宮内では、彼女を気遣う者はまるで現れなかった。


 その一方で、貴族社会からの同情を集める人気者パーム・ランドルフ公爵令嬢は、王宮に入り浸る。


 その日も、レイド王太子は、母親のデーム王妃、そしてパーム公爵令嬢と卓を囲んで、お茶を飲んでいた。

 王太子はカップをグイッとあおぐと、大きく息を吐いた。


「そもそも、どうして俺が聖女と結婚しなきゃいけないんだ?

 お母様も聖女ではないが、今まで、何の問題もなかったじゃないか」


 さすがは、母子というべきか。

 レイド王太子は、デーム王妃と似たようなことを考えていた。


 デーム王妃は大きくうなずき、激しく同意する。

 その一方で、パーム公爵令嬢は、わざとらしく涙を浮かべる。

 それを、デーム王妃がハンカチを手渡し、慰める。

 ここ半年の間、幾度となく繰り返された場面であった。


 侍従バークが、横合いから、レイド王太子に忠告する。


「そうは言われましても、父王リイド様のご遺言でございます。

 平民から聖女を婚約者として取り上げたことは、王国民すべてに周知されております」


 今は亡きリイド国王陛下を慕う者は多い。

 政府中枢でも、宰相や内務大臣をはじめ、リイド陛下の遺言を守ろうとする勢力も根強く、レイド王太子と聖女エリアとの婚儀を既定路線と考えている者も多い。


「やはり、俺の方から、婚約破棄を言い渡すしかないか?」


 悩む息子に、デーム王妃はキッパリと言った。


「いえ、それでは息子である貴方が、亡き陛下のご遺言に、自ら(そむ)く形になります。

 それは良くありません。

 新王としての即位に向けて、障害となりましょう。

 やはり、向こうからーー平民女の側から、婚約を辞退してもらいましょう」


「今さら、そんなことが可能でしょうか?」


 息子の問いかけに、デーム王妃はパーム公爵令嬢と互いにうなずきあって、笑みを浮かべた。


「女には女の流儀というものがありましてよ。ねえ、パーム嬢」


「はい。王妃様。

『あの平民女は、次代の王妃に相応しくない』と心を痛めておられる方は多いんですのよ。

 協力者に事欠くことはございませんわ」



 その年の冬に差し掛かった頃ーー。


 デーム王妃が主催した晩餐会が、王宮で催された。

 息子レイドにゆかりの貴族令息、令嬢を集めて、豪華な食事を振る舞おうというものだった。

 断り切れず、聖女エリアもオズオズと顔を出す。


 とはいえ、やはりその日の集まりも、エリアにとって、屈辱的なものとなった。

 婚約者レイドの隣、自分よりも上座の席に、パーム・ランドルフ公爵令嬢がいた。

 そして、テーブルの一番端っこ、最下層の末席に、エリアの席はあった。

 王太子の婚約者とは思われない扱いだ。

 これも、「結婚するまでは平民扱いですよ。席につけるだけでも、ありがたいと思いなさい」という主催者である王妃様の、無言のうちの意思表示であった。

 王太子、そして名門貴族の令息、令嬢たちが、貼り付けたような笑顔をたたえて、私、聖女エリアを見詰める。

 私が食事をするさまを観察しようと、身構えているのだ。


(作法でもチェックしようというのかしら……)


 私、エリアは緊張した。

 でも、テーブルマナーはバッチリ仕込まれ、身につけている。

 大きく深呼吸して、背筋を伸ばす。


 私の目の前に、大きな銀色のお皿を出された。

 大きな半球状の蓋がかぶさっており、中には調理済みの料理が湯気を立てているはず。


 デーム王妃は柔らかな笑顔で勧めてくださった。


「お食べくださいな。聖女様のために用意いたしましたのよ」


 侍女が蓋を開けたら、大皿には、無数の昆虫を焼き上げたゲテモノ料理が載っていた。

 小さなジョウカ虫を焼いた死骸を、何百匹分もうずたかく積み重ねたものだ。

 パーム公爵令嬢に殺された虫を集めたのだろう。

 だとしたら、殺虫剤で殺された虫たちだ。

 食べたら、身体に毒であることは明らかだ。

 それを自分の保護者である王妃様が、食事に出してきたのである。


「聖女様が仰せになるには、このジョウカ虫は益虫なんでしょう?

 でしたら、美味しくいただけますわよね?」


 王妃が面白がって肩を揺らすと、パーム公爵令嬢もフォークを私に突き立てて嘲笑う。


「ぜひ、召し上がってくださいな。

 濃度の高い殺虫剤を、ふんだんにまぶしてありますわ。

 ですが、浄化してお食べになればよろしいんではなくて?

 私どものような非凡の身には難しいですけど、貴女は聖女様なのですから。

 おほほほほ」


 パーム嬢が笑うと、他の貴族令嬢たちも、追随して哄笑する。

 私の両目に涙があふれて、視界がボヤけた。

 あれほど浄化魔法を手伝ってくれる益虫だと訴えたのに、その虫を大量虐殺した挙句、浄化魔法の使い手である私に食べろというのだ。


 それでも、今の私には行くところがない。

 どこかへ逃亡しようにも、行く宛もなければ、実際に逃げれば、平民である両親が犯罪者のごとく罰せられてしまうだろう。

 私は、今は亡き王様の遺言で王宮に差し出された生贄のようなものだった。

 昆虫だろうと、何だろうと、差し出されたものは食べるしかない。


 私は泣きながらフォークとナイフを手に取り、昆虫を食べ始めた。

 すると、またもや王妃様と公爵令嬢が(あざけ)る声が聞こえてくる。


「あらあら。さすがは庶民。虫なんかも食べるんだ?」


「その虫は益虫なんでしょ?

 同じ浄化魔法を発する仲間なのに、食べちゃって良いのかしら?」


 ゲラゲラ。


 貴族の令息や令嬢たちの笑い声が、部屋中に響く。

 その只中で、レイド王太子は、悠然とした振る舞いで肉料理をいただいていた。

 婚約者である私が虐げられてる現場にいながら、フォローする素振りさえなかった。



 食後、トイレで私、エリアは、食べたものを盛大に吐いた。

 口の中から、昆虫の羽や、ギザギザが付いた脚が、胃液に混じって出てくる。

 どれだけ、口や食道、胃袋などを傷つけたかしれない。


 しかも、トイレから出たところで、今度は貴族令嬢たちに取り囲まれた。

 パーム・ランドルフ公爵令嬢と、その取り巻き連中だった。


「あら、平民風情が、王宮に何のご用かしら?」


「ほんとうに礼儀がなってないわね。

 私は伯爵家の令嬢なのよ。

 頭ぐらい下げなさいよ」


「そうよ、そうよ。

 パーム公爵令嬢から婚約者を奪っておいて、申し訳ないと思わないの?」


「いいから、頭ぐらい、下げなさいよ!」


 しつこく言われるから、仕方なく頭を下げる。

 周囲の令嬢方が冷笑する中、パーム嬢が一歩踏み出し、ペッと唾を吐きかけた。


「邪魔なのよ、あなたは。

 アンタこそ、私にとっては害虫なのよ!」


 彼女が豊かな金髪をバサッと掻き分けると、それを合図に取り巻きたちが大きな特別製の(たらい)を持ち出してきて、お辞儀をする私に向けて、バシャアッと液体を投げつけた。

 白くて、ネットリとした、ツンと鼻につく強烈な匂いがする。

 劇薬を原料にした、殺虫剤の原液だった。

 じかに飲み込めば死に至るほどの量だ。

 しかも、それだけではない。

 取り巻きたちは知らなかったが、その液体には硫酸も含まれていたのだ。

 白い煙があがり、私の皮膚がヒリヒリと痛む。


 白い液体にまみれた私を見て、令嬢たちが腹を抱えて笑う。

 私は耐えられず、その場から逃げ出した。

 ほんとうなら、すぐさま王宮から逃げ出したい。

 せめて、お風呂に入って、身体から殺虫剤を洗い落としたい。

 かといって、私には、湯浴みをするような贅沢は許されていない。

 結局、自室のカーテンで身体を拭いて、凍えながら寝るしかなかった。


 それから三日間、殺虫剤の匂いが身体から抜けず、何も食べる気もしなかった。


 それなのに、貴族社会の噂を載せた新聞記事には、


『聖女様が、王妃様主催の晩餐会で嘔吐!』


 とか、


『平民上がりの聖女様、ランドルフ公爵家の令嬢のお手づくり料理を拒否!?』


 などといったタイトルが表紙を飾っていた。

 取り巻きたちが「関係者」として語った、嘘を交えた「証言」を採用した記事だった。



 でも、エリアは死ななかった。

 本当なら死んでるところだった。

 硫酸を大量に含んだ殺虫剤の原液を身体に浴びていたので、普通なら全身の皮膚が(ただ)れ、大火傷を負い、ショック死するところだったのだ。

 実際、取り巻きたちのスカートや衣服に、この液体が少し跳ねてきていて、その箇所は、焦げたようなシミが出来ていて、穴が空いているものすらあったほどだ。


 でも、さすがは聖女である。

 身の危険を感じて、咄嗟に念じたら、魔法が発動した。

 薄い膜のように空気が全身を包み込み、直接、液体をかぶることを避けられたのだ。

 鼻や口も、薄い空気の膜で覆われたおかげで、劇薬を吸い込まずに済んだ。

 それから、空気の薄い膜の外側を覆っている液体の毒性をゆっくり浄化していく。

 聖女だから、浄化して生き残ったといえた。


 結局、エリアが生きているとの報告を侍従バークから受け、レイド王太子は決意する。


「仕方ない。こちらから婚約破棄を宣言しよう」


 殺虫剤の原液を用意したのはパーム公爵令嬢だったが、これに密かに硫酸のような劇薬を混ぜるよう指示したのは、レイド王太子だった。

 でも、婚約者である聖女エリアを殺し損ねた。

 死んでくれたら、硫酸が入っていると知らなかったうえに、平民を殺した程度なので、「無礼に振る舞われた」とかの弁明をすれば、令嬢方は軽い罪で済むし、死ぬことによって「エリアは聖女とはいえなかった」と証明することができる、とレイドは思っていた。


 だが、婚約者の謀殺に失敗した。

 となれば、できるだけ早く婚約破棄をしなければ、平民女と結婚するハメになる。

 エリアの容姿は悪くないが、平民の女を娶ったとなれば、どれだけ貴族家の学友たちから馬鹿にされるか知れたものではない。

 それに平民上がりの王妃を尊敬する貴族などいるはずもないし、ましてや王子が生まれたところで、半分は平民の子と看做されて、貴族社会で孤立してしまうに違いない。

 レイドにしてみれば、是非ともエリアとの結婚を避けねばならなかった。


 かといって、「聖女と結婚しない」と判断することは、亡き父王リイドの遺言を明らかに反故(ほご)にする行為だ。

 宰相や内務大臣など、貴族でありながら、現実的に国家を運営していることから、平民を蔑視することが薄い有力者たちから、強く反対されるだろう。


 だから、レイドは考えた。

 まずは大人を交えず、学園を共にしてきた同学年の仲間たちの間だけで承認を取り付け、一気に婚約破棄を宣言する。

 それから、その婚約破棄を既成事実にして、父王の遺言に固執する大人貴族たちから事後承諾を取り付ければ良い、と。


 レイドは顎に手を当て、思案する。


「まずは、学友たちを、『俺が、エリアと婚約破棄するのも、やむを得なかった』という証人に、仕立て上げなければならない。

 だから、俺がエリアとの婚約を破棄することが、不当に思われないよう手を打つ。

 そのためには、エリアに浄化の力がないさまを、みなに見せつければ良い。

 そうすれば、『エリアが聖女と偽った』ということすら信じる者も出てこよう」


 でも、エリアに浄化の力があることは、成人の儀において、教会が証明している。

 加えて、硫酸入りの殺虫剤をぶちまけられても生きているのは、聖女ならではの、浄化力があればこそだ。


 陰謀を共に企む、デーム王妃と、パーム公爵令嬢は、二人して将来の王様であるレイド王太子をせっつく。


「どうするのよ、レイド。あの平民女、生意気なだけあって、しぶといわよ」


「このままじゃ、あんなのが王妃にまってしまうわ。それでも良いの!?」


 とはいえ、いまだ聖女としての力が覚醒し切れていない今なら、希望はある。

 現段階では、エリアの魔法行使は未熟で、温室の空気すら浄化しきれない。

 害虫も、退治もできない。

 浄化の力があっても、日常においても役に立つほどではないことは、明らかだった。


 レイド王太子は、胸をそらして、腕を組んだ。


「任せろ。俺に考えがある。

 要は、無理難題を吹っかけて、エリアが汚物を浄化できない様子を、みなに見せつければ良いんだよ」



 かくして、王家でも持て余している「厄災の沼」に、聖女エリアを呼び出したのである。

 そして、大勢の名門貴族家の令息、令嬢たちの目の前で、沼地の浄化に失敗するさまを見せつけたうえで、レイド王太子は、高らかに宣言した。


「俺、レイド・ドルク王太子は、聖女を僭称する平民エリアとの婚約破棄を宣言する!

 ここにいる高位貴族の令息、令嬢方は、その見届け人だ。

 ろくに浄化魔法を発揮できないエリアは、聖女と認められない。

 よって、婚約を破棄する。

 そして、改めて、俺はパーム・ランドルフ公爵令嬢と婚約する。

 すでに、このことは我が母デーム王妃殿下、及びランドルフ公爵夫妻も承認済みだ。

 やはり身分に相応しい相手と結ばれてこそ、幸せになれるのだ」と。


「そんなの、一方的です!」


 と抗弁するエリアに対し、俺、レイド王太子は言ってやった。


「一方的に婚約させられたのは、俺の方だ。

 君が万物を浄化できる聖女だというから、婚約させられた。

 ただ、それだけだ」と。


 さらに、俺の胸にしなだれかかっていたパーム公爵令嬢が、口添えしてくれた。


「あら、レイド殿下。

 いくら相手が平民とはいえ、元婚約者ですよ。

 何も渡さずに追い払うのは、可哀想ではなくて?

 私たち貴族階級の評判にも関わるわ。

 次代の国王として、殿下の広いお心を見せてあげて」と。


 俺は、代々、王家が持て余していた「厄災の沼」を、厄介払いできることを喜んだ。


「そうだな。

 婚約破棄の慰謝料として、この沼地をエリア、君にくれてやろう。

 平民の、しかも女性が、王家から土地を下賜されるのだ。

 あり得ない僥倖(ぎょうこう)だぞ」


 そう言って指を切り、パーム公爵令嬢の扇子をもらって、血染めの契約書を作成し、エリアに押し付けた。

 それから侍従バークに命じ、エリアを荷物袋に押し込め、「厄災の沼」に放り投げた。

 元婚約者を詰め込んだ麻袋は、ズブズブと泥土の中に沈んでいく。

 これで浮かび上がってくることはないだろう。


 その結果、エリアは「行方不明」ということにできる。

 証人になってくれた学友たちは、名門貴族の令息、令嬢なだけでなく、俺とパーム公爵令嬢との仲を応援してくれている仲間だから、この「聖女殺し」がバレることもない。


 エリアの両親は平民としての節度をわきまえていて、娘を王宮に差し出す際に、「娘はいなかったものとして考えます」と言っていた。

 王家としては、すでに十分に金を払い、税金も十年以上免除する約束をしていた。

 そうしたら、喜んで家を新築して、近所や親類相手に威張り散らすだけの俗物だった。

 両親にしてからそうなのだから、エリアの失踪を嘆く者は、誰もいない。


 おまけに、今後、「厄災の沼」の臭気のせいで疫病が流行ったなどの苦情があったとしても、「あの沼地はすでにドルク王家の所有地ではない。文句があるなら、行方不明の聖女様に言ってくれ」と応じれば良い。

 さらに、外国勢力が沼地に手を出してきた場合は、「たとえ個人所有者が行方不明であっても、この沼地は我がドルク王国の領内である。早々に立ち去れ」と干渉してくるのを排除できる。


「ハッハハ。

 これで嫌な婚約は破棄できたし、ついでに厄介な沼地も手放せた。

 一挙両得とは、このことだな!」


 レイドは陽気に笑う。

 なんとも身勝手な、次期国王であった。



 だが、彼ら、レイド王太子や、パーム公爵令嬢、そしてドルク王国の名門貴族家の子女たちは、今しばらく、沼地の近くに止まるべきだった。

 聖女エリアが完全に沼地に沈み切るのを、自分たちの目で確認するべきであった。

 そうすれば、このあと、彼らにとって、じつに都合の悪い事態が展開することを避けられたかもしれない。

 だが、彼らは安心し切って、意気揚々と、帰りの馬車に身を預けるばかりであった。


「厄災の沼」には、臭気が漂い、常に濃霧が立ち込めたようになっているため、視界が遮られがちだ。

 だがしかし、もう少し後まで沼地に居座っていれば、彼らも濃霧の彼方から一隻の船が姿を現すさまが見えたであろう。


 その船は、「厄災の沼」の泥水や臭気を調査していた。

 攪拌機(かくはんき)を使って泥水を掻き分けながら、網や筒状の受け皿で、泥土をすくいながら、ゆっくりと進んでいた。

 が、いきなり動きが停止した。

 泥土の中から、泥に塗れた大きな袋をすくいあげたからである。


 眼鏡を掛けたリーダーの指示で、袋の紐を鉤で引っ掛け、船甲板まで引き上げた。

 五、六人もの男たちが、思いもしなかった獲物を釣り上げ、小首をかしげた。


「なんだ、これは?」


 袋の中から、泥に(まみ)れた、一人の女性が出てきたのである。

 さすがに驚き、調査船の甲板は大騒ぎとなった。


◆3


 私、エリアが目を覚ましたのは、見慣れない、大きな船の甲板の上だった。

 ぼんやりした頭で半身を起こすと、自分の胸が露わとなっていて、ビックリした。

 私は裸だったのだ。


「いやっ!」


 私は、掛けられていた毛布を、身体に巻き付ける。

 取り囲んでいた男どもは、バツが悪そうな表情をしている。

 冷静になってみれば、私は泥土の只中に袋に詰められた状態で沈められたのだから、泥を洗い流すためにも裸に剥かれて当然だ。

 でも、目を覚ましたばかりのときは、何が何だかわからず、周囲の男どもに警戒するばかりだった。


 男どもは口々に語り合う。


「凄い。奇跡だ。あれほどの臭気の泥沼に沈んでいながら、生きていたなんて」


「魔法を使ったのかな? 殿下はどう思います?」


「そうだな。

 魔法で空気を薄い膜のようにして、全身を包み込んだんだろうね。

 だから、しばらくの間、呼吸することができたんだろう。

 袋の中でもあったし、直接、毒性の強い泥水をかぶることも避けられたんだ。

 幸い、鼻や口の中にも泥水を吸い込まずに済んでいる。

 身の危険を感じたら無意識のうちに発動する魔法なんだろうけど、以前にも使ったことがあるようだね。

 魔力の流れがスムーズで小慣れたかんじだ」


 そう語った後、貴族らしい豪華な装飾が施された服装をまとった、代表者らしき青年が、眼鏡を押し上げながら、私に問いかけてきた。


「貴女の名前は?」


 ちょっと変な発音ながら、ドルク王国の公用語ダルプ語である。

 私は一枚の毛布をかぶっただけの裸であることを意識して、顔を赤くしていた。


「……エリアです」


「では、この沼地は、貴女の土地になったんだね。

 名義がエリアになっている」


 眼鏡の青年は、泥がこびりついた扇子を押し広げて言った。

 私の胸の合間に、レイド王太子が挿し込んだ扇子だ。

 この扇子には王太子が記した血染めの契約文と、ドルク王家の紋章印が押されている。

「厄災の沼」の所有権を私、エリアに譲渡する旨が記されていたはずだ。


 私は、とりあえず、頭を下げた。


「私を助けてくださったんですね。

 あのーーありがとうございます。

 それで、貴方はどちら様ですか?

 そして、この船は……?」


 奇妙な船だった。

 船なのに、帆柱がないのだ。

 これでは風を受けて進むことができないはず。

 私は、帆船しか見たことがなかった。


 不思議に思って周囲を見回す私に、眼鏡青年は白い歯を見せた。


「ああ、すいませんね。

 僕はラフラ帝国の資源開発局の局長をやっております、ハイトと申します」


(ああ、なるほど。お隣さんね)


 私、エリアはポンと膝を打つ思いだった。


 沼地の向こうには、隣国ラフラ帝国があった。

 帝国でも、ドルク王国と同じダルプ語を公用語にしている。

 発音に少々相違が見られるが、意思疎通に困るほどではない。

 国境にはこの「厄災の沼」が横たわっている。

 沼を挟んだお隣さんだ。


 そう思うと、ソッチの帝国でも、この「厄災の沼」の臭気に困っているはず。

 浄化魔法を期待される聖女としては、申し訳なく思って、つい、謝ってしまった。


「ごめんなさい。

 これでも、私、浄化魔法を扱える聖女なんですが、この沼はさすがに広くてーー私にはとても浄化しきれませんでした」


 みな、キョトンとしている。

 そして、一拍置いてから、男たちはガッハハハと笑い出した。


「まさか、この沼地をすべて浄化するなんて考えるヒトがいるとは!」


「そうですよ。

 ハイト皇子を超えた猛者(もさ)ですね。

 発想が常軌を逸してる」


 ハイトと呼ばれる若い男性は、銀色の髪を整え、改めて眼鏡を掛け直す。

 そうして私、エリアに顔を寄せる。


「面白いことを言うお嬢さんだ。

 ドルク王国は、今まで散々、人間の死体をこの沼に沈めてきた。

 産業廃棄物もね。

 てっきり、わざとこの沼を腐敗させてるのかと思っていたけど、違うのかい?」


「いえ……私は平民の出ですので、この沼がどのように使われてきたか、よく知らないんですけど……」


 ハイト青年は、大きく肩をすくめた。


「そうだね、この沼はずっとドルクの王家が所有権を主張していてね。

 僕らラフラ帝国には手出しさせまいと邪魔立てするんだ。

 そのくせ、ちっとも利用しようとしない。

 ただのゴミ溜め扱いさ。

 勿体無くて腹が立つ。

 そんなふうに雑に扱ってるんなら、僕たちがこっちの岸にまで船を出したり、施設を建てたりしようとするのを認めてくれたって良いじゃない?

 今回の調査にしたって、いつドルク側が文句を言ってくるかわかんないから、わざと臭い霧が濃い時間帯を選んで航行したりして、大変だったんだよ」


 この「厄災の沼」は、ドルク王国が専有的な所有権を主張しているから、迂闊には手を出せない。

 でも、ラフラ帝国では、この沼地をドルク王国との共有地と認識しているから、こうして調査船を出航させていた、という。


「この沼地には、エネルギー産生菌がたくさん生息している。

 普通の大気にもごく微量にいるんだが、この沼地辺りの大気には、菌が物凄く存在していてね。

 この沼地から採取した産生菌を使えば、生ゴミからでも発酵させてメタンガスを得ることができるほどなんだ。だから、とても利用価値があるんだ」


 私は呆気に取られた。

 ドルク王国では、呪いとして存在する「厄災の沼」が、向こう岸のラフラ帝国では、豊かな資源と看做されていることに、正直、驚いた。


「ドルク王国では、草木も生えない呪われた、『厄災の沼』と呼ばれています」


「マジかよ。ほんとうに馬鹿だな。

 こっちにとっては逆に『黄金の沼』だよ。

 貴女はメタンガスって、知ってるかい?」


「ガス……?」


「ガスはエネルギーになる。

 生物の排泄物や死骸、汚泥やゴミなんかからも、発酵や消化によってガスができる。

 気密性の高いタンクで、ガスを貯められるんだ。

 豚や牛、馬などの家畜の糞、下水からもガスが取り出せるんだけどーーこの沼地のガス生産力は特別なんだ。良質なガスが出まくりなんだ。

 街路灯に使ってみたんだけど、それはそれは明るくなってね。

 夜道でも足下がクッキリ見えるほどだ」


 ハイト青年は眼鏡を光らせ、饒舌に語る。


「嫌気性発酵って、知ってるかい?

 空気の無い状態で発酵すれば、汚水が浄化されるんだ。

 そうそう。ウチの帝国にも、浄化魔法を使えるヒトがいてね。

 さすがに聖女だなんて呼ばれてないけど、尊敬はされてる。

 稀少な種類の魔法使いだからね。

 そして、そのヒトが言うには、浄化魔法ってのは、嫌気性発酵と同じような働きをするんだそうだ」


 私は小首をかしげて、


「では、私の浄化魔法でも、この沼地でなら、その良質なガスとやらが生み出せる、と?」


 と問いかけると、ハイトは私の両手を掴んで、さらに身を乗り出してきた。


「そうなんだよ!

 お嬢さんが使える浄化魔法ってのは、汚物を浄化するだけじゃない。

 エネルギー源となるメタンガスをも生み出せるーーいや、今までも気付かずに、ずっと生み出し続けていたはずなんだ。

 でも、ガスが無味無臭だから気付かれなかった。

 ガスが生産されては、無駄に大気中に拡散されていたんだ。

 ほんと、もったいないよね!

 だからさ、これからは気密性の高い施設を作って、そこで浄化魔法をかければ良い。

 汚物が浄化されるだけでなく、天然ガスまで得ることができるはずだ」


「そうなんですか……」


 勢いに押される格好で、私はうなずく。

 私の反応にお構いなしに、ハイト青年は私に抱きついた。

 私、裸なのに、なんだかちっとも気にならない。

 相手のハイトが話に熱中するあまり、私を性的な視線で見てこないからだろう。

 手を握り締めてブンブン振り回す。


「お嬢さん!

 僕の国ーーラフラ帝国に来ないか?

 見たところ、沼地に捨てられるなんて、訳ありだろ?

 でも、僕は君にどんな事情があったって、構わない。

 この沼地に関するドルク側の所有権を持っているうえに、浄化魔法を使えるんだろ?

 僕の資源開発局に打って付けの人材だよ!」


◇◇◇


 それから、季節は巡り、三年の月日が経過した。


 聖女エリアは、王太子から婚約破棄されて以降、何処かへ失踪したことにされ、人々から忘れ去られようとしていた。


 そんな頃、ドルク王国に、新しい王様が誕生した。


 先代国王リイドの喪が明けて、レイド王太子が、ようやく念願の新国王に即位することができたのだ。

 それと同時に、婚約者パーム・ランドルフ公爵令嬢と結婚したのである。


 が、思いの外、ドルク王国は祝福ムードにならなかった。

 実際に政治を取り仕切る宰相たちが、不満を持っていたからだ。


 レイド王太子が勝手に聖女エリアとの婚約を破棄したので、彼らは、先代王リイドの遺言を守れなかったことに不安を感じていた。


 リイド王の予言は当たる。

 そう信じる者が多かった。

 なので、レイド王太子とパーム公爵令嬢の振る舞いに、眉を(しか)める者も大勢いた。


 おかげで、新王誕生を祝う即位式も、レイドとパーム、二人で挙げた結婚式も、盛大な催しとはならなかった。

 思いの外、王家と名門貴族たちが、ドルク王国の中で、宙に浮いていることが明らかとなったのだ。


 実際、ドルク王国民は、新国王の誕生を祝うゆとりがなかった。

 それぐらい、不景気だった。

 雇用は減り、給料は下がる一方。

 おかげで、労働力が国外に流出しまくっていた。


 隣のラフラ帝国が、未曾有の開発ラッシュだったので、帝国に出稼ぎに出る者も数多くいた。

 そして、帝国で働いた後、帰国してきた労働者たちが、吹聴して回っていた。


「ラフラ帝国は進んでいて、凄いんだぜ!

 夜でも明るいんだ」


「ほんとうに、こっちより百年は先に行ってる国だ!」


 ラフラ帝国の帝都には、街灯が無数に立ち並んでいた。

 おかげで、夜遅い時間でも、足元が見えるほど、明るい、と評判だった。


 豊かに天然ガスを産出できるため、様々な国々に、ガスを輸出していた。

 こうして、ラフラ帝国はどんどん豊かになっていく。

 燃料がたっぷりあって、豊かさが加わるとなると、機械産業も発達していった。

 その結果、ラフラ帝国領の大河や海では、帆が無い船が航行している、と噂された。


「風を受けなくとも進む船だと!?

 そんなものが……」


 ドルク王国でも、自国の経済が振るわないせいもあって、隣のラフラ帝国が豊かになっていることが、しきりに報じられた。

 それに比べて、ドルク王国は駄目だ、レイド王が新たに即位しても没落する一方だ、と新聞は書き立てた。


 おかげでレイド王は意地を張り、すぐさま政治的成果を挙げたいと思った。

 新王妃パームとともに、「ラフラ帝国に負けるものか!」と対抗意識を持った。


「向こうが街灯なら、こちらは松明だ!」


 と、王都の主要街道に松明を並べてみた。

 だが、松明は大量の油を消費する。

 結局、コスパが悪く、松明を撤去する羽目に陥り、王都の夜は暗いままだった。


 今度は、帝国の真似をして、王都に街灯を並べてみた。

 が、やっぱり帝都の街灯に比べて数も少なく、単体で見ても、明るさも、デザインの出来も、見劣りがする。

 さらに、燃料となる天然ガスを外国から輸入するので、金がかかって仕方ない。


 レイド王は、玉座にあって貧乏ゆすりをしていた。

 宰相率いる政府からも、税収の減少や、作物生産の低下などの、文字通り「不景気な話」ばかりを聞かされて、焦っていた。


「便利な暮らしにはエネルギー燃料が必要だ。

 暖房機器があっても、街灯があっても、燃料が要る。

 そして、燃料の購入代金が高い。

 隣のラフラが、うらやましい。

 いったい、どうやってエネルギーを得ているのだ?」


 国王からの問いかけに、バークが頭を垂れて報告する。

 王太子の専任侍従であったバークは、レイド王太子が新国王として即位してからも、雑用を言いつけられ、便利に追い使われていた。


「ラフラ帝国では、資源の開発を国家事業として積極的に行っておるようで。

 資源開発局では、新規の研究者や労働者を募集しております。

 ここはひとつ、我がドルク王国から、技術研修員を送るというのは……」


 元侍従であった腹心からの報告に、レイド王は片肘を付いた姿勢のままに声を出す。


「技術研修?

 生ぬるいことを言うな。

 諜報部員を何人か付けてやる。

 おまえ自身がラフラに潜入して、盗んで来い。

 エネルギー源を探るのだ」



 結局、バークは、五十名を超える技術研修団の団長として、隣のラフラ帝国に赴いた。


 ラフラ帝国の帝都は、噂通り、夜でも明るくて、バークたち田舎者は驚いた。

 実際、ドルク王国とは異なり、帝国では、経済行為を卑しむ風潮はなく、夜になっても、工場が幾つも稼働していた。

 産業水準としては、ドルク王国とラフラ帝国との間には、百年以上の開きがあるのではないか、とバークにも思われた。


 そして、バークたち技術研修団の面々が、もっと驚いたことがあった。

 ラフラ帝国に豊かさをもたらすことに成功した資源開発局の本部施設が、なんと「厄災の沼」に面していたのである。


 バークら、ドルク王国からの技術研修団を迎え入れた、資源開発局の局員は、


「当地で、国内エネルギー源の七割を得ているのですよ!」


 と説明する。


 肝心の精製技術については、秘密にされている。

 だが、おおまかなシステムについては、惜しげもなく情報公開していた。


 沼地の汚泥を、酸素の無い状態にして、微生物の働きで分解する。

 そうしてメタンガスを生成し、燃料や熱源を生み出していた。

 さらに、発酵させて残った(かす)は肥料にできるし、ゴミを焼却する際の燃料にもできた。

 その結果、ラフラ帝国では、ガスは安価な燃料となって、各家庭用の調理用の熱源にも使われるほどになっていた。


 さらに、ドルク王国の技術研修団の面々は、驚く事態に遭遇した。

 資源開発局の局長として紹介された人物を目にして、思わず声をあげてしまった。


「あっ。あれは!?」


「ま、まさかーーエリア聖女様!?」


 そこには、白い衣をまとって、亜麻色の髪をなびかせる美しい女性ーー何処かへと失踪したとされた、聖女エリアが立っていたのである。


◆4


 三年前、すでにエリアは、ラフラ帝国に「厄災の沼」の所有権を譲渡していた。

 その代わり、帝国の国籍及び伯爵の爵位と、資源開発局副局長の地位を得ていたのだ。

 それ以来、エリアは浄化魔法による天然ガス生産に、積極的に取り組んでいた。


 爵位と土地を帝室から下賜され、今や伯爵となったエリアは、悠然と席につく。


「お久しぶりですね。」


 居並ぶ技術研修団員を代表して、バークが片膝たちになる。


「いえ。エリア様こそ、お元気そうで……」


「ええ。運良く、ハイト皇子に助けていただけましたので」


「厄災の沼」で調査船を出していた資源開発局局長ハイトは、じつはラフラ帝国の第三皇子ハイト・ラフラであった。

 鑑定魔法によって万物を解析できる彼は、もとよりエネルギー開発に強い興味を持っており、政治権力を巡る争いには参加しなかった。

 おかげで、他の皇子からの信任も厚く、帝国政治において比較的自由な立場にあった。


 そのハイト皇子に気に入られ、今年に入ってから、資源開発局局長の地位を、エリア伯爵は譲られていた。


 私、エリアは笑顔を消して、目の前で傅く男を冷然と見下す。

 自分を縄で縛り、麻袋に入れ、「厄災の沼」に放り投げた男の顔を、忘れるはずがない。


「それにしても、バーク。あなたには失望しました。

 聖女として王宮に入った私を、よくも沼に沈めてくださいましたわね」


「あ、あれは主人の命令に従ったまでで……」


「そうですか。

 あなたらしい、言い訳がましい答弁ですわね。

 ちなみに、こちらのラフラ帝国に来て、私、初めて知りました。

『厄災の沼』には、今までドルク王家への叛逆者を殺して、沈めてきたそうですね。

 ということは、婚約者であった私までも、叛逆者と看做されていたのかしら?」


「いえ……私の口からは何ともーー」


 正直、レイド王太子は何も考えてなかっただろうと、侍従バークとしては察せられる。

 だが、何を言おうと無駄なくらい、正面に座るエリア伯爵の怒りが激しいことが、容易に見て取れた。


 聖女エリアは席を立って、手を大きく横に振った。


「ならば、この『厄災の沼』は、ドルク王家への叛逆者たちにとっての聖地です。

 断じて、ドルク王家の者には使わせません!」


◇◇◇


 技術研修団のバーク団長からの報告を受け、レイド王は爪を噛んだ。


「なんと、あの『厄災の沼』から、ガスが生み出せるとは……」


「厄災の沼」は、王家にとって完全な「負の遺産」と思っていた。

 疫病の発生源とも考えられていたから、ラフラ帝国の使者が、沼地について言及するだけで、対話することなく、帝国からの提案をすべて蹴っていた。

 こちらを嘲笑うため、あるいは疫病流行の責任を押し付けて賠償請求にでも来たのだろうと思い込んでいたのだ。

 完全に厄介な土地だと思っていたからこそ、投げ捨てる気持ちで、「厄災の沼」を、死に行くはずのエリアにくれてやったのだ。


 それなのにーー。

 

 いつの間にか、「厄災の沼」付近の様相も、すっかり変わり果てていた。

 ドルク王国側の地域に壁が張り巡らされていて、侵入禁止の看板が方々に立っていた。


 レイド王はとりあえず失地を回復したいと思い、ラフラ帝国に向けて親書を送った。

「沼地について交渉したい」と。



 一週間後ーー。

 使節団一行がラフラ帝国から出向いてきた。


 王宮の謁見の間にて、ドルク王国の国王夫妻ーーレイド王とパーム王妃が玉座で待つ。

 他にも、宰相や大臣などの政治上の要職を務める者だけでなく、名門貴族の当主及びその夫人や子女まで、大勢が列席していた。

 ラフラ帝国からの使節団の歓迎式は、レイド王の即位式や、パームとの結婚式以上の、盛大な式典となっていた。


 が、ドルク王国側の面々は、予想していなかった緊張を強いられることになる。

 帝国使節団の団長は、元聖女で、今や資源開発局局長となったエリア伯爵だったのだ。


 レイド王とパーム王妃は、夫婦揃って不貞腐れた態度になった。

 パーム王妃がムスッとして無口になったので、もっぱらレイド王が語った。


「偉くなったものだな。平民風情が。

 よく生き残れたものだ」


 エリアはニッコリと微笑む。


「おかげさまで。

 これでも聖女でしたので、沼の臭気を浄化し切れませんでしたが、ガスエネルギーを生み出すことはできたようです」


 ガスエネルギーという言葉を耳にして、レイド王は玉座で居住まいを正す。


「こちらの要求は簡単だ。沼地を返してくれ。

 あの沼地はドルク王国の領土である。壁の撤去を求める」


 エリアは毅然として胸を張る。


「お断りします。

 この沼地の所有権を私にお与えになったのは、陛下ご自身でしょう?

 慰謝料代わりにと、そちらにおられる王妃様が提案なされたはず。

『何も渡さずに追い払うのは可哀想。私たち貴族階級の評判にも関わるわ。次代の国王として、殿下の広いお心を見せてあげて』と。

 それが、エネルギー源となるとわかった途端に、前言撤回なさるのですか。

 王国の矜持とやらは、なんとも軽いものですね」


 エリアの答えを耳にして、それまで黙っていたパーム王妃がついに動いた。

 激発し、玉座から腰を浮かせる。


「平民風情が、図に乗るんじゃないわよ。

 本来なら、あなたなんか、私と対等に話せる身分じゃないんですから!」


 一国の王妃が、外国からの使節団の代表に扇子を向け、甲高い声を張り上げる。

 居並ぶドルク王国の貴族たちも眉を(ひそ)める事態だった。


 エリアは「まったく作法がなってませんわね」とつぶやき、蔑むように見返した。


「では、交渉決裂、ということで。

 言っておきますが、沼地の所有権は現在、ラフラ帝国が保有しております。

 加えて、ドルク王国側に築いた壁の地域も、沼地の土地範囲内に含まれてます。

 こちら側の言い分は、確かに伝えておきましたよ。

 ああ、そうそう。

 ラフラ帝国の皇帝陛下から賜った返事をお伝えしますね。


『我がラフラ帝国が沼地について、どのような提案をしても、因縁をつけてきて交渉を絶ってきたのはドルク王国の方ではないか。

 そちらが沼地の単独所有権を主張するなら、我がラフラ帝国も同様の権利を主張する。

 もともと、歴史的には、この沼地は接している双方の国家に使用権がある共有地域であると、我が帝国では認識していた。

 実際、三代前の主君同士が取り決めた条約によれば、そう記載されている。

 ところが、この度、ドルク王国側の土地所有権をエリア嬢から譲っていただいたので、この沼地に関するすべての権利は、すべてラフラ帝国のものとなったと理解している。

 今後、ドルク王国が、この沼地に干渉してくることを禁じる。

 もし手出しすれば、国境を侵した侵略行為と看做す。以上』」


 そこへ、横槍が入る。

 奥の扉がバタンと開いて、先代王妃デームが煌びやかな装いで、姿を現したのだ。

 彼女は、ニコニコと温和な笑みを浮かべていた。


「怒りを鎮めてくださいな、エリアさん。

 ここ最近、冷え込みがキツくなってきたの、お隣の国にいる貴女もご存知でしょう?

 暖房に使う薪も少なくなったと聞いています。

 ドルクの王国民が凍えては、可哀想だと思いませんか?」


 エリアは扇子を開いて、口許を隠す。


「あら。デーム様が、平民の心配までなさるとは、知りませんでしたわ。

 てっきり、温室のお花畑のみに、お心を砕いておられるとばかり」


 元王妃はムッとする。

 その様子を目にして、エリアはパチンと扇子を閉じた。


「でしたら、あなた方に次のことができましたら、耳を傾けても良いでしょう」


 エリアに促されて、引き連れてきた従者が、大きな(たらい)を両手で抱えて運んでくる。

 盥を覆っていた蓋を開けると、国王夫妻や元王妃、そして彼らにお追従してきた名門貴族家の者どもは、ウッと呻き声をあげて、鼻や口を塞いだ。

 強烈な異臭が、豪華に装飾された謁見の間全体に、漂い始めたのだ。


 エリアは再び、ニッコリと微笑む。


「ご安心を。どこかの令嬢方が、かつて私にぶちまけた、殺虫剤ではございません。

 これは『厄災の沼』の泥水です。

 私個人の裁量で、ほんの一部ですが、お返してあげますね」


 エリアの従者が盥を傾け、ドボドボと大理石の床に、泥水を注ぎ落とす。


 わあああ!


 居並ぶ人々が思わず退く。


 と同時に、聖女エリアが、反対に、泥水が溜まった場所にまで足を踏み込んでいく。

 そして、従者から盥を奪い取って、ガランと床に投げ捨てた。


「さあ、この泥水を盥に返してみなさい!

 それができたら、聖女の私に、虫の死骸を食わせ、劇薬入りの殺虫剤をぶちまけ、婚約破棄をし、挙句、沼に沈めて殺そうとしたことーーそれらをみんな、なかったことにしてあげましょう。できますか!?」


 シーン……。


 沈黙が場を支配する。


「『覆水盆に返らず』ーーそういう(ことわざ)が、遠い異国にあると聞きました。

 一度しでかしたことは、元に戻ることはないーーそういうことです!」


 そう叫ぶと、エリアはドレスの裾を(ひるがえ)して、サッサと謁見の間から立ち去っていった。


 ドルク王国の宰相や大臣、そのほか政務官僚たちなどは、目を白黒させていた。

 婚約破棄したことぐらいしか知らなかったから、聖女エリアの言葉を耳にして、ざわめき始めた。


「虫の死骸を食わせた?」


「劇薬入りの殺虫剤?」


「沼に沈めて、殺そうと?」


「どういうことだ?」


 ざわざわ……。


 喧騒が広がっていく。


 床一面に臭い泥水が散らばった中で、国王夫妻と元王妃、そしてお追従した貴族の面々は、とても居心地の悪い気分を味わうこととなった。



 それから半月後ーー。


 ドルク王国にとって、不景気に続いて、不都合な厄災が襲いかかった。


 冬が本格的に始まるとともに、大寒波が到来したのだ。


 例年だったら、薄っすらと路面を白く染める程度の粉雪しか降らない国である。

 それなのに、王都のみならず、国中の村々までもが、大雪に閉ざされたのだ。

 それも、白い雪ではない。

〈不浄の黒雪〉と、歴史書に記されていた、何百年に一度降り積もるとされる、伝説級の、毒を含む雪だった。

 


 秋に農作物の収穫は終えていたが、寒さと不浄の毒で、作物が次々と駄目になっていく。

 草花もみんな枯れて、あまりの寒さに薪も凍って使い物にならず、燃料が乏しくなって、家屋内での生活温度も維持できなくなった。

 その結果、寒波による、王国民の凍死が相次いだのである。


 さらに、たとえ陽光を受けて雪解けがあっても、〈不浄の黒雪〉が積もっているので、今度は大気が汚れてしまう。

 不浄の大気で、息苦しくて、特に幼い子供たちが真っ先に死んでいった。

 半狂乱になった母親を慰めることは、誰にもできない。

 すべての家屋から、灯りが消えていって、ドルク王国の街や農村における日常生活の現場すべてから、活気が失われてしまった。


 暖が取れなくなったり、食糧を手に入れることができなくなり、半月も経った頃には、ドルク王国の人々が、次々と死んでいった。



 一方、隣のラフラ帝国では、同じように黒雪が降っていたが、活力は失われなかった。

 聖女エリア伯爵を中心とした、浄化魔法の使い手たちの力で「不浄の黒雪」が浄化されていったからだ。

 加えて、ジョウカ虫が大活躍していた。

 浄化魔法の効力を帝国全土に撒き散らして、飛び回ったのである。

 おかげで、帝国では、雪が黒から灰色、そして白くなっていった。

 その結果、老若男女の区別なく、帝国臣民は、ガスで暖かくなった部屋で、冬を楽しむことができたのである。

 帝都では、例年通り、「白い雪祭り」すら開催できるほどだった。



 こうした隣の帝国の評判を耳にして、ドルク王国の国民にもようやく明らかとなった。

〈不浄の黒雪〉を浄化するためには、聖女が、そしてジョウカ虫が必要なのだ、と。


 帝国では、無数のジョウカ虫が、聖女から受けた浄化魔法を体内に蓄積して、方々を飛び回り、そこらじゅうを浄化して回っているという。

 ジョウカ虫には、いったん聖女から浄化魔法を受けると、その浄化力を増幅させる力があったのだ。

 聖女が発する浄化魔法の力がわずかであっても、それを原材料として、増幅、拡散することがジョウカ虫の役割だったのだ。


 それなのに、ドルク王国には、浄化魔法を使える聖女もいなければ、浄化力を増幅、拡散するジョウカ虫も根絶されていた。

 すべては、現国王夫妻と元王妃の失政のせいであった。

 聖女エリアを隣国へと追い出し、さらには王妃パームと元王妃デームが率先して「街の浄化」を訴え、ジョウカ虫を殺虫剤で殺し尽くしてしまっていたからである。


 やがて冬も半ばになると、ドルク王国では、王家に対する反感が渦巻き始めた。


 慌ててレイド王は、隣国にいるエリアに「帰って来い」と命じ、改めて要請した。


「故郷であるドルク王国でも、浄化魔法を使ってくれ。

 加えて、ジョウカ虫を帝国領内から寄越してくれ」と。


 でも当然ながら、エリアはレイド王の要請に一切答えることなく、返書をしたためた。


『レイド陛下も、おかしなことをおっしゃいますね。

 ジョウカ虫を寄越せ? ーーどの口が言うのでしょうか。

 ジョウカ虫は、害虫なんでしょ?

 そのように先代王妃様がおおせになっておられたこと、よく覚えていますよ。

 それに、故郷だから、浄化魔法を使ってくれ、とまでおっしゃられるとは。

「仰々しい浄化魔法は必要ありません」とパーム王妃殿下もおっしゃられたはずですが?

 レイド国王陛下自身に至っては、「身分に相応しい相手と結ばれてこそ、幸せになれるのだ」とおっしゃっておられたはず。

 なので、何があろうと、幸せになれるのだろうと思います。

 もっとも、国民の犠牲は計り知れませんが』


 ラフラ帝国にあって、ガス生産をはじめとしたエネルギー開発を担ってきたハイト皇子も怒っていた。

 エリアの返書に、自身がしたためた親書を添えた。


『かつて沼地の活用について、ドルク王国ーーそして当時のレイド王太子殿下とも、私は幾度も交渉したことがある。

 沼地に調査員まで派遣したこともあった。

 ところが、問答無用と追い出し、中には殺された者もいた。

 さらに、現在、我が帝国で活躍なさる聖女エリアに対して、レイド陛下自身が数々の無礼を働いたそうじゃないか。

 だったら、為政者として、現在の国難は自業自得であると思い知るべきではないか』と。


 ハイト皇子の怒りは本物だった。

 一週間後、ラフラ帝国はドルク王国に対して、国交断絶とばかりに大使館から外交官まで退去させた。

 レイド王による「上から目線」の要請に、ハイト皇子が強く反発した結果だった。


 国王の独断で送り付けた親書が、空振っただけでなく、帝国の怒りを買ってしまった。

 その事実に、ドルク王国では、貴族も王国民も動揺し始めた。


 王家が外交で失敗したーーと噂になったのだ。

 実際、外務大臣や宰相から、


「王家が勝手に親書を送って、帝国との交渉を台無しにした。

 どうして政府を通さなかったのか」


 と、国王夫妻は詰問された。


 内外から批判を受け、レイド王とパーム王妃との間で、喧嘩が絶えなくなった。


「おまえが、あの女に慰謝料などを、くれてやろうと助言するから!」


「なによ。『あの沼地は役に立たない。処分したい』って言ってたの、貴方じゃない!?」


「うるさい。こんなことなら、父王様のご遺言に従うべきだった。

 おまえと結婚して、バチが当たったんだ」


 元王妃は、息子と嫁が言い争うさまを見兼ねて、嫁の実家ランドルフ家に逃亡した。

 王宮にいると、政治官僚たちが内廷奥深くまで押し寄せて来て、今後の方針を問うてくるのも気重だったからだ。


 やがて、パーム王妃までもが、実家ランドルフ公爵邸へと帰ってしまった。

 それを機に、レイド国王は、再び、政府に黙って、親書をエリアに送り付けた。


 どうせ政府高官が中身を見たら発送するのを反対するに決まっているし、個人的な内容とも言えるので、送って構わない、と判断したのだ。


『パーム王妃と離婚するから、エリア、おまえに戻って来てほしい』と。


 エリアは、かつての婚約者から、今更ながら、復縁を迫られたのである。


 だが、またしても、レイド王は、隣国にいる元婚約者から、袖にされてしまった。


『「覆水盆に帰らず」と申し上げたはずです。

 謁見の間に漂った異臭をお忘れですか?』


 その結果、ついにレイド王は癇癪を起こす。

 いつまでもなびかない元婚約者の態度に腹を立て、返書を破り捨てた。


「おのれ!

 コッチが下手に出れば、良い気になりおって!」


 怒り心頭に達したレイド国王は、宣戦布告もせずに、万を超える軍勢を出撃させた。

 ラフラ帝国への軍事侵攻を開始したのである。


 もっとも、一足飛びに敵の本丸に槍が届くわけがないことはレイド王も承知していた。

 まずは〈厄災の沼〉の奪還を目指し、王国側に張り巡らされた壁を打ち壊し始めたのだ。


 幸い、ラフラ帝国の将兵が不在だったために、すぐさま沼地の近隣地域を奪還できた。

 だが、この勝利はまったくの無意味であった。


 沼地の汚泥からガスを生成する技術が、現在のドルク王国には存在しないからだ。

 技術研修団は派遣したものの、操作方法を知ったところで、肝心のタンクやガスを生成する機械が手元にはない。

 交戦状態に入ったラフラ帝国から機械を輸入することも、当然、できない。

 結局、大軍を派遣しながらも、ドルク王国が得たのは、泥水と異臭のみだった。


 すっかり活動する意欲をなくしたドルク王国兵を、今度はラフラ帝国軍が襲いかかる。

 沼地を大きく迂回しながら、左右両面から、圧倒的な火力で迎撃してきたのだ。


 しかも、帝国軍では豊富なガス燃料を活用していた。

 火炎放射器で、ドルク王国軍将兵が燃やされていく。

 それだけではない。

 沼地近辺の戦場に、歴史上初めて、自動車や戦車が登場したのだ。

 帝国軍の戦車五十台が、ガンガン砲弾を撃ちつくす。

 ドルク王国軍は瞬く間に陣形を崩し、崩壊していった。


「馬や牛が牽引しない車が、大砲を持ち出して来ただと!?」


 王国軍の将帥には信じられなかった。

 ドルク王国では、青銅製の大砲ですら、数台しか存在しない。

 だから、鋼鉄製の戦車による攻撃に、騎馬や歩兵で対抗するしかない状況だった。

 とても勝てるはずがない戦争だった。

 軍事兵器の技術水準に、五十年以上の開きがあった。


 王国軍将兵は武器を放棄し、両手をあげて降参していく。

 その結果、ドルク王国は、敵国の領土に一歩も足を踏み入れることもできないままに、壊滅的敗北を喫したのだった。


 それでも、レイド国王は敗戦を認めない。

 玉座の上に座ったまま、徹底抗戦を主張する。

 おかげで、ドルク王国民の間で憤懣が溜まる一方になっていた。

 身分の貴賤に関係なく、人々は言い募った。


「そもそも、ウチの国王は、どうして聖女と結婚しなかったんだ?

 先代の国王陛下が遺言なさったというのに」


「婚約してたのに、破棄したんだよ。

 あんなバカ女と結婚して」


「あのバカ女、先代の王妃様と結託して、益虫を殺しまくったんだろ?

 覚えてるよ。

『街を綺麗に』ってキャッチフレーズで、ジョウカ虫の駆除を奨励して、なんの役にも立たない草花を街中に植え付けて」


「花屋ばかりが儲けて、税金を無駄に垂れ流した。

 おかげで、薪も燃料も手に入らず、俺たちは凍えてるんだ」


「先代の妃からして、聖女ではない。

 そんなので、王家と言えるのか?」


 王国民が方々で暴動を起こし、やがて革命騒ぎへと変わっていった。


「俺たち国民にとっては、王族こそが害虫だ!」


 そうした怒号が、王都でも聞こえてくるようになった。

 その結果、王宮のみならず、名門貴族家の邸宅までもが、暴徒による襲撃を受けた始めたのである。


 護衛の者どもに逃げられ、裸同然となったランドルフ公爵邸にも、暴徒が流れ込んだ。

 逃げ場を失ったランドルフ公爵家の面々と、元王妃、そして現役の王妃は、略奪者たちの前で居直った。


 特に、元王妃デームは、群衆に向かってすら、柔らかな微笑みを浮かべ、


「落ち着いて話し合いませんか?

 私は王国民の理性を信じます」


 と述べ、現役の王妃パームは、頬を膨らませながら、


「私どもに責任はありません。

 女性に政治的権限がろくに与えられていないのは、あなたがたもご存知でしょう?

 すべてレイド王の軽挙妄動がいけないのですわ」


 と語った。

 だが、もちろん、群衆に聞く耳などない。


 雪合戦のように、群衆から雪玉をぶつけられまくって、彼女らは悲鳴をあげた。


「痛い、痛い!

 黒い雪をぶつけないで、話し合いましょう。

 暴力はいけませんわ!」


「私は国母なのよ!

 だから、私のせいじゃないって言ってるじゃない!」


 彼女たちが美しい装いをしたまま、甲高い声を張り上げたところで、逆効果だった。

 群衆は余計に興奮して、雪玉を投げつける。


 しかもその雪玉が、白い普通の雪玉ではなかった。

 黒雪の玉だったので、ぶつけられるたびに身体に毒気が染み込み、投げつける群衆の中にも気を失う者が出てくるほどだった。

 クラクラとめまいがして、元王妃も現役の王妃も、膝を屈して地に伏せてしまう。

 そうなってはお終いだ。

 ここぞとばかりに、暴徒どもは略奪を開始する。


 その結果、彼女たちは裸に剥かれて暴行を受けた後、放置されて凍死した。

 大勢の男どもに踏みつけにされた挙句、凍え死んだのである。


 そして、ほぼ同じ頃、王宮にも群衆が押し寄せ、レイド王も襲撃に晒されていた。


 このとき、元侍従のバークは即座に寝返った。

 技術研修団は諜報部員を多く抱えていたため、機を見るに敏だった。

 バークは団員とともに、群衆の頭目を相手に説得したのだ。


「金目のモノがある金庫と、王家の者どもが身を潜める隠し部屋へと案内しよう。

 だから、生命を奪うのは国王だけにしてくれ」と。


 群衆の頭目たちは、この勧めに乗った。

 彼らとて、無駄に殺戮を楽しむ趣味は持ち合わせていなかった。

 金目のモノを手に入れれば、あとは、頑固で愚かなレイド王を、権力の座から引き摺り下ろしたいだけだった。


 やがて、レイド王は群衆によって捕らえられた。

 下男に変装して納屋に潜んでいた彼を発見して縛り上げたのは、元侍従のバークだった。

 金髪をクシャクシャにしたレイド王は、涙ながらに絶叫した。


「バーク! この裏切り者め! 

 余は国王なのだ。今からでも遅くない。

 思い直してーー」


 今や侍従ではなくなったバークは、首を横に振る。


「無理ですよ。あなたも身分をわきまえなさい。

 国王陛下だとおだてられても、しょせんは国民あっての国王なんですから」


 そのまま王宮の中庭へ引き据えられ、レイド王は暴徒によって、あっさり斬首された。

 下男に変装していたこともあって、群衆と同様のボロい身なりをした男が、勢い余って首を斬られただけにしか見えない最期だった。


 その結果、国王夫妻が不在となり、暴徒の頭目らが、宰相率いる政府官僚と結託して、王権を掌握。

 すぐに隣国のラフラ帝国との交渉を始めた。


 その交渉に、帝国側は、即座に応じた。

 じつは、聖女エリアとハイト皇子が、バークら技術研修団を介して、ドルク王国政府と水面下で連絡を取り合い、民衆暴動を裏から糸を引いていたのだ。


 レイド王が軍隊を「厄災の沼」に向けて発したと同時に、ハイト皇子とドルクの宰相とが綿密に打ち合わせて、レイド王やパーム王妃、さらには無能な名門貴族の面々をドルク王国から一掃する作戦を発動させたのである。

 その結果、ドルク王家の打倒ーー実質的なクーデターが成功したのだった。


 レイド王を斬首して騒動が収まったと見るや、今度はエリアが精力的に動き始めた。

 大量のジョウカ虫と暖房機器を、ラフラ帝国からドルク王国へと運び込んだのだ。

 さらに、「厄災の沼」の壁際にまで引いていた天然ガスのパイプラインを開放し、ドルク王国領へのエネルギー供給を開始したのである。



 やがて、革命騒ぎが鎮静化した頃には、浄化力をたっぷり蓄えたジョウカ虫が活躍して大気が綺麗になることだろう。

 そして、大量の暖房機器によって、ドルク王国民も暖を取ることができるようになる。

 ーーそう思って、聖女エリアも、ハイト皇子もホッと胸を撫で下ろした。


 実際、このまま騒動が長引いて、本格的な混乱になれば、どれだけの人々が血を流すか、わかったものではなかった。



 騒動が一休みに入った頃、ドルク王国の王宮の応接間で、ティーカップを片手に、ハイト皇子は吐息を漏らす。


「良かったよ、ほんとに。

 ドルクの国王がヘタに優秀だったら、面倒なことになっていた。

 それにしても、あれほどしっかりした宰相や政務官僚がいながら、どうしてこうも失政を重ねられるのやら」


 ハイト皇子は、宰相をはじめとしたドルク王国政府の官僚たちとともにクーデター計画を練っていたから、彼らの優秀さに舌を巻いていた。


 エリアは苦笑いしつつ、紅茶を口に含む。


「愚物が上にいなくなっただけで、ドルク王国の風通しもずっと良くなるでしょうね。

 王国民にとって、良いことですわ」



 革命騒ぎで、国王が空位となってから半月後ーー。


 ついに聖女エリアが、隣のラフラ帝国からハイト皇子を伴って、正式に凱旋帰国を果たした。

 そして、それまでドルク王国の政治を担ってきた臨時政府が、ハイト皇子を初代資源大臣に任命し、聖女エリアを新女王として迎え入れることを宣言する。

 その結果、エリア新女王は即位すると同時に、国名をエリア王国に改めたのであった。



 かくして、正式にラフラ帝国との戦争は終結し、帝国とは平和友好条約を締結する。


 そして、エリア女王が即位してまず行ったことは、ドルク国王夫妻の取り巻きだった名門貴族家を軒並み取り潰し、政府機構に平民を積極的に登用することだった。


 幸い、貴族ながら有能だった宰相ら旧政務官僚らの働きにより、政権が安定し、エネルギー配給を整備し始めたときには、寒波が収まり、花咲く春が到来しようとしていた。



 女王エリアは、新王宮の食卓で朝食を摂りながら、肘をつき、思いを馳せる。


「結局、予言力があると言われたリイド国王は、いったいどんな夢を見たのかしら?」


 すぐ隣の席で、ベーコンを頬張りながら、ハイト皇子が応える。


「そうだね。きっと、この顛末を予知夢したんだろう。

 僕と君とが、ドルク王国を乗っ取る未来を。

 だから、そんな未来をなかったことにするために、自分の息子レイドを生き残らせるために、遺言したんじゃないかな」


「だとしたら、あんな遺言ーー『レイド王太子を、聖女と結婚させよ』っていう遺言があったせいで、私が女王になってしまったのだから、皮肉なことね」


「そうなんだよ。

 たとえ予知夢であろうとも、知ってしまったからには、その瞬間に、起きてしまった過去になる、と僕は思ってる。

 だから、リイド王は、『これから起きる未来』をなかったことにするつもりで遺言したんだろうけど、それは『起きてしまった過去』をなかったことにしようとしたってことになる。

 そして結局、起こってしまったことを、なかったことにしようとすること自体が、大間違いだったと思うんだ。

 ある著名な神学者も言っている。

『全知全能の神ですら、起こってしまったことを、なかったことにすることはできない』って。

 つまり、起こった出来事をなかったことにしようとするのは、神様ですら従っている、厳然たる真理の法則に刃向かう行為なんだ。

 そんなことをすれば、天罰が下るんだよ」


「だったら、予知夢を見ても、意味がないってことにならない?」


「いや。意味はあるさ。

 結果を先に知れるのだから、これから起こる事態に有利に対処できるはずだ。

 たとえ国を僕らが乗っ取ると知ったら、そうなった原因に手をつけるべきだった。

 泥沼の開発を帝国と協力するとか、大寒波に備えた暖房方法を工夫するとか。

 そういった根本問題に対処せずして、国を奪われたくない、息子を王にしたいといった個人的欲望だけで、結果を否定しようにも、それは神様が受け付けてくれないんだよ、きっと」


「闇雲な否定をするんじゃなくて、予知夢された『未来の現実』に向けて、どのように対処するか、どう向き合っていくか、という意志が大事ってことね」


「そうなんだ。

 たとえ変えられない未来であっても、その中身が変わると思う。

 ドルク王国が滅ぶにしたって、こうまで悲惨にならずに済んだはずだんじゃないかな。

 だから、『覆水盆に返らず』というのは、逆に言えば、『どんなに嫌なことであっても、起こったこと、その事実を受け入れろ』というメッセージだと、僕は思うんだ。

 しっかり正面から、起こった事実を受け入れれば、ーーつまり、『覆水盆に返らず』という事実をしっかり受け入れさえすれば、その人には、新たな展望が見えてくるはずだ。

 覆水を返そうとして、無理をして、かえってすべてを台無しにする人を、僕は何人も見てきた。

 水を惜しむばかりに、溢れてしまった水を拾い集めようとすると、結局は、無理をして、おかしなことばかりするようになる。

 執着するってことは、恐ろしいことなんだよ」


 私は横を向いて、ハイト皇子の頬を人差し指でツンと突っつく。


「なによ。まだ若いのに、おじいさんみたいなこと言って」


 ハイト皇子は眼鏡を掛け直しながら、頬を膨らます。


「なんだよ。これでも、君よりは四つも年上なんだよ。

 もっと敬意を払ってくれたってーー」


 私、エリアは大きく首を横に振った。


「いやよ。敬意を払うなんて、もうコリゴリ。

 相手が、王太子様だから、貴族様だからって気を遣ったところで、一向に待遇は改善されなかったわ。

 腰を低くすればするほど、ますます舐められて、いいかげんに扱われたって感じ」


「それは大変だったね。

 でも、僕は腰を低くするよ。

 そうすれば、かえって相手の人となりが良くわかるようになるからね」


 ハイト皇子はナプキンで口許を拭うと、スックと立ち上がった。


「さあ、そろそろ出廷なさるお時間ですよ、女王陛下。

 我がエリア王国の政治案件は山積みですが、尊敬に値する陛下ならば、すべて良きように計らってくださるでしょう」


 資源大臣であるハイト皇子は、微笑みながら片膝立ちになって、エリアの手を取る。


「もう。これだから、貴方は油断ならないのよ」


 エリア女王は満面の笑みをたたえて立ち上がり、ハイト皇子とともに、王宮の政務室へと出向いていく。

 渡り廊下の外では花々が咲き乱れ、小鳥の(さえず)りが聴こえていた。


 すっかり暖かな春の季節になっていた。

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佞臣 バーク、暴徒が王宮に押し寄せる前に、すでに宝物庫を荒らしていて、その資金で革命後にノシ上がっているかも
エリアを売った親へのざまぁは、泥沼に捨てられて以降はエリアが全く親の事を思い出す事も心配もしてないって所かな? すでに凍死してるかもしんないけど バークは蝙蝠みたいなところがあるので、いつ裏切るか分か…
バークくんの大勝利なんやなって
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