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木曜日の天使  作者: しゃかもともかさ
1.透明な言葉
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5/♪-Ⅱ

 一樹の視線がわずかに下に動く。

 それを追って私ははっとする。

 その動揺が顔に出てしまったのか、村田和彦が笑みを濃くする。


「なんだ。意外と人間っぽい」


 村田和彦の上履きが赤く染まっている。

 彼の足の下に古いゴムのようなものがあった。

 おうとつがあり、緩やかに波打っている。

 何かに貼りついていたもの、例えば、蜜柑の皮を剥いて、テーブルの上に置いたら、あのように平面に対して膨みを持つかもしれない。


 死体。

 それを意識した途端、教室の温度が十度下がった気がした。

 それなのに、私の背中には汗が流れる。


「山城の顔を剥いで、すっきりした?」


 一樹は淡い笑みのままだった。


「ほっとしました」


 村田和彦は長く息を吐く。

 笑みを作る隙間に空気が通る度に、唇が小刻みに振動する。


「もう山城の顔を見なくて済みますから」


 少年はかがみ、土下座の山城の髪を掴んで起こし私に見せた。

 顔があったはずの部分には肉は血と脂肪で光沢している。

 顎を失ったせいで収まる場所をなくした舌が、だらんとだらしなく垂れ、ゆらゆらと揺れていた。

 まぶたの失った眼球が、私をじっと見つめる。


「こんなでもお前らはこいつに欲情すんの?」


 私は表情を変えない。

 視線を動かさない。

 言葉を発さない。


 村田和彦を喜ばせたくなかったから。

 あの、劣等感をこじらせた汚らしい人間に負けたくなかった。

 でも、そうするとあの出来の悪い人体模型を直視し続けなければならない。


 一樹。


 心の中で彼の名前を呼ぶ。

 その声が届いたわけではないのだろう。

 彼は「村田くんさ」と〈悪魔憑き〉の名前を呼ぶ。

 それで、村田和彦の意識は私から逸れてくれた。

 誰にも悟られないように短く息を吐く。


「山城の顔は嫌い?」

「納得がいきません。大人は人の良さは顔じゃないっていうのに、やっぱり顔じゃないですか」

「世知辛いけど、そうなのかもしれない」


 一樹はまだ穏やかな口調を崩さない。

 余裕さえ感じる。

 それが村田和彦には気に入らなかったのか、彼は小さく舌打ちをした。


「ああ、それと」


 村田和彦の頭が左右にゆっくりと揺れる。

 メトロノームのように。山城の頭が床に落下した。


 ごつん、びしゃ。


 重たい音に湿った音が交じる。


「みんなが俺を見て、怯えていたのは気持ち良かった。笑顔が消えて、顔が白くなって。俺もやればできるんだぞってことを示せたっていうか。我慢していただけで、その気になれば、簡単なんだって」


 一樹は無言を返す。私は自分の呼吸が少しずつ浅くなっているのを感じていた。


「もっと早く、こうすべきだったのかも」


 チャイムが鳴る。

 村田和彦がゆっくりと席を立つ。


 立ち上がると、想像していたよりも長身だった。

 手足がひょろっと長く、血の匂いもあいまって幽鬼を連想させる。

 彼が足を動かすと、山城の皮が木製の床を滑る。


 ずるり。


 水気のある音が空気を伝って私の耳に流れ込む。


 私は一樹の唇の動きを注視する。

 意識を一樹に集中させる。

 彼が指示をすれば、一瞬を待たずに私はそれに従うことができる。


 早くして。

 もう十分でしょう。


 なのに、一樹はその言葉をまだ発しない。


「村田くん。もう少し、僕と話そうよ」

「でも、次は体育の授業で、バスケなんです」

「バスケは好き?」

「好きなわけないじゃないですか」


 村田和彦は喉の奥を小刻みに鳴らす。


「ボールを取りに行くとき、みんな、わざと肘を、俺に、ぶつけるんですよ」

「みんなって?」

「みんなはみんなです。笑いながら。それを分かってて、みんな、俺にパスをする。俺がパスをしようとすると、知らんぷりして、ボールは外に出て、相手ボールになっちゃって……」


〈悪魔〉に侵された少年は、吐き捨てるように言う。


「サッカーも嫌いです。俺にボールが行くと、みんな俺の足を思いっきり蹴ります。でも、先生はファールを取ってくれません。少し笑うだけです」

「嫌なら、無理して行く必要はないじゃないか」

「でも、学級委員だから。みんなの模範にならないと」

「誰かにそう言われたの?」

「安藤先生」

「あんな厚化粧の言うこと、気にしなくていいじゃないか」

「でも、先生だし、成績、落とされたら、俺……」


 止めないでください。

 村田和彦は静かに言う。

 懇願するかのようだった。


「神父さんも俺のこと笑うんですか」

「笑わないよ」

「嘘です」


 村田和彦は顔を歪めて断言する。

 声は機械音声のようにおうとつがない。


「大人はそうやって言いますけど、腹の中ではいつも笑っているんです。安藤先生も、僕のことを気にかけるふりをして、実際は違った。山城のことを言ったら、少しからかわれてるだけよって。そんなことよりって、どうでもいい説教されて。たぶん俺、面倒なやつだって思われてたんです。だから、銃を向けて……」


 村田和彦の瞳に炎が宿る。


 一樹、指示を。


 私はかすれた声で言う。

 教室が〈悪魔憑き〉の存在感(におい)で充満していた。


 炎というものは、一度火が着いたら燃料が尽きるまで燃え続ける。

 その原理は感情(たましい)を燃やす〈悪魔憑き〉も変わらない。

 そして、消し去る方法も。


「大人は信用できません」


 村田はその言葉を確かめるようにもう一度「大人は信用できない」と繰り返す。

 信じていたもの、例えば、幼い子供がサンタクロースなんていなかったと知ってしまったかのように。

 恥ずかしさを隠すために、「騙されたふりをしていただけだ」と強がるかのように。


「子供が使うその言葉にだいたいの大人と呼ばれる生き物は弱いよ。だって言い訳できないし」

 一樹は悪びれず、冷静な態度を崩さないまま続ける。

「でもね、子供が信じるような大人なんていないんだ。最初から、どこにも」


 村田和彦の手が、一樹にゆっくりと伸びる。

 爪の隙間に血の塊や肉の破片がこびりついていた。

 村田和彦は山城の顔の皮を、肉をそれで剥いだのだろう。


 彼の手は人体を削ぐものとして適したものへと歪んでいた。

 例えるなら肉食の獣の凶暴な牙。

 もしくは肉専用のショベル。


 私はもう一度、一樹に指示を乞う。

 今度ははっきりと声に出た。

 彼は困ったようにこちらを見て、小さく笑う。

 ごめんね、と唇が動く。

 そして、悲しげに「釣り合わないな」とため息に混ぜて呟いた。


 それに、続く言葉を私は聞き逃さない。

 長く長く待ち望んでいた。

 そんな気さえした。


 私はさっさと終わらせたかったのだろう。

 もしかすると、この教室に入った瞬間から。


 だって、あの〈悪魔憑き〉は少し、かつての宮尾薫子と似ている。

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