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木曜日の天使  作者: しゃかもともかさ
1.透明な言葉
6/18

5/♪-Ⅰ

 少年は背筋が伸び、模範的な「正しい椅子の座り方」をしていた。

 教科書とノートを開いている。


 あれが村田和彦だろうか。


 彼の横に、男子の制服を着た人型が倒れていた。

 うずくまっていて顔は分からないが、ぴくりとも動かない。


「あなたが神父さん?」


 変声期途中の独特の低音が教室に響く。


「そうだね。そう呼ばれている」

「なんていうか思ったより……優しそうですね」

「情けないじゃなくて?」

「そう言おうと思ったけど」

 少年ははにかむ。

「せっかく気を使ったのに」


 教室は机や椅子が好き勝手の方向に向いていた。

 大勢の生徒が一心不乱に廊下へと向かって走ったらこうなるだろう。

 誰かの上履きの片方だけがひっくり返った状態で落ちている。

 明日は雨、とつまらないジョークを口の中で呟く。


「人を憎み過ぎると神父がやってくる……って話、本当だったんですね。じゃあ、隣の人が〈天使〉?」


 私が答えないでいると、彼は少し機嫌を損ねたらしい。

「ロボットみたいですね」と言った。


 村田和彦は線の細い真面目そうな男の子だった。

 もっと言ってしまうと、悪気のない無垢な悪意を向けられやすそうな雰囲気をまとっている。


 どこにでもいるのだな、と私は他人事のように考える。

 事実、他人事ではあるのだが、宮尾薫子の身近にもそういう人がいたのだ。


 その男の子はいわゆる不良と呼ばれる人たちにからかわれていた。

 何人分もの荷物を持ちながら学校の校門を出て行くのを何度も見たことがある。

 彼は荷物の持ち主の家を一つ一つ歩いてから、ようやく自分の家に帰ることができるのだ。

 直接的な暴力を受けているところを見たことはない。

 でも、彼は「死んだら楽になるかな」と冗談のような口調で言っていた。

 宮尾薫子はそれを半分くらい聞き流した。

 そして、「今読んでいる小説がたまらなくつまらない」という話をした。


 あの人は今、どうしているのだろうか。

 人生に絶望を感じている全ての人が〈悪魔憑き〉になるわけではない。


「こう見えて、彼女は結構表情豊かだよ。ことあるごとに僕を羽虫のように見るし、意外と可愛いもの好きだ。この前なんて、猫に話しかけていて……」


 私は村田和彦の死角で、一樹のかかとをつま先で蹴る。

 それから「さっさと済ませましょうよ」と一樹にだけ聞こえる声で伝える。

 彼は苦笑いを浮かべて「もう少し待って」と言った。


「仲いいんですね」

「そうかもね」

「その子のこと、好きなんですか?」


 一樹は困ったように笑ってから、首を傾げる。

 男と女がいたらなんでもかんでも男女の仲に結びつけるのは、思春期特有の思考なのだろうか。

 私は小さくため息をつくが、一樹の返答に興味がないわけでもない。


「ラブというよりはライクかな。ベリーマッチをつけてもいい」


 私は表情を変えないように努める。


「いいですね、そういうの」

「そうかな」

「ボーイミーツガールが好きなんです。ええと、なんというのかな。片仮名でプラ……」

「プラトニック?」

「はい」


 村田和彦はゆっくりとした動作でうなずく。


「俺は精神的な恋愛に憧れがあるかもしれません。『ローマの休日』みたいな」

「古い時代の名作だ」


 一樹は楽しげに言う。

 彼は映画や読書が好きでその守備範囲は広く旧時代の作品にまで及ぶ。


「うん、でも、僕たちはプラトニックというか、プラスチックかもしれない」

「なんですかそれ」


 私の内心と村田和彦の言葉が被る。


「無色透明だけど、着色は可能だ。熱してから固めれば、どんな形にもなれる。耐久性もそれなりだ。ガラスのようには砕けない。でも、安っぽいというか、味気ないかもしれない」

「よく分かりません」

「仕事の関係ってこと」


 目の前の少年は薄く笑う。

 私はあまり面白いとは思わなかった。


「神父さん、変な人ですね」

「そうかも。よく言われるから」


 一樹は黒板の前にゆっくりとした動作で移動する。

 教壇に手をつき、村田和彦を真っ直ぐ見た。

「では、授業を始めます」と言い出しそうな雰囲気すらあった。


 私はどうすべきか。

 考えた末、教室の入り口のところで傍観に徹することにした。

 ちらっと村田和彦がこちらを見たが、すぐに興味を失ったらしく、一樹の方へと向き直った。


「そこで横になってる男の子について聞いていい?」

山城(やましろ)ですか?」


 村田和彦は顔をしかめた。


「山城くんというんだ」

山城直也(やましろなおや)です。あまり詳しくありませんよ」


 山城は村田和彦に向かって「ごめんなさい」と土下座をしているようにも見える。

 その山城に、村田和彦は軽蔑と嫌悪を込めた目を向けていた。


「嫌なやつ、なんだろ?」


 村田はわずかに目を大きくした。


「分かるんですか?」

「分かるよ。顔は見えないけど」


 一樹は目を細めて笑う。


「髪をワックスで固めているだろう。こういうやつは、ワイシャツの下にティシャツを着るものだ。派手な赤とかオレンジとか」

「赤です」

「ほらね」

 一樹はため息をついて、嘆かわしそうに笑った。

「こうやって制服の袖をまくるのも、良くないね。上履きのかかとを潰して歩くなんて典型的。嫌なやつの標本みたいな男だな」

「上履きのかかとくらいは」

 村田和彦は苦笑いをする。

「俺も踏むこともありますけど」

「誰しも少しは嫌なやつだ」


 そうですね、と村田和彦はゆっくりとうなずく。


「でも、山城はモテるんです」

「嘆かわしい。けど、そういうものだ」

「俺くらいの年の女は、悪ぶってる男がどうしてか好きなんですよ」


 村田和彦がこちらを睨んだように思えたのは気のせいではないだろう。

 完全なとばっちりだ。

 私は視線を動かさず表情を変えず、村田和彦が言った「ロボット」であることを意識する。


「女子はプラトニックが嫌いみたいで。山城が女子の身体を触ると、そいつは頬をだらしなく緩ませて、腰をくねらせながら喜ぶんです。『やめてよ』って言いながら」

「君はそれが嫌なんだ?」

「嫌というか」

 村田和彦は顔をしかめながら視線を泳がせる。

「みっともなくて嫌いです。俺の見えないところでやるなら、別に、かまわない」

「分からなくもないよ。道を歩いていて、目の前で急にカップルがキスをしたら気まずい。見てはいけないものを見せられた気になる」

「それもありますけど」


 俺、学級委員なんですよ、と村田和彦はぼそっと言った。


「へえ。自分で立候補したの?」

「違います」


 村田和彦は少し声を大きくした。


「山城に推薦されたんです。そしたら、他のやつもやれって言い出して。嫌だ、向いてないっていったのに、空気読めよって言われたから、仕方なく」


 何となく、その光景が想像できた。

 宮尾薫子もそういう経験をしたことがあるからだろう。


 学校に来なくなったクラスメイトに向けた手紙を届ける役目を決めるときだった。

 クラスの中心的存在のグループからやりたくもないのに押しつけられて、「宮尾さんが一番向いていると思う」「得意でしょ」と意味不明な理由で説得をされる。

 それでも首を振っていると「空気読もうよ」と周囲は薄く笑って肩をすくめた。

 宮尾薫子が悪いとでも言うように。


「どうして山城は……」

 一樹は村田和彦の口調に合わせたのだろう。土下座の少年を呼び捨てにした。

「君を推薦したのだろう」

「俺、塾に通っていて。だから、成績がいいんです」

「良いことじゃないか」

「別にたいしたことじゃないです。学校の勉強なんて。予習と復習さえしっかりやれば誰でも」


 村田和彦は塾ですでに中学校で習う範囲を終え、難関高校の受験用の勉強をしているのだと早口で言う。


「だから、フツーです」

「でも、それは君が他の人より努力してるってことだろ? 立派だよ」

「どうなんですかね」


 村田和彦はにやけそうになる顔をしかめっ面に変えながら、髪を引っ張るようにして撫でつける。

 手に血がついていたのだろう。

 髪が湿って、光沢していた。


「でも、山城はそれが面白くなかったらしくて、調子に乗ってるって、俺につっかかってきて……空気とか調子とか、俺、よく分かんないんですよね。苦手です、そういうの。それが悪かったのかな」


 どこにでもよくある仕方のないことだ。そう思った私は薄情だろうか。


「山城、俺の肩を叩くんです。拳で」

「肩パンというやつだね」

「そういう名前があるんですね」

「なんだって名前はあるよ。何万光年も遠くにある星にだって名前があるんだから」


 村田和彦はうんざりとでもいうように、ため息と共に肩を落として首を振った。


「山城は僕が痛がると笑います。クラスのみんなも」


 俺、笑顔が怖いんです。

 椅子に座る村田和彦は身体を小さくして訴える。


「人の笑顔が嫌で。本当に。何度もやめるように言っても、面白がって笑って聞いてくれないんですよ。あるときは交換条件だ、ノートを見せろよって言ってきて。あいつ、授業中はいつも寝てるから。でも、先生はあまり注意しない」

「あの厚化粧の?」

「安藤先生も山城が好きなんですよ」

「言い過ぎじゃない?」

「だって、寝ている山城を起こすとき、直也って下の名前で肩叩いてました」

「それは……」

 一樹は汚物に触れたかのように顔を歪める。

「気持ち悪い」

「キモいです」

「うん、キモい」

「俺、そういうのもあって、絶対にノート見せたくなくて」


 村田和彦は空気を切るように息を吐く。


「俺なりの意地もあったと思います。そしたら、山城は、だったら仕方ねえなって、俺の肩をげらげら笑いながら叩いて、周りもなんだか、俺を見てにやにやして。いつものことです。いつものことなんですけど……」


 村田和彦の口調が抑揚を失う。

 それに反比例するように、彼の瞳が黒い感情で染まっていく。


「でも、急に我慢できなくなって」

「だから、顔を剥いだんだね」


 はい、と村田和彦は笑みを浮かべてうなずいた。

 悪辣な笑みだった。目尻が下がり、唇の端がつり上がる。


 つまらない表現をしてしまえば悪魔的だった。

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