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一樹が私に手を振っていた。
表情が崩れそうになったので、顔に力を入れて耐える。
エレベーターの扉が完全に閉まったのを確認してから息を長く吐く。
頬の辺りを触って筋肉を労った。
エレベーターの箱がゆっくりと上昇していくのを感じる。
展望台がある階を通り越して、さらに上へ、上へ。
ガラス張りになっていたら景色を見て多少暇を潰せたかもしれないのだが、観光施設ではないのでその辺りの配慮はない。
ようやく扉が開いた。
白衣を着た職員と入れ違いになるようにして、エレベーターから出る。
観測局のフロアは病院とどこか雰囲気が似ている。
職員たちが白衣を着ているのもあるかもしれない。
彼らは白衣だが、何かの実験をすることはないし、誰かの治療はしない。
観測局の仕事は〈塔〉の観測によって得られた膨大な情報を一つ一つ確認していくことだ。
基本的に確認することへの目的はない。
よく晴れた日の夜、満天の星空を眺めるようなものだと言えば聞こえがいいが、実体としては覗き見趣味の変態集団である。
それでも、彼らは学校の成績のことや、食事の作法でけちをつけるようなことをしない。
よほどの犯罪行為や〈悪魔憑き〉の傾向でもない限り、見て見ぬふりをする。
だから、親や教師という存在と比べたら、ずっと無害な存在と言えるだろう。
「パソコン室」というプレートが掲げられた部屋には、何人かが作業をしていた。
そのうちの数人は私と同じ〈天使〉かもしれないが、判別は付かない。
空いている席のパソコンの一つを立ち上げて、レポートを書く作業に取りかかる。
旧型なので起動が遅く、少し待つ必要がある。
前髪を人差し指と親指の間で挟んで、糸をよるようにして暇を潰す。髪留めがある分、遊べる前髪は少ない。
*
「〈天使〉は〈塔〉に観測されているのだから、レポートを書く意味なんてないと思います」
一樹にそんなことをぼやいたのは、彼と知り合ってまだ間もないころのことだった。
〈塔〉からマンションへ向かう帰り道。移動は自動車で、私は一樹の存在を不要に感じたが、彼は「送るよ」と言って譲らなかった。
「薫子は自分の考えを書いたりするの苦手だっけ」
「そんなことありませんよ」
「そうだよね」
一樹は苦笑いした。
「結構ズバズバ言うもんね。僕に」
それは一樹が私を馬鹿しないからです、とは言いたくなくて、「威厳がないからではないでは?」と誤魔化すと、彼は「威厳か……」と嘆いた。
「レポートの意味か。うーん……確かめることは大事だと思う。現在地を見失っていないか」
「現在地、ですか?」
「今どういう状態なのか、ということ。〈塔〉は人間を常に観測している。ほとんどの人間をね」
一樹によると、〈悪魔憑き〉は〈塔〉の観測対象に含まれないのだという。
その理由は、「〈悪魔〉を観測することにより、〈塔〉自体が汚染されることを避けるため」と言われているが、正確なことははっきりしていない。
「だから、〈塔〉に行けばある程度のことは把握できる」
「ある程度、なのですか?」
「あくまで記録だからね。客観だ。主観と客観は違うよ。違ってもいい。でも、乖離し過ぎているのは……」
「問題があるのですね」
「その場合もある」
一樹はあまり断言というものをしない。
彼の言葉はときにあやふやで、ときに柔らかい。
「だから、客観的ではない主観的な記録を残して比較するというのは、モニタリングとして悪くない手法だと思うよ。日記とかね。過去の自分というのは、わりと冷静に受け止められるものだし、それは客観的とも言える」
私は一樹の答えに一定の納得を得たので、頭を縦に振る動作をした。
それと同時に「一樹は現在地を知ることはできないのだな」と考えた。
一樹は〈塔〉に観測されない。
彼の喜びや苦悩は彼自身だけのものであり、世界に記録されない。
彼がこの世界から姿を消して、彼を知る全ての人がいなくなったとき、世界には「神林一樹」という情報は何も残らない。
私はそのことを可哀想とも大変そうとも思わない。
ただ、もしかすると一樹はこの世界で最も自由で、最も孤独なのかもしれないと思った。




