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適当な場所で車を止める。
一樹と薫子が降りると、無人となった赤い車は「さよなら」も言わずにどこかへと走り去って行った。
〈塔〉は近くで見てもただのオフィスビルのようにしか思えない。
でも、見上げても頂上が見えないから、何かどうしようもないほどの果てしなさを感じてしまう。
もしかすると〈塔〉に先なんてものはないのかもしれない。
自動ドアを通り、一階フロアに入る。
静寂は嫌いではないが、この無菌室のような雰囲気はどうにも落ち着かず、思わず苦笑いしてしまう。
人の数としてはそれなりのにぎわいであるはずなのにしんとしていて、自分の心臓の鼓動や唾を飲み込む音が変に目立ってしまわないかと気になって仕方ない。
薫子の顔を見る。
表情に疲れが見られるが、顔色は悪くない。
機嫌はとても悪そうだ。
「それじゃあ、またあとで。二階のラウンジで落ち合おう」
無視されると思ったが、薫子は「はい」とうなずいてくれた。
薫子が上の階へと向かうエレベーターに乗るのを、手を振って見送る。
顔をしかめられた。
首をひねる。
年頃の女の子の機嫌を直す特効薬がさっぱり思いつかない。
そんなもの、世界のどこを探してもないのだろう、とこの世の不条理を嘆きながら逆三角のボタンを押す。
〈悪魔憑き〉の対策本部は地下にある。
〈塔〉は地表に伸びている部分が観測を担っていて、地下に突き刺さっている部分は観測された情報の保存に使われている。
〈神父〉は祓った〈悪魔憑き〉を記録しに行かなければならない。〈悪魔憑き〉は〈塔〉に観測されない存在だ。できる限りその情報を記録しておきたいということなのだろう。
迎えに来たエレベーターに乗る。
制服の少年少女が一樹のあとに続いた。高校生だろうか。
薫子と年が近そうで、二人とも無垢な表情を浮かべながら、「学力試験がいかに不要であるか」を熱心に語っていた。試験が多い学校だと、そろそろ中間考査の時期だ。
同乗者二人は薫子とはずいぶんと違う。
表情の作り方や声の温度が。
薫子も本来であれば、成績のことだったり教師の不遜な態度に対する苛立ちや不満だったりを誰かにぶつけてもいい年だ。
彼女はきっと、色々抱え込み過ぎてしまったせいで、純粋な感情を消費し切ってしまったのだろう。
けれど、それは成長の過程で誰しも少しずつ失うもので、年老いてまで残っている人の方が珍しい。
代わりに得るのは、諦観や妥協と呼ばれるものだ。
階数が表示されない不親切設計のせいで、自分がどれくらい地下に潜っているのか分からない。
鈴の音を模した機械音が到着を告げるのを待つしかない。先に制服の二人が降りた。
「開く」のボタンを押していると、彼らは「ありがとうございます」と声を揃えて一樹にお礼を言った。笑みを作って会釈を返す。
彼らは何の用があって〈塔〉に来たのだろう。調べものだろうか。
もしかすると、試験の答えを探しにきたのかもしれない。その気になって検索をすれば、この世界の成り立ちまで知ることができる、〈塔〉ほど調べごとに適している場所はない。
またしばらく待って、鈴の音が鳴る。
無機質な灰色の壁と天井、タールを固めたような黒の床が囲む通路を進み、鉄製の扉を目指す。扉を開けると、ようやくいくらか人間味のある空間が現れた。
「悪魔憑き対策本部」の事務所は十人前後で使う部屋としては大きすぎて、机と椅子が各々独立し、群島のように見えなくもない。
その島の一つで遠塚真歩が不味そうに缶コーヒーを飲んでいた。
喪服のような黒いスーツに遊びのないショートヘア、腰を下ろしていても長身と分かる大人の女性、そして缶コーヒーという組み合わせは何度見ても惚れ惚れとするものがある。
机の上にシャンパンタワーのように積み上げられている空き缶がなければ、の話ではあるが。
そのタワーの横に無造作に置かれた義手。
〈神父〉は何かしら欠けている者が多いが、遠塚真歩の場合は分かりやすい。
他の同僚の姿はなくパソコンの画面は黒いままだ。
外出、もしくは非番なのだろう。
もしかすると、一樹は休日出勤の貧乏くじを引かされたのかもしれない。
その辺りを追求しても精神衛生上よろしくないので気にしないことにする。早速、諦観だ。
「コーヒー、僕の分もありますか?」
上司に対していきなり「コーヒー頂戴」とはなかなかに失礼だという自覚はあるが、遠塚真歩は挨拶をすると不機嫌になるという生き物で、これが正しい取り扱いである。
「冷蔵庫にあるよ」
一人暮らし用の小さな冷蔵庫の扉を開けると、缶コーヒーがぎっしり詰まっていた。
無糖、微糖、ブレンド、深煎り、マイルド、モカ、エスプレッソ……などなど。
「至福の」とか「香る」などの単純な形容詞がつけられたものもあれば、「旨さ挽き立つ」といったコーヒーの「挽く」と「引き立つ」をかけたのだなと微妙に感心させるものもあった。
「朝限定」はもはや意味不明だ。昼に飲んだら中毒死するのだろうか。
遠塚真歩は缶コーヒーで栄養のほとんどを摂取できると思い込んでいる節があり、冬ごもり前のリスよろしく、冷蔵庫を缶コーヒーでいっぱいにしたがる。
一樹や他の同僚が飲むことが許されているのは、缶コーヒーの中でもとびっきりの安物だ。
ラベルに大きく「ブラックコーヒー」とゴシック体で書かれているから分かりやすい。
口をつけてみると、無糖のはずなのに妙な甘さを感じるから不思議だ。上司に倣って顔をしかめてみる。
パソコンを立ち上げ、レポート作成に取りかかる。
できるだけ客観的に〈悪魔憑き〉の情報を記述しなければならない。
〈神父〉の書いたレポートが〈塔〉の記録となる。一度〈塔〉に登録された情報の修正は利かない。
つまり、責任は重大だ……が、そのレポートやデータが〈悪魔憑き〉の対策に活かされることは基本的にない。
〈塔〉の役割は「観測」だからだ。要するに「対策本部」とは名ばかりなのである。
〈悪魔憑き〉ほとんど災害のようなもので、根本の解決なんて望めない。
発生した事件に対して、武力で解決する。
つまるところ、〈神父〉は賞金がもらえない賞金稼ぎのようなものなのだ。
そう考えると、月末、口座に振り込まれる給料と仕事が釣り合っていないように思えなくもないが、転職を考えるほどの苦労はしていない。
今のところ妥協の内に入っている。
*
村田和彦のレポートができあがる。
プリンターからそれを出力し、室長である遠塚真歩に提出して「ん」という言葉と判子を頂戴する。
「では、僕はこれで」
「待て。これ、お前が持ってって」
やはりというか、引き止められた。一応の抵抗を試みる。
「〈アリス〉へのレポートの本提出は室長の仕事のはずですよ」
「室長命令」
職権乱用ですよ、と口答えする度胸は一樹にはない。
でも、だいたいの場合において無敵の遠塚真歩にも苦手なものがあるというのは面白い、もとい、貴重なのだ。
「あいつ、真歩さんに会いたがっていましたよ」
「私は会いたくないんだ。お前はアレのお気に入りでしょ」
「真歩さんもお気に入りだと思いますよ。いじめがいがある的なこと言ってますし」
「いつ?」
「しょっちゅう」
「……」
八つ当たりの拳が飛んで来そうな気配を察知したので、レポートを持って事務所から退散する。エレベーターに乗り、更に下層を目指す。
対策本部より下は〈塔〉に所属する職員の中でも余程の権限がないと潜れない。
その権限は権力の大きさや地位の高さというより、〈アリス〉に気に入られているかで与えられる。
平の職員……どころか使い捨てのティッシュペーパーと表現しても過言ではない神林一樹が〈アリス〉のいるフロアまで潜ることができるのは、彼女もしくは彼と形容できる『それ』にいくらか気に入られているからだろう。
低く鳴り響くエレベーターの音をぼんやりと聞く。
下へ下へと進むエレベーターが止まる気配はまだない。眠気を感じてうつらうつらしたところで、「こんなところで寝たら風邪を引くぞ」とでも言うようにがこんとエレベーターが揺れる。電子音の鈴が鳴り、扉が開く。
白い砂漠、もしくは大海原だ。
白に染め上げられただだっ広い空間がどこまでも続いている。
その中心……と判別することはできないが、エレベーターを出て少し歩いたところに机と椅子、本棚、食器棚、そしてベッドが投げ捨てられたように置いてある。
全て〈アリス〉の私物だ。
「全て」というのは、家具のことではなく、この空間に存在する空気や光の粒子、物理法則に至るまで全てだ。
〈アリス〉はベッドにうつ伏せになって足をぶらぶらとさせていた。
見るからに退屈そうだが、一樹に気づくと少し驚いた顔をした。
すぐに笑顔になり「やあ」と朗らかに手を挙げた。




