3.
3年の夏休み明け。学校の図書室の自習スペースはどんどん混んできて、授業が終わってからダッシュで向かわないと、机が取れない状況となる。だから、顧問の先生や後輩たちが気を使ってくれて、夏休み前で部活を引退したはずの3年は、部活の終了時間までという条件付きで、化学部の実験準備室を自習用に使えることになった。
実験準備室は、器具や化学品がしまわれた棚や白衣をしまうロッカーなどが置いてある、もう、ほぼ物置と言っても差し支えないような狭い部屋なんだけど、温度管理が必要な化学品もあるから、ちゃんと、空調が効くようになってるし、いちおう、作業台として使う小さな机があるから、数人であれば問題なく勉強が出来た。とは言っても、塾に通わず自習することを選んだのは部内でも僕と譲君くらいで、あとの3年はみんな塾に通い出したから、自然と、実験準備室で二人で勉強することになった。
僕が塾に通わずに自習を選んだ理由は、通学時間の長さがネックだったからだ。家から最寄り駅まで自転車で30分、そこから在来線で片道1時間、往復で3時間もかかるから、塾の授業を受けて、予習復習もして、過去問も解いて…なんて、とてもじゃないけど時間が足りない。あとは、家に帰れば両親が教えてくれるし、姉が5年前に大学に現役合格しているから、どういう勉強をどのスケジュールでこなせばよいのかがだいたいわかる。だから、きちんと勉強する場所さえあれば、受験は何とかなると思っていた。だから、譲君と一緒に勉強したかったからとかそういう想いは、決してない、当時はそう言い聞かせていた。
後輩たちが理科室で部活動をしている間、僕と譲君は実験準備室でひたすら勉強をする。お互いに足を引っ張ったりする時期じゃないことは分かっていたから、本当に、ただひたすら無言で勉強をするだけだったけど、僕は、その時間が好きだった。譲君が走らせるペンの音にこっそり耳をすませて、たまに、背を伸ばすふりをして、ちらりと譲君を見た。問題集とノートを行き来する彼の視線が僕をとらえることは決してなかったけど、でも、それでよかった。それだけで、満足していたはずだった。
それが起こった日も、僕と譲君が勉強していたときだった。実験準備室の扉が開いて、申し訳なさそうに、後輩が顔をのぞかせた。
「あのー…すみません、今日、僕たち、早めに切り上げようかと思っていまして」
どうやら、文化祭の打ち合わせにかこつけて、みんなでご飯を食べに行く日だったようだ。
「すみません、もっと前に先輩たちに伝えていればよかったんですけど、誰かが伝えただろうってみんなで思ってたらしくて…」
「そうだったんだ。いいよ、今日はもうここ出て、これから図書室行くよ。もしかしたら自習室のどこかが空いてるかもしれないし。ま、空きがなかったとしたら、おとなしく家に帰るよ。俺、家だとついテレビ見ちゃったりとかするから、誘惑に負けないように頑張らないとだけど」
そう言いながら、譲君が筆記用具をしまおうとする。
「あ、うん。僕も大丈夫だよ!まあ、僕は譲君と違って誘惑には負けないタイプだけど」
軽口をたたきながら、僕も、片付けを始めようとしたところを、部活の顧問の先生がひょいと顔をのぞかせて止めた。
「高橋も、高木も、今日はこのまま使ってもいいぞ。俺たちがちゃんと伝えていなかったからな。使い終わったら、鍵しめて夜勤の事務員さんに返せばいいようにしておくから」
その一言で、実験準備室をそのまま使えることになった。
理科室はしばらくがやがやとしていたが、全員いなくなったのか、とたんに、静かになった。譲君はしまいかけていたノートを再び開き、筆箱からペンを取り出す。その様子をなんとはなしに見つめていたら、ふと、目線を上げた譲君と目があった。
「…どうした?やらないの?」
「あ!やるやる、やるよ!せっかくこのまま使わせてもらえることになったし。時間がもったいないしね」
僕もそう言ってノートを開く。問題集を手に取って、続きのページを開けようとすると、向かいから声がかかった。
「な~、さっき言ってたことだけど。真緒ってさ、家でも勉強できるタイプなのって、本当?」
「え?うん。そうだね。僕は、勉強するって決めたら、テレビ見たり他のことしたりってことはないかな」
「え~うらやましい!俺は本当ダメだ。誘惑に弱いっていうか」
「それで、自習室の場所取りにこだわってたの?」
「まあ、そうなんだよね。家だと絶対他のことを始めちゃうし、教室だと誰かしゃべってるやつがいるとそっちに絡んじゃうから。図書室の自習室みたいに、勉強するんだってとこじゃないと集中できない。本当、この準備室使わせてもらえることになって助かったよ。自習室はなかなか取れないけど家だと勉強できないし、市立図書館は駅とは方向違いで少し距離もあるし、塾通うっていうのもなんだかなって思ってたし」
「ううん。いいよ」
こんなに譲君と話すのは久しぶりな気がする。笑顔でうなずいて、僕は、問題集の続きのページを探した。
一段落つき、思いっきり背を伸ばす。気が付いたら、ちょうどいい時間だ。譲君もそのことに気が付いたのか、今日はもう自習を終えて帰ることにした。
実験準備室から理科室に出ると、ちょうど夕暮れの時間で、教室全体が真っ赤に染まっていた。
「あー。いっつもすぐに準備室直行だったから、こっちはなんかなつかしいな」
そう言って、譲君が理科室の机をなでる。その長い指先に妙にドキドキした。
「あ、そういえばさ」
ふと気が付いたように譲君が僕のほうを見て。
「真緒、どこでも勉強できるタイプってことは、もしかして、俺に合わせてくれてた?いくら俺が神経ず太くても、さすがに、一人で準備室を使うっていうのは気まずかったと思う。でも、二人いればさ、なんか、まあ、しょうがないなって思ってもらえそうな感じするし」
「…そんなことないよ」
「いやいや、悪かったって。真緒さ、家だって遠いんだし、本当だったら、授業終わったら早く帰って、家でゆっくり勉強したほうがよかっただろ?もう、俺が準備室で自習してるのみんなも慣れただろうから、一人でももうそんなに気まずくないと思うし、なんだったら明日からは―――」
「僕は一緒に勉強したいから!」
譲君の声を遮って叫んでしまった。
譲君が固まったままこっちを見てる。
しまった、こんなことで大声を出すなんて不自然だ。何か、何か言わなきゃ、不自然じゃないことを、何か―――。必死で頭を働かせる。
「…あ、なんかさ、うちの親二人とも働いててさ、姉も大学生のときから家出てるし。学校終わってすぐに帰ると、一番早く帰るの僕になるから、必然的に、家のことやるの僕になるんだよね。洗濯物たたんだりお風呂入れたりとか、夕飯の支度したりとか。ここで勉強してから帰れば、そういうの、やらなくていいから…」
最後は消え入りそうな声になる。
譲君は、まだ、何も言ってくれない。ああ、どうしよう。失敗したかも。思わず下を向いてしまい、両手にぎゅっと力をこめる。
「…あ、なんだ、そういうこと?」
その声が聞こえたとたんぱっと顔を上げると、苦笑いした譲君と目が合った。
「俺に付き合わせてたんなら悪いなって思ったけどさ、そうじゃないならよかった。安心した。ていうか、真緒、お前もけっこう悪いとこあるんだな。親二人とも働いてるならさ、受験生といえども手伝えよな。」
「部活引退する前は、部活がない日はやってたよ。ちゃんと」
「え?そうなの?じゃあさ、何、真緒は夕飯作りとかできるわけ?すごくね?」
「すごいっていうか、生協でミールセット頼んでるから、もう、野菜とか切っただけの状態のセットがあって、それに、一緒についてるソースとかで、焼いたり煮たりするだけだから、誰でも出来る…」
「それでも、焼いたり煮たりできるってことだろ?すごいよ!ってことはさー…」
こんなふうに、しばらく話をした。ちょっとした雑談なんかは教室でも実験準備室でもすることはあったけど、こんなに長く話すのは久しぶりだった。
気が付けば窓の外も暗くなっていて、いいかげん帰るかという流れになった。
「あー、なんか、久しぶりに真緒と話した!って気がする。やっぱ、真緒はいいよな」
その言葉にどきっとする。
「俺さ、家や教室じゃ勉強できないって言っただろ?それで自習室派なんだけど。でも、俺、たとえ自習室取れてそっちで勉強してたとしても、真緒と勉強してる今のほうが、絶対頑張れてたと思う」
相づちも打てず、ただ、譲君を見る。
「あのさ、俺がちょっと集中力切れちゃったときとかさ、いっつも、真緒が勉強してるの。ペンの音とか、参考書めくる音とか聞いてると、ああ、俺も頑張ろうって思える。で、また、勉強出来るの。真緒が一緒に勉強してくれて本当、ありがたいんだよね」
暗くなった教室の中で、譲君がにかっと笑う。白くのぞく歯を見た瞬間に、僕の中の何かがはじけた。
どんっと衝撃がして、目を開ける。自分の目の前には、白いシャツ。気が付いたときには、僕は、譲君に抱き着いていた。頭の中で何かがはじけたように真っ白になった後の、自分の記憶にない。まさか僕は、譲君に自分から抱きついたのか?!
慌てて譲君の背中に回した手をおろし、すぐに後ろに下がって距離を取る。そして、恐る恐る顔をあげた。
そこには、驚きと、恐怖と、嫌悪感が貼りついた譲君の顔があった。
その後のことは、正直、よく覚えていない。たぶん、僕はどうにかこうにかしてごまかして、理科室の鍵を事務員さんに一人で返しに行って、それで、一人で帰ったような気がする。帰りの電車で1時間揺られている間に顔は作れるようになったのか、何事もなく家に帰り、夕飯を食べ、お風呂に入り、少しだけ勉強をして寝たような気がする。
次の日、譲君は普通に挨拶してくれた。授業も普通に受けていた。休み時間も、普通だったと思う。でも、実験準備室には来なかった。顧問の先生が譲君から聞いたという理由を話していたけど、僕はその理由がただのこじつけだと知っていたから、ただ、曖昧に相づちを打って聞き流していた。譲君はそのままずっと来なくなって、どうやら、学校帰りに、駅とは少し方向違いになる市立図書館の自習室に通っているようだった。それに、学校から図書館までは少し遠いからと自転車を買ったようで、駅まで徒歩の僕とは一緒に帰ることもなくなった。
僕も、実験準備室ではなく家で勉強することを化学部の顧問の先生に伝えて、そのまま、姉の組んだスケジュールを参考に受験勉強を続けて、センター試験も2次試験も無難に突破し、姉と同じ大学に合格した。
譲君とは、あれきり二人きりになることはなかったけど、彼は、僕とのことを卒業まで誰にも言わずにいてくれた。教室でもずっと普通に接してくれた。ただ、卒業式に声を交わしたのが最後で、それから一度も会えたことはないけど。