亜由子の奇行
新任だと聞かされていたが、岡本医師には亜由子がただ眠っているだけだということが分かっていたのだろう。しかも起こし方まで堂に入っている。亜由子の性質なら食事の時間となると必ず起きる。そう判断しての対応だった。後ほど、食事が終わる頃に食堂でミチルは高草木薫に声を掛けられた。
「医務室の藤野さんのカルテに記録がされているようよ。毎日何時間も爆睡するって。だから何にも心配いらないんだって。私はまだ昨日来たばかりの初心者だから頭に入っていないけれど、岡本先生は新任なのに既に頭に入れていらっしゃる。すごいわね」
そういって高草木薫は、晴れやかに笑った。彼女はまだここに来て二日目で、しかも聖麗女学館に関しては全くの「初心者」らしい。ミチルと同様か、あるいはミチルの方が精霊からの情報で学園に精通しているかもしれない。「初心者」という表現が、ミチルには好感が持てた。
一方の岡本医師は、ここの中等部の卒業生らしく、十年以上のブランクを経てここへ帰ってきたため、いろいろと懐かしく見えるということだった。
夕食を終え、部屋へ戻ったミチルは、しばらく明日の英語、国語の演習に向けて予習をしていたが、戻ってきた亜由子に風呂へ入るように促された。ここは先輩の言うことを聞くものだと従った。
例によってカーテンと目張りは欠かせない。特に今夜は疲労蓄積とストレス発散、というより性欲の処理をしておく必要があった。覚悟はしていたが、予想以上に女子校は目に毒な場面に出くわす。何度勃起しかかって冷静さを取り戻そうと努力したか分からない。
音楽教師の高松瀬奈。あの清純な美しさを持つ風貌とはかなり落差のある豊満な体格の美女。早朝に思わず彼女とぶつかってしまった。あの時の彼女の柔らかい体の感触は忘れられないし、何より落とした譜面を拾う時の彼女の姿態。しゃがむとスーツスカートの裾が上昇し、ストッキングにつつまれた綺麗な膝小僧が目の前に出現した。しかもやや立て膝気味だったために、太ももの内側まで見えていた。
彼女はミチルが男だなどと夢にも思っていない。だからあのような無防備な姿態をさらしてしまったに違いない。
お茶会の時も、半分以上眠った状態で参加していたが、目の前に坐っていた長崎香里という、化粧気もないのに恐ろしいくらいに美しい教育実習生が立ち上がろうとして、痺れが切れていたせいでよろよろとよろめいた。その刹那スカートの中が見えたような気がしたが、はっきりとは分からない。しかし、その瞬間から目が冴え、すっかり男の視線に変わってしまっている自分に気付いてぞっとしたのだ。
お茶会のメンバーは皆正座しているが、この姿勢、膝丈スカートとオーバーニーストッキングで普段素肌が露出しないはずの本校制服において唯一膝小僧が見える格好なのだった。膝小僧がずらりと並んだ様相は壮麗なものだった。あの大賀亜季子の前に坐った時には、彼女の白く可愛い膝小僧を目の当たりにして、その奥が見えないかと妄想までしてしまったくらいだった。
今後間違いを犯さないように処理をして、ミチルはシャワーですっかり洗い流した。
それにしても亜由子に関しては驚かされることばかり続く。今夜も先に入浴させられたが、ミチルがバスから出ると、亜由子は昨日と同じように携帯に向かって大きな声で話し込んでいた。どんな内容なのかあまり気にしなかったが、矢継ぎ早に亜由子だけが喋っていることは明らかだった。持ち込み禁止の携帯電話でいったい何を話しているのか。亜由子が浴室へ消えた瞬間、どうしようもなく抑えられない好奇心がミチルを襲った。
ミチルは亜由子の机にそっと近寄り、彼女の携帯電話を取り上げた。それは最新のスマホではなく、時代遅れのガラケーだった。
通話記録を表示させられないか確認しようとして、あることに気付いた。電源がオフになっているのだ。まめに切っているのだろうか。はじめはそのように解釈したミチルだったが、電源を立ち上げてさらに衝撃を感じた。
暗証番号は設定されていなかった。
(圏外じゃないか!)
電波のマークは圏外を表示していた。そういえば「精霊」からの情報で、学園内は携帯が全く使用できない圏外になっていると教えられていたのをミチルは思い出した。念のため通話記録を表示させても発信記録、着信記録とも全くなかった。
(まさか、独語?)
亜由子は、一人芝居のように誰でもない相手と一人で会話しているということになる。
ミチルに一人芝居を見せる理由は全く思いつかない。となると亜由子は何の意図もなく一人で携帯に向かって喋っていることになる。背筋がぞっとする思いがしてミチルはあわてて携帯の電源を落とし、もとのように亜由子の机の上に戻した。
間違いない。亜由子は何らかの精神科の病気あるいは病的気質を持っているのだ。人が全く変わってしまったり、異常に数学の問題ができたり、そしてあの昏睡のような睡眠なども、その症状と考えれば納得ができる。
このことを学園は把握しているのか。岡本医師の落ち着いた対応から、医務室のカルテには亜由子の特徴について何らかの記載があるに違いないが、それがどの程度のものなのかミチルにはわからなかった。
何かぞっとするような思いを抱いたまま、ミチルはパソコンを立ち上げた。「精霊」からの定時連絡があるかもしれない。なるべく亜由子が入浴している間に目を通しておく必要があった。案の定、「精霊」からのメールが来ていた。
「初日の演習はどうやら最低レベルはクリアできたようだね。ご苦労さま。明日は英語の演習があるが、これも予め渡しておいた資料から半分近く出されると思うので利用してくれたまえ。ところで君の同室者についてだが、何かと奇行があったりして戸惑うかもしれないが、かなり成績優秀な面も持ち合わせているので、教官たちも密かに注目している存在なのだ。もしおかしな行為があったとしてもわざわざ教官達に知らせる必要はない。彼らが特に君に訊ねないかぎりは。君は何事もなかったかのように、すべての出来事について知らぬ振りをするのがよかろう。君自身が目立たないように、君の目的を達成するために」
内容はそれだけだった。亜由子が何をしても無視しろということか。今日のように起きないからといって医務室に連絡することも必要ないということなのだろう。
「精霊」は、ミチルが今日医務室に連絡して養護教諭や医師を呼んだのを既に知っているのだろうか。おそらくそうなのだろう。そうでなければこのような内容のメールを送りつけてはこない筈だ。
どの様にして知ったのだろうか。精霊は常にミチルを監視しているのか。どうやって。
それを考えることはタブーには違いないが、どうしても気にかかることというのはあるものだ。
しかしいくら考えてもわかるはずもなかった。