不思議な同室者
午後に行われた高等部の合同数学演習は、予想通り全く歯が立たなかった。かろうじて「精霊」から前もって知らされていた問題については何とか対応できたが、それ以外は何度も採点官の教師のところへ通って添削された挙句、どうにか下位五名にはならずにすんだ。それにしても演習で使われる問題まで予め入手できるとは「精霊」の力は相当なものだと考えられる。さすがに放課後の時間帯は、部活めぐりは自粛して、遅れを取り戻すための勉強時間に割り当てることにした。このままでは明日以降の演習や授業にもついていけないからだった。
ミチルは我ながら良くやっていると自分に言い聞かせた。本来なら中学二年になる春である。進学校の高校生に数学で勝てるなどありえない話だ。「精霊」の指示に従い、昨年暮れから準備してきたことが、どうにか格好がつくレベルに到達していることを、現在実感している。演習の問題も一部は予め「精霊」から与えられたとはいえ、解答は自分で導き出したのだから、胸を張ってもよかろう。
演習終了後の本日のランキング十傑には、三年A組一班六人全員がしっかりと名を連ねていた。しかしミチル最大の驚きは、下位の方とはいえ、二年生が三名載っており、その内の一人があの藤野亜由子ということだった。
あの間の抜けた、おっちょこちょいの、お世辞にも秀才といえない多動障害のような奇人が、数学に長けているとはどうしても信じられない。なお信じられないのは、演習中に一度だけ亜由子とすれ違った時の彼女の姿であり、持っている雰囲気であった。
あの牛乳瓶の底のような丸く度の強い眼鏡は外して手に持っていた。その為周囲が良く見えないのだろう、目を細め遠くの方を見据えて歩くものだからすれ違う時に肩が触れ合ったりするのだった。表情もお茶目な顔から、どこか近寄りがたい、心ここにあらずといった様子に変貌し、ミチルははじめ亜由子だと気付かなかったくらいだ。すれ違いざまに衝突しかけて思わず名札を見て初めて亜由子だと悟り、眼鏡を外すとこんな綺麗な顔だったのかと感心した。
どこか周囲に声をかけさせない雰囲気は、演習終了後も続き、この寮の部屋へ帰ってからもミチルに殆ど何の声かけもなく、そのまま自分の机に向かって、暫く自習していたようだが、いつの間にかベッドに臥していた。
今や病気かと思うくらい昏睡のように眠っている。
夕食の時刻が近づいているのにまだ眠っているから、ミチルはどうしたものかと思案させられた。亜由子は二年B組六班だから、あのロカの班なのだ。ふつうなら班長に事情を話してどうしたらよいか知恵を拝借したいところであるが、正体がばれる虞があるのでロカに接触するという選択肢はなかった。
そうなると寮長のジョアンか、亜由子のクラスの担任成瀬理恵、保健室の養護教諭ということになる。ミチルは養護教諭の新座の顔を思い浮かべた。気難しそうで近寄りがたい雰囲気。それなら新任の高草木薫の方がずっと良かった。そうだ、もしこのまま目を覚まさないようなら彼女に知らせよう、そうミチルは決心した。
五時五十分を過ぎたため、ミチルは内線電話で医務室に連絡した。幸いなことに出たのが高草木養護教諭だったから、同室者の亜由子先輩が全く目を覚まさないので見に来て欲しいと伝えたところ、「分かりました」と彼女は快く返事をしてくれた。
初めて声を聞いたが、早口だが良く透るはきはきとした高い声で、予想通り好感がもてた。やがて五分も経たないうちに部屋のインタホンが鳴って、ミチルがドアを開けると、濃いピンクのナースウェアに白いエプロンをした小柄な高草木薫と、その後ろに白衣を着たスレンダーで長身の目の覚めるような美人がいた。
「どう? 念のため岡本先生をお連れしたけど」と、高草木養護教諭は、ミチルを見上げるようにして訊いた。そういえば養護教諭って看護師でもあったのか、とミチルは内心驚いたが、場合が場合なので直ぐに気を取り直し、二人を中へ通した。
岡本医師は、白衣の下に普段着なのか白っぽいブラウスに黒のスキニーパンツを身につけており、フットワークが軽やかな感じだった。しかも口はもっと軽かった。
「懐かしいわね。そうそう、こういう部屋だったわ。二人部屋でね、真ん中でパーティションで仕切られてはいるけど、あまり隠し事できないのよね」と、病人かもしれない生徒を放置して、部屋を物色するかのようにあれこれ触れながら、高草木養護教諭に説明していた。
ナース姿の養護教諭はというと、岡本医師の話を半分聞いている振りをみせつつ、亜由子の方に近寄り、頬を軽く叩いたり、耳元に「藤野さん! 藤野さん!」と呼びかけたりと、既に行動を起こしていた。
ミチルはどうしてよいのか分からないから、じっと見守っているしかない。
亜由子は顔に少し表情を見せ始めたが、まだ目を覚まさない。
すると岡本が突然割り込んできて、亜由子の耳に向かって大声を張り上げた。
「あゆこ! ディナーの時間に遅れるよ!」
その言葉は想像以上に効果をあげ、亜由子はぱっちりと目を開けた。
「大変、大変。急がなくっちゃ!」
呆気にとられるミチルと高草木をよそに、亜由子は周囲の視線も気にせず着替えを始めた。
ミチルが目を逸らしている間に、亜由子はすっかりルームウェアに着替え、時計を見て叫んだ。「一分前よ、ミチルさん。急いで!」
まさしく昨日の藤野亜由子だった。ミチルは亜由子に急かされ慌てて夕食のために食堂へ駆けるはめになった。勿論、きょとんとした表情の高草木養護教諭と、澄まして微笑む岡本医師に深いお辞儀をしてから、亜由子の後を追った。